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林 満明

1986年第1期の騎手課程生として栗東・吉田三郎厩舎より騎手デビュー。同期には石橋守、柴田善臣、田島裕和らがいる。

デビュー初年度より勝ち鞍を重ね1987年障害重賞を初制覇、1988年デビュー3年目で優秀障害騎手賞を受賞するなど障害競走において早くから頭角を現す。
なお平地でも1990年に20勝をマークするなど成績を残していたが林であったが、1994年所属していた吉田厩舎が解散。

この他、優秀障害騎手賞を5度受賞するなど関西障害レースの中心騎手として活躍を続けている
林 満明 主な騎乗馬 
カルストンファスト(1987年京都大障害(秋))
シゲルデッドクロス(1993年阪神障害ステークス(春))
ザスクープ(1996年京都大障害(秋))
アワパラゴン(1997年阪神障害ステークス(秋)、東京障害特別(秋)、京都大障害(秋))
カネトシガバナー(2001年東京ハイジャンプ)
スリーオペレーター(2007年阪神スプリングジャンプ)
タマモグレアー(2011年京都ハイジャンプ)
林 満明 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
障
害初騎乗1986年3月15日1回阪神7日5R障害400万下ビュウガール8頭77着
初勝利1986年10月12日4回京都4日5R障害未勝利シマノゴット5頭31着
重賞初騎乗1987年3月14日1回阪神5日8R阪神障害S(春)マイティマッハ14頭99着
重賞初勝利1987年11月29日5回京都8日9R京都大障害(秋)カルストンファスト13頭21着
JGI初騎乗1999年4月11日3回中山6日10R中山グランドジャンプイブキハイシーザー10頭77着
平
地初騎乗1986年3月1日1回阪神3日1R4歳未勝利ウキシバクイーン13頭810着
初勝利1986年3月16日1回阪神8日1R4歳未勝利シマノスピード10頭61着
重賞初騎乗1988年3月20日1回阪神8日11R4歳牝馬特別テンザンタカネ16頭124着

浜野谷 憲尚

1年目は平地競走のみの騎乗であったが、2年目以降は障害競走にも騎乗するようになった。ただ障害で初勝利を挙げたのは障害に乗り始めて3年目の1993年のことだった。

その1993年は平地で13勝、障害で3勝、通算16勝と自己最多の勝利数を挙げた。この頃までは平地競走の勝利数が障害競走のそれを上回っていた。
これは騎乗数が非常に少ないことも影響している。
浜野谷 憲尚 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
平地初騎乗1990年3月3日2回中山3日2R3歳未勝利ロイヤルマスコット16頭93着
初勝利1990年6月2日3回東京5日2R3歳未勝利ホークバトラー14頭41着
重賞初騎乗1991年4月28日2回東京4日11R4歳牝馬特別ナイスロッチ16頭165着
GI初騎乗1994年4月17日3回中山8日10R皐月賞カズサハリケーン18頭1510着
障害初騎乗1991年1月26日1回東京1日5R障害未勝利セントロビンソン12頭129着
初勝利1993年2月14日1回東京6日5R障害未勝利ステッピングトップ10頭71着
重賞初騎乗1993年4月10日3回中山5日10R中山大障害(春)スピードキャスター9頭76着
重賞初勝利2003年8月23日3回新潟3日10R新潟ジャンプステークスマルゴウィッシュ13頭111着
JGI初騎乗1999年12月18日5回中山5日10R中山大障害リンデンバウム15頭103着

浜中 俊

2007年栗東の坂口正大厩舎所属騎手としてデビュー。同期には藤岡康太、宮崎北斗、丸田恭介らがいる。

2008年9月7日、小倉2歳ステークスをデグラーティアで優勝、中央競馬の重賞初制覇。この他中京や地元・小倉などの西日本のローカル開催を中心に騎乗し、前年度を大きく上回る73勝を挙げる。
2009年春に通算勝利数101勝をマークし自力で見習い騎手を卒業。同年10月には菊花賞をスリーロールスで制し、中央競馬のGI競走初制覇を達成している。

