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五十嵐雄祐

五十嵐 雄祐(いがらし ゆうすけ、1984年2月16日 – )は、JRAの美浦トレーニングセンターに所属する騎手。障害競走の騎乗が中心だが平地競走の免許も所持している。

五十嵐雄祐来歴

2002年、第18期生として競馬学校騎手課程を卒業し騎手免許取得。同期には田辺裕信、柴原央明、竹本貴志、南井大志などがいる。デビュー翌週には障害競走への騎乗も行われ、12勝(平地11勝、障害1勝)を記録し民放競馬記者クラブ賞を受賞した。
減量の取れる3年目以降平地への騎乗は減少するも、障害競走では騎乗機会を次第に増やし2007年に障害重賞を初制覇。2009年は障害競走で14勝を挙げ、年間障害競走最多勝利となった。

五十嵐雄祐主な騎乗馬

ベストグランチャ(2007年東京オータムジャンプ)
リワードプレザン(2007年中山グランドジャンプ2着)
エリモマキシム(2009年新潟ジャンプステークス)
エーシンディーエス(2010年京都ハイジャンプ)
ランヘランバ(2010年小倉サマージャンプ、京都ジャンプステークス)

五十嵐雄祐騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 2002年3月3日 1回中山4日12R 4歳上1000万円下 ヨイチキナコ 16頭 7 8着
初勝利 2002年4月28日 3回東京4日12R 4歳上500万円下 ラビットミレニア 15頭 4 1着
重賞初騎乗 2003年7月13日 2回福島8日11R 七夕賞 ダイワカーソン 13頭 13 12着
GI初騎乗 2005年6月5日 3回東京6日11R 安田記念 フジサイレンス 18頭 18 16着

害 初騎乗 2002年3月9日 1回中山5日5R 障害未勝利 テンビーエース 14頭 12 12着
初勝利 2002年8月3日 2回新潟7日5R 障害未勝利 ヤマニンサイボーグ 14頭 1 1着
重賞初騎乗 2002年10月12日 3回中山3日9R 東京オータムジャンプ マルゴウィッシュ 12頭 11 中止
重賞初勝利 2007年10月13日 4回東京4日9R 東京オータムジャンプ ベストグランチャ 14頭 3 1着
JGI初騎乗 2004年12月25日 5回中山7日10R 中山大障害 イサミゴマ 13頭 13 9着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2002年 11 6 8 189 .058 .090 .132 1 5 3 23 .043 .261 .391
2003年 13 15 23 340 .038 .082 .150 0 2 6 32 .000 .063 .250
2004年 9 16 9 262 .034 .095 .130 2 0 3 29 .069 .069 .172
2005年 3 3 1 98 .031 .061 .071 2 2 2 35 .057 .114 .171
2006年 1 1 2 42 .024 .048 .095 3 2 1 39 .077 .128 .154
2007年 2 2 3 59 .034 .068 .119 6 3 9 60 .100 .150 .300
2008年 2 1 1 47 .043 .064 .085 2 1 4 56 .036 .054 .125
2009年 1 1 1 39 .026 .051 .077 14 5 7 76 .184 .250 .342
2010年 0 0 0 19 .000 .000 .000 13 5 6 75 .173 .240 .320
中央 42 45 48 1095 .038 .079 .123 43 25 41 425 .101 .160 .256
地方 1 1 4 22 .045 .091 .273
エピソード [編集]

2004年4月6日に行われた竹本貴志騎手の葬儀では、友人代表として弔辞を読み上げた。

五十嵐雄祐関連項目

騎手一覧
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表・話・編・歴
JRA賞最多勝利障害騎手
1980年代
87 該当者なし / 88 臼井武 / 89 星野忍
1990年代
90 星野忍 / 91 押田年郎 / 92 北村卓士 / 93 中竹和也 / 94 北村卓士 / 95 田中剛 / 96 北村卓士 / 97 林満明 / 98 田中剛 / 99 熊沢重文
2000年代
00 熊沢重文 / 01 田中剛 / 02 熊沢重文 / 03 嘉堂信雄 / 04 熊沢重文 / 05 横山義行 / 06 西谷誠 / 07 西谷誠 / 08 西谷誠 / 09 五十嵐雄祐
2010年代
10 五十嵐雄祐

