2011年9月 のアーカイブ | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

江田照男

江田 照男(えだ てるお、1972年2月8日 – )は日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンター所属の騎手である。ニックネームは「エダテル」「テリーマン」。

江田照男 来歴

1990年に美浦の田子冬樹厩舎所属騎手としてデビュー。同期の騎手は北沢伸也・浜野谷憲尚を除き全て現役を退いており、村山明・牧田和弥は調教師に転身となっている。

デビュー1年目の新潟記念でサファリオリーブに騎乗し重賞初勝利を記録、重賞騎乗2戦目での勝利は当時の最速記録だった。この年27勝を挙げ関東新人騎手賞を獲得。

1991年にはプレクラスニーとのコンビで同年秋の天皇賞をメジロマックイーン降着による繰り上がりでの勝利ながらGI初騎乗・初勝利を達成。なおこの勝利は当時のGI最年少制覇記録(19歳8ヶ月)となっている[1]。

これまで、オープンクラスの競走で多くの穴馬券を輩出してきたことから「穴男」・「万馬券男」と呼ばれる[2]。14番人気での勝利となった1990年サファリオリーブの新潟記念をはじめ、1998年日経賞では障害帰りのテンジンショウグンを勝利に導き、当時重賞の馬連最高配当(213370円)を記録[3]。

2000年スプリンターズステークスでは16頭立て16番人気のダイタクヤマトで逃げ切り勝ちを収め9年ぶりのGI勝利をマーク。同時期の中距離路線で活躍したアメリカンボスでも2001年有馬記念にて13頭立て13番人気で2着となり、有馬記念の馬連最高配当(48650円)を記録した[4]。

この他2006年・2010年の重賞勝ちをいずれも2桁人気馬で挙げるなど人気薄馬での好走例が多く見られる。穴を作る秘訣は「どの馬でももしかしたらというつもりで乗ること」とコメントを残している。
エピソード [編集]

勝利ジョッキーインタビューでカメラに向かってピースサインをするなどのパフォーマンスも見せている。
1991年の天皇賞(秋)はGI初挑戦初勝利、また10代での天皇賞制覇の偉業達成(これは当時のGI最年少制覇記録でもあった)ではあったが、実質的には6馬身差の完敗だったので、表彰式でも笑顔は見られなかった。しかし内心は相当嬉しかったと語っている。その後記念のテレホンカードを自主制作した。

中央競馬において10代でGIを制した騎手は武豊(1988年菊花賞:勝ち馬スーパークリーク)と江田のわずか2人しか成し遂げていない記録である。

2006年1月9日、美浦トレーニングセンター内の風呂で、当時は騎手の田中剛と入浴マナーについて口論となり、ヘッドロックをされるなどの暴行を受けた。このことで田中は騎乗停止の処分を受けた。

2006年7月1日の福島競馬第5競走で、江田が騎乗していた馬が大野拓弥が騎乗していた馬から不利を受けたことが発端となり、1月の時とは逆に、レース後検量裁決室(パトロールビデオ室)で、江田が大野の臀部を蹴るという事件が起きた。この結果、江田は開催2日間の騎乗停止処分を受けた。

江田照男 主な騎乗馬

プレクラスニー (1991年エプソムカップ・毎日王冠・天皇賞(秋))
アメリカンボス (1999・2000年エプソムカップ・2001年アメリカJCC・中山記念)
ダイタクヤマト (2000年スプリンターズステークス・スワンステークス)
ヤマニンアラバスタ (2005年新潟記念・府中牝馬ステークス)

江田照男 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1990年3月3日 2回中山3日1R アラ系3歳上400万下 カガミヤマ 10頭 3 4着
初勝利 1990年4月1日 3回中山4日1R アラ系3歳上400万下 カガミヤマ 13頭 1 1着
重賞初騎乗 1990年8月5日 1回新潟8日11R 関屋記念 サファリオリーブ 18頭 16 6着
重賞初勝利 1990年8月26日 2回新潟6日10R 新潟記念 サファリオリーブ 15頭 14 1着
GI初騎乗・初勝利 1991年10月27日 4回東京8日10R 天皇賞(秋) プレクラスニー 18頭 3 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1990年 27 30 29 310 .087 .184 .277
1991年 35 32 29 369 .095 .182 .260
1992年 21 33 33 330 .064 .164 .264
1993年 29 35 29 380 .076 .168 .245
1994年 26 35 36 426 .061 .143 .228
1995年 12 16 27 361 .033 .078 .152
1996年 23 19 25 290 .079 .145 .231
1997年 43 25 34 415 .104 .164 .246
1998年 33 23 40 479 .069 .117 .200
1999年 57 45 49 573 .099 .178 .264
2000年 58 60 47 622 .093 .190 .265
2001年 61 68 41 666 .092 .194 .255
2002年 58 58 51 708 .082 .164 .236
2003年 60 57 63 760 .079 .154 .237
2004年 33 36 48 708 .047 .097 .165
2005年 27 38 45 685 .039 .095 .161
2006年 18 22 28 555 .032 .072 .123
2007年 27 24 35 476 .057 .107 .181
2008年 30 27 26 616 .049 .093 .135
2009年 25 22 25 547 .046 .086 .132
2010年 21 36 40 684 .031 .083 .142
中央 724 741 780 10960 .066 .134 .205
地方 38 33 35 364 .104 .195 .291

江田照男 脚注

^ 競馬騎手読本
^ 別冊宝島・騎手年鑑 ISBN 4-7966-9517-6
^ 1998年3月30日日刊スポーツ
^ 2001年12月24日日刊スポーツ

内田博幸

内田 博幸(うちだ ひろゆき、1970年7月26日 – )は日本中央競馬会 (JRA) の騎手である。

2008年に大井競馬場から移籍。移籍時から美浦の嶋田潤厩舎に所属し、2011年5月1日付けでフリーとなる。地方競馬時代には大井競馬場の荒井隆厩舎に所属。

福岡県三潴郡三潴町(現・久留米市)出身。妻は元フリーアナウンサーの鈴木文子[1]。兄の内田秀一も佐賀、川崎に所属し通算527勝を挙げた元騎手である。
地方時代の勝負服の柄は胴青・赤山形一文字・袖白(詳細は後述)。

内田博幸 来歴

内田博幸 騎手になるまで

父が体操選手だった影響もあり小学校低学年から体操教室に通う。一緒に通っていた兄が中学卒業時に教室を辞めたため一人で通うのは無理と判断し、同時に体操教室を辞める。

進路を決める中学3年生になるも体操への道が諦めきれず逡巡するが、再開しても周囲とのレベル差があり過ぎるを理由に諦める。自宅の近所に2歳馬の馴致をする施設があり、手伝いを通じて競走馬に親しむ機会があった。

その後、当時佐賀競馬の騎手となっていた兄の秀一の縁で当時の佐賀のトップジョッキーであった的場信弘から大井競馬の調教師の松浦備(的場の弟である大井所属の的場文男の兄弟子にあたる)を紹介されて上京、松浦の厩舎にて1年の修業の後、地方競馬教養センター騎手過程で2年を過ごす。

内田博幸 大井所属時代

内田とアジュディミツオー

内田博幸 地方競馬にて
1989年4月6日にデビュー(ハツマドンナに騎乗、7着)。初勝利は同年5月7日に挙げる。当初は松浦備厩舎所属。初重賞勝利は1991年12月30日ドラールオウカンに騎乗したロジータ記念。

その後赤間清松厩舎へ移籍して赤間師の下で徹底的に鍛えられ、1990年代には「追える若手騎手」として南関東地区では知られる存在であったが、的場文男や石崎隆之をはじめとする南関東のトップジョッキーたちの中にあっては影が薄かった。

また、自身の騎乗馬で重賞を勝つチャンスがありながら騎乗停止処分でレースに騎乗できなくなり、乗り替わった騎手に重賞を勝たれたこともあった[2]。しかし2000年頃から南関東リーディングの上位に進出するようになり、リーディングトレーナーである船橋・川島正行厩舎の主戦騎手として、2004年には385勝(ほかJRA28勝)を挙げ的場-石崎時代に終止符を打つ初の南関東リーディング獲得、同時に初の全国リーディング獲得でNARグランプリ最優秀騎手賞受賞。