畑端 省吾

畑端 省吾(はたばた しょうご、1982年3月30日 - )は、JRA・栗東トレーニングセンター所属の騎手である。

騎手免許は平地競走と障害競走両方所持しているが障害競走への騎乗経験はない。
2000年、第16期生としてJRA競馬学校騎手課程を卒業しJRAの騎手免許を取得する。

同期には鈴来直人、田嶋翔、西原玲奈らがいる。3月19日ゴールドカントリーで勝利しJRA初勝利を挙げ、デビュー年は191戦4勝という成績を残す。
デビュー3年目となる2002年に特別戦勝利を記録、2003年にはシリウスステークスでタガノラフレシアに騎乗しJRA重賞初騎乗を果たす(14着)。
見習騎手から外れる2003年以降は騎乗数・勝利数共に下降線を辿り、2007年10月20日以来勝ち星から遠ざかっていたが2010年12月12日、阪神4レースをイチドラゴンで制し約3年1カ月ぶりの勝利を飾った[1]。

長谷川 浩大

長谷川 浩大
石橋脩や松岡正海といった若手の中でも乗れる騎手がデビューした年であったが、その中でも長谷川は最多の28勝を挙げ、関西新人騎手賞を受賞している。
その後も勝利数を伸ばし、初年度より6年連続の2桁勝利を記録、2004年からは4年連続でフェアプレー賞受賞。

2年目の2004年11月には福島記念をセフティーエンペラで制して、同期では最初の重賞制覇を成し遂げ、2006年にはダイワパッションでフィリーズレビューに勝利し、同馬で桜花賞にも挑戦した(結果は16着)。
この他2005年にはドバイで行われた国際見習騎手チャンピオンシップの日本代表騎手に選出され第2位という成績を残している[2]。

野元 昭嘉

1995年デビュー。同期には西谷誠、金折知則らがいる。

初騎乗は1995年3月4日、中京競馬2Rのバンダムフェイマスで16頭中13着(7番人気)だった。同日7Rのルネサンスシチー(6番人気)に騎乗し初勝利を挙げる。
また1999年には、エイシンルーデンスでチューリップ賞、エイシンビンセンスで北九州記念、バンブーマリアッチで愛知杯を勝つなど重賞初勝利を含む重賞3勝をあげている。
2001年以降は騎乗数が減ったこともあり勝ち数が伸び悩み、年間10勝前後で推移している。

二本柳 壮

1999年3月、美浦の鈴木康弘厩舎所属騎手としてデビュー。同期には北村宏司・高田潤らがいる。
同年4月11日アートフューチャーに騎乗しデビュー初勝利を挙げ、翌月には特別戦初勝利をマークするなど、この年同期では北村の37勝に次ぐ23勝を挙げる。
2年目となる2000年には勝利数を33勝と伸ばしGI競走初騎乗も記録、2000年から2003年にかけ4年連続30勝と関東の中堅騎手として活躍を続けた。
その後、重賞初勝利を含む40勝やフェアプレー賞受賞など多くの記録を挙げた2003年度をピークに勝利数や騎乗数は徐々に減少。
2008年よりデビュー以来所属してきた鈴木康弘厩舎を離れフリー騎手に転身、以後同厩舎管理馬への騎乗は無くなり、近年では父である二本柳俊一厩舎中心の騎乗となっているが数値の減少に歯止めはかからずフリー転向後の2008年以降は勝利数一桁が続いている。

西田 雄一郎

西田 雄一郎(にしだ ゆういちろう、1974年10月14日 - )は、JRA・美浦トレーニングセンター所属の騎手である。
高校卒業後、1995年、第11期生として競馬学校騎手課程を卒業しJRAの騎手免許を取得する。同期には青木芳之、矢原洋一、山本康志らがいる。