飯田祐史

飯田 祐史(いいだ ゆうじ、1974年11月18日 – )は、JRA栗東トレーニングセンター・飯田明弘厩舎に所属する騎手である。父は調教師の飯田明弘。

飯田祐史来歴

1993年、第9期生として競馬学校騎手課程を卒業しJRAの騎手免許を取得する。同期には伊藤直人、小林徹弥らがいる。
JRA初騎乗は3月6日阪神2R父の管理馬メイショウアルマダに騎乗し14着。同日6R、同じく父の管理馬マイネルアルファで勝利しJRA初勝利を挙げる。デビュー年は19勝を挙げ関西新人騎手賞を獲得している。

その後順調に勝利数を伸ばし1999年には自己最高となる42勝を記録。さらに夏の小倉リーディングも獲得などの実績により、秋にはマカオでの交流競走派遣騎手にも選出されている[1]。

同時期に飯田はブゼンキャンドルに騎乗し、トライアル競走で秋華賞への優先出走権を獲得しながら、先述の交流競走と日程が重なるため本番での鞍上を安田康彦に譲るという不運もあったが、後に「僕が乗っていたら安田さんのような思い切った騎乗はできなかった」と語っている[2]。

2000年にはメイショウオウドウとのコンビで大阪杯を制しJRA重賞初勝利を達成した他、同馬にてGI競走での最高着順を記録し、関西中堅騎手として活躍を続けるも、2002年2月レース中の落馬により右鎖骨々折及び左股関節脱臼の重傷を負う[3]。
当初全治6ヶ月と診断されながら3ヶ月の休養で復帰を果たし、この年重賞2勝を含む22勝を挙げているが、この負傷事故以降の勝利数は10勝台で推移している。

飯田祐史主な騎乗馬


メイショウオウドウ(2000年大阪杯、マイルチャンピオンシップ3着、2001年安田記念3着、鳴尾記念など)
メジロマイヤー(2002年きさらぎ賞)
アラタマインディ(2002年小倉記念)

飯田祐史騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1993年3月6日 1回阪神3日2R 4歳未勝利 メイショウアルマダ 15頭 10 14着
初勝利 1993年3月6日 1回阪神3日6R 4歳新馬 マイネルアルファ 11頭 4 1着
重賞初騎乗 1993年3月21日 1回阪神8日11R 4歳牝馬特別 ショウザンダイヤ 16頭 15 5着
重賞初勝利 2000年4月2日 2回阪神4日11R 大阪杯 メイショウオウドウ 16頭 1 1着
GI初騎乗 1993年11月14日 6回京都4日10R エリザベス女王杯 タカノプリマ 18頭 17 15着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1993年 19 28 28 342 .056 .137 .219
1994年 33 21 25 365 .090 .148 .216
1995年 28 25 26 339 .083 .156 .233
1996年 19 23 19 291 .065 .144 .210
1997年 17 20 24 298 .057 .124 .205
1998年 26 38 29 343 .076 .187 .271
1999年 42 51 41 481 .087 .193 .279
2000年 25 50 32 459 .054 .163 .233
2001年 33 28 27 438 .075 .139 .201
2002年 22 12 21 298 .074 .114 .185
2003年 15 15 21 333 .045 .090 .153
2004年 14 17 23 252 .056 .123 .214
2005年 7 15 16 249 .028 .084 .149
2006年 14 9 14 263 .053 .087 .141
2007年 5 8 4 185 .027 .070 .092
2008年 19 10 17 220 .086 .132 .209
2009年 16 15 17 251 .064 .124 .191
2010年 10 11 13 229 .044 .092 .148
中央 364 395 397 5636 .065 .135 .203
地方 9 8 10 77 .117 .221 .351

安藤光彰

安藤 光彰(あんどう みつあき、1959年1月5日 – )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンター所属(フリー)の騎手である。2007年2月までは笠松競馬場所属、同年3月から2009年1月までは美浦トレーニングセンター・菊川正達厩舎所属の騎手だった。当時の勝負服の服色は胴紫、白山形一本輪、袖黄。愛知県一宮市出身。同じくJRA騎手の安藤勝己は実弟、長男・安藤洋一は大井競馬場所属の騎手。

安藤光彰来歴

出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが中学3年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが復縁時には逆に父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤光彰」である[1]。

初騎乗は1976年10月20日。翌10月21日には早速初勝利を挙げる。笠松競馬時代は小井戸金一厩舎に所属し、これまでに地方競馬において2818勝(JRA移籍時)を挙げており、笠松競馬のみならず地方競馬全体を代表する騎手として長年活躍してきた。

