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第59回日経新春杯が行われる京都芝2400外の騎手別成績から好走馬を探ると・・・

第59回日経新春杯が行われる京都芝2400外の騎手別成績から見ると、

川田騎手と、安藤騎手が 勝率 連対率 複勝率 単回収率で抜けていますね!

この2人が乗る馬は、

12番   リベルタス     牡4   55.0     川田 将雅  西 角居 勝彦

1番   スマートロビン    牡4   55.0     安藤 勝己 西   松田 国英

ですね。

久しぶりに強いリベルタスが見られるかもしれないですね。このところ、ディープ産駒は牝馬が頑張ってますし、川田騎手ですから。

スマートロビンは、人気になりそうです。安藤騎手が内側から、ロングスパートを決めそうです。

騎手   着別度数   勝率 連対率 複勝率 単回値 複回値 単適回値 平均着 平人気 人気別度数
川田将雅 8- 2- 4-12/26 30.8% 38.5% 53.8% 216 96 172.6 4.6着 4.5人気 5- 4- 4-13/26
安藤勝己 5- 1- 1- 5/12 41.7% 50.0% 58.3%401 121 177.0 3.8着 3.3人気 4- 2- 1- 5/12

池添謙一 4- 6- 1-15/26 15.4% 38.5% 42.3% 50 89 131.0 4.7着 5.4人気 1- 5- 1-19/26
浜中俊 3- 2- 5-16/26 11.5% 19.2% 38.5% 120 205 103.0 6.5着 6.6人気 2- 2- 3-19/26
福永祐一 2- 2- 2-13/19 10.5% 21.1% 31.6% 27 70 71.7 6.3着 5.1人気 2- 3- 3-11/19
和田竜二 1- 6- 5-23/35 2.9% 20.0% 34.3% 22 108 23.4 6.1着 6.7人気 5- 1- 1-28/35
岩田康誠 1- 2- 6-13/22 4.5% 13.6% 40.9% 10 62 21.6 4.5着 3.3人気 6- 4- 5- 7/22
武豊 1- 2- 1-14/18 5.6% 16.7% 22.2% 45 38 31.6 6.5着 4.0人気 2- 3- 4- 9/18
幸英明 0- 5- 2-30/37 0.0% 13.5% 18.9% 0 46 0.0 7.1着 7.2人気 2- 1- 4-30/37
小牧太 0- 1- 2-21/24 0.0% 4.2% 12.5% 0 14 0.0 8.0着 6.6人気 1- 2- 3-18/24
小坂忠士 0- 0- 0- 2/ 2 0.0% 0.0% 0.0% 0 0 0.0 8.5着 12.5人気 0- 0- 0- 2/ 2
小林慎一 0- 0- 0- 1/ 1 0.0% 0.0% 0.0% 0 0 0.0 10.0着 7.0人気 0- 0- 0- 1/ 1
集計期間:2009. 1.18 ~ 2011.11.19

枠 馬 印 馬名         性齢   斤量  馬体重 騎手       厩舎
1  01   スマートロビン    牡4   55.0     安藤 勝己 西   松田 国英
2  02   スマートギア    牡7   56.0     武 豊    西   佐山 優
3   03   トゥザグローリー  牡5  58.5     福永 祐一 西  池江 泰寿
4   04  メイショウクオリア  牡7   56.0     幸 英明  西  西橋 豊治
5   05   トップカミング   セン6  54.0    小坂 忠士  西  境 直行
5   06   ナムラクレセント  牡7  58.0     和田 竜二  西  福島 信晴
6   07   ビートブラック   牡5  57.0     浜中 俊   西  中村 均
6   08   ブルースターキング 牡6 50.0     小林 慎一郎  西  山内 研二
7   09   マカニビスティー 牡5   56.0     小牧 太   西  矢作 芳人
7   10   マゼラン     牡7  54.0     池添 謙一  西  角居 勝彦
8   11   ダノンバラード   牡4   56.0     岩田 康誠  西  池江 泰寿
8   12   リベルタス     牡4   55.0     川田 将雅  西 角居 勝彦


ディープインパクト 日本競馬史上の最強馬!?

ディープインパクトは、日本競馬史上の最強馬かも知れませんね。

次点はシンボリルドルフかなあ。

オルフェーブル、どこまでこの2頭に迫れるのか、2012年が勝負でしょうね。

ディープインパクトの産駒が無敗でクラシック三冠・有馬・JC・秋天・宝塚の国内7冠を制し、さらに海外G1も勝ち無敗8冠又は9冠で引退・・というドリームも今後ありうるかもしれません。

ブリランテ・ワールドエース・アダムスピーク・スピルバーグなど2012年の飛躍が期待できる馬たちが多いですからね。

ディープインパクト

現役期間 2004年 – 2006年
英字表記 Deep Impact
香港表記 大震撼
品種 サラブレッド
性別 牡
毛色 鹿毛
生誕 2002年3月25日
抹消日 2006年12月25日
父 サンデーサイレンス
母 ウインドインハーヘア
母の父 Alzao
生国 日本(北海道早来町)
生産 ノーザンファーム
馬主 金子真人→金子真人ホールディングス(株)
調教師 池江泰郎(栗東)
厩務員 市川明彦
競走成績
生涯成績 14戦12勝
(中央競馬13戦12勝)
(フランス1戦0勝)
獲得賞金 14億5455万1000円
※歴代2位(引退時)
WTRR L124-E118 / 2005年
L127-E123 / 2006年
勝ち鞍 GI:皐月賞(2005年)、東京優駿(2005年)、
菊花賞(2005年)、天皇賞(春)(2006年)、
宝塚記念(2006年)、ジャパンカップ(2006年)、
有馬記念(2006年)
GII:弥生賞(2005年)、神戸新聞杯(2005年)
阪神大賞典(2006年)

ディープインパクト(Deep Impact、2002年(平成14年)3月25日 – )は史上6頭目のクラシック三冠馬(史上2頭目の無敗での三冠馬)である。

2005年(平成17年)、2006年(平成18年)JRA賞年度代表馬、2005年(平成17年)JRA賞最優秀3歳牡馬、2006年(平成18年)JRA賞最優秀4歳以上牡馬。 2008年(平成20年)にはJRA顕彰馬に選出された。

ディープインパクト デビュー前

ディープインパクト ノーザンファーム時代

ディープインパクトは2002年(平成14年)3月25日[注 1]に北海道勇払郡早来町(現在の安平町)のノーザンファームで生まれた[注 2]。ノーザンファーム場長の秋田博章は生まれたばかりの同馬を見て、体のバランスは良いと思ったが、ほかの馬と比較して目立って良い点があるとは感じなかったと証言している。

0歳時にセレクトセールに上場されたディープインパクトは、金子真人に7000万円で落札された。馬体の薄さが嫌われたのか、上場されたサンデーサイレンスの産駒14頭のうち9番目の落札価格だった。購入した金子はこのときの瞳の輝きに衝撃を受け、また多くの人々に強い衝撃を与える馬になって欲しいという思いから「ディープインパクト」と名付けた。

ディープインパクトは0歳10月にノーザンファーム遠浅の1歳馬用の厩舎に移動した[3]。関節に不安があると判断されたため、遠浅に移動した翌日から「パドック」と呼ばれる小さな放牧地に入れられて運動を制限された。

広い場所で放牧されるようになったのはそれから約1か月後だった。ノーザンファーム場長の秋田は遠浅時代のディープインパクトについて、集団のリーダーではなかったものの、集団の先頭に立って走ろうとし、薄い蹄(身体的特徴の項目を参照)を擦り減らして血だらけになりながらも走るのをやめなかったと証言している。

1歳9月にはノーザンファーム早来に移り育成を受けた。小柄で繊細な面があったため、女性スタッフが育成を担当した[5]。その育成担当スタッフやノーザンファーム場長の秋田は共にディープインパクトの柔軟性の高さを指摘している(身体的特徴の項目を参照)。一方で、柔軟性がありすぎるところや、小柄で非力なところを欠点として指摘する声もあった[6]。

ディープインパクト 池江泰郎厩舎に入厩

ディープインパクトと池江泰郎

ディープインパクトは2004年(平成16年)4月15日にに早来町のホルスタイン市場で産地馬体審査を受けた[7]。そして同年9月8日、栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入厩し、池江敏行調教助手と市川明彦厩務員が担当することになった。初めてディープインパクトを見た市川は、同馬が小柄でかわいらしい顔をしていたため牝馬ではないかと思い、本当に牡馬かどうか股を覗きこみ確認したという。

入厩して1か月が経過した10月、坂路の調教で初めてタイムを計ったときに、調教師の池江が58秒から59秒で走らせるように指示したが、これよりも速い54秒前半のタイムを出してきた。それにもかかわらず、汗もかかずにまったく疲れた様子がなかった。このとき厩務員の市川は、ディープインパクトを「ただ者ではない」と思ったとのちに語っている。

その後12月に武豊騎乗でデビューすることが決定したため、デビュー戦4日前の調教で武豊が初めて騎乗することになった。調教を終えると武豊は調教助手の池江敏行に「この馬、ちょっとやばいかも」と興奮気味に話し、翌年の活躍に期待した。

ディープインパクト 現役競走馬時代

ディープインパクト 2歳~3歳(2004年 – 2005年)

ディープインパクト 新馬戦から東京優駿まで

2004年(平成16年)12月19日阪神競馬第5競走の2歳新馬戦(芝2000メートル)で武豊を主戦騎手に据えてデビュー。武豊は引退まで手綱を握ることとなる。レースでは、上がり3ハロン33秒1の脚で、のちにきさらぎ賞・金鯱賞・かきつばた記念・マイラーズカップに優勝し安田記念で2着となるコンゴウリキシオーに4馬身の差を付けて勝利。

レース後、厩務員の市川は、このデビュー戦の強い勝ち方に「派手にやってしまった」と消耗を心配したが、レース後すぐに息が戻っていたので「クラシックでも戦える」と思ったという。

続く2戦目は2005年(平成17年)1月22日に、京都競馬場で行われた若駒ステークスだった。レース数日前、武豊は「すごいことになるから見ていてください」と対談相手に語っていた。

レースでは最後方から競馬をし、4コーナーに入っても先頭の馬から10馬身程度の差があったが、直線で一気に突き抜け5馬身差で勝利。この勝ちっぷりで、ディープインパクトの名が一気に全国区となった。

またこの時点で三冠達成を確実視する声もあった。

さらに中山競馬場での第42回弥生賞。関東では初出走となったが、ハイセイコーを超える当競走史上最高の単勝支持率71.5パーセントを記録した。レースでは2歳王者のマイネルレコルトや京成杯を制したアドマイヤジャパン以下にクビ差ではあったものの鞭を一回も振るわずに[14]勝利し、クラシックの最有力馬に躍り出る。

第65回皐月賞では、単勝支持率が63.0パーセント(オッズは1.3倍)と、1951年のトキノミノルの73.3パーセントに次ぐ史上2位となった。レース開始直後にいきなり躓き落馬寸前まで体勢を崩し後手を踏み、ほかの馬から4馬身ほど離れた最後方からの競馬になった。

さらに向こう正面でローゼンクロイツと接触する場面があった。それでも、4コーナーでディープインパクトの気を抜く素振りを感じた武豊がレースで初めて鞭を入れると、直線では2着のシックスセンスに2馬身半の差をつけ勝利。

フジテレビ系で実況を担当した塩原恒夫アナウンサーはゴール直後、「武豊、三冠馬との巡り合い」と五七五風にその勝利を讃えると同時に三冠を確実視するコメントを発した。勝利騎手インタビューで武豊は「いや、もうパーフェクトですよ、ホントにね。走っていると言うより飛んでいる感じなんでね」と言葉を残した。レース後の記念撮影で武豊は指を1本立てて一冠をアピールした。

これはシンボリルドルフの三冠競走で主戦騎手であった岡部幸雄が行ったパフォーマンスと同じ事実上の三冠宣言であった。

ディープインパクト 2005年5月29日、東京競馬場にて、第72回東京優駿

迎えた東京優駿。当日の東京競馬場には前年比114.8パーセントとなる14万143人もの観衆が押し寄せた[16]。左回りのコースは初めてだったが、単勝支持率は73.4パーセント(オッズは1.1倍)とハイセイコーの持っていた当競走における単勝支持率最高記録を更新する人気となった。

スタートは皐月賞同様に出遅れ、道中は後方につけるも、4コーナーでは横に大きく広がった馬群の最外を通り、直線では1頭先に抜け出したインティライミに残り200メートル地点で並んでから同馬を突き放して5馬身の差をつけ、前年のキングカメハメハに並ぶ2分23秒3のレースレコードタイで優勝。1992年のミホノブルボン以来となる史上6頭目の無敗の二冠を達成した。武豊は勝利騎手インタビューで「感動しています。この馬の強さに…」と言い、レース後の記念撮影では指を2本立てて二冠をアピールした。

