2011年9月 のアーカイブ | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

落馬

落馬(らくば)とは、騎乗者が馬から落下することである。

一般的に騎乗者の足は鐙(あぶみ)に架かっているため落馬が発生すると上半身(特に頭)から落下することがよくあり、大きな怪我を負ったり、場合によっては死に至ることも少なからずある。

競馬における落馬

競馬において、落馬した場合には当該馬は競走中止の扱いとなり、その馬が関わる馬券の購入金額の返還もされない。

ただし、落馬した地点で再騎乗するか、騎乗後に落馬した地点まで引き返せば競走中止とはならない(日本中央競馬会競馬施行規程98条第2項)。

再騎乗は障害競走では見られることがある。これは、障害競走における落馬は馬に故障がないことがあり、また完走すれば他馬の落馬等で賞金が得られる順位まで繰り上がる可能性も平地競走より高いためである。

また、他馬の進路を妨害して落馬せしめた場合、妨害した馬は失格となる。加害馬に騎乗していた騎手は騎乗停止などの制裁が課される。
騎手が落馬したまま走っている馬をカラ馬と呼ぶ。

落馬の理由としてよくあるもの

競走中に馬が他の馬に関係なくつまずく。
競走中に馬が故障や疾病を発症する。
競走中に馬が競走中の他馬に触れつまづく。
競走中に故障を発症して転倒した馬に接触する。(この場合大事故になりやすい)
障害競走で馬が障害飛越の際、着地に失敗して転倒、または騎手がバランスを崩して落馬する。
競走中に馬がラチ(柵)や他馬に体をぶつける。
競走中に馬が逸走する。
競走中に馬が走路の鳥に驚き、避けようとして急に斜行する。
馬がゲートを出た直後に立ち上がったり、前のめりになって騎手を振り落とす。
 などがある。

競走中の落馬によって命を落としたり、騎手生命を絶たれた日本の騎手 [編集]
本項では落馬により死亡、騎手生命を絶たれた人物について抜粋記述する。
加藤義雄(日本レース倶楽部・1933年落馬、死亡)
茂木勢一(日本競馬会・1938年落馬、死亡)
吉田昌祐(日本競馬会・1940年落馬、死亡)
武富三(日本競馬会・1944年落馬、死亡)
岩瀬三郎(日本競馬会・1948年落馬、死亡)
横山靖(国営競馬・1953年落馬、死亡)
田畑志郎(国営競馬・1953年落馬、死亡)
谷岡敏行(国営競馬・1953年落馬、死亡)朝日杯3歳ステークスでの事故であった
西橋康郎(中央競馬・1955年落馬、死亡)
大柳英雄(中央競馬・1955年落馬、死亡)死亡年度の全国リーディング7位。2年目での悲劇。
阿部正太郎(中央競馬・1956年落馬、引退)のち調教師として厩舎を開き、加賀武見を見出す。
矢倉義勇(中央競馬・1959年落馬、一時回復するも1962年死亡)
柴田富夫(中央競馬・1960年落馬、死亡)調教試験中の落馬で、この事故を契機に、調教中でも救急車が馬場内に待機する様になった。
茂木光男(中央競馬・1960年落馬、死亡)
目時重男(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)
近藤武夫(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)
菅村恭一(中央競馬・1961年落馬、死亡)
志村功(中央競馬・1964年落車、死亡)繋駕速歩競走での事故であった。
小野定夫(中央競馬・1969年落馬、死亡)
石井正善(中央競馬・1969年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。
丸目敏栄(中央競馬・1971年落馬、引退)引退後は調教師として競馬界に復帰したが、1980年8月4日に急死した。
秋元松雄(中央競馬・1976年落馬、1977年死亡)
坂本恒三(中央競馬・1977年落馬、死亡)
佐藤政男(中央競馬・1977年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。
角田次男(船橋・1977年落馬、引退)落馬事故の際に騎乗していたサギヌマグツドリーは、この年の関東オークス優勝馬。
松若勲(中央競馬・1977年落馬、死亡)…この競走では7頭が落馬。(中央競馬の1レース落馬頭数ワースト2位タイ)
町屋幸二(中央競馬・1978年落馬、死亡)
福永洋一(中央競馬・1979年落馬、引退)『馬事公苑花の15期生』。
坂本敏美(名古屋・1985年落馬、引退)後の東海地区のエース・安藤勝己が敵わなかった天才として知られる。
斎藤仁作(中央競馬・1987年落馬、死亡)
玉ノ井健志(中央競馬・1992年落馬、死亡)
岡潤一郎(中央競馬・1993年落馬、死亡)
柴田政人(中央競馬・1994年落馬、引退)『馬事公苑花の15期生』。
清水英次(中央競馬・1994年落馬、引退)この時の後遺症が長く尾を引き2005年7月5日に死去した。
北川和典(中央競馬・1995年落馬、1998年引退)
北村卓士(中央競馬・1998年落馬、2000年引退)
松井達也(浦和・2000年落馬、死亡)
竹本貴志(中央競馬・2004年落馬、死亡)騎手デビューしてわずか3週目での惨事だった。
常石勝義(中央競馬・2004年落馬、2007年引退)『競馬学校花の12期生』。デビュー年の1996年にも障害競走で落馬、脳挫傷で一時重態となっていたが復帰した。しかし、2度目の落馬事故で再び脳挫傷など受傷し、引退を余儀なくされた。
佐藤隆(船橋・2006年落馬、死亡)浦和競馬での事故であった。
石山繁(中央競馬・2007年落馬、2009年引退)
塚田祥雄(中央競馬・2007年落馬、2010年引退)
この他にも、調教中の落馬事故で死亡したり、騎手業からの引退を余儀なくされた例も存在する。

馬術競技における落馬

馬術競技(馬場馬術、障害飛越競技など)においては、落馬した場合は失権となり、それ以後の競技を続行することはできない。競技点も得ることはできない。

競馬とは異なり、馬術競技では全力で襲歩をさせるわけではないので、正常な運動の状態で競技選手が落馬するような例はほとんど見られない。馬術競技において発生する落馬は、たとえば馬が何かに驚いて急に跳ねた場合、何かにつまづいて転んだ場合、障害を前にして拒止した場合などが大半である。

競技ではない、乗馬クラブや学校馬術部などでのレッスンや部班運動などの練習においては、騎乗者の未熟により馬上でのバランスを取り損ねての落馬もある。

通常、落馬による負傷や死亡事故を避けるため、ヘルメットやプロテクターベストの着用を義務付けたり推奨している場合が多いが、馬場馬術の競技のように、正装での騎乗が求められる場合にはその限りではない。

乗馬・馬術においては、落馬時の対処について、以下のように指導されている。
馬の首にしがみついた場合、回転して馬の前に落ちてしまわないように注意する。前に落ちてしまうと、そのまま馬に踏まれてしまう危険性があるため。