JRAにおいては1992年6月27日、第2回中京競馬場3日目第11レース(テレビ愛知賞)でベッスルエースに騎乗したのが初騎乗(12頭立ての4着)。しかしその後JRAにおいては勝ち星に恵まれず、初勝利は7年後の1999年12月19日、第3回小倉競馬場第12レースのラパシオン。地方競馬所属時代のJRA通算成績は12勝(うち重賞2勝)。

2005年12月に地方競馬再興会議での合意に基づき新たに創設された期間限定騎乗騎手制度により、2006年1月10日から3月10日まで大井・高橋三郎厩舎、同年5月1日から6月30日まで船橋・渋谷信博厩舎に所属するなど地元以外の競馬場にも積極的に参戦してきた。

JRAの騎手免許試験も受験してきたが、2006年度の試験を突破(1次試験からの受験であり、競馬学校出身者以外で1次試験からの合格は赤木高太郎、柴山雄一に次いで3人目)し、2007年3月1日からはJRAの騎手として騎乗している。移籍当初から栗東に所属した弟とは対照的に、美浦・菊川厩舎に所属する。

移籍当初、美浦所属とした理由は長男の洋一が公営・大井にて騎手になる修行をしていたためである。同様に、高齢になった家族の世話をする必要がでてきたという理由で、2009年2月から拠点を栗東に移した。[2]


2009年現在、JRA所属現役最年長騎手である。移籍した2007年3月の時点で、調教師に転身した本田優と入れ替わる形で平地最年長騎手となり、同年7月末で当時現役最年長(障害専門騎手)の嘉堂信雄が引退したため、結果的にではあるが安藤は移籍1年目でJRA所属最年長騎手となった。

安藤光彰主な勝利

いずれも中央競馬移籍以前。
全日本サラブレッドカップ – 1997年(トミケンライデン)、2000年(ハカタビッグワン)
オグリキャップ記念 – 2001年(ハカタビッグワン)
CBC賞 – 2003年(シーイズトウショウ)
平安ステークス – 2004年(タイムパラドックス)

安藤光彰脚注

^ 安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照
^ 安藤光騎手、拠点を栗東へ移籍 サンケイスポーツ 2009年1月9日付

安藤勝己

安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日 – )は日本中央競馬会(JRA)の騎手である。栗東トレーニングセンター所属(フリー)。愛知県一宮市出身。血液型A型。笠松競馬場在籍時の勝負服の服色は胴青、白山形一本輪、袖黄。また、兄の安藤光彰も騎手(NAR笠松→JRA)、甥はNAR大井競馬場所属の安藤洋一である。

「アンカツ」のニックネームで親しまれている。出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが中学2年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが復縁時には逆に父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤勝己」である[1]。なお、兄の光彰は「アンミツ」、甥の洋一は「アンヨウ」「アンヨー」の愛称で呼ばれている。
なお本項では他の安藤姓の競馬関係者と区別するため、特に断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。

安藤勝己来歴

安藤勝己笠松時代

兄・光彰が騎手である影響から、勝己は1976年に地方競馬の笠松競馬場で初騎乗。同年12月のジュニアグランプリをシプリアパールで優勝し初重賞を飾る。

翌1977年は78勝を挙げリーディング2位となり、さらに1978年に116勝を挙げリーディングジョッキーとなる。以降リーディングジョッキーに君臨し続け、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日は無い」と言われるほどであった。1985年に「名古屋の天才」と謳われた坂本敏美が競走中の不慮の事故で引退を余儀なくされた後は、2003年に中央競馬に移籍するまで笠松競馬場のみならず「東海のエース」と称される活躍を見せた(JRA移籍時の通算勝利数は3299)。

安藤勝己笠松時代のお手馬

オグリキャップ
笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として最も有名であるのがオグリキャップである。勝己は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ転厩するが、勝己は当時は中央競馬の騎手免許が無いため騎乗することはできず、中央移籍後は河内洋、南井克巳、岡部幸雄、武豊、岡潤一郎、増沢末夫らJRA所属の騎手が騎乗した。
それでも笠松で行われたオグリキャップの引退式では勝己がオグリキャップに跨りスタンドを2周した(オグリキャップは中央・地方時代を合わせて32戦を戦ったが勝己が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である)。