そして翌日のスポーツニッポンの手記で武豊はディープインパクトのことを英雄というニックネームで呼ぶことを自ら提案した。
対戦した騎手もその勝ち方を高く評価し、四位洋文は「サラブレッドの理想形」、ケント・デザーモは「セクレタリアトのようなレース運びだった」と語っている。


ディープインパクト 三冠達成、そして有馬記念での初黒星

東京優駿の後は、まず栗東トレーニングセンターで調整されたが、7月10日に札幌競馬場に移動し[19]、それから約2か月間は同競馬場で調整された[20]。放牧に出されずに札幌競馬場で調整されたのは、厩舎での調整のリズムを変える必要がないことと、避暑ができるからであった[19]。札幌競馬場での調整では行きたがる気性を治すための調教もされた(性格・気性の項目を参照)。9月11日に栗東トレーニングセンターに戻り、その後は栗東で調整が行われた。

秋初戦となった神戸新聞杯は、最後方から2番手の位置でレースを進めたが、直線に向くと先頭に立ち、2着シックスセンスに楽に2馬身半の差をつける完勝。勝ちタイム1分58秒4はトウショウボーイが持つ従来の記録を塗り替えるレースレコード。菊花賞に向けて順調なスタートを切った。


ディープインパクト 2005年10月23日、京都競馬場にて、菊花賞

そして三冠のかかった2005年10月23日の第66回菊花賞。京都競馬場には菊花賞の入場動員レコードとなる13万6701人(前年度比182.0パーセント)の観客が押し寄せた[21]。ディープインパクトの単勝支持率は79.03パーセントとなり、単勝式オッズは1.0倍(100円元返し)となった。

この単勝支持率は菊花賞としては1963年のメイズイ(6着)の83.2パーセントに次ぐ史上2位[注 5]、グレード制施行後の重賞としては当時史上最高の単勝支持率であった。

レースでは、好スタートを切ったものの、スタート後の最初の3コーナーから掛かったため、馬群の内側に入った。その後中団で落ち着き、直線では先に抜け出していたアドマイヤジャパンを差し切り2馬身差をつけて優勝。

シンボリルドルフ以来、21年ぶり史上2頭目の無敗での三冠馬となった。なお、ゴール前での馬場鉄志アナウンサーの実況「世界のホースマンよ見てくれ! これが! 日本近代競馬の結晶だ!」は2005年のFNSアナウンス大賞を受賞した。そしてレース後の記念撮影では武豊が指を3本立てて三冠をアピールした(レースに関する詳細については第66回菊花賞を参照)。


第50回有馬記念(2005年12月25日、中山競馬場にて撮影。ハーツクライの2着に敗れ、デビュー戦からの連勝記録が7で途絶える)
菊花賞後、陣営はディープインパクトを年内にあと1レース出走させる方針を示したうえで、ジャパンカップと有馬記念のどちらに出走するかを検討し、最終的に有馬記念に出走させることを決定した。

事前のファン投票では160,297票を集めて1位となった。レース当日の中山競馬場には前年比129.6パーセントとなる16万2409人もの大観衆[23]が押し寄せた。古馬とは初対決となったものの、単勝式オッズは1.3倍を記録した。しかしレースでは、いつものように後方から進めるも、ハーツクライに半馬身及ばず2着に惜敗し、8戦目にして初黒星を喫した。

レース後、鞍上の武豊は「今日は飛ぶような走りではなかった。普通に走ってしまった」と初めての敗戦にショックを隠し切れないコメントを残している(レースに関する詳細については第50回有馬記念を参照)。

2005年(平成17年)の活躍をうけ、この年のJRA賞では年度代表馬および最優秀3歳牡馬に選出された。JRA賞選考委員会の記者投票では最優秀3歳牡馬では満票(291票)を、年度代表馬では285票を獲得した。関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

ディープインパクト 4歳(2006年)

ディープインパクト 阪神大賞典から宝塚記念まで

1月23日に行われた前年のJRA賞授賞式において、オーナーの金子が「夏にヨーロッパでいいレースがあれば使いたい」と発言し、海外遠征を行う意向が示された。海外遠征については2月、調教師の池江によって、春は阪神大賞典から天皇賞(春)へ向かい、天皇賞(春)の後にイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスとフランスの凱旋門賞のどちらに出走するか決定すると発表された。

2006年(平成18年)の初戦となった阪神大賞典は初めて経験する稍重馬場だったが、レースでは3コーナーで進出を開始して4コーナーで先頭に並ぶと、最後の直線でデルタブルースやトウカイトリックを寄せ付けず、決勝戦手前では武豊が抑える余裕を見せ3馬身半の差で優勝。順調なスタートを切った。


ディープインパクト 2006年4月30日、京都競馬場にて、天皇賞(春)

4月30日、続く第133回天皇賞(春)。単勝支持率は当競走史上最高となる75.3パーセント(オッズは1.1倍)を記録した。スタートではまたも出遅れ、道中は最後方から2番手の位置で折り合いをつけて進んだ。

そして3コーナー手前の残り1000メートル地点からロングスパートを開始して[注 7]先行馬を交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる下り坂でもスパートを続け、4コーナーで早くも先頭に立った。直線では、出走馬中最速となる上がり3ハロン33秒5の脚を使ってそのまま先頭を維持し、2着のリンカーンに3馬身半の差をつけ優勝した。

勝ち時計の3分13秒4はレコードタイムで、1997年の第115回天皇賞においてマヤノトップガンが記録した3分14秒4のレコードを1秒更新した。2着に入ったリンカーン(3着に5馬身差をつけ、かつ自らも従来のレコードタイムを上回る走破時計を出す)に騎乗した横山典弘が「(リンカーンは、生まれた)時代が悪かった。しょうがない」と言うほどの内容だった。武豊は「世界にこれ以上強い馬がいるのかな」と言い[26]、海外遠征での勝利に期待感を示した。レース後の記念撮影で武豊は指を4本立てて四冠をアピールした。

5月8日、調教師の池江によって凱旋門賞出走に向けた海外遠征プランが発表され[注 8][7]、その前哨戦として6月25日に京都競馬場で開催される第47回宝塚記念[注 9]に出走することとなった。事前に行われたファン投票では89,864票を集め1位となり、単勝支持率も天皇賞(春)に続きレース史上最高の75.2パーセント(オッズは1.1倍)をマークした。

当日の京都競馬場は雨で馬場が悪くなっていたが、道中後方2番手追走から残り700メートル地点で進出を開始すると、直線では馬場外目を伸び、2着のナリタセンチュリーに4馬身差を付け優勝した。そして同競走を優勝したことで史上7頭目、史上最速での(収得賞金額)10億円馬となった。レース後の記念撮影で武豊は指を5本立てて五冠をアピールした。

ディープインパクト 凱旋門賞


凱旋門賞の行われるフランスに出発する前に、2006年(平成18年)7月2日にマイクロチップが埋め込まれた。これはフランスでは2006年からすべての出走馬にマイクロチップを埋め込むことが義務付けられているからである。日本では2007年に産まれてくる産駒から個体識別のためにマイクロチップを埋め込むことが義務付けられたが(2006年に産まれた産駒や現役馬は順次導入)、ディープインパクトはこれに先立ち日本産馬としてはマイクロチップの埋め込み導入第1号となった。

ディープインパクトは8月2日から美浦トレーニングセンターに滞在して検疫を受けた[27]。そして8月9日、凱旋門賞出走のために帯同馬のピカレスクコートとともに出国し、現地時間9日午後2時56分にフランスに到着した。その後はシャンティー競馬場の隣の調教場にあるカルロス・ラフォンパリアス厩舎に滞在し、おもにそこで調整された。9月13日には凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場でも調教が行われた。

10月1日の凱旋門賞は、前年の同競走の優勝馬ハリケーンラン、前年のブリーダーズカップ・ターフの優勝馬シロッコ、そしてディープインパクトの古馬3頭が「三強」を形成した。直前の各ブックメーカーのオッズではこの3頭が上位人気を占め、中にはディープインパクトを単独で1番人気に推すところもあった。

この3頭と対戦するのを他陣営が嫌ったためか[30]、レースは8頭という史上2番目の少頭数で行われることになった。それまで欧州調教馬以外勝ったことのない凱旋門賞だが、現地のメディアやファンからは「今回はディープインパクトに勝たれても仕方ない」という諦めムードさえ見られた[31]。ロンシャン競馬場内では、日本人がディープインパクトの単勝馬券を多数購入したため、一時は1.1倍という断然の1番人気となった(最終的なオッズは1.5倍)。

レースでは好スタートを切り、今までの控える競馬とは違い道中2~3番手でレースを進めると、残り300メートル地点でいったん先頭に立ったものの突き放すことはできず、残り100メートル地点でレイルリンクに、さらにゴール直前でプライドにも交わされて3位入線に終わった。敗因として武豊は「直線を向いてからハミを取らなかった。ギアが一段上がらなかった」と語っている。

そのほか競馬関係者もこの敗戦を分析し、元騎手の岡部幸雄と柴田政人は斤量とヨーロッパ特有の重い馬場を敗因として挙げ、さらに岡部は現地のレースを1回経験させておいたほうが良かったとの見解も示している[36]。また、ライターの江面弘也はフランスのアンドレ・ファーブル厩舎の3頭[注 10]に囲まれながらレースを進めざるを得なかったことを指摘し、ディープインパクトは「『なにをしてでも勝たなければいけないフランス』に負けた」としている。

ディープインパクト 日本帰国からジャパンカップまで

ディープインパクトは10月4日にフランスから日本に帰国し、競馬学校で検疫が行われた[27]。その後、調教師の池江によって10月29日の天皇賞(秋)が復帰初戦の予定とされたため、規定により同競走が開催される東京競馬場で着地検査が行われた。

10月11日には2006年限りで現役を引退することが発表され、51億円(8500万円×60株)のシンジケートが組まれ種牡馬となることが決定した[38]。この額は日本で繋養された種牡馬としては史上最高価格である。

しかしそのわずか数日後の10月19日、凱旋門賞のレース後に実施された理化学検査でフランス競馬における禁止薬物イプラトロピウムが検出されたことがJRAによって発表された[39]。そして11月16日、正式に凱旋門賞失格が通告された。

天皇賞(秋)は、帰国して日が浅い中で出走させるのは馬がかわいそうだということで[40]回避が決定され、日本国内での復帰初戦は第26回ジャパンカップにずれ込むこととなった。迎えた11月26日のジャパンカップでは2005年の有馬記念以来のハーツクライとの再戦となった。

同レースは海外からは当年のカルティエ賞年度代表馬ウィジャボードを含む2頭しか出走せず、日本馬を合わせても11頭しかいないという、ジャパンカップとしては少数立てのレースとなった。ディープインパクトの単勝支持率は61.2パーセント(オッズは1.3倍)で、日本国内で走ったレースの中ではもっとも低かったが、これでもジャパンカップ史上最高の支持率だった。

レースはスローペースとなったが、ディープインパクトは終始最後方で待機し道中を進めた。そして直線に向くと内に入った他馬を大外から一気に捲くり、ドリームパスポートに2馬身差をつけ優勝した。レース後は武豊がウイニングランを行い、ファンに健在ぶりをアピールした。そして表彰式に出るときに武豊はファンといっしょになって万歳三唱をした。記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の1本指が加わって六冠を表す6本指ができた。一方、再戦ムードを盛り上げたハーツクライは、レース前から陣営が明らかにしていた喘鳴症(喉鳴り)が進行しており、見せ場なく10着に敗れた。

ディープインパクト 有馬記念、引退まで

ディープインパクト 2006年12月24日、中山競馬場にて、有馬記念

そして12月24日、引退レースとなる有馬記念に出走した。事前に行われたファン投票では119,940票を集め2年連続1位、かつファン投票で選ぶレースとしては3レース連続で(2005年有馬記念・2006年宝塚記念・2006年有馬記念)1位となった。単勝支持率は70.1パーセント(オッズ1.2倍)で、1957年にハクチカラが記録した76.1パーセントに次ぐ史上2位となった。

レースでは道中後方3番手につけ、3コーナーから追い出して直線で早々と先頭に立つと、最後は流しながらも2着ポップロックに3馬身の差をつける圧勝で、有終の美を飾った。武豊が「生涯最高のレースができた」[41]「今までにないくらい、強烈な『飛び』だった」[42]と言うほどのレース内容だった。また、このレースでシンボリルドルフやテイエムオペラオーに並ぶ史上3頭目(当時[注 11])の中央競馬GI7勝の最多タイ記録を達成し、獲得賞金ランキングでもテイエムオペラオーに次ぐ単独2位にランクインした。

この後ウイニングランは行われなかったが、その理由について武豊は、ゴールを過ぎてから走るのを嫌がったためだと語っている[43]。記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の2本指が加わって七冠を表す7本指ができた(レースに関する詳細については第51回有馬記念を参照)。

そして有馬記念当日の全競走が終了したあとに引退式が行われた。約5万人[44]のファンが見守る中、厩務員の市川と調教助手の池江に曳かれながら、武豊を背に同日の有馬記念のゼッケンを付けて登場し、ファンに最後の勇姿を披露した。