落ちるときはできるだけ鐙を外す。鐙を支点として回転して頭から落ちると危険なため。
着地するまではできるだけ手綱から手を離さない。これにより足のほうから着地できる可能性が高まるため。

着地した後はすぐ手綱を放す。手綱を持ち続けていると、走り去ろうとする馬に引きずられてしまう危険性があるため。

落馬の一覧

日本の競馬における主な落馬事故

1956年日本ダービー – 重馬場の上に27頭立てということもあり、外枠の有力馬キタノオー・ヘキラクが早めに有利なポジションを確保しようと内に馬体を寄せた結果、1コーナーで馬群が内側に詰まり混乱が発生。その中で行き場を失った内枠のエンメイとトサタケヒロが落馬、故障を発症したエンメイは予後不良となり、エンメイの馬主で作家の吉川英治はそれにショックを受けて馬主業から撤退した。

鞍上の阿部正太郎も騎手としては引退に追い込まれる瀕死の重傷を負った。この事故がきっかけとなり、日本中央競馬会は事故防止委員会を設立した。

また、事故調査委員会も開かれ、6月の梅雨による馬場の悪化の影響を指摘。それ以降のダービーについて「5月の最終日曜日に実施する」という原則を発表した。加えて、それまで障害競走のみで使用されていたヘルメットを平地競走でも導入することとなった。

1967年阪神大賞典 – 1965年のダービー馬キーストンが最後の直線で故障、騎手が落馬。予後不良となる程の重傷を負いながらも、失神している山本正司騎手を気づかうような仕種を見せたキーストンの姿は、後々までの語り種になっている。

1973年高松宮杯 – 先頭を走っていたハマノパレードが最後の直線で転倒。致命的な負傷を負ったが、レース後即座に安楽死とならず食肉業者に売られたことが後日明らかとなる。この事件以降、予後不良となった馬は手続き終了後、即座に薬殺されるようになった。

1995年宝塚記念 – ライスシャワーが第3コーナーの坂の下り(この年は京都競馬場で開催)で故障を発生し転倒。騎手が落馬し馬は予後不良となる。のちに京都競馬場内をはじめ数か所に同馬の記念碑が建てられた。

2001年京都大賞典 – ステイゴールドが最後の直線で斜行し、ステイゴールドとテイエムオペラオーの間に挟まれたナリタトップロードが落馬。審議の結果ステイゴールドは1位入線も失格となり、2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がり優勝した。

2007年1月27日の東京競馬場において、第2競走から3レース連続して計9頭の落馬事故が起こった。また第10競走でも1頭が故障して落馬。同じ日の小倉競馬場で2頭、翌1月28日の京都競馬場でも2頭が落馬しており、2日間で14頭落馬したことになる。このほか28日の小倉第4競走の新馬戦では1着馬が入線後に落馬している。

2010年1月11日の中山競馬場において、第4競走・3歳新馬でノボプロジェクトが第4コーナーで急に外側へ斜行したことの影響で出走16頭中9頭が落馬した[1]。1つのレースでの落馬頭数としては中央競馬史上最多。ノボプロジェクトは1位入線も失格となり、騎乗していた三浦皇成は進路妨害が認められ、4日間の騎乗停止となった。

落馬した9頭に異状はなかったが、内田博幸が左尺骨近位骨幹部骨折の重傷を負うなど騎手6人が負傷や検査によりその後のレースの騎手変更を余儀なくされた(詳細については9頭落馬事故を参照)。なお、地方競馬では1979年2月に園田競馬場で出走11頭中8頭[2]が落馬する事故が発生している。

中央競馬のGI級競走における1番人気馬の落馬の例としては、1969年の日本ダービーでのタカツバキ(スタート直後に落馬)、2002年の菊花賞でのノーリーズン(スタート直後に躓き落馬)がある。

1985年の札幌日経賞で、スタート直後に落馬したギャロップダイナが鮮やかな好位差しで“1位入線”を果たし、この年の年末スポーツ特番の格好のネタとなった。同様に1993年の京阪杯でワイドバトル、2008年のエリザベス女王杯でポルトフィーノが、スタート直後に躓き落馬した後、1着馬より先に入線した。なお、ポルトフィーノに騎乗していた武豊は史上初のGI級のレースで同一騎手が2回もスタート直後に落馬した騎手となってしまった(2002年菊花賞、2008年エリザベス女王杯)。

1990年、前年の阪神3歳ステークス優勝馬のコガネタイフウは、1年で2度平地競走で落馬している。3月4日のペガサスステークス、10月20日のカシオペアステークス(オープン特別)である。いずれも騎手は田原成貴でペガサスステークスでは腰椎・骨盤を骨折する重傷を負ったが、馬はいずれのレースでも故障はなかった。なお同馬はのちに障害競走にも出走した。(3戦して落馬なし)また、1年に2度平地競走で落馬した馬には、ギガンティック(翌年も平地競走で1回落馬)、アルドラゴンがいる。

障害競走では複数頭の落馬がたびたび発生している。1985年の中山大障害(春)では、名物の大竹柵障害で出走馬10頭中6頭が一挙に落馬、完走したのは半数以下の4頭だった。1999年の京都ハイジャンプでは13頭中7頭が、2003年の阪神スプリングジャンプでは14頭中6頭が、2010年12月4日の阪神競馬第4競走障害未勝利戦においても14頭中7頭[3]が落馬している。2001年の中山グランドジャンプでは、向正面の2号坂路(バンケット)の下りで先に転倒した馬に後続の3頭が巻き込まれて落馬したが、このうちの1頭のランドが再騎乗して完走した。

1964年3月8日の中京競馬場でのサラ系障害戦では、出走頭数4頭のうち3頭が落馬し、1頭(アルプスオー)のみ完走を果たした。この為、単勝式馬券のみ的中となり、連勝式馬券は買い戻しとなった。

1965年1月4日の第1回中山競馬第2日目の第3競走サラ障害オープン戦(勝ち馬フジノオー)において、サチオンワードに騎乗していた坪井正美は、最終障害で落馬転倒して後続の馬に頭を蹴られ、前頭部頭蓋骨陥没骨折および側頭部開放性骨折の重傷を負った。特に側頭部の骨折箇所からは脳が見える程の大怪我であったが、すぐに病院へ搬送されて緊急手術を受けた結果、奇跡的に回復。年内には復帰して14勝を挙げ、1980年に引退するまで活躍した。

落馬その他

1198年 – 源頼朝が落馬。その後死亡。(異説あり)
1337年 – 新田義貞が福井県の藤島城攻めで落馬、敗死。
1430年 – ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ攻めで落馬、捕縛されて後処刑される。
1626年 – 徳川家光が高田馬場へ狩猟に向かう途中の早稲田にて落馬。現地には現在も「落馬地蔵」がある。
1939年 – 周恩来が落馬しその後右腕が不自由になる。以後物を書くときは不自然な体勢になった。
1995年 – 俳優のクリストファー・リーヴが馬術大会の競技中に落馬。脊髄損傷により俳優の引退を余儀なくされた。後に福祉活動家となり、自身も負った脊椎損傷の回復の研究などの支援も行った。
1998年 – 俳優のトミー・リー・ジョーンズがポロの試合中に落馬。
2005年 – 歌手のマドンナが誕生日に自宅で乗馬中に落馬。肋骨と鎖骨、腕の骨を骨折する重傷。
2006年 – ドーハ・アジア大会の馬術競技中、韓国代表の金亨七選手が馬とともに転倒・落馬し、馬の下敷きになり死亡。