オグリローマン
勝己はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。後にオグリローマンは中央競馬へ移籍し、1994年の桜花賞を武豊を背に制した。
現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することは珍しくない。しかし1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマーやジャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や、地方競馬騎手招待競走のみに限られており、勝己が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのは止むを得ないことであった。

安藤勝己中央競馬への参戦

安藤勝己がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で引退後に種牡馬となったヤマニンスキーによるものである。

1995年は「交流元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく開放された年であった。同年、笠松競馬所属で10戦10勝のライデンリーダーとのコンビで中央競馬の重賞・4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出走した。2番人気ながらレースレコードで勝利を収めた。

続く桜花賞では、後の優駿牝馬(オークス)優勝馬・ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージのサンデーサイレンス産駒2頭を抑え、ライデンリーダーは単勝1.7倍の1番人気に支持された。しかし3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れた。続くオークスでも1番人気に支持されるが13着に大敗。

秋は1戦した後にローズステークスに挑んで3着に入り、当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。結局ライデンリーダーは4歳牝馬特別以後に中央で勝ち星を挙げることはなかった。

安藤勝己中央競馬への移籍

安藤勝己JRA騎手試験を受験

上記のように中央競馬でも重賞を8勝、通算100勝を達成するなど活躍していた勝己は、2001年に中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験するが不合格。

これはJRA競馬学校卒業者と同じく学科試験を課されたからであると言われているが、地方とはいえこれだけの実績を残した騎手を学科試験で不合格にしたのはナンセンスであると競馬ファンや競馬記者からの批判を呼ぶことになった。この事態を受けて、JRAは翌年から、「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除する試験要項改定(いわゆる「アンカツ・ルール」)を行い、勝己は2002年に再びJRA騎手試験を受験し合格となった。

安藤勝己中央競馬移籍

2003年
騎手試験合格後中央競馬へ移籍し2003年3月1日、阪神競馬で中央競馬所属騎手としてデビュー。同日の第6競走で移籍後初勝利を挙げる。その後3月30日には高松宮記念(中京競馬場)をビリーヴで優勝し中央騎手デビューから30日というJRA新記録で、また「お膝元」でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞をザッツザプレンティで勝利しクラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、リーディング3位となる。
2004年
2004年はキングカメハメハで東京優駿(日本ダービー)を制しダービージョッキーとなるなどGI競走を7勝(中央GI4勝)。
2005年
2005年はスズカマンボで天皇賞(春)初優勝を飾り、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。
2006年
2006年はキストゥヘヴンで桜花賞、ダイワメジャーで天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップを制覇。
2007年
2007年はダイワスカーレットで桜花賞(連覇)、秋華賞の牝馬二冠を達成。また同馬でエリザベス女王杯も制し、京都競馬場で行われるGI・JpnIの完全制覇を達成した。さらにサンライズバッカスでフェブラリーステークスを、ダイワメジャーで安田記念・マイルチャンピオンシップ(連覇)を制し、中央GI・JpnI6勝を挙げる(2007年11月18日現在GIおよびJpnI計16勝)。これは2005年の武豊のと並ぶJRA記録である。
この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(.238)。なお連対率(.410)&複勝率(.524) 共にこの年のトップであった。11月17日には京都競馬場でJRAタイ記録で史上3人目となる騎乗機会6連勝を達成。またワールドスーパージョッキーズシリーズに出場し、世界中の名騎手たちが参加する中15人中3位と健闘した。
2008年
2008年は阪神ジュベナイルフィリーズをブエナビスタで優勝。また有馬記念をダイワスカーレットで優勝し、有馬記念初制覇と共に中山の芝重賞を初制覇。
2009年
2009年は桜花賞をブエナビスタで優勝し同レース3勝目。また優駿牝馬(オークス)をブエナビスタで初制覇し、これで八大競走の中で制していない競走は皐月賞のみとなった。
2010年
2010年1月30日、京都の第3競走でトウカイレジーナに騎乗し中央1000勝を達成。地方と中央両方で1000勝を達成した騎手は初となる偉業。
2011年
2011年4月10日、桜花賞をマルセリーナで優勝し同レース4勝目。これで武豊の5勝に次ぐ2位タイとなる。

安藤勝己人物像

勝己は自分の騎手への価値観に関し、「笠松競馬場のリーディングジョッキーであり続ける中でリーディングジョッキーに価値を感じなくなり、さらに目指すべき目標がなくなったことで騎手という職業自体に魅力を感じなくなりしばしば騎乗をサボタージュし、南関東への移籍や調教師への転職を考えた時期がある。

