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荻野琢真

荻野 琢真(おぎの たくま、1988年7月28日 – )とは、中央競馬・栗東トレーニングセンターの大久保龍志厩舎に所属する騎手である。騎手免許は平地競走、障害競走の両方を所持(ただし障害競走の出走経験はない)。

荻野琢真プロフィール

兵庫県内の乗馬クラブで腕を磨き、2004年4月にJRA競馬学校騎手課程第23期生として入学。2007年2月に競馬学校を卒業し騎手免許を取得する。同期には浜中俊・藤岡康太・宮崎北斗・丸田恭介らがいる。卒業前の12月16日に中山競馬場で行われた模擬レースでは、丸田に次ぐ2着であった。

初騎乗は3月3日の中京競馬場1レースにおいてブライティアアーチに騎乗し、16頭立ての11着。1週間後の3月10日の中京3レースにおいて、コアレスリーヴァに騎乗し初勝利。初年度は11勝を挙げる。

初重賞勝ちはデビュー3年目の2009年1月18日の日経新春杯で、テイエムプリキュア騎乗によるもの。この時はハンデ49キロを活かした大逃げによる勝利であった。

荻野琢真 人物

座右の銘は「和して同ぜず」。目標とする騎手は松永幹夫。夢は凱旋門賞の制覇。特技はコサック・ダンスとスプーン曲げ。
初重賞勝利となった日経新春杯では、阪神ジュベナイルフィリーズ以後3年以上勝てず今レース限りでの引退を表明していたテイエムプリキュアの有終の美を飾り、後に引退が撤回されたことで、一躍「時の人」となった。

鞍上に荻野が起用された理由としては、当日のハンデが49キロと超軽量だったことや、馬主が無名騎手の起用で実績のある竹園正繼であったことなどである。なお荻野はこのレースの数日前に丹波市の成人式に出席したばかりであった。
テイエムプリキュア引退の際には、自身のブログで最も影響を受けた馬として感謝の言葉を多数並べた。

荻野琢真 主な騎乗馬

テイエムプリキュア(2009年日経新春杯)

荻野琢真 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2007年3月3日 1回中京1日1R 3歳未勝利 ブライティアアーチ 16頭 10 11着
初勝利 2007年3月10日 1回中京3日2R 3歳未勝利 コアレスリーヴァ 16頭 3 1着
重賞初騎乗 2007年6月17日 3回阪神2日11R マーメイドステークス ミスベロニカ 12頭 4 6着
重賞初勝利 2009年1月18日 1回京都6日11R 日経新春杯 テイエムプリキュア 16頭 11 1着
GI初騎乗 2009年5月3日 3回京都4日10R 天皇賞(春) テイエムプリキュア 18頭 14 18着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2007年 11 14 12 255 .043 .098 .145
2008年 17 8 21 383 .044 .065 .120
2009年 19 11 20 426 .045 .070 .117
2010年 14 29 12 299 .047 .144 .184
中央 61 62 65 1363 .045 .090 .138
地方 2 0 1 7 .286 .286 .429

荻野要

荻野 要(おぎの かなめ、1979年8月28日 – )は、日本中央競馬会・栗東トレーニングセンターの石坂正厩舎に所属する騎手。

荻野要プロフィール

1998年栗東・増本豊厩舎所属騎手としてデビュー。初騎乗は1998年3月1日、中京競馬場第5競走のホシメールで、15頭立ての4着。同年3月7日、中京競馬場第7競走でレッドマルスに騎乗し初勝利を挙げた。1998年9月12日、エルムステークスでタヤスロベルトに騎乗し重賞初騎乗(7着)を記録した。

なお2001・2002両年に障害競走への騎乗経験もあったが、現在では障害免許を返上し平地のみの騎乗となっている。
デビュー初年度に15勝を記録も、1999年1月京都にて第7、8、9胸椎圧迫骨折、さらに7月函館でも左踵骨骨折および左第二指末節骨骨折と、落馬負傷が相次ぐ不運にも見舞われ、1999年以降の勝ち鞍は1桁台で推移し伸び悩みが続く。
減量騎手より外れる2001年からは騎乗機会も減少、2005年10月を最後に勝ち星からも遠ざっている。

荻野要 騎乗成績

年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1998年 15 24 27 278 .054 .140 .237
1999年 6 9 12 154 .039 .097 .175
2000年 5 7 6 176 .028 .068 .102
2001年 2 4 1 84 .024 .071 .083
2002年 5 2 2 84 .060 .083 .107
2003年 2 2 2 76 .026 .053 .079
2004年 6 1 4 67 .090 .104 .164
2005年 4 7 1 71 .056 .155 .169
2006年 0 1 0 46 .000 .022 .022
2007年 0 0 0 35 .000 .000 .000
2008年 0 1 0 21 .000 .048 .048
2009年 0 1 0 25 .000 .040 .040
2010年 0 0 1 14 .000 .000 .071
平地 45 59 56 1131 .040 .092 .141
障害 0 0 0 2 .000 .000 .000
地方 1 3 3 25 .040 .160 .280
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1998年3月1日 1回中京2日5R 5歳上500万円下 ホシメール 15頭 5 4着
初勝利 1998年3月7日 1回中京3日7R 5歳上500万円下 レッドマルス 14頭 1 1着
重賞初騎乗 1998年9月12日 2回札幌3日11R エルムステークス タヤスロベルト 10頭 8 7着

大庭和弥

大庭 和弥(おおば かずや、1982年9月13日 – )は、JRA・美浦トレーニングセンターに所属する騎手である。騎手免許は平地競走、障害競走両方の免許を所持している。愛称は「オーバ」。

大庭和弥 プロフィール

1998年、JRA競馬学校騎手課程に第17期生として入学、2001年に騎手免許を取得し嶋田潤厩舎所属騎手としてデビュー。同期には川島信二、小坂忠士らがいる。

デビュー1年目こそ未勝利に終わるも2002年から2004年にかけ勝利数を2桁に伸ばし、2003年には平地・障害双方の重賞騎乗も記録。
重賞初騎乗となった2003年中山牝馬ステークス、14番人気テンエイウイングでの2着などを始め、たびたび人気薄の馬を馬券圏内に持ち込むことが多く、ファンやマスコミから「穴男」・「穴の大庭」として認知され[1]、ファンから質問に対し自身のブログにて「自信はなかったが、穴を開けた時は何かしら好走の要因がある」とコメントを残している[2]。
好物はラーメンで、自身のブログに写真や味の評価を載せている。

大庭和弥 主な騎乗馬

テンエイウイング (2003年中山牝馬ステークス2着)
ライトパシフィック (2004年新潟ジャンプステークス2着)
カツヨトワイニング (2009年ファルコンステークス2着)
ジャミール (2010年アルゼンチン共和国杯2着[3])