落馬メモ

中華人民共和国において、汚職で失脚することを「落馬」という。
「馬から落馬」…重言の例としてよく取り上げられる。
二輪車の場合は落車と呼ばれる

予後不良

予後不良(よご ふりょう)とは、治療後の経過あるいはその見通し、すなわち「予後」が良くないこと。 人間と動物の別なく用いられる言葉であるが、本項では競馬の専門用語の一つとしての「予後不良」について解説する。

主に競走馬が競走中や調教中などに何らかの原因で主に脚部等に故障を発生させた際など、回復が極めて困難で、薬物を用いた殺処分の処置が適当であると診断された状態を言う。

転じて、競走馬への安楽死処置そのものに対する婉曲的表現として用いられる場合も多い。特に、競走中の骨折等を原因として予後不良に到る場合は「パンク(する)」と表現されてきた。

予後不良前提

競走馬の多くを占めるサラブレッドの足首(一般に「踝[くるぶし]」と呼ばれている)は骨折、ヒビなどの故障が発生しやすく、「ガラスの脚」と形容されるほどである。品種によって馬の体重は異なるが、軽種馬であるサラブレッドの場合でも 400-600kg程度となり、静止して立っている状態でも足1本あたり100kg以上の負荷が掛かることになる。

予後不良 下肢部の病気

下肢部に骨折やヒビなどの故障が発生した馬は、その自重を他の健全肢で支えなければならないため、過大な負荷から健全肢にも負重性蹄葉炎(ていよう えん)や蹄叉腐爛(ていしゃふらん、ていさ ふらん)といった病気を発症する。そのため、病状が悪化すると自力で立つことが不可能となり、最終的には衰弱死、もしくは、痛みによるショック死へと到る。

予後不良対策

下肢部の負荷を和らげるため、胴体をベルトで吊り上げたり、水中による浮力を利用するためプール等を用いて治療する。
しかし、必要な治療費や治療期間中の飼育費など金銭面での負担が莫大になり、また、上述した負重性蹄葉炎などの問題からこのコストに対して生存率が高くないなどリスクも大きく、大多数の競走馬は予後不良と診断された直後に安楽死の処置が取られ処分される。

予後不良殺処分の方法

安楽死の手段としては薬殺が一般的である。麻酔薬、筋弛緩剤や心停止薬の投与により殺処分が行われる。かつては国により銃による射殺も行われた。

予後不良その後

仏教文化圏に属する日本の場合は、荼毘(だび)に付されたのち、馬頭観音に供養される。かつては殺処分された馬を馬肉に転用(代表例:ハマノパレード)することもあったが、現在では予後不良の場合はほぼ全て薬殺処分を行っているため、市場に流通することはない。

予後不良個別の事例

1978年(昭和53年)1月、当時のスターホースであったテンポイントが競走中に骨折し、予後不良と診断された際、ファンや馬主の助命の嘆願、テレビや新聞報道による世間からの大きな反響もあり、安楽死の処分を採らずに当時前代未聞の大手術を施したのち1か月半あまりの闘病生活を送った。

しかし、最終的には致命的な蹄葉炎を発症、全盛には500kg近かった馬体も200kg台まで落ち、最後には衰弱死した。

このテンポイントの一件は競走馬の治療の是非に対する議論を巻き起こした。他方、これによって得られたデータはその後の競走馬のみならず、動物園などでも飼育されるウマ目全般に関する動物医療の技術向上に大いに寄与している。

また、サクラスターオーも左前脚に重度の骨折を発症し、同様に闘病生活を送ったが、立ち上がろうとして右前脚を脱臼してしまい立てなくなってしまった為、関係者がやむなく安楽死処分の判断を下した。

これらの例とは逆に、重度の故障から回復した馬にはビンゴガルー、ヤマニングローバル、サクラローレル、ミルリーフ、ヌレイエフ、トウカイテイオーなどがいる。

2006年(平成18年)にはこの年のケンタッキーダービー馬バーバロがプリークネスステークスで重度の粉砕骨折を発症、かつて行われたことが無いと言われる大がかりな手術を行い、その時点では一命を取り留めたものの、闘病生活の中でテンポイントと同様に蹄葉炎を発症、最終的には翌2007年(平成19年)1月に安楽死の措置が執られた。

他方、骨折による闘病生活を送ったものの、ストレスなどから下肢部以外に疾病を併発して予後不良となるケースも存在する。

著名なのはサクラスターオーの同期・マティリアルで、1989年(平成元年)の京王杯オータムハンデキャップにおいて右前第一指節種子骨を複雑骨折、症状は重かったがオーナーの意向で手術が行われた。その手術自体は成功したものの、それから3日後、マティリアルは術後の痛みに耐えかねて馬房内で暴れ、今度はストレス性の潰瘍性大腸炎を発症、これも馬にとっては致命的な疾病であり、回復の見込みが立たなくなり、やむを得ず安楽死の措置となった。

このように、馬の治療にとっては術後のストレスとそれによって発生する二次的な疾病が大きな壁となる場合がある。

2008年(平成20年)の京都牝馬ステークスで骨折したアドマイヤキッスは、やはり当初の手術こそ成功したものの、その後、馬房内で暴れて骨折した箇所をさらに開放骨折し、安楽死処分が執られた。

暴れた原因について新聞などは疝痛を発症した可能性を報じている。
日本国外でのレースへの出走や、輸出入などで競走馬を空輸する場合、輸送中に暴れることは少ないが、万一空輸中に暴れ、馬および航空機にとって危険な状態と判断された場合は予後不良と同じ措置が採られる。

航空機を用いた競走馬の長距離国際航空輸送のノウハウがまだ確立されていなかった時代のエピソードではあるが、1958年(昭和33年)にダービー馬ハクチカラが米国遠征を敢行した際、輸送に使用されたチャーター機の機長には拳銃の所持が許可され、万一馬が暴れて手に負えなくなった場合には、機長の権限として馬を射殺してもよいとされ、関係者もこれに同意して航空機に搭乗させたことは有名である。

予後不良の診断が、のちに変更されるケースも稀にある。2006年(平成18年)第2回中山競馬7日目(3月18日)9レース隅田川特別で右前浅屈腱断裂を発症して競走を中止したロードスフィーダは、最初予後不良と診断されたが、後日診断内容が競走能力喪失に変更になった。