しかし地方競馬および中央競馬に指定交流競走が創設され、フェートノーザンやトミシノポルンガに騎乗してそれらの競走に出走する中で競馬に面白さを感じるようになった」と語っている。

2003年の中央移籍後、6年連続でGI勝利ならびに年間100勝以上を達成しており、また移籍後7年で皐月賞をのぞく旧八大競走をすべて制覇している。

2008年ころからはレースに集中するためなどの理由で騎乗数を抑えているが、連対率、複勝圏率は極めて優秀である。騎乗依頼に関しては東西問わずに受けるようにしており、GI請負人として厚い信頼を得ている。

競馬場別では京都競馬場で行われるGI・JpnIを完全制覇しているが、他方で中山競馬場との相性が悪く、2008年の有馬記念を制覇するまではGI級競走を制覇していない上に、その他の重賞もマーチステークスの1勝のみで、芝コースの重賞に至っては上記の有馬記念まで一度も勝てなかった。他方で東京競馬場とは相性が良く、GI級勝利の半数近くを占めている。

中央競馬のGI級競走開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ笠松時代同様に「安藤勝」と変更したというエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月からは光彰の中央移籍に伴い、全紙「安藤勝」になっている。

一方で天然キャラでもあり、『武豊TV!II』(フジテレビワンツーネクスト)での武豊の発言によると、自身が参加するレースの距離を把握しておらず本馬場入場の前に「これ、何メートルだっけ」と聞かれることがたまにあり、それでもレースは一着になることがあるとしている。これには本人曰く「レース前に競馬新聞の類は一切読まない」ことも影響している[2]。

年齢による代謝低下の影響もあり、高い勝率・連対率を維持しながらも2009年頃から軽い体重が求められる条件戦を中心に出走数(および勝利数)を減少させている。最近は毎週末レースになると「約5kgほど」の減量を必要とする(通常は「毎週水曜日が体重のピークで、そこから徐々に減らしていく」という)。ただ本人曰く「サウナに入るとすぐに汗をかく」体質で、サウナと水風呂を頻繁に往復することですぐに体重が落ちるため、減量そのものは周囲が思うほど大変ではないとのこと[2]。

安藤勝己主な勝ち鞍

GI級
(斜字は統一GI級を指す)
フェブラリーステークス – 2004年(アドマイヤドン)、2007年(サンライズバッカス)
高松宮記念 – 2003年(ビリーヴ)
桜花賞 – 2006年(キストゥヘヴン)、2007年(ダイワスカーレット)、2009年(ブエナビスタ)、2011年(マルセリーナ)
NHKマイルカップ – 2004年(キングカメハメハ)、2010年(ダノンシャンティ)
天皇賞(春) – 2005年(スズカマンボ)
優駿牝馬(オークス) – 2009年(ブエナビスタ)
東京優駿(日本ダービー) – 2004年(キングカメハメハ)
安田記念 – 2004年(ツルマルボーイ)、2007年(ダイワメジャー)
秋華賞 – 2007年(ダイワスカーレット)
菊花賞 – 2003年(ザッツザプレンティ)
天皇賞(秋) – 2006年(ダイワメジャー)
エリザベス女王杯 – 2007年(ダイワスカーレット)
マイルチャンピオンシップ – 2006年(ダイワメジャー)、2007年(ダイワメジャー)
阪神ジュベナイルフィリーズ – 2008年(ブエナビスタ)
有馬記念 – 2008年(ダイワスカーレット)
帝王賞 – 2004年(アドマイヤドン)
ダービーグランプリ – 2003年(ユートピア)、2004年(パーソナルラッシュ)
マイルチャンピオンシップ南部杯 – 2003年(アドマイヤドン)、2005年(ユートピア)
JBCクラシック – 2003年、2004年(共にアドマイヤドン)
これらは全て中央競馬移籍後であるが、笠松競馬時代にも1989年の帝王賞や1992年のダービーグランプリ(当時は格付け無し)などを勝利している。