大庭和弥 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 2001年3月3日 2回中山3日3R 3歳未勝利 セタノホラフキ 16頭 16 15着
初勝利 2002年2月3日 2回東京4日7R 4歳上500万円下 カオリハイパー 15頭 5 1着
重賞初騎乗 2003年3月15日 3回中山5日11R 中山牝馬ステークス テンエイウイング 16頭 14 2着
GI初騎乗 2009年4月12日 2回阪神6日11R 桜花賞 カツヨトワイニング 18頭 16 14着

害 初騎乗 2001年4月29日 2回東京4日5R 障害未勝利 ノボバンバン 14頭 12 8着
初勝利 2002年8月25日 3回新潟6日5R 障害未勝利 カチケンザン 14頭 11 1着
重賞初騎乗 2003年8月23日 3回新潟3日10R 新潟ジャンプステークス カチケンザン 13頭 9 11着
JGI初騎乗 2004年12月25日 5回中山7日10R 中山大障害 トーセンメイザン 13頭 9 8着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2001年 0 3 3 100 .000 .030 .060 0 0 1 7 .000 .000 .143
2002年 14 12 6 187 .075 .139 .171 1 0 1 17 .059 .059 .118
2003年 14 16 17 323 .043 .093 .145 1 0 2 24 .042 .042 .125
2004年 12 12 15 243 .049 .099 .160 3 2 2 25 .120 .200 .280
2005年 4 4 12 139 .029 .058 .144 3 0 4 26 .115 .115 .269
2006年 4 5 1 153 .026 .059 .065 2 2 5 43 .047 .093 .209
2007年 6 6 10 208 .029 .058 .106 4 1 3 42 .095 .119 .190
2008年 7 10 10 271 .026 .063 .100 7 0 2 41 .171 .171 .220
2009年 2 11 11 241 .008 .054 .100 1 5 3 29 .034 .207 .310
2010年 9 16 15 409 .022 .061 .098 3 5 5 39 .077 .205 .333
中央 72 95 100 2275 .032 .073 .117 25 15 28 293 .085 .137 .232
地方 0 3 1 54 .000 .055 .074

大庭和弥  脚注

^ 東スポコラム
^ 走るのは馬ですから~質問コーナー
^ 安藤勝己急病による乗替り 日刊スポーツ

大野拓弥

大野 拓弥(おおの たくや、1986年9月8日 – )は、日本中央競馬会(JRA)に所属する騎手。

大野拓弥プロフィール

小学校6年生のときに乗馬クラブに行き、乗馬を始めたことがきっかけで騎手を目指す。2002年、21期生として競馬学校に入学。同期には小島太一、鮫島良太、塚田祥雄らがいる。目標とする騎手は横山典弘騎手。

2005年に杉浦宏昭厩舎所属でデビュー。初騎乗は3月5日、中京第1競走でナンヨージルバに騎乗したが、スタート直後に落馬し競走中止。3月13日に中山第4競走のフレンチクルーラーで初勝利。この年は11勝を挙げ、民放競馬記者クラブ賞を受賞した。
重賞初騎乗は2006年4月23日、フローラステークスでミルキーウェイに騎乗し、18番人気で6着。
GI初騎乗は2007年5月20日、優駿牝馬でマイネルーチェに騎乗し、15番人気で6着。
2008年7月16日に所属をフリーに変更した。
騎手のなかでは、比較的珍しい左利きである。ペンも箸も左手で持つ。

大野拓弥 騎乗成績

年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2005年 11 16 15 310 .035 .087 .135
2006年 31 32 36 576 .054 .109 .172
2007年 28 36 38 633 .044 .101 .161
2008年 23 33 39 578 .040 .097 .164
2009年 17 22 28 571 .030 .068 .117
中央 110 139 156 2668 .041 .093 .152
地方 4 8 3 45 .089 .267 .333
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2005年3月5日 1回中京1日1R 3歳未勝利 ナンヨージルバ 15頭 7 中止
初勝利 2005年3月13日 2回中山6日4R 3歳未勝利 フレンチクルーラー 15頭 1 1着
重賞初騎乗 2006年4月23日 2回東京2日11R フローラステークス ミルキーウェイ 18頭 18 6着
GI初騎乗 2007年5月20日 3回東京2日11R 優駿牝馬 マイネルーチェ 18頭 15 6着

大江原圭

大江原圭 プロフィール

2004年に日本中央競馬会競馬学校の入学試験に合格し、2005年4月より同校へ第24期として入学した。なお同期入学には8人おり、その中に北村浩平の弟(中途退学)もいた。

2008年、2月12日に同校を卒業した。卒業時の同期には伊藤工真と三浦皇成がいる。そして2月14日に発表された2008年度騎手免許試験に合格し、3月1日付で栗東トレーニングセンター・作田誠二厩舎所属としてデビュー。父と伯父はともに騎手時代から美浦トレーニングセンターに所属していたが、美浦だと甘えてしまうかも知れないとの理由であえて栗東に所属した。デビューの同期には前述の2人に加え、大井競馬場から移籍してきた内田博幸と高知競馬場から移籍してきた鷹野宏史がいる。

2008年3月1日に中京競馬場で行われた第1競走で中央競馬初騎乗を迎え、自厩舎のビリーヴインタイムに騎乗して13番人気で13着だった。その後、第5競走で6位に入線するも、3コーナーで急に外側に斜行したとして、14着に降着。デビュー当日にいきなり、3月8日から3月16日までの開催日4日間の騎乗停止処分を受けた。その後も騎乗馬に恵まれず、新人騎手でありながら満足に騎乗経験すら積めない状態が続いた。
 
2009年3月2日付で所属を栗東から美浦に移し、どこの厩舎にも所属しないフリーの騎手として活動[3]。
騎乗数を増やすために2009年4月4日から障害競走にも騎乗するようになる。同年7月18日の障害未勝利戦で藤沢和雄厩舎所属の初障害馬に騎乗するが、気性難の馬であったために落馬した。派手な落ち方であったため大怪我が心配されたが打撲で済んだ。その次の週の7月26日に新潟競馬場で行われた障害未勝利戦で、同じ藤沢和雄厩舎所属の初障害馬キングアーサーに騎乗し、最後の直線で追いすがる2着馬をクビ差凌いで初勝利を挙げた。デビューして約1年5ヶ月近く、121戦目での初勝利だった。

大江原圭 エピソード

競馬学校時代からの同期である伊藤とは生年月日が同じである。圭の初勝利のセレモニーでは伊藤がプラカードを持った[4]。
2007年10月11日に競馬学校で行われた第1回模擬レースでは1レースと2レースをともに現役騎手の吉田豊・隼人兄弟らを相手に勝利している。