2005年には465勝(他に中央競馬(JRA)で31勝)をあげ、2年連続の南関東リーディングジョッキーとなった。その上、南関東地区の4競馬場(大井競馬場、川崎競馬場、船橋競馬場、浦和競馬場)全てで各競馬場でのリーディングをも獲得している[3]。同年には通算2000勝を達成し、名実共に現代の地方競馬を代表する騎手の一人となった。また、同年3月26日に開催されたドバイワールドカップにはアジュディミツオーと共に地方競馬からの初参戦を果たすが6着に終わった。

2006年にはまずアジュディミツオーとのコンビで同年春の南関東古馬統一GIを完全制覇[4]。さらにジャパンダートダービーをも制し、7月18日には通算2500勝を達成。これは南関東史上9人目、南関東現役では4人目の記録である。そして佐々木竹見の不滅の金字塔と言われた3年連続400勝突破を達成。12月の全日本2歳優駿をも制し、これが年間500勝目の勝ち鞍となり、12月18日の浦和競馬場の第11競走で1番人気のトーセンマンボに騎乗して勝利、佐々木の持つ年間505勝の日本記録を遂に塗り替え、最終的には524勝まで勝ち星をのばした。[5]

2007年、9月5日に大井競馬場で史上16人目となる地方競馬通算3000勝を達成。2008年度のJRA騎手免許試験を受験することを宣言。

2008年、すでに中央競馬で2年連続20勝を達成しており、1次試験免除の内規はクリアしているので2月上旬に行われた2次試験を受験し、合格。3月1日付で日本中央競馬会所属騎手となった。地方競馬全国協会の騎手として最後の大井競馬場での騎乗となった2月22日には壮行会が行われ[6]、地方競馬全国協会の騎手として最後の騎乗地となった川崎競馬場では2月27日に「内田博幸騎手を送る会」が行われた。地方競馬全国協会の騎手として最後の騎乗レースは同日のエンプレス杯となり(ラピッドオレンジに騎乗して6着)、中央移籍までに地方競馬通算17680戦3153勝の成績を残した。

内田博幸中央競馬にて

中央競馬の初騎乗は1995年3月4日から2日間にわたって開催された「ヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップ」で、以降も騎乗機会を確保できれば中央へ積極的に参戦する姿勢を見せていた。重賞は2003年の共同通信杯をラントゥザフリーズで、2005年のニュージーランドトロフィーをマイネルハーティーで制している。2005年の朝日杯フューチュリティステークスではスーパーホーネットに騎乗して2着となった。

2006年、3月4日の中山競馬第11競走で同年より重賞となったオーシャンステークスを船橋競馬所属のネイティヴハートで16頭立ての14番人気という低評価を覆して勝利。さらには同年4月2日の中山競馬で、地方競馬所属騎手として初の12競走中6勝するという快挙を成し遂げ、8月20日の新潟競馬第7競走でアナナスに騎乗しJRA通算100勝を挙げた。

9月30日にはJRA年間56勝を達成し、それまで安藤勝己が有していたJRA所属外騎手最多勝記録である55勝を更新した。この年はそれから5勝を上げてJRA年間勝利数を61まで伸ばし、中央競馬リーディング16位の成績を残した。年末には有馬記念にドリームパスポートで参戦。同馬にとって初めての馬券圏外となる4着に敗れ去っている。

2007年、2月18日のフェブラリーステークスで、船橋競馬所属のアジュディミツオーに騎乗し14着に敗れるが、同年5月6日のNHKマイルカップ(JpnI)ではピンクカメオに騎乗し、初めて[7]の中央競馬GI級競走を制覇した。

内田博幸 中央移籍後

2008年3月1日付でJRAに移籍すると、その日の中山競馬第1競走をシャドウランズで制し、2006年の岩田康誠に次ぐ2人目の「NARからの移籍後初騎乗初勝利」を挙げた。

3月5日に関東地方公営競馬協議会によって、交流競走等により南関東公営競馬で騎乗する際には従来指定していた騎手服を使用することが可能と発表され、JRA移籍後も南関東公営競馬での騎乗の際には従来の騎手服を着用できることになった。翌3月6日には船橋競馬でJRA移籍後初めて古巣・南関東に参戦し、3勝を挙げた。

4月27日、レッドアゲートで第43回フローラステークスを制覇し、JRA所属騎手として初の重賞勝ちを収めた。つづく5月7日船橋競馬・東京湾カップでギャンブルオンミーに騎乗して勝利し、移籍後初の南関東公営の重賞制覇も達成した。

6月29日にエイシンデピュティで第49回宝塚記念を制覇し、JRA所属騎手として初の中央GI勝ちを収め、10月26日には第69回菊花賞をオウケンブルースリに騎乗して優勝しJRAのクラシック競走初制覇を達成、12月17日の第59回全日本2歳優駿に勝利。11月9日には自身初の中央競馬年間100勝を達成し、最終的には123勝を挙げ、関東騎手リーディング1位(全国リーディングは2位)となる。

2009年1月27日、川崎で行われた佐々木竹見カップ ジョッキーズグランプリに中央美浦所属騎手代表として出場し、初優勝。また、シャーガーカップに招待された。最終的に146勝を挙げ、中央競馬の総合リーディングジョッキーとなり、騎乗機会も975回のJRA新記録(当時)となった[8]。

2010年も年明けの開催4日で8勝を挙げるなど好調をキープしていたが、1月11日の中山第4レースで9頭が巻き込まれる大規模な落馬事故に遭い、後続の馬に蹴られた左前腕部を骨折、治療の為休養に入る。2月21日に復帰。復帰初日はフェブラリーステークス1鞍のみに騎乗し、サクセスブロッケンで3着となっている。
 
5月30日、第77回東京優駿でエイシンフラッシュに騎乗して優勝、ダービージョッキーとなった。JRAの東京優駿と交流のジャパンダートダービー、南関東・大井の東京ダービーともに制した騎手としては史上初となる。最終的には、中央のみの勝利数では118勝となり、横山典弘に1位を譲ったものの、中央と地方交流を合わせた勝利数では125勝となり、全国1位となる大変珍しいケースとなった[9]。よって、JRA賞最多勝利騎手は内田が受賞することとなった。
2011年5月1日付けで嶋田潤厩舎所属からフリーになった[10]。

内田博幸 主な重賞勝ち鞍


南関東競馬
東京大賞典:アジュディミツオー(2004、2005年)、サクセスブロッケン(2009年)
かしわ記念:ストロングブラッド(2005年)、アジュディミツオー(2006年)
川崎記念:アジュディミツオー(2006年)
帝王賞:アジュディミツオー(2006年)
ジャパンダートダービー:フレンドシップ(2006年)
全日本2歳優駿:フリオーソ(2006年)、スーニ(2008年)
エンプレス杯:ジーナフォンテン(2003年)、プルザトリガー(2005年)、トーセンジョウオー(2007年)
東京2歳優駿牝馬:ダガーズアラベスク(2005年)
ダイオライト記念:ヴァーミリアン(2006年)、フサイチセブン(2010年)
東京盃:ハタノアドニス(2003年)、リミットレスビッド(2007年)
東京スプリント:ゼンノパルテノン(2009年)
関東オークス:チャームアスリープ(2006年)、シンメイフジ(2010年)
羽田盃:シーチャリオット(2005年)、シーズザゴールド(2010年)
東京ダービー:シーチャリオット(2005年)
桜花賞:チャームアスリープ(2006年)
京浜盃:サワライチバン(2006年)
マイルグランプリ:コンサートボーイ(1996、1997年)、アジュディミツオー(2006年)
埼玉新聞杯:ナイキアディライト(2006年)
船橋記念:プライドキム(2007年)
報知グランプリカップ:プライドキム(2007年)
東京記念:ドラールオウカン(1992年)、イナリコンコルド(2000年)、ルースリンド(2008年、2009年)
大井記念:イナリコンコルド(2000年)、エイシンチャンプ(2006年)
その他の地区
兵庫ジュニアグランプリ(園田):スーニ(2008年)
栗駒賞(水沢):ハタノアドニス(2003年)
JRA
共同通信杯:ラントゥザフリーズ(2003年)
ニュージーランドトロフィー:マイネルハーティー(2005年)
根岸ステークス:リミットレスビッド(2006年)
オーシャンステークス:ネイティヴハート(2006年)
NHKマイルカップ:ピンクカメオ(2007年)
フローラステークス:レッドアゲート(2008年)、ディアジーナ(2009年)
宝塚記念:エイシンデピュティ(2008年)
ラジオNIKKEI賞:レオマイスター(2008年)
菊花賞:オウケンブルースリ(2008年)
クイーンカップ:ディアジーナ(2009年)
フェブラリーステークス:サクセスブロッケン(2009年)
京成杯オータムハンデキャップ:ザレマ(2009年)
京都大賞典:オウケンブルースリ(2009年)
東京優駿:エイシンフラッシュ(2010年)
アメリカジョッキークラブカップ:トーセンジョーダン(2011年)
※太字はGI(JpnI)競走。
テレビ出演