重賞
※GIおよびJpnIは上記参照。馬名の後の*印はJpnIIまたはJpnIIIを指す。
中央競馬
GIIおよびJpnII
4歳牝馬特別(西)(1995年ライデンリーダー)
フィリーズレビュー(2003年ヤマカツリリー、2004年ムーヴオブサンデー)
デイリー杯3歳ステークス(1999年レジェンドハンター、2000年フジノテンビー)※現・デイリー杯2歳ステークス
大阪杯(2001年トーホウドリーム、2002年サンライズペガサス、2003年タガノマイバッハ、2008年ダイワスカーレット)
京都新聞杯(2004年ハーツクライ)
ローズステークス(2004年レクレドール、ダイワスカーレット*)
神戸新聞杯(2004年キングカメハメハ)
マイラーズカップ(2006年ダイワメジャー、2010年リーチザクラウン)
毎日王冠(2006年ダイワメジャー)
日経新春杯(2007年トウカイワイルド、2008年アドマイヤモナーク)
京都記念(2008年アドマイヤオーラ)
青葉賞(2011年ウインバリアシオン)
GIIIおよびJpnIII
京阪杯(1999年ロサード)
マーメイドステークス(2000年フサイチエアデール、2001年タイキポーラ)
愛知杯(2001年グランドシンザン)
マーチステークス(2002年マンボツイスト)
チューリップ賞(2003年オースミハルカ、2009年ブエナビスタ)
中京記念(2003年タガノマイバッハ)
ユニコーンステークス(2003年ユートピア、2008年ユビキタス)
函館スプリントステークス(2003年ビリーヴ)
エルムステークス(2003年アドマイヤドン)
朝日チャレンジカップ(2003年カンファーベスト)
アンタレスステークス(2004年タイムパラドックス、2005年ピットファイター)
毎日杯(2005年ローゼンクロイツ、2010年ダノンシャンティ)
ラジオたんぱ杯2歳ステークス(2005年サクラメガワンダー)
ラジオNIKKEI杯2歳ステークス(2006年フサイチホウオー)
きさらぎ賞(2006年ドリームパスポート)
函館記念(2006年エリモハリアー)
新潟2歳ステークス(2006年ゴールドアグリ)
東京スポーツ杯2歳ステークス(2006年フサイチホウオー)
共同通信杯(2007年フサイチホウオー*)
阪急杯(2007年プリサイスマシーン、2009年ビービーガルダン)
ファンタジーステークス(2007年オディール*)
京都牝馬ステークス(2008年アドマイヤキッス)
ダイヤモンドステークス(2008年アドマイヤモナーク*)
キーンランドカップ(2009年ビービーガルダン)
武蔵野ステークス(2009年ワンダーアキュート)
函館2歳ステークス(2010年マジカルポケット)
札幌2歳ステークス(2010年オールアズワン)
関屋記念(2011年レインボーペガサス)
ダートグレード競走
GIIおよびJpnII
オグリキャップ記念(1998年サンディチェリー)※現・SP1
ブリーダーズゴールドカップ(2004年タイムパラドックス)
ダイオライト記念(2005年パーソナルラッシュ、2007年キクノアロー)
関東オークス(2007年ホワイトメロディー*)
日本テレビ盃(2009年マコトスパルビエロ*)
名古屋グランプリ(2009年マコトスパルビエロ*)
GIIIおよびJpnIII
名古屋優駿(1997年シンプウライデン)現・SP1東海ダービー
全日本サラブレッドカップ(1999年マジックリボン、2004年ディバインシルバー)※休止
サラブレッドチャレンジカップ(2001年フジノコンドル、2003年タマモリッチ)※休止
サマーチャンピオン(2002年フジノコンドル)
クラスターカップ(2003年ディバインシルバー)
白山大賞典(2003年イングランディーレ、2005年グラッブユアハート)
黒船賞(2004年ディバインシルバー、2009年トーセンブライト)
北海道スプリントカップ(2004年ディバインシルバー)
スパーキングレディーカップ(2004年グラッブユアハート)
佐賀記念(2005年マルブツトップ)
マーキュリーカップ(2005年ピットファイター、2009年マコトスパルビエロ)
兵庫ゴールドトロフィー(2005年ニホンピロサート、2009年トーセンブライト)
クイーン賞(2005年グラッブユアハート)
TCK女王盃(2006年グラッブユアハート)
マリーンカップ(2006年グラッブユアハート)
笠松競馬
ジュニアグランプリ(1976年シプリアパール、1987年オグリキャップ、1989年マックスフリート、1991年オグリホワイト、1992年サブリナチェリー、1993年オグリローマン、1994年ライデンリーダー、1996年シンプウライデン)※廃止