2008年1月21日に競馬学校の近郊にあるファイターズスタジアムで行われている合同自主トレーニングを訪問した際に、同い年の中田翔と交流し、「同じ18歳には負けたくない」とライバル心を燃やしている。

2008年2月12日に行われた卒業記念模擬レースでメイショウクラマに騎乗して3着だった。同日の謝恩会では「宙返り大賞」を受賞した。
座右の銘は「一意専心」、目標とする騎手は四位洋文と横山典弘、好きなものは水分とチョコレート[5]。
スポーツライターの相沢光一は「競馬界の電車男」という見出しの記事で、圭と彼の初勝利を願うインターネットの競馬ファンについて取り上げた[6]。

2011年5月14日に京都競馬場の調整ルーム内において携帯電話でツイッターを閲覧、操作を誤ってリツイートしていたことが判明し、同年5月15日から6月13日まで30日間の騎乗停止処分を受けた[7]。

大江原圭 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
平地 初騎乗 2008年3月1日 1回中京1日1R 3歳未勝利 ビリーヴインタイム 15頭 13 13着
障害 初騎乗 2009年4月4日 3回中山3日4R 障害未勝利 ロッキーローレル 14頭 8 4着
初勝利 2009年7月26日 2回新潟4日4R 障害未勝利 キングアーサー 10頭 2 1着
JGI初騎乗 2009年12月26日 5回中山7日10R 中山大障害 モルフェサイレンス 14頭 5 4着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2008年 0 0 1 86 .000 .000 .012 –
2009年 0 0 4 53 .000 .000 .075 4 4 1 33 .121 .242 .273
2010年 0 0 1 45 .000 .000 .022 0 1 3 45 .000 .022 .089
中央 0 0 6 184 .000 .000 .033 4 5 4 78 .051 .115 .167
地方 0 0 0 1 .000 .000 .000

大江原圭 出演

テレビ
学校へ行こう!MAX(TBSテレビ、2006年4月25日)
土曜スポーツタイム「アナザーストーリー」(NHK総合テレビ、2008年2月23日)
脚注 [編集]

^ vol.008 草野 太郎騎手 &大江原 圭騎手 Uman.jp、2010年4月5日
^ ただしUman.jpでのインタビューでは身長172cm、体重52~53kgと答えている。vol.008 草野 太郎騎手 &大江原 圭騎手(Uman.jp、2010年4月5日 )
^ 大江原圭騎手、美浦所属に ラジオNIKKEI、2009年3月1日
^ やるときはやる?大江原圭騎手(騎手課程第24期生)初勝利! 競馬学校ブログ、2009年7月27日
^ 【競馬学校】卒業生(=新人騎手)紹介(2) 大江原圭 競馬学校ブログ、2008年2月22日
^ 「競馬界の電車男」大江原圭 未勝利新人騎手への声援は時代の空気か DIAMOND online SPORTS セカンド・オピニオン、2009年7月22日
^ 大江原、「ツイッター」で騎乗停止30日間 – 競馬 – SANSPO.COM


蛯名正義

蛯名 正義(えびな まさよし, 1969年3月19日 – )はJRA所属の騎手。愛称は「エビショー」。同会の騎手・調教師であった蛯名信広は遠縁にあたる。夫人は元タレントでテレビ東京の土曜競馬中継(現在のウイニング競馬)の司会者だった石森かずえ(本名・一枝)。

蛯名正義プロフィール

小学校の時、菊花賞をグリーングラスが勝利したレース[1]をテレビ中継で見て騎手を志し、中学校から乗馬を始める。
1987年に美浦の矢野進厩舎所属でデビュー。同期に武豊・塩村克己(引退)・合谷喜壮(引退)らがいる。デビュー初年度30勝を挙げ民放競馬記者クラブの関東新人騎手賞を獲得

重賞初勝利は1992年のフェブラリーハンデキャップのラシアンゴールド。ラシアンゴールドとのコンビで当時は中央交流競走の1つだった帝王賞も制する。

1995年は七夕賞、中山記念を制していたフジヤマケンザンとのコンビで香港国際カップ(現在の香港カップ)に勝利した。
1996年にバブルガムフェローとのコンビで天皇賞(秋)を制し、初めてのGI制覇となる。この時の騎乗は、同馬の主戦騎手であった岡部幸雄がタイキブリザードとのコンビでブリーダーズカップクラシックに出走する事による代打騎乗であった。
1998年にエルコンドルパサーとのコンビでジャパンカップを制覇。自身2つめのGIタイトルを獲得。このコンビで翌1999年、フランスのサンクルー大賞を制し、凱旋門賞でも2着に入る。またウメノファイバーとのコンビで優駿牝馬(オークス)、エアジハードとのコンビで安田記念、マイルチャンピオンシップを制した。

2000年にはアメリカ合衆国の東海岸地方への遠征を敢行。一方でファストフレンドに騎乗するため帰国し、帝王賞や東京大賞典を制した。
2001年にはトロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスを制覇。さらにマンハッタンカフェで菊花賞や有馬記念を制し、また133勝を挙げて最多勝利騎手、最多賞金獲得騎手の2冠を獲得した。翌2002年にはマンハッタンカフェとのコンビで天皇賞(春)を制した。

中央GIタイトルは2002年のトウカイポイント(マイルチャンピオンシップ)以来勝ち星を挙げていなかったが、2006年12月10日の朝日杯フューチュリティステークスでドリームジャーニーの勝利で挙げた。

12月22日には自身6度目となる中央競馬年間100勝を達成した。なおこれはこの年9人目の達成となり、年間100勝を達成した人数の史上最多記録となった。12月23日の有馬記念をマツリダゴッホ鞍上で勝利し、マンハッタンカフェ以来2回目の勝利を飾った。
2009年12月13日の第61回阪神ジュベナイルフィリーズをアパパネで優勝し、JRAのGI競走通算14勝目を挙げた。

2010年3月20日の中京第1競走・3歳未勝利にはバイブレイションズで1着となり、JRA史上7人目、現役では4人目となる通算1800勝を達成すると、4月11日の桜花賞をアパパネで優勝し、JRAのGI競走通算15勝目となった。なお、関東所属騎手による桜花賞の勝利は1985年の木藤隆行以来、25年ぶり。

2010年5月23日の第71回優駿牝馬に桜花賞に続きアパパネに騎乗。直線、横山典弘騎手騎乗のサンテミリオンとの叩きあいの末、横一線でゴール板を通過。およそ10分ほど写真判定を行った後に蛯名、横山のGI初となる同着優勝を飾る珍事を起こす。ゴール板を通過した際に、当時サンテミリオンに歩があったと思っていた蛯名は、同着確定後のインタビューで横山と笑顔で抱き合い、「負けなくてよかったです。」と語った。