競走中の事故が原因で予後不良となった競走馬

「:Category:現役中に死亡した競走馬」も参照

日本
ここでは日本のGI(級)競走優勝馬について述べる。 なお、括弧内はその競走馬の主な勝鞍[1]である。
ナスノコトブキ(1966年菊花賞) – 1967年天皇賞(春)で故障(左第三中足骨骨折等)。
キーストン(1965年東京優駿) – 1967年阪神大賞典で故障(左第一指関節完全脱臼)、安楽死。
ハマノパレード(1973年宝塚記念) – 1973年高松宮杯で故障(左前種子骨粉砕骨折等)。その末路が大問題になった事でも有名。
キシュウローレル(1972年阪神3歳ステークス) – 1974年京都牝馬特別で故障(左第一指関節イ開脱臼)、安楽死。
テンポイント(1975年阪神3歳ステークス、1977年天皇賞(春)、有馬記念) – 1978年日経新春杯で故障。
キングスポイント(1982年中山大障害(春)、中山大障害(秋)) – 1984年中山大障害(春)で故障(右足根骨粉砕骨折)、安楽死。
シャダイソフィア(1983年桜花賞) – 1985年スワンステークスで故障(左第一指関節開放脱臼)、安楽死。
ノアノハコブネ(1985年優駿牝馬) – 1985年阪神大賞典で故障(寛骨骨折)、安楽死。
サクラスターオー(1987年皐月賞、菊花賞) – 1987年有馬記念で故障・約5ヶ月の闘病の末安楽死。
ライスシャワー(1992年菊花賞、1993年、1995年天皇賞(春)) – 1995年宝塚記念で故障(左第一指関節開放脱臼)、安楽死。
ワンダーパヒューム(1995年桜花賞) – 1996年京都牝馬特別で故障(左第一指関節脱臼等)、安楽死。
ホクトベガ(1993年エリザベス女王杯ほか) – 1997年ドバイワールドカップで故障(左前脚骨折)、安楽死。
サイレンススズカ(1998年宝塚記念) – 1998年天皇賞(秋)で故障(左手根骨骨折)、安楽死。
シンボリインディ(1999年NHKマイルカップ) – 2001年ダービー卿チャレンジトロフィーで発走前に故障(右下腿骨開放骨折)、安楽死。
コスモサンビーム(2003年朝日杯フューチュリティステークス) – 2006年阪急杯で故障(急性心不全)、斃死。
ナスノコトブキ、テンポイント、サクラスターオーの3頭は予後不良の診断が下ったが、馬主サイドの意向により懸命な治療が行われた。しかし、ナスノコトブキとテンポイントは療養中に衰弱死、サクラスターオーは別の箇所を骨折し、安楽死の措置が執られている。また、コスモサンビームはレース中に心臓麻痺を起こして斃死(同例として、1961年天皇賞(秋)で同様の症状で急死したサチカゼがいる)したため、厳密に言えば予後不良ではない。シンボリインディの場合はゲート入り後にゲートの下を潜り抜けてしまって故障を発生したという稀なケースである。
GI(級)馬のレース中での予後不良で、その場で安楽死させる措置はハマノパレードでの一件(詳細については同馬の項を参照)から原則として行われるようになった。

予後不良脚注

[ヘルプ]
^ 勝鞍(かちくら、勝ち鞍): 勝利したレースのことを、馬の鞍に譬えて言う。

予後不良参考文献

大川慶次郎、他 『サラブレッド 101頭の死に方』(復刊) 徳間書店、1999年。ISBN 4198911851。
大川慶次郎、他 『サラブレッド 101頭の死に方(2)』 アスペクト、1997年。ISBN 4893668757。

誘導馬

誘導馬(ゆうどうば)とは、競馬場において競馬の競走が行われる際に、パドックや馬場において競走馬を先導する馬のことをいう。

日本における誘導馬

日本においては、パドックから本馬場まで出走馬を先導する役割が与えられ、誘導馬は多くの場合、隊列の先頭と最後尾を歩く。

通常先導役は1頭であるが、中央競馬のGI競走においては3頭の誘導馬が先導を担う。また、国際競走で外国馬が出走した場合には、先導役とは別に、出走した競走馬の調教国の国旗を携えた誘導馬も合わせて入場する

。競走馬以外にもイベントとして馬場で行われるパレードや楽隊などの先導や、レース開始前に観客を入場ゲートで出迎えるグリーディング役を務めることもある。

また、馬場管理の為に巡回する職員が乗用し、また放馬などのアクシデントが発生した場合は当該の馬をなだめて落ち着かせる役も担う場合があるなど、その任務は単なる先導役に留まらず、非常に幅広いものがある。

担当馬にはかつて競走馬だった馬のうち、性格的に温和で毛色が芦毛、黒鹿毛、尾花栗毛など見栄えのするものが選ばれることが多い。

また、重賞競走の優勝馬・入着馬など優秀な成績を残しながらも種牡馬にならなかった馬を、その知名度も勘案して選ぶこともある。他方、地方競馬の競馬場では競走馬経験のない馬が誘導馬を勤めるケースもあり、元競走馬ではなく当初から誘導馬として導入されたクォーターホース種などが用いられている場合もある。

誘導馬に騎乗するのは競馬場の職員や乗馬クラブの所属者[1]であるが、近年中央競馬ではGIレース時にゲストとして招かれた芸能人が騎乗することもある。川崎競馬場では誘導馬に着物を着せるなどの装飾を施している。

その他の国における誘導馬

隊列の先導よりも、出走馬の精神を落ち着かせたり、アクシデントに備える目的で存在する。殊にアメリカでは本馬場入場時に「リードポニー」と呼ばれる馬たち(慣例的にポニーと呼ばれているが、ポニー以外の馬も務める)が、出走馬の所有者が希望した馬全てに同行し、個別にその脇に付くことによって馬の興奮を和らげる役目を担っている。

また、放馬などの際にその捕獲に当たったり、大レースの後に勝利騎手に行われる馬上インタビューに駆り出されたりと、「飾り」の印象が強い日本の誘導馬に比べ、その任務は非常に多岐に渡っている。

競馬評論家の須田鷹雄は、大学時代にJRAの馬場保守員のアルバイトをしていた経験を踏まえ、日本競馬へのリードポニーの導入を主張し続けている。

中央競馬の著名な誘導馬(現役)

ロジック(京都競馬場) – NHKマイルカップ勝ち
マイネルデスポット(京都競馬場)- 菊花賞2着
マイソールサウンド(京都競馬場)- 京都記念、阪神大賞典勝ちなど
ポートブライアンズ(福島競馬場)- 福島記念勝ち
テイエムオオアラシ(小倉競馬場) – 小倉記念勝ちなど
メイショウカイドウ(小倉競馬場) – 小倉三冠達成など
マイネルモルゲン(中山競馬場) – 京成杯オータムハンデキャップ勝ちなど
アドマイヤモナーク(阪神競馬場) – 日経新春杯、ダイヤモンドステークス勝ちなど
プリサイスマシーン(中山競馬場) – 中日新聞杯2勝、スワンステークス勝ちなど
ブルーショットガン(阪神競馬場)- 阪急杯勝ち
エリモハリアー(函館競馬場) – 函館記念3連覇
タニノマティーニ(函館競馬場) – キーンランドカップ勝ち