安藤勝己主な表彰

優秀騎手賞(勝利度数部門・勝率部門・賞金獲得部門)
2003年~2010年
中京競馬記者クラブ賞
2003年
JRA賞最高勝率騎手
2007年、2009年

秋山真一郎

秋山 真一郎(あきやま しんいちろう、1979年2月9日 – )はJRAの騎手。父の秋山忠一は元・JRA騎手で現在は調教助手。

秋山 真一郎来歴

1997年栗東の野村彰彦厩舎所属騎手としてデビュー。同期には武幸四郎、勝浦正樹、村田一誠らがいる。
当時より展開に合わせ柔軟な騎乗ができる若手としてはめずらしい騎手として評価をされ[1]、デビュー初年度より毎年30勝以上の成績を残し、3年間で103勝をマークし自力で見習騎手から外れるなどコンスタントな活躍を見せている。

2年目の1998年にはカネトシガバナーで重賞初勝利並びにGI競走初騎乗を併せて達成。さらに当時の野村厩舎の代表管理馬であるキョウエイマーチの主戦騎手に起用され、京都金杯・阪急杯を制するなど騎乗停止処分中の一回を除き引退まで同馬の騎乗を務めている。

またデビュー年こそ重賞勝利は無かったものの、翌1998年以降毎年重賞勝利を記録、中京と相性が良く通算重賞18勝のうち、中京開催の重賞を6勝しJRA全10場中、新潟競馬場、福島競馬場以外の8場で勝利を挙げている。(2010年末現在)

秋山真一郎と重賞

2010年11月末現在、デビュー以来GI51連敗中である。中央競馬に所属するJRAGI未勝利騎手のうち、藤岡佑介とともに中央競馬重賞勝利数が最も多い騎手である。

2003年のテイエムサンデーで制したシルクロードステークスは、自らの誕生日を飾るプレゼントになった。
2005年にはサカラートで東海ステークスに勝利。同レースの前身であるウインターステークスは父・忠一が唯一勝利したサラブレッド重賞でもあり(1987年・クラウンエクシードでの勝利)、親子騎手制覇となった。
2006年は最低人気のビーナスラインで函館スプリントステークスを制し、シーイズトウショウの3連覇を阻止した。
2009年には、サクラオリオンに騎乗し、中京記念と函館記念に優勝。同馬では札幌記念でも3着と好走し、この活躍が同年のサマージョッキーズシリーズ優勝につながった。

秋山 真一郎主な騎乗馬

キョウエイマーチ(1999年阪急杯、2000年京都金杯)
カネトシガバナー(1998年神戸新聞杯、愛知杯)
ブルーコンコルド(2002年京王杯2歳ステークス)
サクラオリオン(2009年中京記念、函館記念)

秋山 真一郎騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1997年3月1日 1回中京1日2R 4歳未勝利 ヤマニンポシブル 16頭 3 3着
初勝利 1997年3月9日 1回中京4日2R 4歳未勝利 スズカアオイ 16頭 1 1着
重賞初騎乗 1997年8月10日 3回小倉2日11R 小倉記念 シーフリージア 10頭 10 4着
重賞初勝利 1998年9月20日 5回阪神4日11R 神戸新聞杯 カネトシガバナー 14頭 5 1着
GI初騎乗 1998年11月8日 6回京都2日11R 菊花賞 カネトシガバナー 17頭 6 8着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 備考
1997年 33 34 36 412 .080 .163 .250
1998年 37 30 33 366 .101 .183 .273
1999年 33 33 25 378 .087 .175 .241
2000年 30 35 38 453 .066 .143 .227
2001年 66 33 46 600 .110 .165 .242
2002年 38 61 65 623 .061 .159 .263
2003年 69 56 52 662 .104 .189 .267
2004年 48 43 46 639 .075 .142 .214 中京競馬記者クラブ賞
2005年 45 53 51 613 .073 .160 .243
2006年 73 55 63 708 .103 .181 .270
2007年 38 54 58 622 .061 .148 .241
2008年 33 34 43 498 .066 .135 .221
2009年 47 39 39 589 .080 .146 .212
2010年 52 48 48 616 .084 .162 .240
中央 642 608 643 7779 .083 .161 .243
地方 31 41 17 225 .138 .320 .396