2010年10月3日、凱旋門賞をナカヤマフェスタで2度目の2着。10月17日の第15回秋華賞をアパパネで勝利を収め、初の秋華賞勝利。加えてこの年の牝馬三冠を成し遂げる。なおアパパネは史上3頭目となる牝馬三冠馬となる。その活躍が認められ、東京競馬記者クラブ賞の特別賞を受賞した。この賞の特別賞には過去に野平祐二、サンデーサイレンス、岡部幸雄、横山典弘が受賞しているのだが、野平祐二と岡部幸雄は引退した年、サンデーサイレンスは亡くなった年にそれぞれ選出されているため、現役での特別賞への選出は史上2人目である。

蛯名正義 騎乗成績

GI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別) [編集]
(緑字は統一GI、赤字は海外GIを指す)
1996年
天皇賞(秋) – バブルガムフェロー
1998年
ジャパンカップ – エルコンドルパサー
1999年
サンクルー大賞 – エルコンドルパサー
優駿牝馬 – ウメノファイバー
安田記念 – エアジハード
マイルチャンピオンシップ – エアジハード
2000年
帝王賞 – ファストフレンド
東京大賞典 – ファストフレンド
2001年
高松宮記念 – トロットスター
スプリンターズステークス – トロットスター
菊花賞 – マンハッタンカフェ
有馬記念 – マンハッタンカフェ
JBCスプリント -ノボジャック
2002年
天皇賞(春) – マンハッタンカフェ
マイルチャンピオンシップ – トウカイポイント
2006年
朝日杯フューチュリティーステークス – ドリームジャーニー
2007年
有馬記念 – マツリダゴッホ
2009年
阪神ジュベナイルフィリーズ – アパパネ
2010年
桜花賞 – アパパネ
優駿牝馬 – アパパネ
秋華賞 – アパパネ
2011年
ヴィクトリアマイル – アパパネ
以上JRA・GI 18勝(海外GI1勝、交流GI3勝)
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1987年 30 38 27 216 .139 .315 .440
1988年 43 28 33 353 .122 .201 .295
1989年 36 44 35 356 .101 .225 .323
1990年 27 34 34 352 .077 .173 .270
1991年 23 18 19 257 .089 .160 .233
1992年 54 52 47 414 .130 .256 .370
1993年 49 46 46 537 .091 .177 .263
1994年 71 44 73 572 .124 .201 .329
1995年 84 62 60 596 .141 .245 .346
1996年 82 82 73 680 .121 .241 .349
1997年 62 86 63 660 .094 .224 .320
1998年 136 92 69 777 .175 .293 .382
1999年 129 118 94 800 .161 .309 .426
2000年 62 58 59 563 .110 .213 .318
2001年 133 106 101 905 .147 .264 .376
2002年 99 82 67 803 .123 .225 .309
2003年 101 82 70 780 .129 .235 .324
2004年 88 84 57 752 .117 .229 .305
2005年 101 93 73 828 .122 .234 .322
2006年 78 71 62 680 .115 .219 .310
2007年 105 98 76 831 .126 .244 .336
2008年 83 82 57 717 .116 .230 .310
2009年 101 85 65 779 .130 .239 .322
中央 1777 1585 1360 14208 .125 .236 .332
地方 40 37 37 256 .156 .301 .445
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1987年3月1日 2回中山2日5R 4歳新馬 アイガーターフ 14頭 14 14着
初勝利 1987年4月12日 3回中山6日4R 4歳未勝利 ダイナパッション 8頭 2 1着
重賞初騎乗 1987年7月5日 1回福島6日11R ラジオたんぱ賞 ハマナスニゾン 8頭 7 8着
重賞初勝利 1992年2月22日 1回東京7日11R フェブラリーHC ラシアンゴールド 16頭 10 1着
GI初騎乗 1989年4月16日 3回中山8日11R 皐月賞 リアルビクトリ 20頭 11 17着
GI初勝利 1996年10月27日 5回東京8日10R 天皇賞(秋) バブルガムフェロー 17頭 3 1着

蛯名正義 エピソード

パチスロ好きである。
大の読売ジャイアンツファン。
騎乗依頼仲介者は武山修司(馬三郎)。

蛯名正義 テレビ出演

トップランナー(1999年12月3日、NHK)。当時大江千里、益子直美が司会の時に出演(蛯名がJ6(他のメンバーは藤田伸二、四位洋文、後藤浩輝、田中勝春、松永幹夫)名義で発表した曲「Destination」は大江が作詞したもの)。同番組への競馬騎手の出演は1997年の武豊に次いで2人目であった。

武豊TV!II(2010年)

蛯名正義 連載

『週刊Gallop』に「新・正義の見方」(旧「正義の見方」)というエッセイを執筆している。
東京中日スポーツ・中日スポーツでは「エビSHOW!」というコラムを連載している。
東京スポーツ(大阪・中京・九州スポーツ)では「エビショウの“独舌”講座」(毎週木曜掲載)というコラムを連載している。
週刊プレイボーイではかつて「競馬の神髄」を執筆していた。現在は福永祐一に交代している。

江田勇亮

江田 勇亮(えだ ゆうすけ、1978年9月4日 – )は日本中央競馬会・美浦トレーニングセンターの河野通文厩舎所属の騎手である。

江田勇亮 来歴

父はCBスタッド牧場に勤務[1]という馬との距離が近い環境で育ち、騎手を志すようになり中学卒業後JRA競馬学校へ入学。1997年、第13期生として騎手免許を取得し矢野照正厩舎所属騎手としてデビュー。

同期には秋山真一郎、勝浦正樹、武幸四郎、村田一誠、板倉真由子、押田純子、武士沢友治、松田大作らがいる。デビュー当時の夢は「名馬の子で勝ちたい」[1]。

平地での勝利は、12年もの間、減量騎手の間に挙げた16勝が全てであったが、2011年5月14日東京8Rのトワインブルームで久しぶりの平地優勝を成し遂げた。

また、デビュー初年度から平地と同時に障害競走への騎乗も開始。
近年では平地と入れ替わる形で障害競走中心の騎乗となり、2004年にはメジロロンザンで東京ハイジャンプを優勝。1991年宝塚記念優勝馬メジロライアンを父に持つ同馬で重賞初制覇を達成し、騎手デビュー当時の夢を叶える勝利となった。

江田勇亮 主な騎乗馬

ミナミノゴージャス (2001年中山新春ジャンプ)
メジロロンザン (2004年東京ハイジャンプ)
オープンガーデン (2010年中山グランドジャンプ2着、2011年阪神スプリングジャンプ)