1996年7月6日、七夕賞でサクラエイコウオーに騎乗し重賞初制覇。

1999年、道路交通法違反を理由に、その責任を取る意味で騎手免許取り消しの申請を行い、同年10月1日付で免許取り消しとなった[3]。

その後、山元トレーニングセンターに勤務。6年後にJRAの2005年度の騎手免許試験を再受験して合格した[5]。

このためJRAの公式ホームページのデータファイル欄には1999年度の引退騎手のページと現役騎手ページの両方に記載されている。なお西田は2005年3月から再びレースに騎乗している。

2010年7月18日、アイビスサマーダッシュでケイティラブに騎乗し、14年ぶりに重賞制覇。

西田 雄一郎 主な騎乗馬

サクラエイコウオー(1996年七夕賞)
ケイティラブ(2010年アイビスサマーダッシュ)
西田 雄一郎 騎乗成績

年度1着2着3着騎乗数勝率連対率複勝率
1995年101316239.042.096.163
1996年262626355.073.146.220
1997年262225358.073.134.204
1998年292324394.074.132.193
1999年43367.060.104.149
2005年733215.033.047.060
2006年7515316.022.038.085
2007年479319.013.034.063
2008年101314288.035.080.128
2009年12159434.028.062.083
2010年111427475.023.053.109
平地1461441713460.042.084.133
障害0001.000.000.000
地方784104.067.144.183
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初騎乗1995年3月4日2回中山3日12R5歳上500万円下グレイトスターオー15頭65着
初勝利1995年5月6日1回福島5日12R5歳上500万円下サクラファイター14頭91着
重賞初騎乗1995年8月27日1回新潟6日11R新潟記念カルパート11頭1011着
重賞初勝利1996年7月6日3回中山7日11R七夕賞サクラエイコウオー17頭51着
GI初騎乗2009年5月24日3回東京2日11R優駿牝馬パドブレ17頭1716着

西谷 誠

西谷 誠は、
デビュー当時は平地競走中心の騎乗となっており、初年度には13勝、翌年には11勝を挙げたが、その当時160cmほどであった背が伸び始め[2]平地競走に出走するための体重維持が困難となってきた[3]ことから2011年3月より平地免許を返上し障害専門騎手に転向となっている。
4年目の1998年にはゴッドスピードとのコンビで大活躍。

翌年には同馬とのコンビでJ・G1に格付けされた中山大障害に勝利した。
その後も2002年にオンワードメテオで東京ハイジャンプ、2005年にテイエムドラゴンで京都ハイジャンプを制し、さらに2006年にはマルカラスカルで中山大障害2勝目を挙げるなど活躍を見せている。

同年6月の東京ハイジャンプにメルシーエイタイムに騎乗して見事レコード勝ちを収め、この年は15勝を挙げ、2年連続でリーディングを獲得し、JRA賞最多勝利障害騎手を受賞した。
2008年はマルカラスカルとのコンビで悲願の中山グランドジャンプ初制覇。

調教の達人とも言われ、ネオユニヴァースやラインクラフトといった名馬の調教を担当した。
西谷 誠 主な勝ち鞍

1998年 阪神障害ステークス(春) ゴッドスピード
1998年 京都大障害(春) ゴッドスピード
1999年 中山大障害 ゴッドスピード
2002年 東京ハイジャンプ オンワードメテオ
2005年 京都ハイジャンプ テイエムドラゴン
2006年 中山大障害 マルカラスカル
2007年 東京ハイジャンプ メルシーエイタイム
2008年 阪神スプリングジャンプ エイシンニーザン
2008年 中山グランドジャンプ マルカラスカル
2009年 東京ジャンプステークス エイシンボストン
2009年 小倉サマージャンプ エイシンボストン
2009年 中山大障害 キングジョイ
西谷 誠 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
障
害初騎乗1995年6月10日2回中京7日5R障害400万円下ミスタードクター13頭107着
初勝利1995年7月1日3回中京5日5R障害未勝利ミスタードクター11頭21着
重賞初騎乗1996年11月9日5回京都3日9R京都大障害(秋)ケイティタイガー6頭32着
重賞初勝利1998年3月14日1回阪神5日9R阪神障害ステークス(春)ゴッドスピード11頭11着
JGI初騎乗1999年4月11日3回中山6日10R中山グランドジャンプゴッドスピード10頭19着
JGI初勝利1999年12月18日5回中山5日10R中山大障害ゴッドスピード15頭41着
平
地初騎乗1995年3月4日1回中京1日2R4歳未勝利トップリーダー16頭35着
初勝利1995年3月5日1回中京2日12R5歳上500万円下ラディッシュパワー14頭21着
重賞初騎乗1996年1月15日1回京都6日11R平安ステークスマルカイッキュウ11頭116着