スポーツ大陸(2009年12月21日、NHK)
武豊TV!II(2010年)
脚注

^ ZAKZAK「テレビリポーター鈴木文子、内田博幸騎手と結婚」2007年2月16日発信
^ 1992年東京大賞典:ドラールオウカン→堀千亜樹、1997年帝王賞:コンサートボーイ→的場文男。
^ 従来は石崎、的場のどちらかが南関東のリーディングであっても、それぞれ自らの所属する競馬場でのリーディングだけは相手に譲らないなど「完全制覇」をすること自体がまれであり、これは佐々木竹見以来の偉業である。
^ 川崎記念、かしわ記念、帝王賞の3競走。
^ なお内田の勝利数は地方競馬・中央競馬合わせての通算であり、佐々木は全て南関東での勝ち鞍であるため、地方競馬のみの勝利数ではなお佐々木が上回っている。ただし、現在は佐々木の時代には無い一日に騎乗できるレースは8レースまでという騎乗制限がある。また、505勝を達成した時点での勝率は内田が上回っている。
^ 内田博幸騎手の壮行会について – TCK
^ 大井競馬ならびに南関東公営競馬所属騎手としては初。地方競馬所属騎手としては菅原勲(水沢所属)、岩田康誠(園田所属・当時)に次ぐ3人目。
^ 年間最多騎乗機会は2010年に幸英明によって更新された(1008回を記録)。
^ 中央のみでは内田が118勝で、横山典弘が120勝。地方と合算すると、内田が125勝、横山が121勝となる。
^ 週刊競馬ブック 2011年5月2日発売号「ニュースぷらざ」に掲載

上村洋行

上村 洋行(うえむら ひろゆき、1973年10月23日 – )は日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の騎手である。実兄の上村典久は調教助手。

上村洋行来歴

1992年栗東の柳田次男所属騎手としてデビュー。同期には後藤浩輝・横山義行らがいる。
競馬学校在学時より複数の教官たちから追う技術や騎手向きの性格を評価される[1]などデビューした当時から騎乗技術が高く、同年は京王杯オータムハンデキャップをトシグリーンで制するなど、新人ながら40勝を挙げた。

2年目には53勝を挙げ、若手ながら相当な実力を持った騎手として認知されるようになる。1994年には東京優駿でデビュー3年目ながら2番人気のナムラコクオーに騎乗している(6着)。なお、デビュー3年以内で100勝を達成している騎手は他には武豊[2]、蛯名正義、角田晃一、藤田伸二、福永祐一[2]、武幸四郎、秋山真一郎、池添謙一、北村宏司、藤岡佑介、川田将雅、鮫島良太、三浦皇成[2]らがいるが「デビュー3年以内でも100勝以上の騎手は減量されない」対象となった最初の騎手である[3]。

また結局は武豊などに乗り替わることになるが、サイレンススズカやゴールドアリュールといった後にGI馬になる馬にも騎乗している。
その後もコンスタントに勝ちを積み重ねていたが、1990年代の後半ごろから以前ほどの勢いが落ちる。実はこの時、眼の病気(飛蚊症)を患っていたにもかかわらず治療をしないまま騎乗を続けていたという。それでも毎年10勝以上と2桁の勝ち鞍は挙げていたが、2004年に治療をするため騎乗を自粛。しばらくの間、手術をするため休養に入る。手術は3回行われ、ようやく視力が回復するに至った。

復帰後の2005年には42勝と若い頃に近い成績を残し、神戸新聞杯でストーミーカフェに騎乗した四位洋文に替わってシックスセンスに騎乗したり、エリザベス女王杯を連覇中だったアドマイヤグルーヴにも騎乗している。

2008年6月15日、スリープレスナイトでCBC賞を勝ち、実に10年ぶりのJRA重賞競走を勝利するとその後も同馬で北九州記念、さらにはスプリンターズステークスも制覇し、G1レース騎乗40回目の挑戦にして悲願のG1ウイナー騎手の栄誉を手にした。

上村洋行 不祥事

2002年7月12日、函館競馬場の調整ルーム食堂内にて上村は青木芳之と口論になり一方的な暴力行為に及んだ。裁決委員は13~14日の騎乗は不適当と判断。競馬施行規則第126条第20号「競馬の公正確保について業務上の注意義務を負う者として相応しくない非行のあった者」を適用し、上村に対し13日から21日までの騎乗停止処分を科した。

上村洋行 主な騎乗馬

トシグリーン(1992年京王杯オータムハンデキャップ)
ナムラコクオー(1993年ラジオたんぱ杯3歳ステークス、1994年シンザン記念、1996年プロキオンステークス)
ロイヤルスズカ(1998年スワンステークス)
スリープレスナイト(2008年CBC賞、北九州記念、スプリンターズステークス)
ファインチョイス(2011年函館2歳ステークス)

上村洋行 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1992年3月1日 1回阪神2日2R 4歳未勝利 トシワイズ 12頭 3 4着
初勝利 1992年3月28日 1回中京7日6R 5歳上500万円下 スナークライナー 14頭 1 1着
重賞初騎乗 1992年8月30日 3回小倉6日11R 小倉記念 ダンツジュピター 10頭 9 9着
重賞初勝利 1992年9月13日 4回中山2日11R 京王杯AH トシグリーン 13頭 10 1着
GI初騎乗 1993年4月11日 2回阪神6日10R 桜花賞 ショウザンダイヤ 18頭 16 14着
GI初勝利 2008年10月5日 4回中山8日11R スプリンターズS スリープレスナイト 16頭 1 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1992年 40 30 33 398 .101 .176 .259
1993年 53 44 41 433 .122 .224 .319
1994年 50 58 65 546 .092 .198 .317
1995年 36 37 40 449 .080 .163 .252
1996年 6 9 8 119 .050 .126 .193
1997年 21 24 23 328 .064 .137 .207
1998年 15 16 18 218 .069 .142 .225
1999年 23 19 30 318 .072 .132 .226
2000年 29 27 36 414 .070 .135 .222
2001年 14 16 19 286 .049 .105 .171
2002年 28 27 24 359 .078 .153 .220
2003年 14 16 22 278 .050 .108 .187
2004年 6 4 11 95 .063 .105 .221
2005年 42 33 32 529 .079 .142 .202
2006年 24 26 21 438 .055 .114 .162
2007年 36 37 41 503 .072 .145 .227
2008年 30 30 39 483 .062 .124 .205
2009年 16 23 9 372 .043 .105 .129
2010年 33 32 29 471 .070 .138 .200
中央 516 508 541 7037 .073 .146 .222
地方 10 6 6 56 .179 .286 .393
テレビ出演 [編集]

心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU(2010年5月8日、日本テレビ)

上村洋行 注釈


^ 競馬騎手読本
^ a b c 2年目で達成
^ 藤田伸二までは、デビューから3年間は勝利数に関わらず一般競走では1kg減で出走できた。また見習騎手に対する減量規定については年によって異なるが詳細は当該記事を参照のこと。

植野貴也

植野 貴也(うえの たかや、1975年7月1日 – )は日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の騎手。

植野貴也来歴

1994年競馬学校10期生、梅内忍厩舎所属騎手としてデビュー。同期には幸英明、渡辺薫彦、吉田豊などがいる。
騎手デビュー初日となった3月5日のゆきやなぎ賞でバンブーユージンに騎乗し、初勝利を特別戦で飾る。3戦目の特別競走勝利はJRA新記録(後に三浦皇成も達成している)であった。

初年度に15勝を挙げた植野は5年連続で勝利数2桁台をキープ。1998年にはジムカーナとのコンビでGI初出走を記録したほか多くの平地重賞レースへの騎乗も果たしたが、これ以降平地競走に於いては特筆すべき騎乗馬はなく、2011年2月を以って平地免許を返上し障害専門騎手に転向となっている。