過去に誘導馬を務めた著名馬

メジロファントム(東京競馬場)- 目黒記念勝ち、天皇賞(秋)・有馬記念2着など
ロンスパーク(東京競馬場)- 鳴尾記念勝ち
トウショウファルコ(東京競馬場)- AJC杯勝ちなど
ストーンステッパー(中京競馬場)- 根岸ステークス勝ちなど
シンホリスキー(中京競馬場)- スプリングステークス勝ちなど
ツルマルツヨシ(京都競馬場) – 京都大賞典勝ちなど
ナムラモノノフ(京都競馬場)- 阪神大賞典勝ちなど
マヤノペトリュース(京都競馬場)- シンザン記念勝ち
ホワイトアロー(阪神競馬場)- 愛知杯勝ちなど
シャコーグレイド(福島競馬場)- 皐月賞2着
メイショウモトナリ(阪神競馬場)- フェブラリーステークス2着
センゴクシルバー(中山競馬場)- ダイヤモンドステークス勝ち
ポレール(阪神競馬場)- 中山大障害3勝など
イナズマタカオー(中京競馬場)- 中日スポーツ賞4歳ステークス勝ちなど
メイショウレグナム(東京競馬場)- 小倉大賞典勝ち

誘導馬脚注

^ 川崎競馬誘導馬ジョッキーが一日川崎警察署長に!(川崎競馬場、2010年9月16日)

持込馬

持込馬(もちこみば)とは、かつて中央競馬で用いられていた競走馬の区分。母馬が胎内に仔馬を宿した状態で輸入され、日本国内で産まれた馬、または仔馬が満1歳を迎えるまでに母馬とともに輸入された馬のことを指す。

もともと持込馬は内国産馬扱いであり、天皇賞やクラシックへの出走制限は行われていなかった。

しかし、それまで許可制であった活馬(生きている馬)の輸入が自由化された1971年、その見返りとして内国産馬振興の方針が打ち出され、その一環として1971年6月30日以降に輸入された繁殖牝馬から生まれた仔馬は外国産馬とほぼ同等の扱いを受けることとなった。競馬新聞などの馬柱には○の中に「持」のマークで持込馬であることが表記されていた。

この制限は1983年一杯で廃止され、元のように内国産馬としての扱いを受けることとなった。

主な持込馬

規制以前の主な持込馬 [編集]
月友(マンノウォーの直仔。昭和初期の大種牡馬)
月城(競走名クレオパトラトマス 帝室御賞典。クモハタの姉、ハマカゼの母)
ヘキラク(1956年皐月賞・1957年安田賞(現・安田記念))
ヒカルメイジ(1957年日本ダービー)
ミスオンワード(1957年桜花賞・オークス)
マサタカラ(1958年オールカマー・ダイヤモンドステークス)
ウイルデイール(1959年皐月賞)
キユーピツト(1961年阪神牝馬特別。『華麗なる一族』最初の活躍馬)
アズマテンラン(1961年菊花賞・オールカマー・日本短波賞)
バリモスニセイ(1964年京都盃、1966年大阪杯など重賞8勝。シンザンを重賞競走で唯一破った)
メジロマジヨルカ(1966年クイーンカップ)
フイニイ(1967年阪神大賞典、1969年ハリウッドターフクラブ賞他。社台グループ最初期の活躍馬)
メジロサンマン(1967年目黒記念(秋)。メジロイーグルの父)
シエスキイ(1968年毎日王冠他)
ジュピック(1970年オークス)
タイテエム(1973年天皇賞(春)。規制直前に活躍)
規制期間中の主な持込馬 [編集]
トリデジョウ
マルゼンスキー(持込馬空白期間のため日本ダービーに出走できなかった)
メイワキミコ(1977年・1978年スプリンターズステークス。マルゼンスキーと同世代だがオークスに出走している)
ヤマニンスキー(マルゼンスキーと非常によく似た血統で大変期待されたが競走馬としては準オープン止まり。だが種牡馬としては成功を収めた)
メイワパッサー(スタビライザー、スプライトパッサーの父)
セクレファスター(ナムラモノノフ、テイエムオオアラシの父)
規制解除後の主な持込馬 [編集]
ニシノフラワー(1992年桜花賞)
ビワハヤヒデ(1993年菊花賞)
マーベラスクラウン(1994年ジャパンカップ)
サクラローレル(1996年天皇賞(春)・有馬記念他)
フサイチコンコルド(1996年日本ダービー)
アドマイヤコジーン(2002年安田記念他。母は日本産だがアメリカで種付けを行った)
キングカメハメハ(2004年日本ダービー)
エイシンフラッシュ(2010年日本ダービー)

見習騎手

見習騎手(みならいきしゅ)とは、騎手免許を取得して間もない騎手のことをいう。

見習騎手概要

騎手免許を取得したばかりの騎手は他の騎手に比べ競走経験が浅く技術が低いものが多く、他の経験豊富な騎手と同一条件で競走で争った場合には不利になる状況が多々発生する。その結果、騎乗機会にも恵まれず経験を蓄積したり技術の向上にも影響を与えるため負担重量における減量措置をとり、騎乗機会を与えることで条件面で優位にし経験を積ませている。これを減量騎手と言う。

減量制度によって、これまであまり良い成績を残せていなかった馬が競走に勝利した事例は少なくない。俗に斤量が1kg軽いと1馬身違うと言われている。

国によっては見習騎手を対象とした免許を発行し、一定期間経過後にその間の騎乗実績などを考慮したうえで本免許に切り替えるといったシステムを採っているところもある。また、フランスなど見習騎手によるランキングで表彰する国・主催者もある。

なお、かつての日本では騎手免許取得を目指し調教師に弟子入り中の者と騎手免許取得から間もない者を併せて「見習騎手」と呼んでいた。

見習騎手は重賞での騎乗が制限される場合がある。ドバイ・マカオでは毎年見習騎手による招待競走が行われているほか、東アジア圏でも『アジアヤングガンズチャレンジ』の名称で2009年より見習騎手による国際招待競走が行われている。

中央競馬の見習騎手

日本の中央競馬においては、騎手免許取得3年未満で通算勝利数100回以下の騎手のことを指す。競馬用語ではアンチャンとも言われる。若手騎手と呼ぶ場合は見習騎手以外の騎手をも含む場合が多い(詳細は後述)。

見習騎手の現在の減量制度と騎乗制限

現在、中央競馬における見習騎手の減量制度はハンデキャップ競走と特別競走(重賞競走も含まれる)を除く一般競走に適用される。減量制度は騎手免許取得3年目までなので、3年を過ぎると勝利度数に関わらず減量の特典は無くなる。