中舘英二

父は競馬関係者ではなかったが、競馬評論家・予想家の宮城昌康と親交があり、また母もパートタイムで中山競馬場内の馬券売り場に勤めるなど、競馬との繋がりを持つ家庭であった[1]。中学校在学中に騎手を志し、その卒業後、中央競馬の騎手養成長期課程に第32期生として入所。

この翌年から競馬会が千葉県白井市に競馬学校を開設したため、従来使用された東京都世田谷区の馬事公苑で養成された最後の世代となった。主な同期生には木幡初広、出津孝一、天間昭一、鹿戸雄一、谷中公一らがいる。
自身の回想によれば、養成所では「馬乗りが半端じゃなく下手で、超劣等生」であったが、当時の教官であった中俣修の叱咤激励を受けて努力を重ね[2]、1984年に騎手免許を取得。2年次の厩舎実習を行った美浦トレーニングセンターの加藤修甫厩舎所属としてデビューを迎えた。
しかし翌1985年は、加藤の後押しもあり39勝と躍進。さらに当年の秋から厩舎の期待馬であるアサヒエンペラーの主戦騎手を任された。

以後は騎乗数の少なさもあり、長らく年間20-30勝前後の成績で推移する中堅騎手として過ごした。
デビュー9年目を迎えた1992年、ブランドアートでフラワーカップを制し、重賞初勝利を挙げる。

1995年には大きな獲得タイトルこそなかったものの、通年で戦線の中心を担う活躍を見せた。
ヒシアマゾンの登場と前後して騎乗依頼が増え始め、1990年代後半からは関東の上位騎手として定着。

2000年以降は主戦場をローカル開催[注 2]に移して騎乗数を増やし、2001年には自身初の年間100勝を達成した。2005年からは毎年100勝以上の成績を維持しており、2005年、2006年には目標としていたワールドスーパージョッキーズシリーズ出場を果たしている。
 
中舘英二 騎手としての特徴

デビュー4年目の1987年に、年頭から4ヶ月間未勝利を記録するスランプに陥った。このとき加藤から「追い込み馬でも構わないから、どの馬でもどのレースでもハナ行ってみろ[注 3]」と助言され[4]、以来逃げ戦法を得意としている。

「逃げの中舘」とのイメージを完全に定着させたのは、大逃げで人気を博したツインターボとのコンビで[5]、この頃には同じく逃げを得意とした2000勝騎手・増沢末夫に擬え、「増沢二世」とも称された[6]。また、増沢は福島競馬場を大の得意としていたが、やはり中舘も福島を得意としており、毎年福島開催の最多勝を獲得している。

また、関西圏の中京・小倉での活動も増やしており、ローカルを主戦場として以降、勝利の半数以上は関西馬で挙げている[7]。
ローカル開催での活躍が顕著である一方、重賞・GI級競走での勝利が、通算勝利数といった数字上の実績からは極端に少ないことも指摘される。

この背景には、2002年まで「1000勝騎手は調教師免許試験の第一次が免除される」という規定があったことが大きく関係しており、将来調教師を目指すに当たり「まさかその恩恵がなくなるとは思わなかったので」1000勝を達成するためにローカルを回るしかないと決意したという[3]。大舞台を諦めてどのようにモチベーション保つのか、との問いに対しては、「確かにGIと未勝利戦での喜びの大きさは違うのかも知れないけど、どんなレースでもひとつ勝つと凄く嬉しいんです。

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