平地騎乗数が減少し始めた1998年より障害競走にも騎乗をはじめ、以後は障害競走を中心に騎乗。1999年7月18日、小倉サマージャンプでロングイカロスに騎乗し、重賞初勝利を挙げるとともに100勝を達成。
2009年には阪神ジャンプステークスでマヤノスターダムに騎乗し10年振りの重賞2勝目を挙げた。

植野貴也エピソード

マジックが趣味で、藤田伸二は「凄腕マジシャン」とその腕前を評している。[1]

植野貴也主な騎乗馬

ジムカーナ(1998年若駒ステークス)
ロングイカロス(1999年小倉サマージャンプ)
マヤノスターダム(2009年阪神ジャンプステークス)
ショウリュウケン(2009年三木ホースランドJS)
ワンダーシンゲキ(障害オープン3勝)

植野貴也騎乗成績


日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 1994年3月5日 1回中京3日1R 4歳未勝利 エイシンミスティー 16頭 10 2着
初勝利 1994年3月5日 1回中京3日10R ゆきやなぎ賞 バンブーユージン 14頭 5 1着
重賞初騎乗 1994年4月16日 3回中山7日11R クリスタルカップ バンブーユージン 14頭 8 5着
GI初騎乗 1998年5月17日 2回東京8日11R NHKマイルカップ ジムカーナ 17頭 11 6着

害 初騎乗 1998年10月24日 5回京都5日5R 障害未勝利 シンメイアユチ 8頭 3 3着
初勝利 1999年1月10日 1回京都4日5R 障害未勝利 クラウドクロス 13頭 8 1着
重賞初騎乗・初勝利 1999年7月18日 1回小倉2日10R 小倉サマージャンプ ロングイカロス 9頭 7 1着
JGI初騎乗 1999年12月18日 5回中山5日10R 中山大障害 イチバンリュウ 15頭 6 中止
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1994年 15 23 19 256 .059 .148 .223 –
1995年 28 31 41 423 .066 .139 .236 –
1996年 19 26 29 377 .050 .119 .196 –
1997年 12 26 14 265 .045 .143 .196 –
1998年 16 10 7 191 .084 .136 .173 0 0 1 6 .000 .000 .167
1999年 5 10 8 159 .031 .094 .145 9 8 5 53 .170 .321 .415
2000年 3 5 6 151 .020 .053 .093 6 1 2 24 .250 .292 .375
2001年 0 4 2 84 .000 .048 .071 2 3 5 33 .061 .152 .303
2002年 2 0 1 63 .032 .032 .048 4 5 5 43 .093 .209 .326
2003年 2 2 3 61 .033 .066 .115 1 0 3 31 .032 .032 .129
2004年 3 0 1 47 .064 .064 .085 5 6 3 41 .122 .268 .341
2005年 2 0 4 29 .069 .069 .207 5 1 6 47 .106 .128 .255
2006年 0 0 0 8 .000 .000 .000 3 5 4 37 .081 .216 .324
2007年 0 0 1 13 .000 .000 .077 4 2 7 48 .083 .125 .271
2008年 0 0 0 13 .000 .000 .000 6 7 1 51 .118 .255 .275
2009年 0 0 0 8 .000 .000 .000 9 9 6 61 .148 .295 .393
2010年 0 0 0 4 .000 .000 .000 4 3 4 50 .080 .140 .220
中央 107 137 136 2152 .050 .113 .177 58 50 52 525 .110 .206 .305
地方 3 13 13 97 .031 .165 .299

岩田康誠

岩田 康誠(いわた やすなり、1974年3月12日 – )は、兵庫県姫路市出身の日本中央競馬会(JRA)所属の騎手である。1991年10月から2006年2月までは、兵庫県競馬組合の清水正人厩舎に所属していた。地方競馬での勝負服の柄は白・青襷。

岩田康誠人物

岩田康誠 兵庫県競馬所属時代

1990年代後半から小牧太のJRA移籍まで、園田の2本柱と呼ばれた(2010年現在の2本柱は田中学と木村健となっている。ただし川原正一が加わることがある)。

地方・中央で通算勝利数は3000勝(後述)を数え、中央競馬移籍までは地方競馬の同一施行者での生え抜き騎手の中では断トツであった(生え抜きに限らなければ中津競馬場から移籍してきた有馬澄男が通算で3800勝あまりを挙げており、現役に限らなければ田中道夫が3166勝、小牧太が中央移籍までに3376勝を挙げている)。

デビューして数年した頃、田中道夫の重なったお手馬の片方に騎乗した際、鮮やかに勝利を収めた。田中は後に「アイツにだけは乗ってもらいたくないと思った」「康誠のスタートは出た瞬間、二の足三の足が違う」と回顧しており、当時からスタートが上手かったが、騎乗技術も備えており、1997年の楠賞全日本アラブ優駿を見ると、馬上で激しく動く赤木高太郎に対し岩田の姿勢はぶれることなく最後まで馬を追い続けていた。

所属した当時は弱小であった清水厩舎の岩田と、有力馬を多数抱える曾和直榮厩舎に所属する小牧太とは互角に渡り合い、2000,2002年などで兵庫県のリーディングを奪っている。1996年には保利厩舎のケイエスヨシゼンで兵庫アラブ三冠を達成し、同馬で全国のアラブ系競走を回った。兵庫県競馬史上、アラブ三冠は1970年のアサヒマロットに次いで2頭目。このケイエスヨシゼンの騎乗時に、プレッシャーから吐いたの逸話がある。本人も何度かインタビューなどで自分のプレッシャーに対する弱さを吐露している。
2002年はゴールデンジョッキーカップが9月5日に行われ、7月31日までに2000勝しているジョッキーが出場できるとされていた。当落線上にいた岩田の2000勝達成は8月1日にずれこんだが、特例として出場が叶った。

2004年は、小牧太がいなくなり自分が頑張らなければというプレッシャーと同年12月1日の落馬もあり、思うほど勝利数は重ねられなかったが、それでも279勝を挙げている。なお、当日園田金盃で騎乗予定だったロードバクシンは有馬澄男に乗り替わっている。この落馬は長期間尾を引き完全回復まで2ヶ月を要し、勘を取り戻したのは姫路開催からだったという。

岩田康誠 中央競馬への遠征

兵庫県競馬所属時代から中央競馬にも積極的に参戦し、2002年にはビリーヴでセントウルステークスを制して中央競馬の重賞を初制覇した。同馬とは3戦3勝と相性が良かった。

2004年には菊花賞をデルタブルースで制し、地方競馬所属の騎手としては初めて中央競馬のクラシックを制覇した。また、地方競馬所属の騎手が中央の競走馬に騎乗してGI競走を制覇したのも史上初であった。

2005年、第1回WSJS地方騎手代表選定競走に優勝し、ワールド・スーパー・ジョッキーズ・シリーズには地方競馬代表として参戦。ゴールデンサドルトロフィーではオースミグラスワンで1着になるなど、総ポイントで41点を挙げ、総合優勝した(地方競馬の騎手が同シリーズを総合優勝するのは第8回(1994年)の石崎隆之(船橋)、第11回(1997年)の川原正一(当時笠松所属)、第15回(2001年)の鮫島克也(佐賀)に次いで4年ぶり4人目であった)。

前述のとおり、2005年12月8日の園田競馬第1競走で1着となり通算3000勝を達成した。1991年10月23日のデビュー以来、14年2ヶ月での達成は佐々木竹見についで史上2番目の速さである。

地方競馬のトップジョッキーだけに中央競馬への移籍は時間の問題と見られていた。そして、2006年度の新規騎手試験を受験し合格、3月より中央競馬の騎手として正式にデビューした。地方競馬から中央競馬へは安藤勝己、小牧太、赤木高太郎、柴山雄一がこれまでに移籍したが、安藤と小牧は中央競馬の特例(下記参照)をクリアし中央に移籍した。岩田はこの特例を2004年にクリアし、2006年度の新規騎手試験は二次試験からの受験が可能となっていた。なお過去2年続けて一次試験から受験しているが2度とも不合格となっていた。