2006年のJRA賞では年度代表馬および最優秀4歳以上牡馬に選出された。年度代表馬は2年連続の受賞だった[注 12]。JRA賞選考委員会の記者投票では総得票数289票のうち年度代表馬で287票、最優秀4歳以上牡馬で288票を獲得した。昨年に続き関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

ディープインパクト 競走馬引退後

ディープインパクト 2007年5月11日、社台スタリオンステーションにて

2006年12月25日付で競走馬登録が抹消され、2007年から北海道勇払郡安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬となった。それからディープインパクトは、父サンデーサイレンスやノーザンテースト、リアルシャダイが過ごした「功労馬厩舎」と呼ばれている厩舎で過ごすことになった。同スタリオンでの担当厩務員はノーザンテーストを担当していた森田敬治である。

2007年2月14日には社台スタリオンステーションで引退後初めての一般公開が行われ、会場には約1200人のファンが集まった[47]。以後は同スタリオンで繋養される一部の内国産種牡馬と同様、放牧地にいる間の一般見学が可能になっているが、本馬にのみ専門の警備員が付き添う形になっている。

2008年5月8日、平成20年度顕彰馬選出投票において競馬担当記者による投票で186票中164票(得票率86.6パーセント)を獲得し、28頭目の顕彰馬(競馬殿堂入り)に選出された。それを記念してJRA競馬博物館の1階メモリアルホールにおいて「祝 ディープインパクト号殿堂入り記念展」が5月17日より開催され、馬主服の複製や東京優駿とジャパンカップ優勝時に装着した蹄鉄などが展示された。

2010年5月2日に京都競馬場で第12競走として開催されるJRAプレミアムレース「京都ゴールデンプレミアム」の人気投票において当馬が最多得票を獲得し、「ディープインパクトメモリアル」の副名称を付与して開催された。

ディープインパクト 種牡馬時代

初年度(2007年)の種付料は当時の日本で繋養される種牡馬としては最高額となる1200万円であった[注 13]。初年度は日本国内の新種牡馬の中では最多となる206頭に種付けを行い[50]、2008年1月9日には初産駒が鳥井牧場で誕生した(牝馬。母ロングディライト)。

2008年7月15日と7月16日に行われたセレクトセール2008当歳馬セールにて産駒が初めてセリに出され、2日間で総勢36頭が登場して31頭が落札された。最高落札価格馬は初日に登場したビワハイジの2008で、2億2000万円という高値で島川隆哉に落札された[注 15]。最終的にこの2日間でディープインパクト産駒の総売却額は19億1000万円、1頭平均売却額約6161万円となり、2006年にキングカメハメハが記録した新種牡馬産駒の総売却額17億4500万円、1頭平均売却額約5629万円の記録を更新し、売却頭数31頭は2006年のキングカメハメハと同数となった。

2010年に初年度産駒がデビューした。6月26日に福島競馬場で行われたメイクデビュー福島にてサイレントソニックが勝利し、産駒の中央競馬初勝利を記録した。その後も産駒の勝利数は順調に増え続け、11月21日に京都競馬場で行われた2歳未勝利戦でボレアスが勝利し、産駒26頭目の勝ち馬となり、2005年にアグネスタキオンが記録した25頭を抜きJRA2歳新種牡馬の勝馬頭数の新記録を達成。さらに11月27日には京都競馬場で行われた2歳未勝利戦でハッピーグラスが勝利して、産駒のJRA通算勝利数が31勝となった。

これにより父サンデーサイレンスが持っていた種牡馬供用初年度のJRA通算勝利数30勝の記録を16年ぶりに更新した。さらに12月25日には阪神競馬場で行われたラジオNIKKEI杯2歳ステークスでダノンバラードが1着になり、産駒初の重賞制覇となった。

最終的に初年度産駒がJRAの2歳戦で41勝し、総獲得賞金5億3704万3000円をあげた結果、ディープインパクトは2010年度のJRA2歳リーディングサイアーに輝いた。なお、この産駒出走初年度の総獲得賞金記録も、サンデーサイレンスが持っていた4億9062万5000円の記録を16年ぶりに更新することとなった。

翌2011年にはマルセリーナが桜花賞を制し、産駒のGI競走およびクラシック初制覇を果たした。また、その年に行われた安田記念ではリアルインパクトが3歳馬ながら古馬を相手に勝利した。10月22日には産駒がJRA年間100勝を達成したが、産駒がデビューして2年目の同日における達成は最速記録だった。この年は最終的にJRAのサイアーランキングではキングカメハメハに次ぐ2位(中央競馬と地方競馬の合算では4位)、2歳部門ではJRAと中央・地方合算の総合部門でともに2年連続でリーディングサイアーとなった。

ディープインパクト 競走成績

年月日 競馬場 競走名 格 頭数 枠番 馬番 オッズ(人気) 着順 騎手 斤量[kg] 距離(馬場) タイム
(上り3F) タイム
差 勝ち馬/(2着馬) 馬体重
[kg]
2004. 12. 19 阪神 2歳新馬 9 4 4 1.1(1人) 1着 武豊 55 芝2000m(良) 2:03.8 (33.1) -0.7 (コンゴウリキシオー) 452
2005. 1. 22 京都 若駒S OP 7 4 4 1.1(1人) 1着 武豊 56 芝2000m(良) 2:00.8 (33.6) -0.9 (ケイアイヘネシー) 450
3. 6 中山 弥生賞 GII 10 8 10 1.2(1人) 1着 武豊 56 芝2000m(良) 2:02.2 (34.1) 0.0 (アドマイヤジャパン) 446
4. 17 中山 皐月賞 GI 18 7 14 1.3(1人) 1着 武豊 57 芝2000m(良) 1:59.2 (34.0) -0.4 (シックスセンス) 444
5. 29 東京 東京優駿 GI 18 3 5 1.1(1人) 1着 武豊 57 芝2400m(良) 2:23.3 (33.4) -0.8 (インティライミ) 448
9. 25 阪神 神戸新聞杯 GII 13 6 9 1.1(1人) 1着 武豊 56 芝2000m(良) 1:58.4 (34.1) -0.4 (シックスセンス) 448
10. 23 京都 菊花賞 GI 16 4 7 1.0(1人) 1着 武豊 57 芝3000m(良) 3:04.6 (33.3) -0.3 (アドマイヤジャパン) 444
12. 25 中山 有馬記念 GI 16 3 6 1.3(1人) 2着 武豊 55 芝2500m(良) 2:32.0 (34.6) 0.1 ハーツクライ 440
2006. 3. 19 阪神 阪神大賞典 GII 9 2 2 1.1(1人) 1着 武豊 58 芝3000m(稍) 3:08.8 (36.8) -0.6 (トウカイトリック) 442
4. 30 京都 天皇賞(春) GI 17 4 7 1.1(1人) 1着 武豊 58 芝3200m(良) R3:13.4 (33.5) -0.7 (リンカーン) 438
6. 25 京都 宝塚記念 GI 13 6 8 1.1(1人) 1着 武豊 58 芝2200m(稍) 2:13.0 (34.9) -0.7 (ナリタセンチュリー) 442
10. 1 ロンシャン 凱旋門賞 G1 8 2 1 1.5(1人) 失格 武豊 59.5 芝2400m(良) 3位入線 Rail Link 計不
11. 26 東京 ジャパンC GI 11 6 6 1.3(1人) 1着 武豊 57 芝2400m(良) 2:25.1 (33.5) -0.3 (ドリームパスポート) 436
12. 24 中山 有馬記念 GI 14 3 4 1.2(1人) 1着 武豊 57 芝2500m(良) 2:31.9 (33.8) -0.5 (ポップロック) 438
※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。


ディープインパクト 種牡馬成績

ディープインパクト 年度別成績

年 総合(中央+地方) 中央
出走 勝利 順位 AEI 収得賞金 出走 勝利 順位 AEI 収得賞金 頭数 回数 頭数 回数 頭数 回数 頭数 回数
2010年 74 189 35 43 40 1.82 5億4074万3000円 74 187 34 41 35 1.17 5億3704万3000円
2011年 210 961 111 150 4 3.02 24億8904万8000円 206 879 100 135 2 1.94 24億5909万4000円
2011年終了時点。

ディープインパクト 代表産駒

太字はGI競走
2008年産
リアルインパクト(安田記念)
マルセリーナ(桜花賞)
ボレアス(レパードステークス)
フレールジャック(ラジオNIKKEI賞)
トーセンラー(きさらぎ賞)
ダノンバラード(ラジオNIKKEI杯2歳ステークス)
2009年産
ジョワドヴィーヴル(阪神ジュベナイルフィリーズ)
アダムスピーク(ラジオNIKKEI杯2歳ステークス)
ディープブリランテ(東京スポーツ杯2歳ステークス)

ディープインパクト 特徴

ディープインパクト レーススタイル

後方待機からの強烈な追い込みが身上であった。道中は中団から後方につけ、3~4コーナーから一気にまくりあげて他馬をごぼう抜きするというレーススタイルでGI競走7勝を挙げた。主戦騎手の武豊は、新馬戦の追い切りの際に少しスピードがありすぎると感じたため、ゆったりとしたレースをさせるようにしたと述べている[53]。また、ゲートの中でじっとしているのが嫌いで落ち着きがなかったため、スタートが上手くできず出遅れることが多かったことも、追い込みという脚質になった一因だとされている。

ディープインパクトの強みは優れた瞬発力とスピード、そして末脚の持続力である。実際、上がり3ハロンのタイムは日本国内の競走では全競走で出走馬中最速であり、東京優駿(当時)、菊花賞、天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念(4歳時)などでは史上最速であった。

また、天皇賞(春)ではいつも通りの後方待機策から残り600メートル付近で早くも先頭に立ったにもかかわらずそのまま押し切っており、そのトップスピードの持続力は卓越していた。武豊は東京優駿後のインタビューで「この馬は瞬発力が続くんです。ド~ンとゴールまでそのまま行く」と答えている。調教師の池江泰郎も、瞬発力に優れ、しかも長くいい脚を使うのはディープインパクトの強さを感じるところだと述べている。

反面、ほかの馬と馬体を併せるレースとなった弥生賞ではクビ差とディープインパクトにしては僅差での勝利、同じようにほかの馬と馬体を併せる形となった凱旋門賞では3位入線と敗れている。調教助手の池江敏行はこのことに関して、「馬体を併せると、本気で走らない気がする」とディープインパクトの引退後に語っている[57]。武豊も自身の『武豊TV!』内の2006年有馬記念を回顧する回において、「弥生賞や負けた有馬記念、そして凱旋門賞と馬体を併せる形になったレースでは伸びなかった。

勝ったレースはすべて大外から一気に馬を抜き去り圧勝した。はっきりしたことは分からないし断言できないが、馬体を併せると物見(馬を見る)をする。相手に合わせて走ってしまう。反面、単走やそれに近い状況なら、調教でもレースでも力を発揮した。ジャパンカップ前に自ら志願して、初めて単走で追い切ったのはそのため」と語った。

ディープインパクト 身体的特徴

ディープインパクトはレース時の体重が436~452キログラムで、サラブレッドとしては小さな体型である。デビュー戦の452キログラムがもっとも重く、最低体重を記録したのは引退レースの1戦前であるジャパンカップだった。

出走したGI競走の中でも、皐月賞・菊花賞・有馬記念(2005年)・ジャパンカップ・有馬記念(2006年)では出走馬の中で最低の馬体重だった。馬体が小さいため、当初は他馬に揉まれ弱いという声もあったが、他馬に揉まれながらも皐月賞に勝利したあとは「大型馬よりも故障のリスクが小さい」と馬体の小ささが肯定的に見られるようになった[58][59]。種牡馬入りのときの健康チェックでは体高が164センチメートルだったが、社台スタリオンステーションの徳武英介は、父サンデーサイレンスと同じサイズで体格的に種付けは心配ないと述べている。

馬体に関しては、バランスの良さを指摘する声もある。共同通信社の永井晴二はディープインパクトの馬体について、「ボリューム感に欠ける」ものの、「よく見ると実にバランスの取れた馬体」をしていて「すべてがコンパクトにまとまっている」と評している[61]。サラブレッドクラブ・ラフィアン前代表の岡田繁幸は、「お尻のつく位置や骨の太さなど、すべてのバランスがいい」と述べている。

また、体の柔らかさも指摘されている。ノーザンファーム早来時代に育成を担当したスタッフは、「やわらかくて、ゴム鞠のように弾むようなバネがあった」と証言している[6]。また、同ファーム場長の秋田博章もディープインパクトが坂路を走る様子を見て、今まで見たことがないような柔軟性があり、まるで「ネコ科の動物」が走っているようだったと語っている。

装蹄師の西内荘は、犬や猫などのように後ろ脚で耳を掻くことができるほど体が柔らかいと発言している[注 18][64]。サラブレッドクラブ・ラフィアンの岡田は「筋肉の質がよくて柔軟性に富んでいる」と述べ、そのため伸び縮みが自在になると考察している[62]。武豊はその柔軟性の高さを「チーター」にたとえている。