江田勇亮 騎乗成績


日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 1997年3月1日 2回中山3日3R 4歳未勝利 シルキーキッス 16頭 13 10着
初勝利 1997年3月2日 2回中山4日1R 4歳未勝利 アンディーン 16頭 5 1着
重賞初騎乗 1998年11月7日 5回東京1日11R アルゼンチン共和国杯 テンジンショウグン 18頭 17 18着

害 初騎乗 1997年8月16日 3回新潟3日5R 障害4歳上未勝利 ウメノリュウジン 9頭 7 中止
初勝利 1998年7月12日 1回福島8日5R 障害4歳上未勝利 キングスロード 9頭 2 1着
重賞初騎乗 1999年6月12日 3回東京7日10R 東京ハイジャンプ キングスロード 13頭 9 7着
重賞初勝利 2004年6月12日 3回東京7日9R 東京ハイジャンプ メジロロンザン 14頭 4 1着
JGI初騎乗 1999年12月18日 5回中山5日10R 中山大障害 アポンマイワード 15頭 11 10着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1997年 4 8 5 144 .028 .083 .118 0 0 0 3 .000 .000 .000
1998年 6 4 10 159 .038 .063 .126 1 1 3 24 .042 .083 .208
1999年 6 7 9 136 .044 .096 .162 1 3 1 20 .050 .200 .250
2000年 0 1 2 83 .000 .012 .036 2 0 3 26 .077 .077 .192
2001年 0 0 1 31 .000 .000 .032 1 0 3 28 .036 .036 .143
2002年 0 1 0 20 .000 .050 .050 0 2 4 15 .000 .133 .400
2003年 0 0 0 23 .000 .000 .000 4 2 3 30 .133 .200 .300
2004年 0 0 0 7 .000 .000 .000 4 1 7 28 .143 .179 .429
2005年 0 0 0 4 .000 .000 .000 0 0 2 23 .000 .000 .087
2006年 0 0 0 5 .000 .000 .000 1 0 2 31 .032 .032 .097
2007年 0 0 0 2 .000 .000 .000 1 0 0 39 .026 .026 .026
2008年 0 0 0 2 .000 .000 .000 2 2 2 36 .056 .111 .167
2009年 0 0 0 1 .000 .000 .000 2 2 2 41 .049 .098 .146
2010年 0 0 0 6 .000 .000 .000 2 2 1 36 .056 .111 .139
中央 16 21 27 623 .026 .059 .103 21 15 33 380 .055 .095 .180
地方 0 0 0 9 .000 .000 .000

江田照男

江田 照男(えだ てるお、1972年2月8日 – )は日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンター所属の騎手である。ニックネームは「エダテル」「テリーマン」。

江田照男 来歴

1990年に美浦の田子冬樹厩舎所属騎手としてデビュー。同期の騎手は北沢伸也・浜野谷憲尚を除き全て現役を退いており、村山明・牧田和弥は調教師に転身となっている。

デビュー1年目の新潟記念でサファリオリーブに騎乗し重賞初勝利を記録、重賞騎乗2戦目での勝利は当時の最速記録だった。この年27勝を挙げ関東新人騎手賞を獲得。

1991年にはプレクラスニーとのコンビで同年秋の天皇賞をメジロマックイーン降着による繰り上がりでの勝利ながらGI初騎乗・初勝利を達成。なおこの勝利は当時のGI最年少制覇記録(19歳8ヶ月)となっている[1]。

これまで、オープンクラスの競走で多くの穴馬券を輩出してきたことから「穴男」・「万馬券男」と呼ばれる[2]。14番人気での勝利となった1990年サファリオリーブの新潟記念をはじめ、1998年日経賞では障害帰りのテンジンショウグンを勝利に導き、当時重賞の馬連最高配当(213370円)を記録[3]。

2000年スプリンターズステークスでは16頭立て16番人気のダイタクヤマトで逃げ切り勝ちを収め9年ぶりのGI勝利をマーク。同時期の中距離路線で活躍したアメリカンボスでも2001年有馬記念にて13頭立て13番人気で2着となり、有馬記念の馬連最高配当(48650円)を記録した[4]。

この他2006年・2010年の重賞勝ちをいずれも2桁人気馬で挙げるなど人気薄馬での好走例が多く見られる。穴を作る秘訣は「どの馬でももしかしたらというつもりで乗ること」とコメントを残している。
エピソード [編集]

勝利ジョッキーインタビューでカメラに向かってピースサインをするなどのパフォーマンスも見せている。
1991年の天皇賞(秋)はGI初挑戦初勝利、また10代での天皇賞制覇の偉業達成(これは当時のGI最年少制覇記録でもあった)ではあったが、実質的には6馬身差の完敗だったので、表彰式でも笑顔は見られなかった。しかし内心は相当嬉しかったと語っている。その後記念のテレホンカードを自主制作した。

中央競馬において10代でGIを制した騎手は武豊(1988年菊花賞:勝ち馬スーパークリーク)と江田のわずか2人しか成し遂げていない記録である。

2006年1月9日、美浦トレーニングセンター内の風呂で、当時は騎手の田中剛と入浴マナーについて口論となり、ヘッドロックをされるなどの暴行を受けた。このことで田中は騎乗停止の処分を受けた。

2006年7月1日の福島競馬第5競走で、江田が騎乗していた馬が大野拓弥が騎乗していた馬から不利を受けたことが発端となり、1月の時とは逆に、レース後検量裁決室(パトロールビデオ室)で、江田が大野の臀部を蹴るという事件が起きた。この結果、江田は開催2日間の騎乗停止処分を受けた。

江田照男 主な騎乗馬

プレクラスニー (1991年エプソムカップ・毎日王冠・天皇賞(秋))
アメリカンボス (1999・2000年エプソムカップ・2001年アメリカJCC・中山記念)
ダイタクヤマト (2000年スプリンターズステークス・スワンステークス)
ヤマニンアラバスタ (2005年新潟記念・府中牝馬ステークス)

