三浦 皇成(みうら こうせい、1989年12月19日 - )は日本中央競馬会・美浦トレーニングセンター所属の騎手。
5歳の時に大井競馬場でのポニー試乗イベントで、騎手の格好をしてポニーに乗ったことがきっかけで騎手を目指すようになり、5歳から騎手を目指してトレーニングを始めるようになる。器械体操、トランポリン、水泳、キックボクシング、剣道など多くのスポーツを経験する。
なお同期入学には後述する大江原圭・伊藤工真・平野優など8人入学していた。
2008年、2月12日に同校を卒業した。
同日に行われた卒業記念模擬レースではジーガーユタカオーに騎乗して2着で、同日の謝恩会では「スポーツマン大賞」を受賞した。卒業時の同期には大江原圭と伊藤工真がいる。
この年の卒業者で騎手になった数は3人で、競馬学校史上最も少ない人数となった[1]。2月14日、2008年度JRA騎手免許試験に合格し3月1日付で騎手免許を交付、同年の新人騎手は前述の2人に加え地方競馬より移籍の内田博幸と鷹野宏史がいる。
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丸山 元気(まるやま げんき、1990年10月3日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の騎手。美浦トレーニングセンターの根本康広厩舎所属。
目標の騎手は松岡正海。
2009年3月1日、中山競馬場第3レースでデビュー。ヤマタケディガーに騎乗し16頭立ての11着だった。
同年7月11日、札幌競馬場第2レースで8番人気オンザスローンに騎乗し、80戦目で初勝利を挙げた。同期では最も遅い初勝利だったが、同年8勝を挙げ民放競馬記者クラブ賞を受賞した。
2011年5月8日、セイクリッドバレーで新潟大賞典を勝ち、重賞初制覇。
丸山 元気 人物・エピソード
父親は当初名前を「勇気」と名づけるつもりだったが、直前に隣の家でも子供が生まれ先に「勇気」と名づけられてしまったため、同じ名前がかぶるのはまずいということで急遽「元気」と名づけることになったという[3]。
競馬学校3年生の時に藤田伸二の特別講義を受けた一人である。
丸山 元気 騎乗成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初騎乗2009年3月1日2回中山2日3R3歳未勝利ヤマタケディガー16頭1111着
初勝利2009年7月11日1回札幌7日2R3歳未勝利オンザスローン12頭81着
重賞初騎乗2010年4月24日1回福島5日11R福島牝馬Sショウナンラノビア16頭915着
重賞初勝利2011年5月8日1回新潟6日11R新潟大賞典セイクリッドバレー15頭21着
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丸田 恭介(まるた きょうすけ、1986年5月20日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・美浦トレーニングセンターの宗像義忠厩舎に所属する騎手である。
入学時の同期には的場勇人らがいる。
実技の習得が遅れ途中で1年留年するも、2006年12月16日に中山競馬場で行われた模擬レースでタマモスオードに騎乗し1着となる。
2007年、2月に競馬学校を第23期生として卒業し騎手免許を取得する。卒業時の同期には藤岡康太らがいる。
卒業式後の祝賀会では「スポーツマン大賞」を受賞。3月3日に行われた中京競馬場での第2競走で、6番人気だったノースリヴァーに騎乗して初騎乗を果たすも最下位の16着だった。
5月26日に東京競馬場で行われた第5競走を、6番人気だったグラスレンヌで勝利し、26戦目で初勝利を挙げる。1年目の目標は50勝を挙げることであったが結果は3勝だった。
しかし、翌2008年は31勝を上げた。
2009年、4月19日に福島競馬場で行われた第5競走でエイシンワールドに騎乗して2着入線したが、最後の直線走路で急に内側に斜行してアルマダ(香港のアルマダと同名馬)の走行を妨害したため11着に降着となり、その後自身初の騎乗停止処分を受けた[1]。
2010年、3月20日に中京競馬場で行われた第4競走でブルーエンジェルに騎乗して4位入線したが、最後の直線走路で急に外側に斜行し、トウショウチャンスに騎乗していた田面木博公騎手を落馬させたため失格となり、さらに第10競走でシンボリローレンスに騎乗し2位入線したものの、最後の直線走路で急に内側に斜行し、トレジャーハントとナリタジャングルの走行を妨害したため8着に降着となり、合計10日間の騎乗停止となった。これは2009年のNHKマイルカップで吉田豊騎手がサンカルロに騎乗し、2度の進路妨害で8日間の騎乗停止を抜く記録となった。