さらに、GI馬に共通した特徴である薄い蹄を持っている[66]。皐月賞までは順調に勝ち進んだものの、東京優駿に向かうにあたってこの点が問題になった。蹄が薄い馬の場合、蹄鉄を釘で固定すると馬がストレスを感じるためである[67]。また、皐月賞が終わると蹄もボロボロになり、釘を打てる場所がなくなっていた。

そこで装蹄師の西内は、新しい方法で蹄鉄を装着して東京優駿に臨むことにした。それは、装締によって蹄に負担がかからないように従来の釘による装締を止め、クッションの役割を果たすシューライナーという素材を蹄に貼り、その上にエクイロックスという特殊な接着剤で蹄鉄を蹄に装着する方法であった[67][68]。ディープインパクトはこの方法により装着された蹄鉄で東京優駿に勝利した。

ディープインパクト 走る時の特徴

装蹄師の西内はディープインパクトの蹄鉄の減りがほかの馬に比べて遅いことを証言している[70]。実際、エアシャカールやアグネスワールドが2週間使用した蹄鉄とディープインパクトが3週間使用した蹄鉄を比較すると、ディープインパクトの蹄鉄のほうが減りが少なかった[71]。西内はその理由について、地面をがっちりと捕まえるディープインパクトの走り方を挙げている。西内によれば、本来競走能力の高い馬は蹄鉄の減りが早いのだが、ディープインパクトの場合はそのような走法のために摩擦が少なく蹄鉄が減りにくいという。

心肺機能がほかの馬より優れているのも強さの一つと考えられている。まず、心拍数が最大になったときの血液のスピードを「VHRmax」(単位はm/s・メートル毎秒)、ゴール直後から心拍数が100を切るまでの時間を「HR100」といい、前者は持久力を、後者は回復力を示すものである(前者は数値が大きければ大きいほど、後者は数値が少なければ少ないほどよい)。3歳以上の馬のVHRmaxの平均は14.6であるのに対し、ディープインパクトはデビューの時点で16.3を示した[72]。HR100も一般的な3歳馬は10分以上かかるが、皐月賞のときにディープインパクトが記録したのは2分42秒であった[73]。

走り方も無駄がなく効率的なものとなっている。JRA競走馬総合研究所が菊花賞のディープインパクトの走りを研究したところによると、武豊の「走っていると言うより飛んでいる感じ」という言葉に反して、ディープインパクトは4本の脚がすべて地面についていない時(エアボーン)の時間がほかの馬の平均である0.134秒よりも短く、0.124秒だった。

しかし、その間の移動距離は長く、ほかの馬の平均が2.43メートルであるのに対し、ディープインパクトは2.63メートルだった[74][75]。同研究所の高橋敏之は、エアボーンの時間の短いほうが無駄な力を使わず、空気抵抗も少ないため、効率がいい走法になっていると結論付けた[76]。さらに、2本の脚が同時に地面に着いている時間が少ないことも指摘し、このために着地時にスピードが落ちにくくなるとも述べている。この脚と脚が同時に着いている時間が短いという特徴は、アメリカの三冠馬セクレタリアトにも見られるという[64]。

ディープインパクト 気性・性格・知能の特徴

武豊は「走ろうとする気持ちが強すぎるので、乗る立場からすれば難しい馬」[54]「この馬が本気で行きだしたら止めるのは容易じゃない」[77]と語っている。

3歳時はほかの馬が前を走っていると調教でも追い抜こうとして抑えるのに苦労するほどで、さらに調教で馬場に出るときに尻っ跳ねをする癖があった[78]。パドックでもうるさい様子を見せており、とくに東京優駿では焦れ込んで馬場入りのときと同じように尻っ跳ねをする仕草もした。3歳夏の札幌競馬場でのトレーニングでは、これらの癖を直すための調教もされた。このトレーニングが功を奏したのか、その後はある程度改善され、4歳時の有馬記念前の調教では他馬に反応することも尻っ跳ねをすることもなくなった[79]。


普段は人懐っこくておとなしく、厩舎では「お坊ちゃまくん」のニックネームで呼ばれていた[80]。「素直な性格」[81]で「天然」[82]だと厩務員の市川は述べている。調教師の池江はディープインパクトを「とてもおとなしい」馬だと言い、さらに「人間が好き」で「優しい馬」だと表現している[83]。競走馬時代の担当の獣医師も、ディープインパクトは「性格が気さく」であり、これほど性格が良い馬はそういないと語っている[84]。種牡馬となってからの担当厩務員である森田敬治は、自分が人間よりも上の立場だということを誇示したがるほかの種牡馬と違って、ディープインパクトは人間と対等の立場で接してくると証言している[85]。

非常に利口な馬でもあり、調教助手の池江敏行によると、普通の馬が10回で覚えることをディープインパクトは2、3回で覚えてしまうという[86]。武豊も頭の良さは認めており、菊花賞でディープインパクトが一周目のホームストレッチでかかってしまったのは、頭が良いので3コーナーから4コーナーにかけてスパートをかけることを覚えているために、一周目のゴール板を正規のゴールと勘違いしてしまった(=そこまでに先頭に立たなければならないと勘違いした)からだと証言している[87]。

ディープインパクト 評価

ディープインパクト 公式レイティングによる評価
2005年のワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングでは長距離(ロング:Long – 2101メートル~2700メートル)でのパフォーマンスが124ポンドと評価された。ほかの距離区分も含め総合9位、3歳馬の中では4位にランクされた。超長距離においては118ポンドに評価され、この距離区分では世界1位となった。

2006年の同ランキングでは長距離で127ポンドに評価され、インヴァソール・バーナーディニ・ディスクリートキャットに続く総合4位タイ、芝部門ではレイルリンク・ジョージワシントンと並び世界1位タイにランクされた。ちなみにこれは1999年におけるエルコンドルパサーの134ポンドに次ぐ日本調教馬歴代2位のレイティングである。

超長距離部門では123ポンドに評価され前年と同様、世界1位だった。

また、2006年7月10日にIFHA(国際競馬統括機関連盟)から発表された「トップ50ワールドリーディングホース」の2006年1月1日から7月10日までの集計分では125ポンドに評価された。このレイティングにより、集計期間内にタターソールズゴールドカップ(アイルランドG1)に勝利していたハリケーンラン、また、同じく集計期間内にコロネーションカップ(イギリスG1)を制していたシロッコと並び、ランキングが設立された2003年以降、日本馬として初めて世界1位にランクされた。

ディープインパクト 競馬関係者による評価
ディープインパクトを管理する調教師の池江泰郎は、3歳春の時点で同馬を「理想的なサラブレッド」と言い、長所として騎手の指示に対する反応の良さを挙げている[88]。また主戦騎手の武豊は、弥生賞後のインタビューで、同馬の長所は何かという質問に対して負けないところだと答えている[89]。その後武豊は、負けないという意味は「すべての面でほかの馬を圧倒している」ということだと発言している[90]。

菊花賞で無敗の三冠馬となったディープインパクトだが、同じ無敗の三冠馬のシンボリルドルフとの比較という点においては、同馬の主戦騎手だった岡部幸雄が「ルドルフのほうが強い。ルドルフは競馬のすべてを知り尽くしていた」、「終始馬体を併せる作戦を取ればルドルフなら勝てる」と答えている。しかし同時に、自ら「ディープインパクトの追っかけ」[91]と言うほどのファンでもあり、凱旋門賞のときは声を荒げて応援していた。

一方、ノーザンファーム場長の秋田博章は、「ルドルフはソツのないレース巧者」で「優等生という印象」と言ったうえで、「ディープの強さは並ぶ間もない圧倒的なもの」と発言し、「一枚上」だと評価した[92]。柴田政人の場合は菊花賞のあとに「ルドルフを超えたというよりもすごい馬が現れたと感じている。潜在能力がまさにケタ違い」と評している[93]。

競馬評論家の井崎脩五郎は、ディープインパクトの新馬戦の翌日に行われたイベントで「今まで(=数十年間)見てきた中で、一番『これは強い』と思ったレースは?」と振られ「昨日のディープインパクトの新馬戦」と答えた。その後井崎は、ディープインパクトのことを「競馬史上の最強馬」ではないかと発言した。その理由として、名馬のレースで「なんだこれ!?」と感じるのは1頭に1回だが、ディープインパクトの場合は新馬戦と2戦目の若駒ステークスの2回連続でそう感じたことを挙げている[94]。

また、競馬評論家の合田直弘は日本国外にもディープインパクトを高く評価する競馬記者が複数存在することを証言している。合田が指摘しているように、イギリスのレーシング・ポスト紙は2006年のワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングのレイティングが日本の競馬のレベルを低く見すぎていて保守的であると不満を唱え、独自のレイティングでディープインパクトを133ポンドで世界一にしている。合田によると、香港にも「35年間競馬を見てきた中でディープインパクトは一番印象的だった馬」と述べ、ディープインパクトに高評価を与えた記者がいるという[95]。

ディープインパクト 投票による評価

競馬雑誌『優駿』(2010年8月号)が同誌の創刊800号を記念して読者・ライター・評論家・編集者の投票により決定した「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち The Greatest Horses 100」のランキングでは、読者部門とライター・評論家・編集者部門でともに第1位に選ばれ、この2つを合計した総合部門では14074ポイントを獲得し第1位となった[96]。なお読者部門では、10代~60代以上のすべての世代で第1位に選ばれている[97]。

競走馬時代には、出走したJRA主催の全競走において単勝式馬券で1倍台の1番人気に支持された。その中でもGI競走では、東京優駿・天皇賞(春)・宝塚記念・ジャパンカップで史上最高の単勝支持率、皐月賞・菊花賞・有馬記念(2006年)で史上2位となる単勝支持率を記録した。

ディープインパクト 人気・注目度

ディープインパクト 社会現象に

現役競走馬時代、ディープインパクトの存在は社会現象となり[21][98]、高い注目を集めた。NHKで中継された2006年の凱旋門賞の平均視聴率は関東で16.4パーセント、関西で19.7パーセントを記録し、また瞬間最高視聴率は関東で22.6パーセント、関西で28.5パーセントを記録した[32]。

そのような高い注目と相まって、競馬専門誌やスポーツ新聞だけでなく一般の新聞・雑誌・テレビ番組などのメディアもその存在を取り上げた。JRAに対する取材の申し込みは例年の10倍に及んだ[99]。三冠達成後の2005年10月29日にはNHKスペシャルで「ディープインパクト~無敗の3冠馬はこうして生まれた~」が放送された。なお、同番組は2005年のJRA賞馬事文化賞を受賞した。漫画雑誌でも取り上げられ、ハイセイコーのときと同様にグラビアを飾ったことや(『週刊ヤングサンデー』2006年15号)、凱旋門賞の前に『週刊少年チャンピオン』でディープインパクトの物語が短期集中連載された[注 19]ことがある。競走馬引退後の2007年4月には、サントリーフーズ「BOSSコーヒー」のCMにトミー・リー・ジョーンズと共演している[100]。

現役競走馬時代の2005年と2006年には、その年を代表する存在として扱われることもあった。2005年には新語・流行語大賞の候補語60語にノミネートした[101]。また、2005年の『日経MJ』のヒット商品番付では「西関脇」に番付された[102]。ほかにも、フジテレビ系列で年末に放送する「笑っていいとも! 年忘れ特大号」の中のコーナーにおいて2005年・2006年の2年連続でその年に話題になった存在として取り上げられたことがある[103][104]。

ディープインパクト 経済的影響

関西大学大学院教授の宮本勝浩は、ディープインパクトが出走したGI競走と出走していない前年の同じGI競走の入場者数や売り上げなどを比較し、その増加分から同馬によってもたらされた経済波及効果を試算した。その結果、経済波及効果は262億円と推定された[105]。関連商品はよく売れ、同馬の関連商品によって2005年の競馬グッズの売り上げが前年より10パーセント増加したと中央競馬ピーアール・センターの職員は語っている[106]。

なお、同センターが販売する競馬グッズの売り上げの3分の1が同馬の関連商品だった[107]。関連「商品」ではないが、単勝馬券を払い戻さずに取っておくファンも多数存在する。同馬が日本国内で出走した全13レースのうちで単勝馬券の未払い率が最高となったのは引退レースである2006年の有馬記念だが、同レースでの単勝馬券の未払い率は9.1パーセント(通常は0.3パーセント)を記録した。また、13レースの単勝馬券の未払い額は合計で2億8731万6370円となった[108]。単勝馬券がインターネットオークションで取引され、1万円以上の値がつくこともあった[109]。

一般企業がディープインパクトとのタイアップ商品を売り出すこともあった。銀座松坂屋ではディープインパクトの福袋まで発売された。また菊花賞と宝塚記念のときには京阪電気鉄道の乗車カードである「スルッとKANSAI Kカード」でディープインパクトが図案となっているカードが発行された[注 20]。引退後の2007年1月24日には、ディープインパクトの応援歌「翔んでディープインパクト」(歌:和田青児)が発売された。