江田照男 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1990年3月3日 2回中山3日1R アラ系3歳上400万下 カガミヤマ 10頭 3 4着
初勝利 1990年4月1日 3回中山4日1R アラ系3歳上400万下 カガミヤマ 13頭 1 1着
重賞初騎乗 1990年8月5日 1回新潟8日11R 関屋記念 サファリオリーブ 18頭 16 6着
重賞初勝利 1990年8月26日 2回新潟6日10R 新潟記念 サファリオリーブ 15頭 14 1着
GI初騎乗・初勝利 1991年10月27日 4回東京8日10R 天皇賞(秋) プレクラスニー 18頭 3 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1990年 27 30 29 310 .087 .184 .277
1991年 35 32 29 369 .095 .182 .260
1992年 21 33 33 330 .064 .164 .264
1993年 29 35 29 380 .076 .168 .245
1994年 26 35 36 426 .061 .143 .228
1995年 12 16 27 361 .033 .078 .152
1996年 23 19 25 290 .079 .145 .231
1997年 43 25 34 415 .104 .164 .246
1998年 33 23 40 479 .069 .117 .200
1999年 57 45 49 573 .099 .178 .264
2000年 58 60 47 622 .093 .190 .265
2001年 61 68 41 666 .092 .194 .255
2002年 58 58 51 708 .082 .164 .236
2003年 60 57 63 760 .079 .154 .237
2004年 33 36 48 708 .047 .097 .165
2005年 27 38 45 685 .039 .095 .161
2006年 18 22 28 555 .032 .072 .123
2007年 27 24 35 476 .057 .107 .181
2008年 30 27 26 616 .049 .093 .135
2009年 25 22 25 547 .046 .086 .132
2010年 21 36 40 684 .031 .083 .142
中央 724 741 780 10960 .066 .134 .205
地方 38 33 35 364 .104 .195 .291

江田照男 脚注

^ 競馬騎手読本
^ 別冊宝島・騎手年鑑 ISBN 4-7966-9517-6
^ 1998年3月30日日刊スポーツ
^ 2001年12月24日日刊スポーツ

内田博幸

内田 博幸(うちだ ひろゆき、1970年7月26日 – )は日本中央競馬会 (JRA) の騎手である。

2008年に大井競馬場から移籍。移籍時から美浦の嶋田潤厩舎に所属し、2011年5月1日付けでフリーとなる。地方競馬時代には大井競馬場の荒井隆厩舎に所属。

福岡県三潴郡三潴町(現・久留米市)出身。妻は元フリーアナウンサーの鈴木文子[1]。兄の内田秀一も佐賀、川崎に所属し通算527勝を挙げた元騎手である。
地方時代の勝負服の柄は胴青・赤山形一文字・袖白(詳細は後述)。

内田博幸 来歴

内田博幸 騎手になるまで

父が体操選手だった影響もあり小学校低学年から体操教室に通う。一緒に通っていた兄が中学卒業時に教室を辞めたため一人で通うのは無理と判断し、同時に体操教室を辞める。

進路を決める中学3年生になるも体操への道が諦めきれず逡巡するが、再開しても周囲とのレベル差があり過ぎるを理由に諦める。自宅の近所に2歳馬の馴致をする施設があり、手伝いを通じて競走馬に親しむ機会があった。

その後、当時佐賀競馬の騎手となっていた兄の秀一の縁で当時の佐賀のトップジョッキーであった的場信弘から大井競馬の調教師の松浦備(的場の弟である大井所属の的場文男の兄弟子にあたる)を紹介されて上京、松浦の厩舎にて1年の修業の後、地方競馬教養センター騎手過程で2年を過ごす。

内田博幸 大井所属時代

内田とアジュディミツオー

内田博幸 地方競馬にて
1989年4月6日にデビュー(ハツマドンナに騎乗、7着)。初勝利は同年5月7日に挙げる。当初は松浦備厩舎所属。初重賞勝利は1991年12月30日ドラールオウカンに騎乗したロジータ記念。

その後赤間清松厩舎へ移籍して赤間師の下で徹底的に鍛えられ、1990年代には「追える若手騎手」として南関東地区では知られる存在であったが、的場文男や石崎隆之をはじめとする南関東のトップジョッキーたちの中にあっては影が薄かった。

また、自身の騎乗馬で重賞を勝つチャンスがありながら騎乗停止処分でレースに騎乗できなくなり、乗り替わった騎手に重賞を勝たれたこともあった[2]。しかし2000年頃から南関東リーディングの上位に進出するようになり、リーディングトレーナーである船橋・川島正行厩舎の主戦騎手として、2004年には385勝(ほかJRA28勝)を挙げ的場-石崎時代に終止符を打つ初の南関東リーディング獲得、同時に初の全国リーディング獲得でNARグランプリ最優秀騎手賞受賞。

2005年には465勝(他に中央競馬(JRA)で31勝)をあげ、2年連続の南関東リーディングジョッキーとなった。その上、南関東地区の4競馬場(大井競馬場、川崎競馬場、船橋競馬場、浦和競馬場)全てで各競馬場でのリーディングをも獲得している[3]。同年には通算2000勝を達成し、名実共に現代の地方競馬を代表する騎手の一人となった。また、同年3月26日に開催されたドバイワールドカップにはアジュディミツオーと共に地方競馬からの初参戦を果たすが6着に終わった。

2006年にはまずアジュディミツオーとのコンビで同年春の南関東古馬統一GIを完全制覇[4]。さらにジャパンダートダービーをも制し、7月18日には通算2500勝を達成。これは南関東史上9人目、南関東現役では4人目の記録である。そして佐々木竹見の不滅の金字塔と言われた3年連続400勝突破を達成。12月の全日本2歳優駿をも制し、これが年間500勝目の勝ち鞍となり、12月18日の浦和競馬場の第11競走で1番人気のトーセンマンボに騎乗して勝利、佐々木の持つ年間505勝の日本記録を遂に塗り替え、最終的には524勝まで勝ち星をのばした。[5]

2007年、9月5日に大井競馬場で史上16人目となる地方競馬通算3000勝を達成。2008年度のJRA騎手免許試験を受験することを宣言。

2008年、すでに中央競馬で2年連続20勝を達成しており、1次試験免除の内規はクリアしているので2月上旬に行われた2次試験を受験し、合格。3月1日付で日本中央競馬会所属騎手となった。地方競馬全国協会の騎手として最後の大井競馬場での騎乗となった2月22日には壮行会が行われ[6]、地方競馬全国協会の騎手として最後の騎乗地となった川崎競馬場では2月27日に「内田博幸騎手を送る会」が行われた。地方競馬全国協会の騎手として最後の騎乗レースは同日のエンプレス杯となり(ラピッドオレンジに騎乗して6着)、中央移籍までに地方競馬通算17680戦3153勝の成績を残した。

内田博幸中央競馬にて

中央競馬の初騎乗は1995年3月4日から2日間にわたって開催された「ヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップ」で、以降も騎乗機会を確保できれば中央へ積極的に参戦する姿勢を見せていた。重賞は2003年の共同通信杯をラントゥザフリーズで、2005年のニュージーランドトロフィーをマイネルハーティーで制している。2005年の朝日杯フューチュリティステークスではスーパーホーネットに騎乗して2着となった。