デビューから3年の間はこの減量を活かして成績を残す騎手もいる。そういった騎手は減量が無くなっても将来的には騎乗依頼も多くなる。逆に減量の特典がある間に成績を残せなかった場合は、減量が無くなった場合に騎乗依頼が少なくなる。実際に減量があるので見習騎手を起用するといった関係者は多い。

減量制度を適用している見習騎手についてはJRA発行のレーシングプログラム、競馬新聞、スポーツ新聞等に掲載される出走表に以下のような▲、△、☆の印で減量されていることを表している。特別競走などに騎乗した場合は見習騎手も減量制度が適用されないので、以下の印は記されない。

印 減量 条件
☆ 1kg 51勝以上100勝以下
△ 2kg 31勝以上50勝以下
▲ 3kg 30勝以下

またJRAの内規により平場・障害の各競走問わず通算勝利数が31勝に満たない騎手はGI、JpnI競走に騎乗することができない(J・GI競走は除く)。

中央競馬の見習騎手の歴史

1980年代以前は単に騎手免許取得3年未満の騎手のことを見習騎手と呼んでいた。2kg・3kg減には勝利数の上限が存在したが1kg減に関しては勝利数の上限が存在せず、騎手免許取得3年未満であればどれだけ勝利していても1kg減の恩恵を受けることができた。

また競走面でも1980年代前半まではオープンクラスの一般競走(いわゆる「平場オープン」)もあったため、一線級の馬が出走する際の斤量を減らすために見習騎手で挑むこともよく行われた。

しかし1980年代後半に入り武豊を始めとする当時の若手の騎手がデビュー直後から数多くの勝利を挙げるようになり、特に武は2年目より関西リーディング首位になるなどリーディングジョッキーが重量の恩恵を受ける状態となり「ベテラン騎手以上の勝利数を挙げている騎手に減量の恩恵を与えるのは制度の趣旨に反する」などの意見が高まり、1994年に制度が改正され、現在のように1kg減に関しても勝利数の上限が設けられるに至っている。

2004年には勝利度数の規定が変更され▲が「20勝以下」→「30勝以下」、△が「21~30勝」→「31~50勝」、☆が「31~100勝」→「51~100勝」となっている。

中央競馬の若手騎手


現在、中央競馬においては騎手免許取得7年未満であって通算勝利度数100回以下の騎手のことを若手騎手と呼ぶ。これは2004年より若手騎手限定競走が設けられ、騎乗できる騎手が対象である。若手騎手限定競走は競馬開催日の1競走のみ、午前中の競走に組まれることが多い。見習騎手に対しては上記で述べた減量制度も合わせて適用される。
なお2004年から2008年2月までは免許取得後の期間が「6年未満」であったが、2008年3月から対象となる騎手の免許取得後の期間が「7年未満」へと変更された。
地方競馬の見習騎手 [編集]

地方競馬における見習騎手の取り扱いは中央競馬と異なる。減量の対象となる勝利度数も主催者ごとに開催日数が異なるため差がある。女性騎手に対して常に1kg減量する主催者もあるため平地競走では最大4kg減量となる場合がある。また町田直希のように見習騎手は騎乗できる競走が制限されるために免許期間や勝数が規定に満たない場合でも減量解除申請を行い受理されれば減量は解除され、騎乗できる競走の制限も解除される。
ばんえい競馬 [編集]
印 減量 条件
☆ 10kg 通算勝利度数が50勝未満の騎手、免許取得5年以下で通算勝利度数が50勝以上100勝未満の騎手については当該年度で10勝未満の騎手、あるいは女性騎手
△ 20kg 通算勝利度数が50勝未満の女性騎手、または免許取得5年以下で通算勝利度数が50勝以上100勝未満の女性騎手については当該年度で10勝未満の女性騎手
減量条件の変更は出馬投票ごとに行われる。規定の勝数となっても、出馬投票が完了している競走では減量条件の変更はない。
ホッカイドウ競馬 [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 新規免許取得日から3年未満であって100勝以下
△ 2kg 新規免許取得日から3年未満であって30勝以下
▲ 3kg 新規免許取得日から3年未満であって20勝以下
岩手(盛岡・水沢) [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
南関東4場 [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 新規免許取得日から2年以上、3年未満または50勝未満
△ 2kg 新規免許取得日から1年以上、2年未満または25勝未満
▲ 3kg 新規免許取得日から1年未満または10勝未満
なお、内規で南関東SI競走などには減量騎手は騎乗できない。
名古屋競馬場・笠松競馬場 [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 新規免許取得日から1年以上、3年未満もしくは80勝未満
△ 2kg 新規免許取得日から1年以上、2年未満もしくは50勝未満
▲ 3kg 新規免許取得日から1年未満もしくは25勝未満
女性騎手は上の条件にかかわらず、1kg(☆)減量する。減量条件の変更は開催ごとに行われる。開催の途中で規定の勝数となっても減量条件の変更は次回の開催からとなる。
金沢競馬場 [編集]
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兵庫(園田・姫路) [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 20勝未満
△ 2kg 10勝未満
福山競馬場 [編集]
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高知競馬場 [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 100勝以下または女性騎手
△ 2kg 30勝以下
▲ 3kg 20勝以下
★ 4kg 20勝以下の女性騎手
騎手免許の通算取得期間が3年未満、勝利数が100勝以下の騎手が重賞競走、交流競走及び招待競走のいずれかでもない競走に騎乗する場合に限る。ただし、本人の申出により減量しない場合がある。女性騎手は、負担重量から1kg減ずる。
佐賀競馬場・荒尾競馬場 [編集]
印 減量 条件
☆ 1kg 新規免許取得日から2年以上、3年未満もしくは100勝未満
△ 2kg 新規免許取得日から1年以上、2年未満もしくは60勝未満
▲ 3kg 新規免許取得日から1年未満もしくは40勝未満
★ 4kg 新規免許取得日から1年未満もしくは40勝未満の女性騎手

マッチレース

マッチレース(Match Race)は、一対一で勝敗を争う形式の競走。

転じて日本では、三者以上で行われる競走の場合でも、先頭の二者が抜け出して、抜きつ抜かれつを繰り返すレース展開になった場合を指していうこともある。「一騎討ち」とも表現される。

競馬におけるマッチレース

競馬の競走におけるマッチレースという言葉は、現在使われている意味合い(抜け出した上位2頭の拮抗)で使われることもあるが、主に原義の一対一形式の競走を意味する。近現代においては主に臨時のイベントとして催されるもので、企画に賛同した馬主同士が協定条件下で2頭の馬を競わせるものである。出走予定馬の除外などによって2頭立てとなる場合もあるが、この場合はマッチレースと呼ばれない。