ディープインパクト 交通面での影響

交通面での影響としては、京阪電気鉄道において、菊花賞当日の京都競馬場の最寄り駅である京阪本線淀駅ではディープインパクトの三冠達成を見てから帰宅した競馬ファンで、菊花賞終了後にプラットホームが混雑し、急行列車の臨時停車や臨時列車を大増発したものの、それでも捌き切れずにホーム上の安全性確保と混雑緩和の観点から急遽特急列車を4本のみ臨時停車させた。さらに競馬場付近を走る京阪宇治バス宇治淀線などの路線バスや周辺道路も当日は混みに混み合って渋滞が解けたのは宇治淀線の最終バス発車間際の午後10時ごろだったというエピソードもある。

ディープインパクト ファンの少年の自殺

2006年10月11日に福岡県に住むディープインパクトファンの中学二年生がいじめを苦に自殺したが、その中に「生まれかわったらディープインパクトの子供で最強になりたい」と遺書に書かれていたことが報道された。この報道を受け、蹄鉄製造会社の社長がディープインパクトが使っているのと同型の蹄鉄を遺族に贈呈したり、主戦騎手である武豊が色紙を中学生とその遺族に贈るなど、話題になった[110]。

ディープインパクト 対戦した競走馬の故障

ディープインパクトが勝ったGI競走の2着馬は7頭いるが、うち6頭(シックスセンス、インティライミ、アドマイヤジャパン、リンカーン、ナリタセンチュリー、ドリームパスポート)がそこから1年以内に故障を発症している。このことは雑誌『AERA』の2006年10月2日号でも「ディープインパクトの呪い」として取り上げられた。ちなみに、日本国内で唯一ディープインパクトに勝利したハーツクライも、上述の通り、翌年に喘鳴症を発症し引退に追い込まれている。また、凱旋門賞でディープインパクトを破ったレイルリンクも翌年骨折、さらに腱を痛めて引退している。

唯一、健常な競走馬生活を送ったのはポップロックで、のちにアイルランドにレースの場を移して2010年(9歳)まで現役を続けたが、最後にはレース中に屈腱炎を発症して引退となり、「ディープインパクトの(GI競走)2着馬は決してGIを勝つことができない」というもう一つのジンクスについても打ち破ることは叶わなかった。

また、デビュー戦で2着に敗れたコンゴウリキシオーはその後重賞を勝っているものの、この馬もGI競走を勝つことはできなかったように、ディープインパクトが勝ったレースの2着馬も活躍こそできたがGI競走を勝つことはできていない。

ディープインパクト 血統

ディープインパクト 血統背景

父サンデーサイレンス
父サンデーサイレンスはケンタッキーダービーやブリーダーズカップ・クラシックを制した競走馬。13年連続で日本のリーディングサイアーに輝き、GI馬を多数輩出するなど、日本競馬史上に残る種牡馬である。
母ウインドインハーヘアは競走馬時代にドイツG1のアラルポカルに優勝し、エプソムオークスでも2着に入る活躍をした。
半姉に、5歳の6月という遅いデビューながらデビューから無傷の5連勝をし、2003年のスプリンターズステークスで4着に入ったレディブロンド(父シーキングザゴールド Seeking the Gold、6戦5勝)、全兄に2004年のスプリングステークスを制したブラックタイド、全弟に2005年の東京スポーツ杯2歳ステークス3着のオンファイア、半弟に2006年のホープフルステークスを制したニュービギニング(父アグネスタキオン)がいる。
曾祖母ハイクレア (Highclere) はエリザベス女王が所有し、1000ギニー、ディアヌ賞[注 21]を勝ちキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスで2着に入った名牝だった。このハイクレアの一族には1989年のエプソムダービーなどを制したナシュワン (Nashwan) 、2002年のドバイシーマクラシックなどに勝ったネイエフ (Nayef) がいるほか、2003年のNHKマイルカップなどを制したウインクリューガー、2006年のマーメイドステークスを制したソリッドプラチナムといった日本で活躍した競走馬もいる(そのほか近親の活躍馬はハイクレア一族の項目を参照)。

ディープインパクト 血統表
ディープインパクトの血統 (サンデーサイレンス系/5代アウトブリード)


*サンデーサイレンス
Sunday Silence 1986
青鹿毛 アメリカ Halo 1969
黒鹿毛 アメリカ Hail to Reason 1958 Turn-to
Nothirdchance
Cosmah 1953 Cosmic Bomb
Almahmoud
Wishing Well 1975
鹿毛 アメリカ Understanding 1963 Promised Land
Pretty Ways
Mountain Flower 1964 Montparnasse
Edelweiss


*ウインドインハーヘア
Wind in Her Hair 1991
鹿毛 アイルランド Alzao 1980
鹿毛 アメリカ Lyphard 1969 Northern Dancer
Goofed
Lady Rebecca 1971 Sir Ivor
Pocahontas
Burghclere 1977
鹿毛 イギリス Busted 1963 Crepello
Sans Le Sou
Highclere 1971 Queen’s Hussar
Highlight F-No.2-f
競馬予想のレジまぐ
本日開催中のレース予想一覧

地方競馬のレジまぐ
本日開催中の地方競馬レース


ディープインパクト 脚注

ディープインパクト 注釈
^ 父サンデーサイレンスも1986年(昭和61年)の同じ日に生まれている。
^ ノーザンファームの同期生にはシーザリオ、ラインクラフト、カネヒキリ、ヴァーミリアン、インティライミといったメンバーが名を連ねている。
^ トップはダンシングキイの2002(のちのトーセンダンス)の3億5000万円。
^ その理由として武豊は、苦境に立たされそうな場面で必ず自分やファンを救い、さらに売り上げの増加という点で競馬界も救ってくれたからだと述べている(島田、2007年、130頁)。
^ 菊花賞優勝馬としては1943年のクリフジの75.0パーセントを超える史上最高支持率となった。
^ 2011年のチューリップ賞でレーヴディソールが単勝支持率81.4パーセントを記録し、これを更新した。
^ 武豊はこのロングスパートを、ほかの馬が動かなかったために行ったとしている(島田、2007年、204頁)。
^ キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスでなく凱旋門賞が選ばれたことについて調教師の池江は、前者が行われるアスコット競馬場よりも後者が行われるロンシャン競馬場の方が平坦なコースであることから後者を選んだと述べている(島田、2007年、208頁)。
^ 宝塚記念は例年阪神競馬場で施行されるが、この年は阪神競馬場が芝コースの外回りの新設工事中だったため京都競馬場で代替開催となった。
^ レイルリンク、ハリケーンラン、シロッコの3頭。
^ のちにウオッカも達成。
^ 2002年・2003年のシンボリクリスエス以来の2頭目。啓衆社賞・優駿賞時代も含めると5頭目。
^ 翌2008年の種付料も2007年と同じ1200万円。その後、1000万円(2009年)、900万円(2010年)、1000万円(2011年・2012年)と推移している。
^ この馬はオースミが購買し、沖芳夫厩舎に入厩。ナリタカサブランカの名が付けられた。
^ 後にこの馬はトーセンレーヴの名が付けられている。
^ 3歳馬による安田記念勝利はGI格付け以降では初。
^ なお、産駒がデビューして2年目でのJRA年間100勝の達成は1995年のサンデーサイレンス、2008年のシンボリクリスエス、2009年のキングカメハメハ以来のことだった。
^ 同じ三冠馬のミスターシービーにもそのような特徴があったといわれている(同馬の記事を参照)。
^ 作者は以前同誌で競馬漫画『優駿の門』を連載していたやまさき拓味で、『優駿の門 特別篇』として掲載された。のちに単行本化され、少年チャンピオン・コミックスから発売された。
^ 図柄となった写真はスポーツ報知の協力であった。カードには菊花賞時は「夢舞台、淀へ」、宝塚記念時は「淀から凱旋門賞へ」と記載されていた。
^ フランスのオークスに該当する競走。

ディープインパクト 出典

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^ 週刊Gallop編集部、2006年a、49頁。
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^ 島田、2007年、70-71頁。
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^ 「武豊「残念、理由分からない」~有馬」 スポーツニッポン、2005年12月26日。
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^ 武豊「武豊手記」 スポーツニッポン、2006年12月25日付1面。
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^ 週刊Gallop編集部、2007年、49頁。
^ 栗林、2008年、260頁。
^ 「ディープ公開 ファン1200人」 スポーツニッポン、2008年2月14日。
^ 「ディープインパクト 28頭目の栄誉」 スポーツニッポン、2008年5月9日。
^ 「ディープインパクト殿堂入り記念展を開催中」 netkeiba.com、2008年5月24日。
^ 「今年最大の注目はディープ産駒の評価」 馬三郎タイムズ、2008年1月4日。
^ 「ディープインパクトに初仔誕生」 デイリースポーツ、2008年1月9日。
^ 「ディープインパクトがJRA年間100勝」 競馬ブックweb、2011年10月30日。
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^ 島田、2007年、86頁。
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^ 合田直弘「ワールドランキングへの異議」 『合田直弘 世界の競馬』、netkeiba.com、2007年1月24日(インターネット・アーカイブによるcache)。
^ 優駿編集部、2010年、10頁。
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^ 「Suntory News Release No.9780」 サントリー株式会社、2007年4月24日。
^ 「2005年の「新語・流行語大賞」、60語の候補を発表。」 Narinari.com、2005年11月12日。
^ 「日経MJが選ぶ「2005年ヒット商品番付」。」 Narinari.com、2005年12月7日。
^ 「今日のいいともニュース―2005年12月28日・年忘れ特大号」 森田一義アワー 笑っていいとも! 資料室(同番組のファンサイト)。
^ 「今日のいいともニュース―2006年12月27日・年忘れ特大号」 同上。
^ 「新庄超え!? ディープ経済効果262億!!」 スポーツ報知、2006年12月24日(インターネット・アーカイブによるcache)。
^ 重光晋太郎 「インパクト旋風北へ」 スポーツニッポン、2006年12月25日付21面。
^ 「ディープ人気 出足よし!」 読売新聞、2006年9月28日。
^ 「ディープ馬券1億2000万円分未換金」 デイリースポーツ、2007年2月24日(インターネット・アーカイブによるcache)。
^ 「全7戦の馬券セットで5万円」 スポーツニッポン、2005年10月24日。
^ 「いじめ自殺、遺族に贈り物/ディープと同型の蹄鉄」 四国新聞、2006年11月16日。

ディープインパクト 参考文献

NHK取材班 『三冠馬ディープインパクト 強さの秘密』 NHK出版、2006年 ISBN 414081103X
岡部幸雄・柴田政人・井崎脩五郎・鈴木淑子 「座談会 2005年競馬を振り返る」 『週刊Gallop臨時増刊 JRA重賞年鑑2005』、産業経済新聞社、2005年
岡部幸雄・合田直弘・井崎脩五郎・鈴木淑子 「座談会 2006年競馬を振り返る」 『週刊Gallop臨時増刊 JRA重賞年鑑2006』、産業経済新聞社、2006年
栗林阿裕子 『ディープインパクト―これからはじまる物語』 メタモル出版、2008年 ISBN 4895956504
サラブレ編集部 『ディープインパクト 衝撃の軌跡』 エンターブレイン、2007年 ISBN 475773381X
島田明宏 『ありがとう、ディープインパクト―最強馬伝説完結』 廣済堂出版、2007年 ISBN 4331512150
城崎哲 『カリスマ装蹄師西内荘の競馬技術―空飛ぶ蹄鉄をいかにデザインするか』 白夜書房、2007年 ISBN 9784861912689
週刊Gallop編集部 『Gallop臨時増刊 ディープインパクト 衝撃2冠までの足跡』 産業経済新聞社、2005年a
週刊Gallop編集部 『Gallop臨時増刊 ディープインパクト 衝撃3冠DVDメモリアル』 産業経済新聞社、2005年b
週刊Gallop編集部 『Gallop臨時増刊 ファンが選んだ2005ベストレース』 産業経済新聞社、2006年a
週刊Gallop編集部 『Gallop臨時増刊 ディープインパクト 凱旋門賞激走譜』 産業経済新聞社、2006年b
週刊Gallop編集部 『Gallop臨時増刊 さようならディープインパクト ありがとうターフを去ったHero&Heroine’06』 産業経済新聞社、2007年
優駿編集部 『優駿3月号増刊 TURF HERO 2005』 日本中央競馬会、2006年
優駿編集部 「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」 『優駿』800号、日本中央競馬会、2010年

戸崎圭太

戸崎圭太


出身地 栃木県下都賀郡壬生町
生年月日 1980年7月8日(31歳)
身長 158cm
体重 44.3kg
血液型 B型
騎手情報
所属団体 特別区競馬組合
所属厩舎 香取和孝
勝負服 青、胴赤星散らし
初免許年 1998年
免許区分 平地

戸崎 圭太(とさき けいた、1980年7月8日 – )は、大井競馬場・香取和孝厩舎に所属する騎手である。趣味はスポーツをすることで、好きなスポーツはゴルフ。
勝負服は青地に胴赤散らし。青は大井の先輩である内田博幸の勝負服が、胴赤星散らしは同様に的場文男の勝負服の星(★)が由来となっている。[1]

