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藤田 伸二 不祥事

藤田 伸二 不祥事

2006年12月21日栗東市内の飲食店で酒に酔い従業員の接客態度に腹を立て、その従業員に対し暴力行為に及び、JRA裁定委員会による正式処分決定まで騎乗停止となる。

2007年1月5日に処分が決定、2006年12月22日から2007年3月21日までの騎乗停止に。平成18年(2006年)度厩舎関係者表彰(優秀騎手賞の各部門及びフェアプレー賞)の対象でもあったがこの件を受けて除外された。

また2007年3月19日までに傷害容疑で書類送検されたが「被害者と示談が成立している」として起訴猶予処分となり、逮捕も免れた。なお被害者側からJRAに処分の撤回及び軽減を求める嘆願書も出されたが、これは考慮されなかった。

藤田 伸二のエピソード

藤田 伸二は、
病気がいつ発症するかわからないという不安から、列車や飛行機による長時間の移動を避ける傾向があり、2006年にアサクサデンエンがドバイデューティーフリーに出走した際には騎乗を断念した(同馬はドバイでは武が騎乗)が、2007年暮れにコンゴウリキシオーが香港マイルに出走した際や2008年にイイデケンシンがUAEダービーに出走した際には、香港やドバイに遠征し騎乗している。また、アメリカでの騎乗経験(2005年など)もある。

その後は安定剤などの服用により体調は安定し「飛行機も普通に乗れるようになった」と自著でコメントしている。
競馬学校2年生のときに一度「素行不良」を理由に無期停学処分を受けている。

当時はそれ以外にも度々素行を注意されることが多く、本人も「(競馬学校時代に)悪いことは一通り全部やった」と語っている[7]。
競馬学校時代には、学校が休みの日曜日になると、学校から近い中山競馬場での開催時を中心にバレットのアルバイトをしていた(給料は「日給5000円」だったという)[8]。

1990年の第35回有馬記念ではオグリキャップに騎乗した武豊のバレットを務めており、レース後に検量所で武と言葉を交わす藤田の姿がテレビ中継に映っている[7]。
競馬学校卒業後にボクシングを習い始め、現在ではセミプロレベルの格闘技術を保有している。
オリビエ・ペリエは自身の著書「野望あります」にて「2007年秋・天皇賞当日の朝、ロッカーを開けるとフランス国旗を持ったナイスボディの人形に「がんばれ!」と書いた紙が貼ってあるシンジからのプレゼントが置いてあった」というエピソードを明かしている。
その後2010年に三たび逮捕・起訴された)。藤田自身は現在でも著書などで田原を「最も尊敬する人物」として挙げているが、これはあくまで事件以前の田原のことであり、また著書では「競馬界の信用を失墜させた」との理由もあり、事件後の田原を庇うつもりはないとしている。
同期の四位とは競馬学校時代からの親友である。
2009年から始めたブログの更新と麻雀、パチスロが趣味で、「よろしいやん」という名言が生まれており、ローレルゲレイロで勝利した高松宮記念や、2010年の中山金杯をアクシオンで勝利した時の勝利ジョッキーインタビューの際「馬券が当たってよろしいやん」という発言もした。

また、2010年4月3日から、デイリースポーツ および馬三郎紙面にてコラム「よろしいやん(現在のコラム名は「藤田伸二の男のコラム」)」(毎週土・日曜日掲載)を執筆している。
一時期、ワールドスーパージョッキーズシリーズ表彰式等のイベントをボイコットし参加しなかったことがあった。
現在嗜好している銘柄はクール・ブースト(8mg)。煙草は中学2年の時から競馬学校時代を含めて一日も切らしたことがないと著書で述べている[10]。
嫌いな飲料はキリン一番搾り生ビール。サプリメントが好きで、薬局で大量買いしている[11]。
現在は茶髪だが、金髪や白髪にしていた時期もあった。髪の色についてはファンや馬主から野次や文句が出ることがあるが「個人の自由であり規則を犯しているわけでもないし[12]、JRAから注意を受けたこともないので改めるつもりはない」と自伝で記述している。
自身のデビュー20周年を記念して発売された『騎手・藤田伸二 20年の「男道」』内の企画「フリー百科事典『ウィキペディア』本人チェック」において、自身の項目の2010年2月16日18時の時点における記載についてチェックを行った。その結果、身長や出身中学校、交流G1勝利数などについて間違いを指摘し「でもまぁ、いくつか致命的なのはあったけど、全体的にはほとんど間違いないやん」「そんで、間違ってたとこは直してくれんの?」