岩田康誠 中央移籍後


2006年に中央競馬に移籍した最初のレースをキアヌバローズで制し、移籍後初勝利を挙げる。秋にはタイムパラドックスでJBCクラシックを勝利し、JRA移籍後の初GI勝利を果たした。さらに翌週には菊花賞でコンビを組んだデルタブルースと共に海外G1メルボルンカップに出走、見事に勝利し、自身初の海外G1勝利を果たした。

年末の第20回ワールドスーパージョッキーズシリーズには今度はJRA所属として前年に続き2年連続で参戦し連覇が期待されたが惜しくも2位だった。最終的に2006年は123勝をあげ全国リーディングでも武豊、藤田伸二に続く3位と素晴らしい成績をあげた。
また、12月24日にはJRAでの年間騎乗回数を952回を記録し、それまでのJRAでの年間最多騎乗回数は2004年に記録した柴田善臣騎手の940回を超えて年間最多騎乗回数の記録保持者となった。

2007年、4月22日にJRA通算300勝達成、同日に行われたアンタレスステークスではワイルドワンダーで優勝し、花を添えた。
アドマイヤの冠名を使用する近藤利一オーナーの意向により、同年の宝塚記念では、それまで武豊が主戦を務めていたアドマイヤムーンに初騎乗し、中央移籍後初の中央GI制覇を達成した。

また、7月2日から7月8日まで自身2度目となる海外遠征で、キャッシュコールマイルとアメリカンオークスに参戦するもそれぞれ5着という結果だった。その後は、松田博資調教師からは「アドマイヤ」はもちろん、それ以外の管理馬の多くを騎乗依頼を受けていた。しかし、ジャパンカップのアドマイヤムーン以降、松田博資調教師の管理馬への騎乗が激減している。

同年9月1日に札幌競馬第10R富良野特別において、最後の直線で斜行し2位入線から14着(最下位)に降着となり、JRAに移籍してから初の騎乗停止となった。期間は9月8日から9月16日までの開催日4日間。騎乗停止から戻ってきた9月17日、阪神競馬第7Rにおいて、最後の直線で斜行したことにより、過怠金の処分を受けた。

その5日後の9月22日、札幌競馬第12Rニセコ特別において、4コーナーで斜行、6位入線から16着(最下位)に降着。これにより、9月29日から10月7日までの開催日4日間の騎乗停止処分となり、短期間で2度も騎乗停止処分を受けてしまうことになった。さらに10月28日までに関西所属騎手の中で2位となる中央で126勝を挙げたことから11月8日に第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズへの出場が発表された。

11月25日の第27回ジャパンカップで近藤利一とのトレードで新オーナーとなったダーレー・ジャパン・ファーム(有)の中央登録後初のGI制覇に導くと共に中央競馬での左回り競馬場で初めてGI競走を制覇した(※)。そして第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズは31ポイントで5位タイと過去最低の結果に終わった。さらに12月3日から12月6日までこの年2度目の海外出張届を提出し、香港ジョッキークラブのインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップに初出場した。

12月5日にハッピーバレー競馬場で行われた同チャンピオンシップ第1戦で香港初騎乗を果たし、スーパーファイターに騎乗し3着となった。なお同チャンピオンシップは3戦で4点を獲得し8位だった。騎乗後「短期免許などでも(香港に)来てみたい。来年も招待されるように頑張りたい。」といった発言を残した。

2008年は、アドマイヤジュピタで天皇賞(春)、ウオッカで安田記念、ブラックエンブレムで秋華賞、セイウンワンダーで朝日杯フューチュリティステークスを制覇し、重賞も多数勝利するなど大舞台での活躍が光る。

中央移籍後も地方競馬へは積極的に参戦しており、特に園田・姫路競馬参戦時はJRA交流競走以外に、特別競走(B級以上)を中心に地元馬にもよく騎乗している。時には地元重賞に騎乗する事もあるが、JRA移籍後はまだ地方馬限定の兵庫の重賞勝ちは無い(ダートグレード競走は兵庫チャンピオンシップと兵庫ゴールドトロフィーを勝っている)。なお、中央移籍後も園田・姫路競馬で兵庫所属馬に騎乗する際の勝負服は、これまで通りの白・青襷である。

岩田康誠 エピソード

中央に移籍して以来、マスメディアへの露出増加に伴ってその天然キャラも注目されている。
レース後や調教後のインタビューのコメントとして「バキューン」や「ズキューン」など擬音を多用する。
その後、このような擬音を四位洋文も使うようになった。

印象に残った馬の名前として色紙に「イチゴイチエ」と書くつもりが「イチゴイチエイ」と記入してしまう。
2008年の阪神大賞典後のレースコメントでは「スローペースなので下げました」と発言(通常競馬ではスローペースの際は馬を追って位置を上げる)。

また、同年の金鯱賞のインタビューで嬉しさのあまり、「きんか賞」と言って笑顔で締めくくっている。
仲のよい藤田伸二には、『漢字どころか平仮名もあまり読めない』と冗談交じりに発言された。
それらが取り上げられることも多いこともあり、最近では自ら「天然キャラ」であることを自認している。
騎乗依頼仲介者は小原靖博(競馬ブック)。

騎手になったきっかけは、姫路競馬場の裏にある実家のお好み焼き屋で、お客の競馬ファンの男性に「騎手になったらどうや?」といわれ、騎手という職業があることをはじめて知ったという。

岩田康誠 中央競馬の特例

5年間で年間20勝以上を2回クリアすると、一次試験の筆記試験(国語・数学・競馬法規)が免除され二次試験(技能試験と面接)から受験できる。この特例は、その当時から中央競馬でも非常に顕著な活躍を見せていた安藤勝己が、一次試験から受験し不合格となったため設けられた特例である。

この特例を利用し、園田の小牧太、笠松の安藤勝己、そして岩田が合格した(のち、2008年に大井の内田博幸も合格)。この特例を岩田の他に、名古屋競馬の吉田稔も2004年にクリアしていたが、吉田は2006年度~2008年度まで騎手試験には3度不合格となった。
地方競馬から中央競馬へ移籍した騎手の中には、一次試験から受験した赤木高太郎・柴山雄一・安藤光彰・鷹野宏史が見事に合格している。競馬学校でみっちり一次試験の勉強をしている騎手候補生とは違い、競馬学校や地方競馬教養センターに行く時間が取れず、毎週競馬に乗りながら、さらに毎日調教をこなしながら、そして独学で勉強をしなければならない地方所属騎手は、この一次試験に合格するのは非常に困難である。

岩田康誠 年度別成績表

中央競馬(2009年の成績は10月5日現在)
年 騎乗数 勝利数 勝率 連対率 順位
関西 全国
1999年 11 0勝 .000 .000 – 188位
2000年 21 2勝 .095 .095 – 155位
2001年 38 6勝 .158 .184 – 100位
2002年 116 18勝 .154 .231 – 56位
2003年 239 25勝 .105 .172 – 36位
2004年 400 45勝 .113 .223 – 24位
2005年 264 28勝 .106 .223 – 37位
2006年 952 126勝 .132 .252 3位 3位
2007年 873 145勝 .166 .298 2位 2位
2008年 852 118勝 .138 .263 3位 4位
2009年 694 95勝 .137 .262 2位 3位
通算 4462 608勝 .136 .253 – –
地方競馬(成績は2009年2月17日現在)
年 騎乗数 勝利数 2着 3着 4着 5着 着外 勝率 連対率
中央移籍まで 13099 2941勝 2119 1785 1394 1171 3689 .225 .386
2006年(JRA所属として) 102 18勝 16 19 7 10 32 .176 .363
2006年(兵庫所属として) 145 40勝 30 13 7 16 39 .276 .483
2007年 57 12勝 11 6 10 6 12 .211 .404
2008年 114 25勝 26 16 12 9 26 .219 .447
通算 13523 2997勝 — — — — — — —
海外競馬
年 騎乗数 勝利数 勝率 連対率
2006年 1 1勝 1.00 1.00
2007年 2 0勝 0.00 0.00

岩田康誠 表彰


日本プロスポーツ大賞
2005年(功労賞)
JRA賞最多賞金獲得騎手
2008年
主な騎乗馬 [編集]