戸崎圭太 来歴

中学時代は野球部に所属していた。今でも野球が特技である。
騎手志望当時、戸崎は中央競馬の存在を知らず、栃木県那須塩原市にあった地方競馬教養センターを受験。1998年、地方競馬教養センター騎手課程を卒業し騎手免許を取得する。[2]同年4月12日の大井競馬第3競走C3八組九組をミヤサンヤシマで勝利し、初騎乗初勝利を挙げる。

2005年6月26日に福島競馬場で行われた3歳未勝利戦で、13番人気だったスプリングラゴスに騎乗し中央競馬初騎乗、10着となる。同年9月14日大井競馬第10競走トゥインクルレディー賞を8番人気のコウエイソフィアで勝利し、重賞初制覇。

2007年、初のJRA重賞となったマーチステークスでは、11番人気だったシーチャリオットに騎乗し14着。7月8日、阪神競馬場で行われた3歳以上500万円以下のレースをヤマカツティガーで制し中央初勝利を挙げる。12月13日に地方通算600勝を達成した。
2007年には全国リーディング3位の活躍を見せた。これは南関東内では内田博幸に次ぐリーディング2位であり、的場文男を上回る勝ち鞍を挙げる活躍ぶりであった。

2008年の東京ダービーでは2007年のアンパサンドに続き、ドリームスカイ(10番人気)で勝利。東京ダービーを連覇した。6月25日の中央との交流重賞帝王賞(JpnI)をフリオーソで制覇。9月17日大井競馬第6競走において落馬、全治1ヶ月の鎖骨骨折を負い、同日第11競走トゥインクルレディー賞でトーセンジョウオーに騎乗できなかった。このようなアクシデントはあったが、ネフェルメモリーを12月31日の東京2歳優駿牝馬で勝利に導き、この年は306勝を挙げて初の全国リーディングを獲得した。

2009年は船橋記念をスパロービートで勝利し、3月11日のダイオライト記念および3月20日の桜花賞をいずれも2年連続で制覇。続いて京浜盃で重賞4連勝および自身のデビューからの通算勝利数を1000勝を飾った。他にも東京プリンセス賞・羽田盃・浦和記念で優勝し、前年を上回る387勝を挙げ、2年連続で全国リーディングを獲得した。

また、中央競馬では前年まで通算5勝の成績から一転して年間20勝を挙げ、安田記念ではコンゴウリキシオーに、天皇賞・秋ではエイシンデピュティに騎乗し中央競馬のGIにも参戦を果たした。クイーンカップでは大井所属のエイブルインレースで、勝ち馬のディアジーナから0.1秒差の3着に食い込む活躍をした。

2010年は中央への参戦も積極的に行っている。中央競馬の日本ダービーでトゥザグローリーに騎乗。大井競馬場で行われた東京ダービーではマカニビスティーに騎乗し、圧勝。東京ダービー最多タイの3勝となった。6月30日に行われた帝王賞(JpnI)では、フリオーソに騎乗。中央競馬の有力馬のカネヒキリ・ヴァーミリアン・サクセスブロッケンなどが参戦するなか、先頭を進むサクセスブロッケンの2番手につけ、直線で一気に先頭に躍り出るとそのまま1着でゴールイン。2着は中央競馬のカネヒキリだった。

今まで勝ったことのなかったヴァーミリアンにも勝つことができ、表彰式では涙を拭う場面も見られた。交流GIは通算2勝目。7月14日に行われたジャパンダートダービー(JpnI)ではマグニフィカに騎乗。始終先頭をキープ。直線でも一度も前を譲らず、そのままゴールイン。帝王賞に続いて川島正行調教師とのタッグでGIを獲得した。GI通算3勝目。11月3日に船橋競馬場で行われたJBCクラシックは地方最強馬のフリオーソとタッグを組むも武豊騎乗のスマートファルコンに逃げられ2着。11月14日の東京競馬場第11競走第15回東京中日スポーツ杯武蔵野ステークスでは6番人気のグロリアスノアで優勝し、中央競馬重賞を初制覇した。

2011年も中央競馬へ参戦。6月5日の安田記念では、南関東の先輩で負傷休養中の内田博幸のお手馬でもあるリアルインパクトに騎乗し、中央競馬GI競走での初優勝を飾った。

戸崎圭太 エピソード

2005年に初めて中央競馬 (JRA) の新規騎手免許試験に挑み[3]、一次試験で不合格となる[4]。2010年の時点ではJRAへの移籍について「今は特別考えていませんね。そういう時期になったら、改めて考えようと思っています。今は1頭でも多く、1日でも多くガムシャラに乗りたいんですよ」[5]と述べていた。翌2011年、安田記念の勝利を契機として2度目の試験に挑んだ[3][4]が、またも一次試験で不合格となった[6]。

戸崎圭太 表彰

ベストフェアプレイ賞(2006年)
NARグランプリ最優秀騎手賞(2008年)

戸崎圭太 年度別成績表

戸崎圭太 地方競馬
年度 騎乗数 勝利  順位    勝率 連対率 獲得賞金勝数
1998年 70 4 位 .057 .143 18,356,000円
1999年 307 12 位 .039 .121 62,908,000円
2000年 404 25 位 .062 .126 113,735,000円
2001年 546 31 位 .057 .125 186,837,500円
2002年 533 36 位 .068 .158 166,044,000円
2003年 615 39 位 .063 .135 156,293,000円
2004年 731 53 位 .073 .156 181,840,000円
2005年 860 74 62位 .086 .169 235,136,000円
2006年 1145 139 22位 .107 .229 391,532,000円
2007年 1584 212 3位 .134 .242 593,054,000円
2008年 1737 306 1位 .176 .305 1,055,680,000円
2009年 1762 387 1位 .220 .355 1,196,562,000円
2010年 1665 288 1位 .173 .297
通算 11968 1593 – .133 .241

戸崎圭太 中央競馬
年度 騎乗数 勝利 順位    勝率 連対率 獲得賞金勝数
2005年 3 0 176位 .000 .000 0円
2006年 18 0 181位 .000 .000 750,000円
2007年 44 2 133位 .045 .091 45,263,000円
2008年 152 3 110位 .020 .092 110,736,000円
2009年 199 21 50位 .106 .191 311,105,000円
2010年 293 22 45位 .075 .184 496,676,000円
通算 709 48 – .068 .155 964,530,000円

戸崎圭太 初騎乗記録

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

方 初騎乗・初勝利 1998年4月12日 1回大井1日3R C3八組九組 ミヤサンヤシマ 9頭 1 1着
重賞初勝利 2005年9月14日 11回大井4日10R トゥインクルレディー賞 コウエイソフィア 16頭 8 1着
GI初勝利 2008年6月25日 5回大井4日11R 帝王賞 フリオーソ 13頭 1 1着

央 初騎乗 2005年6月26日 2回福島4日3R 3歳未勝利 スプリングラゴス 15頭 13 10着
初勝利 2007年7月08日 3回阪神8日8R 3歳上500万下 ヤマカツティガー 13頭 5 1着
重賞初騎乗 2007年3月25日 3回中山2日11R マーチステークス シーチャリオット 15頭 11 13着
重賞初勝利 2010年11月14日 5回東京4日11R 武蔵野ステークス グロリアスノア 16頭 6 1着
GI初騎乗 2008年2月24日 1回東京8日11R フェブラリーステークス アンパサンド 16頭 13 10着
GI初勝利 2011年6月5日 3回東京6日11R 安田記念 リアルインパクト 18頭 9 1着


順位 主な騎乗馬

フリオーソに騎乗
メイショウアーム(2001年ジャパンダートダービー2着)
コウエイソフィア(2005年トゥインクルレディー賞)
アンパサンド(2007年東京ダービー)
フリオーソ(2008年ダイオライト記念、帝王賞、2009年ダイオライト記念、2010年帝王賞、日本テレビ盃、2011年川崎記念、かしわ記念)
フィリアレギス(2008年桜花賞)
ドリームスカイ(2008年東京ダービー)
トーセンジョウオー(2008年スパーキングレディーカップ)
ギャンブルオンミー(2008年黒潮盃)
ネフェルメモリー(2008年東京2歳優駿牝馬、2009年桜花賞、東京プリンセス賞)
スパロービート(2009年船橋記念)
ナイキハイグレード(2008年ハイセイコー記念、2009年京浜盃、羽田盃)
フジノウェーブ(2010年東京スプリング盃)
マカニビスティー(2010年東京ダービー)
マグニフィカ(2010年ジャパンダートダービー)
グロリアスノア(2010年武蔵野ステークス)
クラーベセクレタ(2010年東京2歳優駿牝馬、2011年羽田盃、東京ダービー、ロジータ記念、クイーン賞)
ナイキマドリード(2011年さきたま杯)
リアルインパクト(2011年安田記念)

順位 脚注

^ 競馬最強の法則2010年9月号 ターザン炎上!競馬デスマッチ 戸崎圭太騎手
^ 同期デビューの騎手には森泰斗(現船橋)がいる。
^ a b “地方競馬No.1騎手の戸崎がJRA受験” (日本語). デイリースポーツ (2011年9月2日). 2011年10月20日閲覧。
^ a b “戸崎 JRA受験「内田さんを追いかけて」” (日本語). スポーツニッポン (2011年9月2日). 2011年10月20日閲覧。
^ 週刊Gallop 2010年8月29日号 戸崎圭太という男
^ “大井の戸崎はJRA騎手免許試験に不合格” (日本語). デイリースポーツ (2011年10月20日). 2011年10月20日閲覧。

女性騎手

女性騎手

女性騎手 概要
世界初の女性騎手は1936年に日本の京都競馬倶楽部での騎手免許試験に合格した斉藤澄子である。
しかし、競馬関係者が「女性騎手の存在は風紀を乱す」と反対運動を展開した結果、農林省および東京帝国競馬協会が斉藤のレース出場を禁止する通達を出したためレースに騎乗することができず、さらに1937年に発足した日本競馬会が男性であることを騎手の要件とした(当時)ため引退を余儀なくされた。吉永みち子の小説『繋(つな)がれた夢』の主人公は斉藤がモデルとなっている。

世界2例目の女性騎手は斉藤の引退から30年以上を経た1968年11月にアメリカで騎手免許を取得したペニー・アン・アーリーである。しかし男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、斉藤と同様に一度もレースに出場することなく引退した。
このように完全なる男尊女卑の社会であったかつての競馬界において異色の存在であった女性騎手は、それ故にその誕生から不遇に満ちたものだった。

しかしその後、1960年代後半から起こったウーマンリブの世界的広がりなどの影響から、競馬界に於いても不当な男女差別が問題視されるようになり、以後実際にレースで騎乗し活躍を見せる女性騎手が登場し始める。
最も成功した女性騎手はアメリカのジュリー・クローンである。クローンは通算3704勝、重賞132勝、1993年のベルモントステークスに優勝するなど超一流騎手と呼ぶに相応しい実績をあげ、2000年8月に女性騎手として初めて競馬の殿堂入りを果たした。

21世紀以降も、カナダのシャンタル・サザーランドなどの超一流クラスの女性騎手が登場している。サザーランドはモデル業と騎手を兼任している珍しい騎手でもある。
日本では勝利数の面において、中央競馬よりも地方競馬において女性騎手が活躍している。名古屋競馬場に所属していた宮下瞳が、日本における女性騎手の最多勝利記録の626勝を挙げ(地方競馬のみ)、短期騎手免許で騎乗した韓国でも50勝以上を挙げている[1]。なお、2002年に中央競馬の短期免許を取得したニュージーランドのロシェル・ロケットが、中山大障害に優勝。これが中央競馬初の女性騎手による重賞優勝、かつGI(J・GI)優勝である。
対する日本中央競馬会(JRA)所属の日本人女性騎手については、2010年時点でも目立った活躍は見られない。これは単純に騎乗技術の優劣によるとする考え方の一方、技術以上に「女の力では馬は御せない」という盲目的な古い因習=男尊女卑の思想が競馬関係者や馬主などに未だ根強く残っていることにも原因があるという見解の分かれる部分もある。その最たる例として、競馬学校で騎乗技術を含めて最も優秀な成績を修めた卒業生に贈られるアイルランド大使特別賞を受賞し、JRA初の女性騎手の1人としてデビューした牧原由貴子(現・増沢由貴子)が、実際の騎乗依頼数、騎乗馬の質においても殆どチャンスを与えられず、他の同期生たちよりも騎乗数などで冷遇されていることが上げられる。彼女たちのデビュー当初は「女性にも道が開けたことで先行する地方競馬のように中央競馬に挑戦する女性騎手が増えるのではないか」と期待されていたが、最初のケースが実質的な失敗に終わったことで、現在の中央競馬では女性騎手が活躍できる下地が根付いておらず、また西原玲奈を最後に競馬学校の騎手過程を卒業した女性は途絶えている。