マッチレース形式の競走は、馬主自身が騎手も兼任していた競馬の黎明期から存在し、純粋にどちらの馬が強いかを競うものであった。古来この形態こそが競馬だという風潮があり、18世紀あたりまではこの形態が競馬の主流であった。その後時代の遷り変わりによって少しずつ衰退し、現代ではほとんど見られなくなったが、一部ではイベントとして開催が行われている。

日本国内の競馬においては、戦前などではマッチレースが行われていた事例もあるものの、現在では原則として2頭立てで競走が成立しないため、よほどの例外を除いて施行されていない。

日本国外の例としては、アメリカ合衆国の各競馬場が20世紀中頃までしばしば開催していた。強豪馬同士の対決を売りとしたマッチレースは集客力があり、なかには2歳馬同士のマッチレースなども開催されていた。しかし1975年のラフィアンが故障・予後不良となったマッチレース以来強豪馬同士のマッチレースは自粛傾向にあり、現代ではほとんど見られなくなっている。

主なマッチレース

それぞれ、上の段から、開催日、開催された国名、競馬場名、賞金。○は優勝した馬、●は敗北した馬。

1799年3月25日 イギリス ニューマーケット競馬場 3,000ギニー
○ハンブルトニアン(18世紀末の最強馬)
●ダイアモンド
1851年5月13日 イギリス ヨーク競馬場 距離2マイル 1,000ポンド
○ザフライングダッチマン(1849年ダービー、セントレジャー優勝馬 6歳)
●ヴォルティジュール(1850年ダービー、セントレジャー優勝馬 5歳)
着差:1馬身
1920年10月12日 アメリカ ケニルワースパーク競馬場 距離10f 85,000ドル
○マンノウォー(「ビッグレッド」、21戦20勝の米国の至宝)
●サーバートン(米国の初代三冠馬)
着差:6馬身
1923年10月20日 アメリカ ベルモントパーク競馬場 距離12f 85,000ドル
○ゼヴ(1923年ケンタッキーダービー優勝馬)
●パパイラス(1923年ダービー優勝馬)
着差:5馬身
1938年11月1日 アメリカ ピムリコ競馬場 距離9.5f 15,000ドル
「世紀の対決」と呼ばれた、西海岸と東海岸それぞれの最強馬による対決。このマッチレースの模様は映画「シービスケット」の中でも描かれている。
○シービスケット(無冠)
●ウォーアドミラル(米国の4頭目の三冠馬)
着差:4馬身
1942年9月19日 アメリカ ナラガンセットパーク競馬場 距離9.5f 25,000ドル
○アルサブ(1942年プリークネスステークス優勝馬 4歳)
●ワーラウェイ(米国の5頭目の三冠馬)
着差:ハナ差
1947年9月27日 アメリカ ベルモントパーク競馬場 距離10f 100,000ドル
○アームド(無冠)
●アソールト(米国の7頭目の三冠馬)
着差:4/5馬身
1956年8月31日 アメリカ ワシントンパーク競馬場 距離10f 100,000ドル
○ナシュア(東海岸の王者)
●スワップス(西海岸の王者)
着差:6馬身1/2
1972年6月17日 アメリカ ハリウッドパーク競馬場 距離9f 250,000ドル
○コンヴィニアンス(5歳牝馬)
●タイプキャスト(7歳牝馬、天皇賞優勝馬プリテイキャストの母)
着差:アタマ差
1974年7月20日 アメリカ ハリウッドパーク競馬場 距離10f 350,000ドル
○クリスエヴァート
●ミスマスケット
着差:50馬身
1975年7月6日 アメリカ ベルモントパーク競馬場 距離10f 225,000ドル
○フーリッシュプレジャー(1975年ケンタッキーダービー優勝馬)
●ラフィアン(1975年ニューヨーク牝馬三冠馬、無敗)
着差:無し(ラフィアンが競走中止したため)
2001年3月18日 アメリカ フリーホールド競馬場 距離4f
89連敗中の人気馬ジッピーチッピー(サラブレッド)とスタンダードブレッドの非公式戦
パディーズレディーは速歩(ペース)のうえ繋駕車を引く、ジッピーチッピーは20馬身後方からのスタート
○ジッピーチッピー(対サラ100戦0勝の人気馬)
●パディーズレディー(繋駕速歩競走用競走馬)
着差:クビ差

放牧

放牧(ほうぼく)とは、家畜を管理下に置きつつ放し飼いにすること。ウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギ、トナカイなどが放牧される。

人類が牧畜を始めてから、家畜の成長を図るために行われてきた古き行為の一つ。無秩序で過剰な放牧が災いし森林破壊や砂漠化の引き金になる場合もある。

牧畜を行っている農家の敷地内ばかりでなく、地域で共同管理している広大な放牧地等に大量の家畜を長期間放牧する形態を採る放牧も多い。

競走馬の放牧

競走馬を牧場に送り込み休養させることをいう。あくまでも、牧場の敷地内で休養させることなので本来の放し飼いという意味とは違う。

多くの場合、放牧は競走馬が故障を発症した際に行われる。また、一流の競走馬については厳寒期・厳冬期においてレース出走を避け、リフレッシュ休養のために放牧されることが多い。

近年ではレースとレースの間に、競走馬を管理する厩舎近辺の牧場に短期間放牧するケース(短期放牧)も多くみられる。

また、放牧への輸送の際の馬運車の費用は馬主の負担となる。

昼夜放牧(ちゅうやほうぼく)

競走馬用に生産された若い馬を夜間屋外で飼育することによって鍛錬することをいう。具体的には午後屋内で餌を与えた後、翌朝まで屋外に放つ。

牛の放牧形態の一つ。文字通り、牛を昼間も夜間も放牧地に出し草を食べさせる(採食)。搾乳牛(乳牛のうち、乳を搾っている牛)は搾乳時は牛舎へ誘導し、必要に応じて補助飼料(穀類や貯蔵粗飼料)を給餌する。近年、放牧地での新たな採食量の推定方法が検討されている。

林間放牧

森林を経営する上で、幼齢木の森林の下草刈りを軽減するために放牧する行為。家畜の排泄物が肥料になるため一石二鳥となる。主に平坦な森林が多い欧州の森林で行われているが、日本でも傾斜地にウシの放牧を試みている農家もいる。

フリーレインジ

フリーレインジ(英語:Free range)とは、養豚や養鶏で家畜を管理下に置きつつ放し飼いにすること。平飼いとも呼ばれ、家畜舎内、又は屋外において、家畜が床面(地面)を自由に運動できるようにして飼育する方法。

法令で定められている国もあり、家畜の発育や健康の度合い、食肉の味が良くなるという利点もあるが、低密度な飼育から、その分生産コストもあがり、市場では高値になるといった欠点もある。

主な放牧場

宇治田原優駿ステーブル
瀬口レーシングステーブル
宮崎ステーブル
関連項目 [編集]