7月24日に函館競馬場にて行われた第1競走でダイヤヘルメスに騎乗して勝利し、JRA通算100勝を達成する。11月20日に福島競馬場で行われた福島記念で12番人気のダンスインザモアに騎乗し、道中最後方ながら最後の直線で大外から豪快に差し切り重賞初制覇を達成した。
丸田 恭介 騎乗成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初騎乗2007年3月3日1回中京1日2R3歳未勝利ノースリヴァー16頭616着
初勝利2007年5月26日3回東京3日5R3歳未勝利グラスレンヌ16頭61着
重賞初騎乗2008年12月13日2回中京5日11R中日新聞杯マイネルスターリー17頭127着
重賞初勝利2010年11月20日3回福島9日11R福島記念ダンスインザモア16頭121着
GI初騎乗2010年5月16日2回東京8日11Rヴィクトリアマイルシセイカグヤ18頭1414着
年度1着2着3着騎乗数勝率連対率複勝率
2007年395127.024.094.134
2008年314535536.058.142.207
2009年486057714.067.151.231
2010年393736623.063.122.180
中央1211511332000.061.136.203
地方01326.000.038.154
丸田 恭介 エピソード
騎手を目指したきっかけとなったレースは、スペシャルウィークが勝った1999年の天皇賞(秋)である。
目標としているのはランフランコ・デットーリ、横山典弘、吉田豊の各騎手で、競馬学校時代の一番の思い出は模擬レースである。
同期のライバルは草野太郎。
初賞金の使い道は、自分専用で練習するための木馬の購入だった。
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黛 弘人(まゆずみ ひろと、1985年11月12日 - )は、JRA美浦トレーニングセンターに所属する騎手である。
父は元騎手で現調教助手の黛幸弘である。
1985年11月12日、当時騎手であった幸弘の次男として生まれる。
2002年4月、JRA競馬学校騎手課程に第21期生として入学する。同期入学には鮫島良太らがいる。
その後1年留年し、2006年、第22期生として競馬学校騎手課程を卒業しJRAの騎手免許を取得する。卒業時の同期には的場勇人らがいる。
父が調教助手として所属している中野栄治厩舎所属でデビューとなった。JRA初騎乗は3月4日中山2Rディアトラックに騎乗して14着。
4月1日中山8Rイチライタッチで勝利しJRA初勝利を挙げる。
2007年2月10日、障害競走初騎乗を果たすも、レース中に落馬し競走中止となってしまった。
松岡正海らと共にノビーズという音楽バンドを結成している。
2011年2月26日、小倉12Rの甘木特別でメジロガストンで騎乗し2着となったが、ゴール前で追う動作をやめようとしたため「騎手の注意義務を著しく怠る油断騎乗があった」として、翌日の2月27日から3月28日まで30日間(開催日9日間)の騎乗停止処分を課された[1]。
この勝利が日本競馬に数々の名馬を送り出した名門メジロ牧場(2011年に競馬界からの撤退を発表)名義の競走馬最後の出走馬であり、有終の美を飾るとともに、前述の油断騎乗の件と含めて最後までメジロ牧場とは縁があった。
黛 弘人 騎乗成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初騎乗2006年3月4日2回中山3日1R3歳未勝利ディアトラック16頭1114着
初勝利2006年4月1日3回中山3日8R4歳上500万円下イチライタッチ12頭71着
重賞初騎乗2008年12月20日3回中京3日11R愛知杯スペシャルフロート18頭1815着
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父は元騎手で調教師の的場均、兄は父のバレットを務めていた。祖父は元調教師の柄崎義信、伯父は調教師の柄崎孝、従兄弟に騎手の柄崎将寿がいる。
父・均が騎手ということから幼少時より馬への関心を持ち、ライスシャワーに騎乗し1995年の天皇賞(春)を制覇した均を見て、騎手を目指すようになる。
その11年後の2006年、騎手免許を取得し父・的場均厩舎所属の騎手としてデビューを果たす。