赤木高太郎

赤木 高太郎(あかぎ こうたろう、1970年1月21日 – )は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。元NAR兵庫県競馬組合所属。

赤木 高太郎経歴

赤木 高太郎地方競馬時代

1987年に園田・齊藤裕厩舎所属で騎手デビュー。1998年秋から約8ヶ月間、単身オーストラリアに遠征。本人曰く、技術面よりもメンタル面を鍛えるための修行であったという。帰国後2000年度から2003年度まで、小牧太・岩田康誠に次ぐ兵庫リーディング3位のポジションをキープ。赤木圭一郎と同姓であったことから「園田第3の男」というニックネームも生まれた。

2001赤木 高太郎年、JRAの騎手免許試験の受験を決意。JRAでの勝ち鞍がなく1次試験(筆記試験)免除の特例(5年間でJRA年間20勝以上を2回達成した地方騎手に適用された)が適用されなかったため、調教やレースの傍ら1日8時間の試験勉強に取り組んだ。2002年の1次試験は不合格であったが2003年秋に合格。

地方騎手による初の1次試験合格として競馬メディアによって大きく報道された。また、これ以降柴山雄一をはじめ地方所属の騎手がJRAの騎手免許試験を1次試験から受験する動きが加速した。翌2004年2月には2次試験(実技試験)もクリアしてJRA騎手免許試験合格を果たした。同じ兵庫県競馬組合所属の小牧と同時の合格となり、2月19日には園田競馬場で、24日に姫路競馬場で「フェアウェルセレモニー」と銘打たれた両騎手の壮行会が執り行われた。

赤木 高太郎JRA移籍後

栗東・坪憲章厩舎所属でデビュー。2004年3月6日、中京競馬第2競走を所属厩舎の管理馬・タイセキショウで優勝。中央デビュー初日に初勝利を挙げた。2006年12月2日中京競馬第2競走でJRA通算100勝を達成、この年2006年度フェアプレー賞を受賞した。
2007年、競馬視察のため初の海外出張届を提出し、9月28日から10月2日までアメリカに滞在し、一旦帰国後の10月5日から10月10日まではフランスに滞在し第86回凱旋門賞などを観戦していた。

2008年7月13日プロキオンステークスにてヴァンクルタテヤマに騎乗、直線で逃げ粘るバンブーエールを交わして念願の中央競馬重賞初勝利を飾った。2009年より栗東所属のまま拠点を美浦トレーニングセンターに移している。
中京、福島、小倉などのローカル路線での騎乗が多く、またそれら小回りコースでの成績が良い。

赤木 高太郎騎乗成績


日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2004年3月6日 1回中京1日1R 3歳未勝利 ナショナルプラザ 15頭 10 14着
初勝利 2004年3月6日 1回中京1日2R 4歳上500万円下 タイセキショウ 16頭 6 1着
重賞初騎乗 2004年3月7日 1回中京2日11R 中京記念 キングフィデリア 16頭 10 6着
重賞初勝利 2008年7月13日 3回阪神8日11R プロキオンステークス ヴァンクルタテヤマ 13頭 7 1着
GI初騎乗 2004年3月28日 1回中京8日11R 高松宮記念 モンパルナス 18頭 16 17着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2004年 31 21 36 540 .057 .096 .163
2005年 39 50 32 585 .067 .152 .207
2006年 34 42 34 647 .053 .117 .170
2007年 25 28 29 500 .050 .106 .164
2008年 27 36 29 488 .055 .129 .189
2009年 25 24 30 507 .049 .097 .156
2010年 8 11 10 226 .035 .084 .128
中央 189 212 200 3499 .054 .115 .172
地方 19 17 18 152 .125 .237 .355
地方在籍時 10193戦1176勝

赤木 高太郎主な勝ち鞍

赤木 高太郎地方競馬

園田ダービー(2002年:優勝馬 セトノウルトラ)
菊水賞(1997年:優勝馬 マーキュリサンダー、2002年:優勝馬 セトノウルトラ)
六甲盃(2000年:優勝馬 スペシャルダッシュ)
姫山菊花賞(2000年:優勝馬 タカライデン)
フクパーク記念(2000年:優勝馬 タカライデン)
園田金盃(2009年:優勝馬 ハスフェル)*JRA移籍後、初の地方重賞勝ち

赤木 高太郎中央競馬

プロキオンステークス(2008年:優勝馬 ヴァンクルタテヤマ)

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