ケイエスヨシゼン(1996年兵庫アラブ三冠など)
ヤングメドウ(1997年楠賞全日本アラブ優駿、1997年六甲盃)
ビリーヴ(2002年北九州短距離ステークス、セントウルステークス)
デルタブルース(2004年菊花賞、2006年メルボルンカップ)
ロードバクシン(2004年楠賞、2005年兵庫大賞典、2006年新春賞など)
グレートステージ(2005年兵庫ダービー、菊水賞)
マイネサマンサ(2006年京都牝馬ステークス)
ドンクール(2006年名古屋大賞典)
コンゴウリキシオー(2006年金鯱賞)
チアフルスマイル(2006年キーンランドカップ)
リミットレスビッド(2006年東京盃、兵庫ゴールドトロフィー、2007年黒船賞、兵庫ゴールドトロフィー、2008年さきたま杯)
レマーズガール(2006年白山大賞典、クイーン賞)
タイムパラドックス(2006年JBCクラシック)
アドマイヤオーラ(2007年シンザン記念)
ディアデラノビア(2007年京都牝馬ステークス)
ワイルドワンダー(2007年アンタレスステークス、2008年根岸ステークス)
フェラーリピサ(2007年兵庫チャンピオンシップ、2008年エルムステークス、2009年根岸ステークス)
タスカータソルテ(2007年京都新聞杯)
アドマイヤムーン(2007年宝塚記念、ジャパンカップ)
エイシンデピュティ(2008年京都金杯 金鯱賞)
ドリームシグナル(2008年シンザン記念)
サヨウナラ(2008年エンプレス杯)
アドマイヤジュピタ(2008年阪神大賞典、天皇賞・春)
メイショウクオリア(2008年京都新聞杯)
ウオッカ(2008年安田記念)
キンシャサノキセキ(2008年函館スプリントステークス)
セイウンワンダー(2008年新潟2歳ステークス、朝日杯フューチュリティステークス)
ブラックエンブレム(2008年秋華賞)
スマートファルコン(2008年白山大賞典、彩の国浦和記念、兵庫ゴールドトロフィー、2009年佐賀記念、名古屋大賞典、かきつばた記念、さきたま杯、ブリーダーズゴールドカップ、2010年かきつばた記念、さきたま杯)
アンライバルド(2009年スプリングステークス、皐月賞)
ラヴェリータ(2009年関東オークス、スパーキングレディーカップ、2010年名古屋大賞典、スパーキングレディーカップ)
テスタマッタ(2009年ジャパンダートダービー)
ステラリード(2009年函館2歳ステークス)
シンメイフジ(2009年新潟2歳ステークス)
ライブコンサート(2010年京都金杯)
ロールオブザダイス(2010年平安ステークス)
エーシンフォワード(2010年阪急杯、マイルチャンピオンシップ)
ルーラーシップ(2010年鳴尾記念)
ヴィクトワールピサ(2010年皐月賞)

今村康成

今村 康成(いまむら やすなり、1978年10月19日 – )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンターの飯田明弘厩舎に所属する騎手。近年は障害競走への騎乗が中心である。

今村康成来歴

1997年、2月にJRA競馬学校騎手課程を第13期生として卒業し騎手免許を取得する。同期は武幸四郎、武士沢友治、板倉真由子、松田大作らがいる。

デビュー時は古川平厩舎所属だった。3月1日に初騎乗となった阪神競馬場での第2レースでは、11番人気だったヨサブロウに騎乗し9着で、10月14日には地方競馬で初騎乗する。11月1日に障害レース初騎乗となったレースでは、10番人気だったメモリーディーンに騎乗し10着となる。

1998年、4月18日阪神3レースをリトルマーベルに騎乗して制し、128戦目で初勝利を挙げた。12月にフリーとなる。
2000年、7月22日に障害レースをスリータイクーンに騎乗して制し、障害初勝利を挙げる。
2001年、中山大障害をユウフヨウホウに騎乗して制し、重賞及びGI初勝利を挙げる。
2006年、10月11日付で中尾正厩舎所属となる。
2007年、10月17日に10月21日付で再びフリーとなることが発表され、フリーとなる。
2008年、3月21日付で飯田明弘厩舎所属となる。

今村康成主な騎乗馬

ギルデッドエージ(2001年障害3歳上未勝利)
ユウフヨウホウ(2001年中山大障害)
クルワザード(2006年三木ホースランドパークジャンプステークス)

今村康成騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 1997年3月1日 1回阪神3日2R 4歳未勝利 ヨサブロウ 11頭 11 9着
初勝利 1998年4月18日 2回阪神7日3R 4歳未勝利 リトルマーベル 10頭 1 1着

害 初騎乗 1997年11月1日 5回京都1日5R 障害未勝利 メモリーディーン 10頭 10 10着
初勝利 2000年7月22日 2回小倉3日5R 障害未勝利 スリータイクーン 11頭 5 1着
重賞初騎乗 2000年11月11日 5回京都3日10R 京都ハイジャンプ スリータイクーン 10頭 10 7着
JGI初騎乗・初勝利 2001年12月22日 5回中山7日10R 中山大障害 ユウフヨウホウ 10頭 10 1着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1997年 0 2 1 99 .000 .020 .030 0 0 0 2 .000 .000 .000
1998年 1 1 1 97 .010 .021 .031 0 0 0 8 .000 .000 .000
1999年 1 1 0 43 .023 .047 .047 0 0 0 7 .000 .000 .000
2000年 2 0 0 15 .133 .133 .133 2 1 2 49 .041 .061 .102
2001年 0 1 0 18 .000 .056 .056 3 6 5 51 .059 .176 .275
2002年 1 1 0 18 .056 .111 .111 2 0 6 59 .034 .034 .136
2003年 0 0 0 9 .000 .000 .000 3 4 3 53 .057 .132 .189
2004年 0 0 0 3 .000 .000 .000 4 1 4 44 .091 .114 .205
2005年 0 1 0 19 .000 .053 .053 6 6 3 61 .098 .197 .246
2006年 0 0 0 10 .000 .000 .000 5 4 5 56 .089 .161 .250
2007年 0 0 0 4 .000 .000 .000 3 3 1 55 .055 .109 .127
2008年 0 0 0 10 .000 .000 .000 3 2 2 56 .065 .109 .152
2009年 0 0 0 4 .000 .000 .000 3 6 5 64 .047 .141 .219
中央 5 7 2 349 .014 .034 .040 34 33 36 565 .060 .119 .182
地方 0 0 0 2 .000 .000 .000

伊藤直人

伊藤 直人(いとう なおと、1974年8月26日 – )は、日本中央競馬会・美浦トレーニングセンターの斎藤誠厩舎に所属する騎手である。騎手免許は平地競走、障害競走両方の免許を所持している。船橋競馬場所属の騎手・山頭信義は甥。

伊藤直人来歴

1993年3月JRA競馬学校騎手課程第4期生小林常泰厩舎所属騎手としてデビュー。同期には飯田祐史・小林徹弥などがいる。
1999年の札幌3歳ステークスをマイネルコンドルで重賞初勝利、翌2000年には同馬で皐月賞への騎乗を果たしGI競走初騎乗を記録する。その同時期に伊藤が主戦騎手を務めたスマートボーイがダート路線で台頭、アンタレスステークス2連覇など全ての重賞勝利を伊藤とのコンビで挙げた。

スマートボーイが現役を引退した2004年以降は騎乗数、重賞騎乗機会共に減少、それまで10勝前後で推移していた勝利数も一桁になる。2006年にはデビュー14年目にして障害競走への騎乗もしているが、2年通算で25戦未勝利という結果に終わり、2008年以降は平地のみの騎乗となっている。

伊藤直人主な騎乗馬

マイネルコンドル(1999年札幌3歳ステークス)
スマートボーイ(2000年アンタレスステークス、2001年アンタレスステークス、2002年平安ステークス、2003年平安ステークス、マーチステークス)