以降も着実に騎乗数と勝利数を伸ばし続け、2010年には「減量も無くなったし行くなら早いうちがいい」「精神的なものを一から見直したい」と7月中旬より2ヶ月半に渡るアイルランド研修を行う[2]。
当地ジョン・オックス調教師の元での研修は調教業務中心となり、実戦騎乗はカラ競馬場での1レースのみに終わるも、帰国後の騎乗に於いて「技術的な面と精神的な面の両方で、経験が生きているなって凄く感じます」とコメントを残している[3]
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阪神競馬場内にある乗馬センターで乗馬を学び、2006年4月にJRA競馬学校騎手課程第25期生として入学。
2009年2月に競馬学校を卒業し騎手免許を取得する。
卒業供覧模擬レースではグランプリペガサスに騎乗し勝利した。
2009年3月1日、小倉競馬場第1レースでトミケンプライマリに騎乗し、19歳の誕生日に初勝利。
初騎乗・初勝利は内田博幸以来44人目で、競馬学校卒業生では藤岡康太以来8人目。また第9レースではニューロザリオで勝利、デビュー日の2勝は福永祐一以来13年ぶりの記録、競馬学校卒業生では2人目。
特別競走初勝利を果たした。同年は計36勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手と中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞した。
2010年7月18日にシンガポール、クランジ競馬場で実施された国際見習騎手招待シリーズ・アジアヤングガンズチャレンジ2010に中央競馬代表として名古屋競馬所属の阪野学と共に出場[2]のため遠征。7月16日第8競走Claas4一般戦で高岡秀行厩舎所属のMake A Returnに騎乗(12頭立て7着)し、海外競馬初騎乗。
アジアヤングガンズチャレンジでは結果9位だった(10人中)。
8月11日、園田競馬場で条件クラスの交流競走に騎乗すると共に、「修行のため」として岩田康誠を介して当日の平場競走3鞍に騎乗した。
関東では松岡正海らJRAの若手騎手が南関東で何度もエキストラ騎乗をしているが、園田競馬場では元兵庫県競馬所属の小牧、岩田、赤木を除くと初めて。
2011年1月17日高知競馬場で行われた第25回全日本新人王争覇戦に出場し、第1戦で6着、第2戦で2着となり総合3位(10人中)。
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松田 大作(まつだ だいさく、1978年9月13日 - )は、JRAの栗東トレーニングセンター所属する騎手。
1997年競馬学校第13期生として栗東・崎山博樹厩舎所属の騎手としてデビュー。
同期には秋山真一郎、勝浦正樹、武幸四郎、武士沢友治、押田純子らがいる。
また2001年イタリア[1]・2005年アメリカと技術向上のための遠征。
さらに2010年から2011年にかけ[3]親交のあるミルコ・デムーロの伝を頼る形[4]で再びイタリアに赴くなど海外への遠征を幾度も行っている。
2011年には東日本大震災の被災者および被災地向けに現地で募金活動を呼び掛け、集めた約1300ユーロを寄付した。
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野球をプレーした経験があり、2006年5月22日に行われたJRA騎手東西対抗野球大会では、投手として完投勝利しMVPを受賞した。また、2008年4月23日のラジオ日本ジャイアンツナイター(対横浜戦・東京ドーム)にゲスト出演したこともある。
好きな球団は横浜ベイスターズ。
第27回ジャパンカップより、五十嵐冬樹に代わりコスモバルクの主戦騎手を任され、2008年には同馬と共にシンガポールに遠征し、5月18日にシンガポールで初騎乗を迎え、高岡秀行厩舎所属のアストラトレスに騎乗して11着だった。
なおこの日はシンガポール航空国際カップを含め3戦騎乗したが未勝利だった。
タレントのほしのあきが名付け親で有名なハシッテホシーノの主戦騎手に指名された事がきっかけでみんなのウマ倶楽部のレギュラー、木下優樹菜と知合い、「G1で勝ったら、インタビューで(木下の口癖である)『チョリース!』
2011年5月4日に第1子となる長女が誕生した[5]。
JRA騎手の南田雅昭、黛弘人、調教助手の西塚信人とはバンド仲間であり、「ノビーズ」というバンド名でライブ活動を行っている[6]。
2010年7月に公開されたJRAのキャンペーン用映像作品『CINEMA KEIBA/JAPAN WORLD CUP』に、実在する騎手として唯一登場している。同作品では「無敗の三冠馬・ギンシャリボーイの主戦騎手」という設定。