日本全国の女性騎手を招待して開催されるシリーズとして、「レディースジョッキーズシリーズ」(LJS)がある。これは荒尾競馬場で2004年および2005年に行われた「全日本レディース招待競走」を前身とし、1997年から2000年まで中津競馬場で行われていた「卑弥呼杯」、2001年に新潟競馬場で行われた「駒子賞」を起源とする。なお、それ以前の女性競馬騎手招待レースには「レディスカップ」(1981年〜1984年、水沢競馬場、上山競馬場、新潟競馬場)、「国内女性騎手招待競走」(1982年〜1984年、水沢競馬場)、「ANJレディースカップ」(1988年、札幌競馬場)、「インターナショナルクイーンジョッキーシリーズ」(1989年〜1993年)などがある。
NARグランプリでは「優秀女性騎手賞」の部門を設置し、その年に最も活躍した女性騎手を表彰している。

女性騎手に対する減量特典がある競馬場 

女性騎手に対してレース時の負担重量を減量する特典を付与する制度を実施している競馬主催者もある。平地競走においては1kg、ばんえい競馬は10kg優遇される。ただし、重賞競走においては適用されない。
ばんえい競馬
名古屋競馬場
笠松競馬場
福山競馬場
高知競馬場
荒尾競馬場

主な女性騎手

日本の女性騎手

女性騎手 現役(2011年11月現在)
増沢由貴子(旧姓:牧原)(JRA)
竹ケ原茉耶(ばんえい)
笹木美典(北海道)
下村瑠衣(北海道) - 2011年3月16日新規騎手免許合格。
皆川麻由美(岩手)
山本茜(名古屋)
別府真衣(高知) - 父は高知所属の調教師別府真司。
森井美香(高知)
岩永千明(荒尾)

女性騎手 引退
斉藤澄子(京都競馬倶楽部)
田村真来(JRA) - 父は元騎手の田村正光。
板倉真由子(JRA)
細江純子(JRA)
押田純子(JRA) - 現姓・清水。父は元騎手の押田年郎。
西原玲奈(JRA)
辻本由美(ばんえい) - 父は調教師の辻本誠作、弟は騎手の辻本貴信。
佐藤希世子(ばんえい)
安田歩(北海道)
勝賀瀬芳子(北海道〜宇都宮)
佐々木明美(北海道)
高橋クニ(岩手) - 実際にレースで騎乗した日本初の女性騎手。繋駕競走のみ騎乗し、通算253戦33勝、2着39回(1966〜1971年)。水沢・高橋武(クニの夫でもある)厩舎所属。娘の優子(下記参照)は日本初の平地女性騎手。
高橋優子(岩手) - 日本初の平地女性騎手。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969〜1974年,通算5年6ヵ月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。
佐々木亜紀(岩手)
石川夏子(岩手)
千田和江(岩手)
新田弥生(旧姓:吉田)(岩手)
岩田富子(上山) - 昭和20年代に活動。『地方競馬』1986年7月号29ページにおいて「(斉藤を除くと実質的な)本邦女性騎手第一号といわれる」と紹介されている。
小田嶋志生子(上山)
和田美由紀(上山)
徳留五月(旧姓:遠藤)(上山〜高知)
藤塚聡子(新潟〜高崎)
山田真裕美(新潟)
山本泉(大井〜新潟)
赤見千尋(高崎)
米田真由美(高崎)
牛房由美子(浦和) - 父は浦和所属の元騎手、現調教師の牛房榮吉。
木村園夏(浦和)
平山真希(浦和) - 騎手引退後調教師に転向。
土屋薫(浦和〜大井) - 父は浦和所属の元調教師土屋登。
稲川由紀子(船橋)
鈴木久美子(船橋)
鈴木千予(船橋)
溝邉悦代(船橋)
米井陽子(船橋)
松沼緑(大井)
沢江鮎美(大井)
埴谷美奈子(大井〜益田)
戸川理彩(川崎)
安池成実(川崎) - 騎手引退後調教師に転向。父は元調教師の安池保。
宮岸由香(金沢)
山上由紀子(金沢)
岡河まき子(笠松)
中島広美(笠松)
神野治美(名古屋) - 日本の女性騎手として史上初の初騎乗初勝利の快挙を達成した人物。後に同じ名古屋所属の騎手であった横川健二と結婚し、子息である横川怜央は大井所属の騎手で、日本の平地競馬では史上初の両親が騎手経験者である騎手[1]。
宮下瞳(名古屋) - 日本における女性騎手最多勝記録保持者(2011年8月現在)。
吉岡牧子(益田) - 8年間で通算350勝。現代競馬において女性騎手の存在を広めた功労者。引退まで益田のスター騎手でもあった。
白津万里(福山)
池本徳子(旧姓:大場〜佐藤)(福山)
伊藤千織(佐賀)
藤本美芽(荒尾)
小田部雪(中津〜荒尾) - 2001年中津競馬の廃止とともに荒尾競馬に移籍。2002年引退。
篠田幸子(中津)

日本国外の女性騎手
ペニー・アン・アーリー(アメリカ)
メアリー・ベーコン(アメリカ) - 1978年大井競馬場の招待競走などで来日。
ジュリー・クローン(アメリカ) - 1990年ワールドスーパージョッキーズシリーズで来日。
エマ=ジェイン・ウィルソン(カナダ)
リサ・クロップ(ニュージーランド) - 1994年にJRAの短期免許を取得し来日(女性短期免許騎手第1号)。
リサ・マンビー(ニュージーランド)
ロシェル・ロケット(ニュージーランド) - 2002年中山大障害優勝、JRAの重賞競走で唯一の女性G1ジョッキー。
アンヌソフィ・マドレーヌ(フランス) - 1999年インターナショナルジャンプジョッキーズで来日。
アレックス・グリーヴス(イギリス) - 1997年ナンソープステークス優勝、欧州の平地競走で史上初の女性G1ジョッキー。
バーナデット・クーパー(大井) - 短期免許(2003年8月5日〜11月4日)。オーストラリアの騎手。
ヘイリー・ターナー(イギリス) - 2006年、2007年シャーガーカップイギリス代表として出場。2011年ジュライカップG1、2011年ナンソープステークスG1優勝。
シャンタル・サザーランド(カナダ)
カシー・オハラ(オーストラリア)
^ 韓国の日本人騎手たち 内田利騎手、現地若手の模範に ZakZak 2011年1月27日

別府真衣騎手、レディースジョッキーズS総合優勝!!

別府 真衣(べっぷ まい、1987年12月8日 - )は、地方競馬の高知競馬場別府真司厩舎所属の騎手。
高知県出身。勝負服の服色は胴赤・青山形一本輪、袖白・赤星散らし。地方競馬教養センター騎手課程第82期生[1]。
別府真司調教師は実父。

別府真衣 経歴
2005年9月29日付けで地方競馬騎手免許を取得[2]。
同年10月9日第10回高知競馬1日目第3競走マイミカガンバレ特別(アラブ系A7)をセンターカノンで優勝(6頭立て1番人気)し、初騎乗初勝利。
2006年8月6日第8回高知競馬2日目第1競走サラ系F級ロ組条件戦をシェアハッピーで優勝(6頭立て2番人気)し、デビューから460戦目で地方競馬通算50勝達成。
この記録は同期の山本茜(愛知)の463戦目での達成を上回る現役女性騎手最速(ばんえい除く)記録であった。
また、18歳7ヶ月での50勝達成は高橋優子(元岩手)を上回る、女性騎手史上最年少記録となった[3]。高知競馬で同期の女性騎手に森井美香がおり、両騎手は初の高知競馬生え抜きの女性騎手である。高知競馬史上初の女性騎手は、1999年で引退した徳留五月(上山→高知)である。
2006年、2007年に開催されたレディースジョッキーズシリーズにおいて2年連続で総合2位。(2007年は1位の宮下瞳と同点で並ぶも、「最終戦での着順上位者」を上位とする規定により、惜しくも優勝を逃している)2008年は念願の初優勝を飾った。
2008年7月19日第6回高知競馬5日目第10競走第5回トレノ賞をロマンタッチで優勝(10頭立て5番人気)し、重賞初制覇[4]。
また、2008年6月より、森井美香と共に、高知のフリーペーパー『カチ遊!?』に、冠コーナー『みぃ&まいの競馬やろうぜ!!』が掲載されている。
2009年8月9日には韓国・釜山慶南競馬場で開催された「第1回KRA国際女性騎手招待競走」に宮下瞳(名古屋)、岩永千明(荒尾)と共に日本代表として出場。同年8月7日釜山慶南競馬場第2競走でSeondu Jeongsangに騎乗し、海外初騎乗(12頭立て8番人気11着)。招待競走では4番人気の日本産馬Dongbang Geona(トンバンゴナ)に騎乗し7着となった[5]。その後宮下瞳と同様に釜山への期間限定騎乗を希望したが、高知県競馬組合側の許可が下りず、断念することになった[6]。
2011年3月上旬から半年間の予定でソウル競馬場で期間限定騎乗を行うことが発表され、3月19日から騎乗を開始した[7]。しかし移籍後早々に骨折による療養を余儀なくされ、ブランクに相当する期間として2012年2月まで騎乗期間を延長した。

別府真衣 主な騎乗馬
ロマンタッチ(2008年トレノ賞)
ハッコー(2010年金の鞍賞)
成績表 [編集]
年	勝利数・連対率	表彰・獲得タイトル等
2005年	17勝(.256)	特になし
2006年	60勝(.208)	NARグランプリ2006(優秀女性騎手賞)
こうちスタージョッキーシリーズ・日本トーター杯 優勝
2007年	82勝(.235)	NARグランプリ2007(優秀女性騎手賞)
2008年	65勝(.221)	NARグランプリ2008(優秀女性騎手賞)
トレノ賞 優勝
レディースジョッキーズシリーズ2008 優勝
レディースジョッキーズシリーズ2011 優勝
別府真衣 脚注
^ 第82期生のページ - 地方競馬情報サイト
^ 平成17年度第2回調教師・騎手免許試験新規合格者発表 - 地方競馬情報サイト
^ 別府真衣騎手、女性騎手最速・最年少の50勝達成 - netkeiba.com
^ 高知の女性ジョッキー・別府真衣騎手が重賞初V - netkeiba.com
^ 【クローズアップ】宮下瞳騎手 KRA国際女性騎手招待競走を制す! - web Furlong
^ コメント返し゜+ 。(′∇` )。+゜ - 別府真衣騎手公式ブログ ~ 青春まいーご
^ 別府真衣騎手 韓国騎乗決定! - 高知けいばニュース

アラン・ムンロ

アラン・ムンロ

国籍	 イギリス
出身地	 イギリス
生年月日	1967年1月14日(44歳)
騎手情報
初免許年	1984年
免許区分	平地

アラン・ムンロ(Alan Munro、1967年1月14日 - )はイギリスの騎手。香港における名前の中文表記は「文羅」。

アラン・ムンロ 経歴
若手時代にヨーロッパへ渡ったアメリカ合衆国の騎手スティーブ・コーゼンの影響を受け、アメリカ式の腰を低くする騎乗スタイルを身につけた。1991年に年間100勝を挙げるとともにジェネラスに騎乗してダービーステークスおよびキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスを優勝した。その後は勝利数が落ち込むなど成績が低迷、香港に本拠地を移したが、低迷は続き一時騎手への情熱を失って休業しマーシャルアーツの修行に打ち込んだ。
2005年に騎手に復帰。同年60勝を挙げると翌2006年にはアラーファに騎乗してアイリッシュ2000ギニーおよびセントジェームズパレスステークスを優勝した。しかし同年8月に飛行機に搭乗して移動中に痙攣を発症。これがアランが過去に起こしたことのあった癲癇の発作であると一度は判断され、1年間を下限とする騎乗停止処分を受けた。その後2007年12月にイギリスで医療審査を受け痙攣は癲癇ではなく低血圧によるものと認定され、処分は解除され翌2008年春に復帰した。
1994年、1995年および1999年には、JRAの短期騎手免許を利用して日本で騎乗し、1994年に府中牝馬ステークスを優勝した経験がある。2009年のマイルチャンピオンシップでエヴァズリクエストに騎乗するために来日、10年振りに中央競馬で騎乗した。
2010年、特別区競馬組合は地方競馬の短期免許が発行できれば10月から3ヶ月間南関東公営競馬で松浦裕之厩舎所属の形で騎乗すると発表し[1]、この年は日本での舞台をJRAからNARに変えて騎乗していた。なお期間中の勝負服は胴赤・右青襷、袖白を使用[2]。同年10月9日第11回大井競馬6日目第6競走C1四組五組条件戦をミラクルエースで優勝(2番人気)し、短期騎手免許取得後30戦目で初勝利をあげた[3]。 2011年も同様に地方競馬の短期免許を受けて3ヶ月間南関東公営競馬で宮浦正行厩舎所属の形で騎乗する。11月2日、マイルグランプリをボクに騎乗して優勝し、地方重賞初優勝。