2006年、3月4日の中山競馬第11競走で同年より重賞となったオーシャンステークスを船橋競馬所属のネイティヴハートで16頭立ての14番人気という低評価を覆して勝利。さらには同年4月2日の中山競馬で、地方競馬所属騎手として初の12競走中6勝するという快挙を成し遂げ、8月20日の新潟競馬第7競走でアナナスに騎乗しJRA通算100勝を挙げた。

9月30日にはJRA年間56勝を達成し、それまで安藤勝己が有していたJRA所属外騎手最多勝記録である55勝を更新した。この年はそれから5勝を上げてJRA年間勝利数を61まで伸ばし、中央競馬リーディング16位の成績を残した。年末には有馬記念にドリームパスポートで参戦。同馬にとって初めての馬券圏外となる4着に敗れ去っている。

2007年、2月18日のフェブラリーステークスで、船橋競馬所属のアジュディミツオーに騎乗し14着に敗れるが、同年5月6日のNHKマイルカップ(JpnI)ではピンクカメオに騎乗し、初めて[7]の中央競馬GI級競走を制覇した。

内田博幸 中央移籍後

2008年3月1日付でJRAに移籍すると、その日の中山競馬第1競走をシャドウランズで制し、2006年の岩田康誠に次ぐ2人目の「NARからの移籍後初騎乗初勝利」を挙げた。

3月5日に関東地方公営競馬協議会によって、交流競走等により南関東公営競馬で騎乗する際には従来指定していた騎手服を使用することが可能と発表され、JRA移籍後も南関東公営競馬での騎乗の際には従来の騎手服を着用できることになった。翌3月6日には船橋競馬でJRA移籍後初めて古巣・南関東に参戦し、3勝を挙げた。

4月27日、レッドアゲートで第43回フローラステークスを制覇し、JRA所属騎手として初の重賞勝ちを収めた。つづく5月7日船橋競馬・東京湾カップでギャンブルオンミーに騎乗して勝利し、移籍後初の南関東公営の重賞制覇も達成した。

6月29日にエイシンデピュティで第49回宝塚記念を制覇し、JRA所属騎手として初の中央GI勝ちを収め、10月26日には第69回菊花賞をオウケンブルースリに騎乗して優勝しJRAのクラシック競走初制覇を達成、12月17日の第59回全日本2歳優駿に勝利。11月9日には自身初の中央競馬年間100勝を達成し、最終的には123勝を挙げ、関東騎手リーディング1位(全国リーディングは2位)となる。

2009年1月27日、川崎で行われた佐々木竹見カップ ジョッキーズグランプリに中央美浦所属騎手代表として出場し、初優勝。また、シャーガーカップに招待された。最終的に146勝を挙げ、中央競馬の総合リーディングジョッキーとなり、騎乗機会も975回のJRA新記録(当時)となった[8]。

2010年も年明けの開催4日で8勝を挙げるなど好調をキープしていたが、1月11日の中山第4レースで9頭が巻き込まれる大規模な落馬事故に遭い、後続の馬に蹴られた左前腕部を骨折、治療の為休養に入る。2月21日に復帰。復帰初日はフェブラリーステークス1鞍のみに騎乗し、サクセスブロッケンで3着となっている。
 
5月30日、第77回東京優駿でエイシンフラッシュに騎乗して優勝、ダービージョッキーとなった。JRAの東京優駿と交流のジャパンダートダービー、南関東・大井の東京ダービーともに制した騎手としては史上初となる。最終的には、中央のみの勝利数では118勝となり、横山典弘に1位を譲ったものの、中央と地方交流を合わせた勝利数では125勝となり、全国1位となる大変珍しいケースとなった[9]。よって、JRA賞最多勝利騎手は内田が受賞することとなった。
2011年5月1日付けで嶋田潤厩舎所属からフリーになった[10]。

内田博幸 主な重賞勝ち鞍


南関東競馬
東京大賞典:アジュディミツオー(2004、2005年)、サクセスブロッケン(2009年)
かしわ記念:ストロングブラッド(2005年)、アジュディミツオー(2006年)
川崎記念:アジュディミツオー(2006年)
帝王賞:アジュディミツオー(2006年)
ジャパンダートダービー:フレンドシップ(2006年)
全日本2歳優駿:フリオーソ(2006年)、スーニ(2008年)
エンプレス杯:ジーナフォンテン(2003年)、プルザトリガー(2005年)、トーセンジョウオー(2007年)
東京2歳優駿牝馬:ダガーズアラベスク(2005年)
ダイオライト記念:ヴァーミリアン(2006年)、フサイチセブン(2010年)
東京盃:ハタノアドニス(2003年)、リミットレスビッド(2007年)
東京スプリント:ゼンノパルテノン(2009年)
関東オークス:チャームアスリープ(2006年)、シンメイフジ(2010年)
羽田盃:シーチャリオット(2005年)、シーズザゴールド(2010年)
東京ダービー:シーチャリオット(2005年)
桜花賞:チャームアスリープ(2006年)
京浜盃:サワライチバン(2006年)
マイルグランプリ:コンサートボーイ(1996、1997年)、アジュディミツオー(2006年)
埼玉新聞杯:ナイキアディライト(2006年)
船橋記念:プライドキム(2007年)
報知グランプリカップ:プライドキム(2007年)
東京記念:ドラールオウカン(1992年)、イナリコンコルド(2000年)、ルースリンド(2008年、2009年)
大井記念:イナリコンコルド(2000年)、エイシンチャンプ(2006年)
その他の地区
兵庫ジュニアグランプリ(園田):スーニ(2008年)
栗駒賞(水沢):ハタノアドニス(2003年)
JRA
共同通信杯:ラントゥザフリーズ(2003年)
ニュージーランドトロフィー:マイネルハーティー(2005年)
根岸ステークス:リミットレスビッド(2006年)
オーシャンステークス:ネイティヴハート(2006年)
NHKマイルカップ:ピンクカメオ(2007年)
フローラステークス:レッドアゲート(2008年)、ディアジーナ(2009年)
宝塚記念:エイシンデピュティ(2008年)
ラジオNIKKEI賞:レオマイスター(2008年)
菊花賞:オウケンブルースリ(2008年)
クイーンカップ:ディアジーナ(2009年)
フェブラリーステークス:サクセスブロッケン(2009年)
京成杯オータムハンデキャップ:ザレマ(2009年)
京都大賞典:オウケンブルースリ(2009年)
東京優駿:エイシンフラッシュ(2010年)
アメリカジョッキークラブカップ:トーセンジョーダン(2011年)
※太字はGI(JpnI)競走。
テレビ出演