遊牧民
カウボーイ
電気柵(主にウシ)
放牧病
地鶏

ペーパーオーナーゲーム

ペーパーオーナーゲーム(Paper Owner Game、POG)はゲームの一種である。

ペーパーオーナーゲーム概要

競走馬を参加者が仮想馬主として選択し、その競走成績によって得られた賞金などをポイントに置き換えて競うゲームである。

実際に競走馬を所有するわけではなく、架空の(仲間内の書類のみの)馬主として参加するのでペーパーオーナーと言われる。参加者が馬主気分を楽しむことができ、職場の同僚や学校の同級生など限られたサークルで行われることが多い。

1960〜1970年代に米国で生まれたファンタジーフットボールやファンタジーベースボール(en:Fantasy sport参照)の競馬版とも言うべきもので、一説によると発祥は関西のトラックマン間で行われた余興にあると言われ、歴史自体はかなり古い。1995年ごろから競馬ライターの須田鷹雄を始めとする愛好家らの手によって基本的なルールが提唱され、一般に普及した。

ペーパーオーナーゲーム一般的なルール

適切な人数の参加者(5〜20人)がそれぞれの所有希望馬を選択(通常は10頭)し、所有馬の成績に応じたポイントによって参加者間の順位を決する。ポイントは、レースの格と着順に対応した独自のものが採用されることも多いが、計算が簡単なのは所有馬の総収得賞金をそのまま利用する方法である。

ポイントの集計期間は、中央競馬を対象とした場合、2歳馬の新馬戦開始時から翌年の東京優駿(日本ダービー)終了までとするものが最も一般的である。

ただこの辺りは参加者の間の取り決めによって流動的であり、菊花賞・秋華賞およびそのトライアルレースを対象に含めるとするものや、3歳の年末までのすべてのレースを対象とするものも少なくないが、古馬は対象に含めないことがほとんどである。

また対象レースを中央競馬のみとするか、地方競馬や海外のレースを含めるかといった点についても、事前に参加者による協議の上で決められる。

競走馬の選択方法についてはドラフト制(プロ野球のドラフト会議に基づく)と呼ばれる形式で行われるケースがほとんどである。ほかの参加者が選択した競走馬を下位の指名順で選択することはできない。また同位の順で指名馬が重複した場合、くじ引きで決定されるか、ウェーバー方式に従うことが多い。

馬の能力に見合った指名順を決定する戦略眼、くじ引きで希望馬を引き寄せる運、下位指名で話題にならなくとも走る馬を見出す相馬眼が要求される。

ゲームの期間が多くの場合日本ダービーまで、最長でも3歳終了時であることから、タマモクロスのように古馬になってから頭角を現すような馬を指名してもほとんど意味がなく、早熟性の高い馬やダービーまでになるべくレースに出走させるタイプの厩舎を優先させた方が好成績を収めやすいなど、馬の能力以外の部分でのドラフト戦略も重要となる。

大規模なペーパーオーナーゲーム

競馬専門誌などの企業が主催する大規模なペーパーオーナーゲームも存在する。一般的なペーパーオーナーゲームと異なり、他の参加者と重複して競走馬の指名を行うことが可能である。

ホッカイドウ競馬では、競馬主催者公認のペーパーオーナーゲームともいえる「サポーターズクラブ」が2001年度から2009年度まで実施されていた。

この制度に登録されたコスモバルクの活躍で会員希望の問い合わせが全国から殺到し、2005年度以降はホッカイドウ競馬所属の2・3歳馬だけでなく、各地の地方競馬所属の競走馬もこの制度に登録された。

2003年から2004年にかけては、中央競馬の主催者である日本中央競馬会 (JRA)も「さんまのマイホースクラブ」と銘打ったペーパーオーナーゲームを開催したことがある。マイホースクラブのルールは一般的なペーパーオーナーゲームとは異なり、古馬、3歳馬、2歳馬を5頭ずつ選択し、計15頭が1年間に獲得した賞金額がポイントに換算され、獲得ポイント数に応じて賞品が授与されるというものであった。

ペーパーオーナーゲーム関連書籍

毎年春から夏にかけて、ペーパーオーナーゲーム愛好家を対象に多くの競馬雑誌において特集記事が組まれるほか、素質馬の情報を掲載した書籍も多数出版される。
POGの達人
最強のPOG青本
丸ごとPOG
競馬王のPOG本

ペーパーオーナーゲーム成績集計ツール

仲間内でペーパーオーナーゲームを実施する場合、通常は中心メンバーが幹事となって集計を実施するが、指名馬の獲得賞金を計算する作業は困難を伴う。インターネット上にはペーパーオーナーゲーム参加者の指名馬を登録すると自動的に獲得賞金を集計し、メンバーの順位付けも行ってくれるツールを提供するサイトが幾つかあり、有料のツールも存在する。

斃死

斃死(へいし)とは、行き倒れて死亡したり、野垂れ死をしたりすること。
人に対しては斃死するという表現はほとんど使用されず、動物が突然死ぬことを指す事が多い。
競馬の世界では、レース中の競走馬が骨折、脱臼などにより予後不良となり安楽死処分となることとは異なり、心臓発作や感染症等により突然死亡することを指す。また、ペットや養殖において魚が感染症などで死亡する場合もよく使用される。

ブルードメアサイアー

ブルードメアサイアー(Brood Mare Sire)とは、競走馬の母馬の父馬、人間でいう母方の祖父にあたる馬のこと。

ブルードメアサイアー解説

「ブルードメア」は繁殖牝馬を意味し、「サイアー」は種牡馬を意味する。「母の父」ともいう。また頭文字をとってBMSと略されることも多い。

競走馬生産者の間では、父馬、母馬のほかにブルードメアサイアーの能力も競走馬の能力に影響を及ぼすとされ、ブルードメアサイアーとしての勝利回数、入着賞金額を集計したランキングも存在する。

日本における優秀なブルードメアサイアーとしては古くはトウルヌソル、ヒンドスタン、近年ではノーザンテースト、マルゼンスキー、トウショウボーイ、トニービン、サンデーサイレンスなどが挙げられる。

歴代リーディングブルードメアサイアー

サラブレッド系
年 日本
1990年 ノーザンテースト
1991年 ノーザンテースト
1992年 ノーザンテースト
1993年 ノーザンテースト
1994年 ノーザンテースト
1995年 ノーザンテースト
1996年 ノーザンテースト
1997年 ノーザンテースト
1998年 ノーザンテースト
1999年 ノーザンテースト
2000年 ノーザンテースト
2001年 ノーザンテースト
2002年 ノーザンテースト
2003年 ノーザンテースト
2004年 ノーザンテースト
2005年 ノーザンテースト
2006年 ノーザンテースト
2007年 サンデーサイレンス
2008年 サンデーサイレンス
2009年 サンデーサイレンス
2010年 サンデーサイレンス
※中央競馬のみの集計では1990年はファバージ、2006年はサンデーサイレンス。

ブルードメアサイアー関連項目

種牡馬
繁殖牝馬
リーディングサイアー
隔世遺伝

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