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松岡 正海(まつおか まさみ、1984年7月18日 - )はJRA(日本中央競馬会)の騎手。
美浦の前田禎厩舎所属でデビューし、2005年10月に同調教師が死去し厩舎解散になった後、現在は相沢郁厩舎に所属している。
2003年3月1日の中山競馬第12競走でプラチナウィンクに騎乗しデビュー(14着)。
同年3月23日の中山競馬第12競走でデュエットシチーに騎乗し初勝利を挙げる。
デビュー年は11勝に止まったが、2年目の2004年は28勝と勝利数が上昇。
美浦所属の2003年デビュー組の中で1番乗りでの重賞初制覇であった(栗東所属も含めると、前年の長谷川浩大(福島記念優勝)に次いで2人目)。そしてこの年の桜花賞でGI初騎乗を果たすなど、グレード競走にも徐々に名を連ねるようになり、最終的に49勝をマークした。
2006年4月1日にはJRA通算100勝を挙げ、同年6月12日からはマイケル・キネーン騎手の紹介により、アイルランドの有力な調教師ジョン・オックス厩舎の元で約3ヶ月間の海外出張を行った。現地では騎乗は2鞍(6着、8着)だったが、馬の身の回りの世話や日本との違いなどを肌で感じ取った。
松岡自身も、「この時の経験が、自分の競馬に対するスタンスを変えた」と語っている。このアイルランドでの修行を経て、2006年9月16日の中山競馬よりJRAのレースに騎乗を再開した。
日本復帰後はプリサイスマシーン、 マイネルレーニア、 サンツェッペリン、 アイルラヴァゲインと重賞勝ちを積み重ね、勝負強さを際立たせた。
2007年5月13日に12番人気のコイウタでヴィクトリアマイルを制し、JpnI(GI)初勝利を挙げた。
また4月15日の皐月賞でも15番人気のサンツェッペリンをハナ差の2着に持ってきており、共に大波乱を演出する。
地方競馬場での騎乗にも積極的で、2008年11月3日、公営園田競馬場で開催されたJBCスプリントをバンブーエールで制覇し、交流Jpn競走初勝利を挙げた。
翌2009年5月3日の天皇賞・春では、前走の日経賞でアルナスラインの2着にもってきたマイネルキッツに引き続き騎乗し、12番人気という低評価を覆し、前走敗れたアルナスラインに競り勝ち見事に制した。
2009年9月30日には、大井競馬場で行われた第43回東京盃で再びバンブーエールで勝利した。
2010年12月4日、中山12Rでヒットジャポットに騎乗し1着となり自身初となるJRA年間100勝を達成した。
地方競馬場では、特に南関東では交流競走以外に条件競走・特別競走・地元重賞を問わず、地元馬にも多く騎乗している。
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増沢 由貴子(ますざわ ゆきこ、旧姓 牧原(まきはら)、1978年2月3日 - )は日本中央競馬会(JRA)の騎手。
東京都生まれ。美浦のフリー騎手。
競馬ファンの愛称は「まっきー」。
1996年、細江純子・田村真来とともにJRA初の女性騎手としてデビューした。
そして翌1997年も騎乗数は少ないながら11勝と勝ち鞍は稼ぎ、JRAのCMで本木雅弘、鶴田真由と共演するなど、実績、人気ともに存在感を見せた。このCMでは騎手としての目標を聞かれ「GIレースに勝つこと」と返答した。
この年は年始から1回も騎乗していないことから、結婚を機に一線を退くものと思われたが、しばらくは現役を続行すると宣言。同年3月1日から登録名が増沢由貴子に変更となった。
2007年11月3日にこの年のJRA初騎乗を迎え、2鞍に騎乗したがそれぞれ6、15着だった。11月22日の浦和競馬第5競走C3選抜で久々の勝利を挙げ、更に11月24日には再びJRAで騎乗、勝利には届かなかったがクビ差の2着と健闘した。
2008年増沢末夫厩舎の定年解散に伴い3月1日付でフリーとなった。夫は同日で新規開業した鹿戸雄一厩舎へ移籍しており、同じく鹿戸雄一厩舎所属となる可能性もあったが、騎乗機会を増やすためということでフリーとなった。
最終ラウンドの荒尾競馬場の第6戦の「オッズ・パーク賞」で2勝目をあげ、73ポイント獲得しわずか1ポイント差の2位で終えた。
一時は最大で6人いたJRA所属の女性騎手は、2010年以降、現在では増沢のみである。
2011年終了時で、JRA通算勝利数は34勝。JRA・地方通算勝利数は39勝。
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