スポーツ大陸(2009年12月21日、NHK)
武豊TV!II(2010年)
脚注

^ ZAKZAK「テレビリポーター鈴木文子、内田博幸騎手と結婚」2007年2月16日発信
^ 1992年東京大賞典:ドラールオウカン→堀千亜樹、1997年帝王賞:コンサートボーイ→的場文男。
^ 従来は石崎、的場のどちらかが南関東のリーディングであっても、それぞれ自らの所属する競馬場でのリーディングだけは相手に譲らないなど「完全制覇」をすること自体がまれであり、これは佐々木竹見以来の偉業である。
^ 川崎記念、かしわ記念、帝王賞の3競走。
^ なお内田の勝利数は地方競馬・中央競馬合わせての通算であり、佐々木は全て南関東での勝ち鞍であるため、地方競馬のみの勝利数ではなお佐々木が上回っている。ただし、現在は佐々木の時代には無い一日に騎乗できるレースは8レースまでという騎乗制限がある。また、505勝を達成した時点での勝率は内田が上回っている。
^ 内田博幸騎手の壮行会について – TCK
^ 大井競馬ならびに南関東公営競馬所属騎手としては初。地方競馬所属騎手としては菅原勲(水沢所属)、岩田康誠(園田所属・当時)に次ぐ3人目。
^ 年間最多騎乗機会は2010年に幸英明によって更新された(1008回を記録)。
^ 中央のみでは内田が118勝で、横山典弘が120勝。地方と合算すると、内田が125勝、横山が121勝となる。
^ 週刊競馬ブック 2011年5月2日発売号「ニュースぷらざ」に掲載

上村洋行

上村 洋行(うえむら ひろゆき、1973年10月23日 – )は日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の騎手である。実兄の上村典久は調教助手。

上村洋行来歴

1992年栗東の柳田次男所属騎手としてデビュー。同期には後藤浩輝・横山義行らがいる。
競馬学校在学時より複数の教官たちから追う技術や騎手向きの性格を評価される[1]などデビューした当時から騎乗技術が高く、同年は京王杯オータムハンデキャップをトシグリーンで制するなど、新人ながら40勝を挙げた。

2年目には53勝を挙げ、若手ながら相当な実力を持った騎手として認知されるようになる。1994年には東京優駿でデビュー3年目ながら2番人気のナムラコクオーに騎乗している(6着)。なお、デビュー3年以内で100勝を達成している騎手は他には武豊[2]、蛯名正義、角田晃一、藤田伸二、福永祐一[2]、武幸四郎、秋山真一郎、池添謙一、北村宏司、藤岡佑介、川田将雅、鮫島良太、三浦皇成[2]らがいるが「デビュー3年以内でも100勝以上の騎手は減量されない」対象となった最初の騎手である[3]。

また結局は武豊などに乗り替わることになるが、サイレンススズカやゴールドアリュールといった後にGI馬になる馬にも騎乗している。
その後もコンスタントに勝ちを積み重ねていたが、1990年代の後半ごろから以前ほどの勢いが落ちる。実はこの時、眼の病気(飛蚊症)を患っていたにもかかわらず治療をしないまま騎乗を続けていたという。それでも毎年10勝以上と2桁の勝ち鞍は挙げていたが、2004年に治療をするため騎乗を自粛。しばらくの間、手術をするため休養に入る。手術は3回行われ、ようやく視力が回復するに至った。

復帰後の2005年には42勝と若い頃に近い成績を残し、神戸新聞杯でストーミーカフェに騎乗した四位洋文に替わってシックスセンスに騎乗したり、エリザベス女王杯を連覇中だったアドマイヤグルーヴにも騎乗している。

2008年6月15日、スリープレスナイトでCBC賞を勝ち、実に10年ぶりのJRA重賞競走を勝利するとその後も同馬で北九州記念、さらにはスプリンターズステークスも制覇し、G1レース騎乗40回目の挑戦にして悲願のG1ウイナー騎手の栄誉を手にした。

上村洋行 不祥事

2002年7月12日、函館競馬場の調整ルーム食堂内にて上村は青木芳之と口論になり一方的な暴力行為に及んだ。裁決委員は13~14日の騎乗は不適当と判断。競馬施行規則第126条第20号「競馬の公正確保について業務上の注意義務を負う者として相応しくない非行のあった者」を適用し、上村に対し13日から21日までの騎乗停止処分を科した。

上村洋行 主な騎乗馬

トシグリーン(1992年京王杯オータムハンデキャップ)
ナムラコクオー(1993年ラジオたんぱ杯3歳ステークス、1994年シンザン記念、1996年プロキオンステークス)
ロイヤルスズカ(1998年スワンステークス)
スリープレスナイト(2008年CBC賞、北九州記念、スプリンターズステークス)
ファインチョイス(2011年函館2歳ステークス)

上村洋行 騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1992年3月1日 1回阪神2日2R 4歳未勝利 トシワイズ 12頭 3 4着
初勝利 1992年3月28日 1回中京7日6R 5歳上500万円下 スナークライナー 14頭 1 1着
重賞初騎乗 1992年8月30日 3回小倉6日11R 小倉記念 ダンツジュピター 10頭 9 9着
重賞初勝利 1992年9月13日 4回中山2日11R 京王杯AH トシグリーン 13頭 10 1着
GI初騎乗 1993年4月11日 2回阪神6日10R 桜花賞 ショウザンダイヤ 18頭 16 14着
GI初勝利 2008年10月5日 4回中山8日11R スプリンターズS スリープレスナイト 16頭 1 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1992年 40 30 33 398 .101 .176 .259
1993年 53 44 41 433 .122 .224 .319
1994年 50 58 65 546 .092 .198 .317
1995年 36 37 40 449 .080 .163 .252
1996年 6 9 8 119 .050 .126 .193
1997年 21 24 23 328 .064 .137 .207
1998年 15 16 18 218 .069 .142 .225
1999年 23 19 30 318 .072 .132 .226
2000年 29 27 36 414 .070 .135 .222
2001年 14 16 19 286 .049 .105 .171
2002年 28 27 24 359 .078 .153 .220
2003年 14 16 22 278 .050 .108 .187
2004年 6 4 11 95 .063 .105 .221
2005年 42 33 32 529 .079 .142 .202
2006年 24 26 21 438 .055 .114 .162
2007年 36 37 41 503 .072 .145 .227
2008年 30 30 39 483 .062 .124 .205
2009年 16 23 9 372 .043 .105 .129
2010年 33 32 29 471 .070 .138 .200
中央 516 508 541 7037 .073 .146 .222
地方 10 6 6 56 .179 .286 .393
テレビ出演 [編集]

心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU(2010年5月8日、日本テレビ)

上村洋行 注釈


^ 競馬騎手読本
^ a b c 2年目で達成
^ 藤田伸二までは、デビューから3年間は勝利数に関わらず一般競走では1kg減で出走できた。また見習騎手に対する減量規定については年によって異なるが詳細は当該記事を参照のこと。