伊藤直人騎乗成績


日付 競馬場・開催・レース 競走名 馬名 頭数 人気 着順
平地 初騎乗 1993年3月6日 2回中山3日2R 4歳未勝利 カミノダイリン 14頭 8 8着
初勝利 1993年5月8日 1回新潟5日11R 尖閣湾特別 トウショウジゴロ 8頭 2 1着
重賞初騎乗 1993年7月11日 1回福島8日11R 七夕賞 ユーワビーム 16頭 16 16着
重賞初勝利 1999年9月25日 2回札幌7日11R 札幌3歳S マイネルコンドル 13頭 8 1着
GI初騎乗 2000年4月16日 3回中山8日11R 皐月賞 マイネルコンドル 18頭 15 17着
障害 初騎乗 2006年3月11日 2回中山5日4R 障害未勝利 テルミドール 14頭 7 8着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1993年 8 8 13 217 .037 .074 .134 –
1994年 14 23 24 304 .046 .122 .201 –
1995年 11 8 18 247 .045 .077 .150 –
1996年 10 13 8 205 .049 .112 .151 –
1997年 10 11 6 142 .070 .148 .190 –
1998年 9 10 15 188 .048 .101 .181 –
1999年 14 10 8 180 .078 .133 .178 –
2000年 11 17 14 215 .051 .130 .195 –
2001年 10 15 19 227 .044 .110 .194 –
2002年 9 15 10 257 .035 .093 .132 –
2003年 9 13 6 207 .043 .106 .135 –
2004年 4 8 12 151 .026 .079 .159 –
2005年 5 4 4 120 .042 .075 .108 –
2006年 1 5 3 106 .009 .057 .085 0 1 1 16 .000 .063 .125
2007年 4 0 3 85 .047 .047 .082 0 1 0 9 .000 .111 .111
2008年 3 2 3 87 .034 .057 .092 –
2009年 2 5 4 80 .025 .088 .138 –
2010年 3 2 5 70 .043 .071 .143 –
中央 137 168 174 3072 .045 .100 .156 0 2 1 25 .000 .080 .120
地方 6 5 11 112 .054 .098 .196

伊藤工真

伊藤 工真(いとう たくま)は、日本中央競馬会・美浦トレーニングセンターの古賀史生厩舎に所属する騎手である。騎手免許は平地競走と障害競走両方所持している。

伊藤工真来歴

アニマル・ベジテイション・カレッジを経て2004年に日本中央競馬会競馬学校の入学試験に合格し、2005年4月より同校へ第24期として入学した。なお同期入学には8人おり、その中に北村浩平の弟もいたが退学した。

2008年、2月12日に同校を卒業した。卒業時の同期には大江原圭とアニマル・ベジテイション・カレッジ時代からの同期である三浦皇成がいる。そして2月14日に発表された2008年度騎手免許試験に合格し、3月1日付で騎手免許を交付された。デビューの同期には前述の2人に加え内田博幸と鷹野宏史がいる。

デビュー時からの所属は美浦・古賀史生厩舎。3月1日に中山競馬場で行われた第1競走で中央競馬初騎乗を迎え、自厩舎のトウショウブリーズに騎乗して11番人気で9着だった。なお、1着となったのは中央移籍後初騎乗で同期デビューの内田博幸だった。10月26日に東京競馬場で行われた第1競走でサザンスターディに騎乗し、89戦目で初勝利を挙げた。

2010年1月12日に行われた第24回全日本新人王争覇戦で同じく選抜された同期の三浦皇成と共に出場。第1戦・第2戦とも2着に食い込み合計30ポイントを獲得、栄えある新人王の称号を手にした。なお、JRA所属騎手の新人王獲得は第18回に獲得した柴原央明以来である。

伊藤工真エピソード


競馬学校時代からの同期である大江原圭とは生年月日が同じである。
左ききである。

2008年2月12日に行われた卒業記念模擬レースでメイショウブンゴに騎乗して優勝している。これは模擬レース5戦目にして初勝利だった。同日の謝恩会では「素直が一番で賞」を受賞した。
座右の銘は「清心虹光」、目標とする騎手は横山典弘とミルコ・デムーロ、好きなものはご飯、饅頭、団子、野菜とトレセンのブログで語っている。

持病で蓄膿症の為必ずレース中には鼻腔を広げるテープを付けているのがトレードマーク。またパドックにおいて馬に跨った直後、鞭を口にくわえる動作を行うことも特徴の一つとなっている。

食事に非常に気を使っており、通常トレセンの独身寮では食堂で三食とも食事が提供されているにも関わらず、かつて独身寮で隣の部屋に住んでいた松岡正海によれば「自分の部屋で十六穀米を炊いて、食堂に持ち込んで食べている」とのこと(おかずは食堂のものを食べている)。松岡曰く「(独身寮でわざわざ自炊するのは)ジョッキーでは史上初ではないか」という[1]。

伊藤工真データ

日付 競馬場・開催・レース 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2008年3月1日 2回中山1日1R 3歳未勝利 トウショウブリーズ 16頭 11 9着
初勝利 2008年10月26日 4回東京6日1R 2歳未勝利 サザンスターディ 10頭 4 1着
重賞初騎乗 2009年2月15日 1回東京6日11R ダイヤモンドステークス ゴーウィズウィンド 16頭 16 5着
GI初騎乗 2010年5月9日 2回東京6日11R NHKマイルカップ キングレオポルド 18頭 15 12着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2008年 1 6 5 145 .007 .048 .083
2009年 23 34 30 669 .034 .085 .130
2010年 17 44 47 734 .023 .083 .147
通算 41 84 82 1548 .026 .081 .133

石橋守

石橋 守(いしばし まもる、1966年10月23日 – )は日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の騎手。
2003年から美浦トレーニングセンターに石橋脩が所属したため、競馬新聞などでの表記はフルネームの「石橋守」となっている。

石橋守来歴

京都競馬場・上田武司厩舎の厩務員である父・守義の長男として、1966年福岡県瀬高町(現・みやま市)にて出生。その後栗東トレセン設立に伴い1970年秋より滋賀県に移り住む。

父が厩務員という競馬に近い環境で育ち、幼稚園時から騎手になりたいという願望を抱くようになった石橋は小学校よりスポーツを始めるが、「競馬学校に行けば乗馬はいくらでもできる」として親の勧めもあり水泳を選ぶ。幼少時より病弱であった石橋だが水泳での鍛錬によりその体質が改善され、水泳の県大会で上位争いをするまでになったという。

その後競馬学校に進学した石橋は1985年3月3日、競馬学校第1期生(柴田善臣らと同期)として騎手デビューとなる。初騎乗を初勝利で飾った石橋はデビュー年は25勝を挙げ、新人賞を獲得するなど好成績を残す。翌年以降もコンスタントに2桁勝利を挙げ(デビュー以来、毎年2桁勝利を挙げている)、中堅騎手としての位置を確立していった。

1992年にミスタースペインで京阪杯・高松宮杯を制し初重賞制覇。この他ライブリマウントとのコンビで中央の重賞を3勝、当時はGIIだったフェブラリーステークス、地方競馬の帝王賞とマイルチャンピオンシップ南部杯を制覇するなどした。このライブリマウントとのコンビで日本調教馬として第1回のドバイワールドカップに遠征した[1]高松宮杯、フェブラリーステークスは後にGIに格上げ、帝王賞とマイルチャンピオンシップ南部杯も後のダートグレード競走の整備の際にGIに格付けされているため、GIタイトルの獲得は奇しくも逃してしまう。

ライブリマウントでの活躍以降は年間の勝ち鞍こそ2桁に乗せているが、これといってレベルの高い馬に出会うことが出来なかった。それでも関西の中堅騎手としての地位は揺るぎなく、競馬に対する真摯な態度から厩舎関係者や馬主の信頼も厚く、重賞でも人気を背負うような馬の騎乗を任されたりもしていた。しかしその重賞も勝てなくなり、1998年のウインターステークスをマチカネワラウカドで制して以降は重賞勝ちに恵まれていなかった。

メイショウサムソンに騎乗
2006年東京優駿
しかし、2006年には石橋にとって転機が訪れる。1月のシンザン記念をゴウゴウキリシマで制し約7年ぶりの重賞制覇を成し遂げると、新馬戦から乗り続けていた瀬戸口勉厩舎のメイショウサムソンとのコンビ[2]で皐月賞を制し騎手デビュー22年目にして初のGI制覇を成し遂げ、続く日本ダービーも制覇して二冠を獲得し、ダービージョッキーの仲間入りを果たす(三冠を賭けた菊花賞は4着に敗れた)。また、この年の暮れには騎手としての長年の功績が認められ、第39回日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞した。

2007年も引き続きメイショウサムソンとのコンビで大阪杯、天皇賞(春)を制したが、宝塚記念2着後に同馬の凱旋門賞挑戦が決定。同時にオーナーの意向で鞍上には武豊を迎えることとなり、コンビを解消することになる。その後、同馬に騎乗することはなかったが、2008年11月のジャパンカップでは武の落馬負傷により再び石橋が騎乗をしている。
2009年、マカオジョッキーシリーズに出場。最終第3戦の重賞G3オータムトロフィーを6番人気のGolden Pistolsで優勝し、海外での重賞初勝利となった[3]。