アラン・ムンロ 主な優勝レース
ダービーステークス(1991年 騎乗馬ジェネラス)
キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(1991年 騎乗馬ジェネラス)
ワシントンDCインターナショナル(1992年 騎乗馬ゾーマン)
クイーンエリザベス2世カップ(2000年 騎乗馬インダストリアリスト)
アイリッシュ2000ギニー(2006年 騎乗馬アラーファ)
セントジェームズパレスステークス(2006年 騎乗馬アラーファ)
ノーフォークステークス(2006年 騎乗馬ダッチアート)
リディアテシオ賞(2009年 騎乗馬エヴァズリクエスト)
府中牝馬ステークス(1994年 騎乗馬ホッカイセレス)

アラン・ムンロ 注釈
^ アラン・ムンロ騎手の騎乗について - 東京シティ競馬公式サイト 2010年9月23日閲覧。
^ アラン・ムンロ騎手の騎手服について - 東京シティ競馬公式サイト 2010年10月10日閲覧
^ アラン・ムンロ騎手 短期騎手免許取得後 初勝利! - 東京シティ競馬公式サイト 2010年10月10日閲覧

中国で、今年の夏から60年ぶりに競馬が解禁されたそうです。馬券も売り出されそう。

東スポによると、

10月29日にJRA騎手が史上初めて中国本土の競馬に騎乗したそうです。
「馬主サイドから誘いがかかり、武漢競馬場(湖北省)の招待レースに出場しました。計8か国の騎手(延べ12人)のうち、1人は凱旋門賞馬(デインドリーム)のオーナーの息子さんでビックリ。蒙古馬のレースで千二ダートが1分32秒という途方もない決着だったけど、楽しい時を過ごさせてもらいました」
こうコメントするのは、加藤士津八騎手。史上初めて中国本土の競馬に騎乗したJRA騎手になったわけですね。
中国では今年の夏から60年ぶりに競馬が解禁されたそうです。

まだ馬券発売こそ禁止されているが「向こうでは歓待を受け、日本の競馬事情など熱心に聞かれました。道端に卓を引っ張り出してマージャンをしている国民性ですからね。政府の認可さえ下りれば、馬券は爆発的に売れそう」と加藤士津八騎手は肌身で感じた様子です。
今、馬券発売市場としても大きな注目が集まる中国。加藤士津八騎手の今回の騎乗が日本と中国をつなぐ未来への懸け橋になり、

中国人の馬券がJRAの売り上げを上げる救いの神になるかもですね。

尾島徹

尾島徹

出身地	愛知県
生年月日	1984年3月23日(27歳)
身長	170cm
体重	52kg
血液型	O型
騎手情報
所属団体	岐阜県地方競馬組合
所属厩舎	柴田高志(笠松)
勝負服	黄・青鋸歯形、袖青一本輪
初免許年	2001年

尾島 徹(おじま とおる、1984年3月23日 -)は、地方競馬の笠松競馬場柴田高志厩舎所属の騎手である。地方競馬教養センター長期騎手課程第73期生[1]。

尾島徹 来歴
 2001年3月31日付けで地方競馬騎手免許を取得。同年4月1日第1回笠松競馬1日目第4競走BC組条件戦3番人気ダイワコマンダーで初騎乗(9頭立て5着)。同年4月25日第2回笠松競馬3日目第3競走3歳組条件戦を9番人気カメラメセンで優勝し、11戦目で初勝利(10頭立て)。
 2002年10月15日第17回全日本新人王争覇戦出場(12人中9位)。
 2004年4月9日第1回笠松競馬5日目第5競走サラ系B19組条件戦を1番人気マルタカウランで優勝(10頭立て)し、地方競馬通算100勝達成。
 2005年4月30日第3回京都競馬3日目第6競走3歳500万下で10番人気マルヨサンデーに騎乗し、中央競馬初騎乗(11頭立て7着)。同年8月19日第8回笠松競馬5日目第9競走第34回くろゆり賞を7番人気オグリスキーで優勝し、重賞初制覇(10頭立て)。
 2006年5月31日第4回笠松競馬3日目第1競走サラ系3歳9組条件戦を1番人気アウヂョンで優勝(9頭立て)し、地方競馬通算200勝達成。同年10月22日第9回盛岡競馬5日目第31回報知新聞杯ウイナーカップを3番人気オグリホットで優勝し、他場での重賞初制覇(14頭立て)。翌10月23日から11月12日まで騎乗技術の向上を目的として中央競馬・岩戸孝樹厩舎で研修を行った。
 2007年6月8日第6回名古屋競馬4日目第12競走第37回東海ダービーを4番人気マルヨフェニックスで優勝した(12頭立て)。また、同馬とのコンビで同年8月15日第8回大井競馬4日目第9競走第41回黒潮盃に出走し、9番人気の低評価を覆して快勝した(15頭立て)。同年9月13日第10回笠松競馬3日目第9競走サラ系C2組選抜戦をキャプテンハートで優勝(8頭立て2番人気)し、地方競馬通算300勝達成。
 2008年1月8日第17回笠松競馬2日目第3競走において個人協賛により尾島徹騎手結婚記念3歳4組条件戦が施行され、マディスンスクエアに騎乗し2着だった(9頭立て3番人気)。同年7月7日第6回福山競馬3日目第9競走に実施された福山競馬場初の地方競馬全国交流競走オッズパークグランプリ2008で8番人気マルヨスポットに騎乗し、レコードタイムで優勝した(9頭立て)。同年11月28日第14回笠松競馬5日目第4競走いろり火特別(サラ系A2組)をフィンマックールで優勝(6頭立て4番人気)し、地方競馬通算400勝達成。
 2009年6月23日には騎乗機会4連続勝利を達成した[10]。同年7月16日第6回園田競馬3日目第11競走オッズパークグランプリ2009に3番人気マルヨフェニックスで出走、返し馬の際放馬するアクシデントがあったがそれを克服し優勝した(11頭立て)[11][12]。同年11月11日第13回笠松競馬3日目第8競走サラ系B8組条件戦を2番人気フジノアサハタで優勝(10頭立て)し、地方競馬通算500勝達成。
 2009年、549戦107勝で初めて笠松のリーディングジョッキーとなる。
 地方通算成績4499戦629勝/JRA通算42戦1勝(2010年12月31日現在)

ミルコ・デムーロ

ミルコ・デムーロ

2009年12月20日
阪神カップ優勝時
基本情報
国籍	 イタリア
出身地	 イタリア
生年月日	1979年1月11日(32歳)
身長	158cm
体重	52kg
血液型	A型
騎手情報
初免許年	1994年( イタリア)

ミルコ・デムーロ(Mirco Demuro、1979年1月11日 -)は、イタリア生まれの騎手。近年は短期免許制度を利用して来日しており、日本人にも馴染みの深い騎手である。香港における名前の中文表記は「杜滿萊」。
妹のパメラ・デムーロは元騎手で現在は調教師。弟のクリスチャン・デムーロもイタリアの騎手[1]であり、2011年には短期免許で来日し、船橋を拠点に地方競馬である南関東競馬で騎乗している。

ミルコ・デムーロ 来歴
1994年に騎手免許を取得し、1995年にイタリアの見習騎手リーディングに輝く。1997年から2000年までは4年連続でイタリアのリーディングジョッキーとなる。
日本には1999年に初来日。騎乗センスは非常に評判が良く日本の関係者の信頼も厚い。2001年2月3日の小倉競馬場では1日5勝を記録。これは外国人騎手としてJRA初のことである[2]。翌日の2月4日には小倉大賞典に勝ち、JRA重賞初制覇を達成した。
2003年4月10日、皐月賞をネオユニヴァースで制し日本のGI初制覇。喜びのあまりにゴール後2着のサクラプレジデント騎乗の田中勝春の頭を叩くシーンは印象的であった。続く6月1日の東京優駿(日本ダービー)でもネオユニヴァースに騎乗し外国人騎手としては初となる東京優駿制覇を達成、1番人気に応えて快勝したネオユニヴァースを祝福する大観衆を目にして「イタリアのダービー(デルビーイタリアーノ)を5回勝つよりも、日本のダービーを1度勝つ方が嬉しい」と感激の涙を流した。
二冠を達成し、三冠達成の期待がかけられたネオユニヴァースであったが、従来の日本の短期免許制度では三冠目の菊花賞にはデムーロは騎乗できない状態となってしまった。日本の短期免許では年間3ヶ月しか騎乗できず、デムーロは春だけで3ヶ月分を使い果たしてしまっていたためである。しかしこの事態を受けてJRAが新しく「同一馬で1年間にGIを2勝以上すれば、その馬が同年にGIに参戦する際に騎乗を認める」という規定を設けたため、デムーロは菊花賞に騎乗することが出来たが、惜しくも3着に敗れた。
2004年4月18日、皐月賞をダイワメジャーで勝利し、外国人騎手初の連覇を達成する。
2007年は、11月24日に京都競馬場で、外国人騎手としての最多タイとなる1日5勝を再び記録。12月2日の中日新聞杯ではサンライズマックスに騎乗して勝利したが、決勝線手前で飛行機ポーズを披露し制裁を受ける珍事を起こした。
2008年は11月29日より短期免許を取得したが、その翌日11月30日のジャパンカップではスクリーンヒーローに騎乗し見事同レース初制覇を飾る。なおこの時もゴール後のウイニングランで飛行機ポーズを披露していた。
2009年は12月28日より翌2010年1月27日までNARで短期免許を取得した。この時は船橋の川島正行厩舎に所属した。なおデムーロはこれより以前にも2度NARの短期免許を取得していた[3]。
2011年3月26日、ネオユニヴァースの子のヴィクトワールピサでドバイワールドカップを優勝。ドバイワールドカップ初騎乗初勝利を果たすと共に、日本馬にとっての同レース初勝利をもたらした。日本・イタリア以外では初のビッグタイトルと言え、デムーロ自身も「ジャパンカップもイタリアダービーも勝っているけど、これがベストレース」と語った[4]。

ミルコ・デムーロ エピソード
イタリアでテントウムシは「幸運を運んでくる虫」とされていることもあり、テントウムシを自らのラッキーアイテムにしている。同じイタリア生まれの騎手マルコ・モンテリーゾは「彼は色々なものにテントウムシのステッカーを貼っているんだ」と語っている。
上記の2003年の皐月賞で勝った時に田中勝春の頭を叩いたことについて、馬鹿にしているのではないかと言う声もあったため、その後、悪意やからかう意図はなかったと説明。田中も「ノープロブレム」と言い、2人の間にしこりはないと言う。
騎乗にあたっては事前の展開予想などを重視するタイプで、武豊は「いつのまにか日本の競馬新聞の読み方を覚えていて、(日本での騎乗時には)レース前になると競馬新聞片手に真剣に検討している」と証言している。ちなみに競馬新聞の読み方を覚えた影響で「競馬関連であれば漢字も読める」という[5]。
日本の騎手の中では特に松田大作と仲が良い。2010年10月から松田がイタリアに長期遠征する際にも住居探しなど様々な協力を行っている[6]。
サッカー好きとしても知られており、インタビューでも語ることがある。2010年末には、サッカー日本代表監督であるアルベルト・ザッケローニと友人になったと明かした。

ミルコ・デムーロ 主な勝ち鞍

ミルコ・デムーロ イタリア
イタリア共和国大統領賞(2000年Timboroa、2006年・2007年Distant Way、2009年Selmis)
オークスディターリア(2000年Timi、2009年Night Of Magic)
ジョッキークラブ大賞(1999年Sumati)
デルビーイタリアーノ(2002年Rakti、2010年Worthadd)
ミラノ大賞典(2011年Voila Ici)
ローマ賞(2009年Voila Ici)

ミルコ・デムーロ 日本
朝日杯フューチュリティステークス(2010年グランプリボス)
有馬記念(2010年ヴィクトワールピサ)
皐月賞(2003年ネオユニヴァース、2004年ダイワメジャー)
ジャパンカップ(2008年スクリーンヒーロー)
東京優駿(2003年ネオユニヴァース)

ミルコ・デムーロ その他
アスタルテ賞(2004年Marbye)
ドバイワールドカップ(2011年ヴィクトワールピサ)

スマートファルコン、一年間で4億4千万円の賞金獲得!武豊は5連覇で、今年もなんとかG1を勝ちました!!

スマートファルコンがJBCクラシック優勝しました。トランセンドは、スマートファルコンのスピードに
全くついていけなかったね。最後は、武が余裕を感じて、手綱を緩めてましたから。
第11回JBCクラシックが3日、大井競馬場2000メートルダートで開催されました。
勝ったスマートファルコンはこれで7連勝!JRA・地方含め通算31戦21勝、なんと重賞は17勝目!
GIレースは2010年JBCクラシック、2010年東京大賞典、2011年帝王賞に続き4勝目です。
そして騎乗した武豊は、2007年~09年ヴァーミリアン、2010年スマートファルコンに続いて
JBCクラシック5連覇です。まだまだ腐っても武豊ですね。

スマートファルコンは、この1年間で4億4千万の賞金を稼いでいます。今までの獲得賞金の半分以上をこの1年で稼いでいますから
今が、ピークでしょうか!?
来年のドバイで賞金を加算できれば日本馬史上最高獲得賞金額になりそうですね!!

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