武が敬愛している先輩としても知られている。行動を共にすることも多く、実際に石橋が皐月賞を制覇したとき、武は自分のことのように喜んでいたという。また、メイショウサムソンがオーナーの意向で武に乗り替わった際も石橋からサムソンの癖などあらゆる点についてレクチャーを受け、後の天皇賞制覇に繋げた。また、栗東所属の騎手たちにも慕われ、皐月賞制覇の際には中山競馬場の騎手控え室で拍手が沸いたという。なお、石橋は武の実兄(一般人の次男)と同級生である。

石橋守表彰歴

1985年、関西放送記者クラブ賞(新人賞)
1992年、フェアプレー賞
2006年、第39回日本プロスポーツ大賞功労賞
重賞勝鞍(中央) [編集]

1992年
京阪杯(GIII)- ミスタースペイン
高松宮杯(GII)- ミスタースペイン
1994年
ウインターステークス(GIII)- ライブリマウント
1995年
平安ステークス(GIII)- ライブリマウント
フェブラリーステークス(GII)- ライブリマウント
1996年
小倉3歳ステークス(GIII)- ゴッドスピード
府中3歳ステークス(GIII)- ゴッドスピード
1998年
東海ウインターステークス(GII)- マチカネワラウカド
2006年
シンザン記念(GIII)- ゴウゴウキリシマ
スプリングステークス(GII)- メイショウサムソン
皐月賞(GI)- メイショウサムソン
東京優駿(GI)- メイショウサムソン
2007年
平安ステークス(GIII)- メイショウトウコン
大阪杯(GII)- メイショウサムソン
天皇賞(春)(GI)- メイショウサムソン
重賞級勝鞍(地方・海外) [編集]

1995年
帝王賞- ライブリマウント
ブリーダーズゴールドカップ- ライブリマウント
南部杯- ライブリマウント
2009年
オータムトロフィー-Golden Pistols

石橋守騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗・初勝利 1985年3月5日 1回阪神4日2R 4歳未勝利 カンキョウツバメ 15頭 3 1着
重賞初騎乗 1987年5月24日 3回東京2日10R 優駿牝馬 ルーペナイト 24頭 21 11着
重賞初勝利 1992年5月17日 3回京都8日11R 京阪杯 ミスタースペイン 16頭 1 1着
GI初勝利 2006年4月16日 3回中山8日11R 皐月賞 メイショウサムソン 18頭 6 1着
障害初騎乗 1987年1月5日 1回京都1日5R 障害未勝利 プロシルバー 12頭 8 中止
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1985年 25 18 34 337 .074 .128 .228
1986年 17 24 28 381 .045 .108 .181
1987年 19 13 9 265 .072 .121 .155
1988年 14 15 23 255 .055 .114 .204
1989年 18 16 18 280 .064 .121 .186
1990年 19 23 26 277 .069 .152 .245
1991年 20 22 27 324 .062 .130 .213
1992年 35 44 35 445 .079 .178 .256
1993年 28 32 43 448 .063 .134 .230
1994年 20 28 33 470 .043 .102 .172
1995年 20 24 36 454 .044 .097 .176
1996年 18 27 30 395 .046 .114 .190
1997年 22 22 22 397 .055 .111 .166
1998年 22 18 29 380 .058 .105 .182
1999年 20 27 18 404 .050 .116 .161
2000年 15 31 24 329 .046 .140 .213
2001年 21 28 23 405 .052 .121 .178
2002年 15 15 25 402 .037 .075 .137
2003年 13 12 23 310 .042 .081 .155
2004年 19 31 17 339 .056 .147 .198
2005年 18 22 23 341 .053 .117 .185
2006年 16 23 16 325 .049 .120 .169
2007年 11 22 15 394 .028 .084 .122
2008年 16 14 16 363 .044 .083 .127
2009年 5 7 6 302 .017 .040 .060
2010年 4 6 10 242 .017 .041 .083
平地 470 564 609 9264 .051 .112 .178
障害 0 0 0 1 .000 .000 .000
地方 22 14 16 151 .146 .238 .344

石橋守メディア出演

ウチくる(2001年4月8日) – 武豊がゲストの回に出演
ZONE(2004年1月18日) – 武豊がゲストの回に出演
武豊TV!
JRAマナーキャンペーンビデオ(2006年)[4]

石橋守参考文献


木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)ISBN 4-89691-298-5

石橋守脚注


^ 石橋はドバイワールドカップに日本人で初めて騎乗した騎手である。
^ 当初瀬戸口は鞍上に福永祐一を考えていたが、新馬戦の日には福永は別場での騎乗があったため石橋が騎乗した。また、調教(追い切り)の多くは石橋自らが跨っている。
^ 石橋守騎手がマカオで重賞制覇 – netkeiba.com
^ ビデオギャラリー マナーキャンペーンビデオ(日本中央競馬会)

石橋脩

石橋 脩(いしばし しゅう、1984年4月3日 – )はJRA美浦トレーニングセンター所属の騎手。
関西の騎手に石橋守騎手がいるため、競馬新聞やスポーツ新聞の競馬面の馬柱では石橋脩とフルネームで表記されている。

石橋脩人物

2003年JRA美浦の柴田政人厩舎所属騎手としてデビュー。3月1日の中山競馬第1競走でマグマヴィーナスにて初騎乗(2着)。同年3月29日の中京競馬第8競走でエーピーダイモンジに騎乗し初勝利を挙げる。
この年は長谷川浩大や松岡正海といった若手の中でも乗れる騎手がデビューした年であり、石橋は25勝を挙げ関東新人騎手賞を受賞した。

2年目の2004年は38勝を挙げデビュー年より勝利数を上積み、その後もコンスタントに勝ち続け、2006年4月1日の福島競馬第12競走(喜多方特別)でダンスオブサロメに騎乗し、JRA通算100勝を達成した。なお同じ日に中山競馬第3競走で石橋と仲が良い同期の松岡正海が通算100勝を達成していた。

デビュー3年目より重賞への騎乗機会を2桁に乗せ、ジャガーメイルなど上位人気馬での騎乗もある中勝ち鞍を挙げられずにいたが、2010年1月11日のフェアリーステークスにてコスモネモシンに騎乗し、重賞初勝利を挙げる。
競馬番組「うまッチ!」で「シュウ様」と呼んで欲しいと言っていたが、実際にそう呼ばれているかは不明。可愛らしい顔をしており女性ファンが多い。実際に、2010年4月に中山競馬場で行われ、同月18日に結果発表された「抱かれたい騎手といえば?」というアンケートで第1位に選ばれている。

ゲームが好きでダービースタリオンやブルードラゴン等を好んでプレイする。

石橋脩主な騎乗馬

スクリーンヒーロー(2007年ラジオNIKKEI賞2着)
ジャガーメイル (2008年アルゼンチン共和国杯2着、2009年目黒記念2着)
コスモネモシン(2010年フェアリーステークス)
コスモセンサー(2010年アーリントンカップ)
ストロングリターン(2011年京王杯スプリングカップ)

石橋脩騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2003年3月1日 3回中山1日1R 3歳未勝利 マグマヴィーナス 16頭 6 2着
初勝利 2003年3月29日 1回中京7日8R 4歳上500万円下 エーピーダイモンジ 16頭 12 1着
重賞初騎乗 2003年12月21日 3回中京6日11R CBC賞 トーセンリリー 16頭 14 16着
重賞初勝利 2010年1月11日 1回中山4日11R フェアリーステークス コスモネモシン 16頭 11 1着
GI初騎乗 2005年10月23日 4回京都6日11R 菊花賞 ディーエスハリアー 16頭 12 14着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2003年 25 26 25 386 .065 .132 .197
2004年 38 46 45 778 .049 .108 .166
2005年 30 28 39 617 .049 .094 .157
2006年 26 34 40 669 .039 .090 .149
2007年 41 56 55 680 .060 .143 .224
2008年 36 24 42 637 .057 .094 .160
2009年 36 37 35 673 .053 .108 .160
2010年 37 40 45 695 .053 .111 .176
中央 269 291 326 5135 .052 .109 .173
地方 7 1 2 75 .093 .107 .133