藤田 伸二

藤田 伸二(ふじた しんじ、1972年2月27日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の騎手。

その後1年間の牧場勤務を経て競馬学校に入学(7期生)、1991年に中央競馬の騎手としてデビュー(栗東・境直行厩舎所属、同期には四位洋文、安田康彦、郷原洋司らがいる)。
初騎乗は1991年3月2日、中京競馬第1競走のハイビスカスマミー(13頭立ての7着)、同年3月9日、中京競馬第1競走マキバスクリーンで初勝利を挙げる。
1991年にノーザンコンダクトでラジオたんぱ杯3歳ステークスを制し重賞初勝利、以後2010年現在まで毎年重賞を勝利している。翌1992年にタケノベルベットでエリザベス女王杯を制しGIを初制覇。
1996年にはフサイチコンコルドで東京優駿(日本ダービー)を制し、史上2番目の若さでダービージョッキーの仲間入りを果たした。2004年には安田富男、武豊に次ぐJRA史上3人目となる中央競馬全10場重賞制覇を達成している。
夏競馬開催は生まれ故郷である北海道(函館・札幌競馬場)を主戦場とし、多くの勝ち鞍を挙げている。2007年6月16日には函館開催の初日、1日9連対のJRAタイ記録を達成した(武豊、横山典弘に次ぐ3人目)。
2004年に年間の制裁点が0点でありかつ優秀騎手賞を受賞したことにより、JRA史上3人目(柴田政人、河内洋に次いで)となる特別模範騎手賞を史上最年少で受賞した。藤田は「ようやく自分にも1つ、豊さんに破られない記録を作ることができた」と感想を語った。

さらに、2010年には史上初の2度目の特別模範騎手賞を受賞した。なおフェアプレー賞もJRA現役騎手最多・歴代最多受賞回数である(15回)。

また1996年より2008年まで12年間、レースでの騎乗停止が無かった[6]。
2000年代後半以降は栗東・藤原英昭、昆貢両厩舎の主戦騎手を務め、特に藤原からは信頼が厚く「勝負レースは伸二に依頼している」と明言している。

その一方で、栗東所属でありながら東京・中山での騎乗数も大幅に増加させている。
2011年5月1日現在でGI級19勝(JRAGI15勝、交流GI4勝)うち高松宮記念を3勝(1999年マサラッキ、2002年ショウナンカンプ、2009年ローレルゲレイロ)しており、GI昇格後の高松宮記念最多勝ジョッキーでもある。

藤岡 佑介

藤岡 佑介(ふじおか ゆうすけ、1986年3月17日-)は、JRA(日本中央競馬会)栗東所属の騎手である。
父・藤岡健一は栗東所属の調教師であり、弟・藤岡康太は同じ栗東所属の騎手として2007年にデビューした。
愛称は「豆」。藤田伸二が名付けた(藤田の著書『騎手・藤田伸二 20年の「男道」』(2010年 宝島社)に記載)。

競馬学校第20期生(同期には津村明秀、丹内祐次、吉田隼人らがいる)。2004年3月6日、中京競馬第2競走のシルクマイスターでデビューし、16頭立ての3着に入る。初勝利は同年3月13日、中京競馬第1競走のアスカクイーン。同年3月27日、中京競馬の沈丁花賞をトップオブワールドで制し、特別競走勝利を挙げると、その後も函館記念でワイルドスナイパーに騎乗し3着、暮れの朝日杯フューチュリティステークスでGI初騎乗を果たすなど、この年35勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を獲得した。
2005年1月30日の京都牝馬ステークスで父が管理するアズマサンダースに騎乗して勝利し重賞初制覇。
2010年のサマージョッキーズシリーズでは、2位の柴田善臣とは2ポイント差と僅差ながら優勝した。これにより同年11月27日に実施した第24回ワールドスーパージョッキーズシリーズに出場した。
2010年11月3日のJBCスプリントをサマーウインドで勝利し、GI(JpnI)初勝利。
藤岡 佑介 主な騎乗馬
アズマサンダース (2005年京都牝馬ステークス)
ハードクリスタル (2006年東海ステークス)
ナムラマース (2006年札幌2歳ステークス、2007年毎日杯)
ローゼンクロイツ (2007年中京記念・金鯱賞)
スーパーホーネット (2007年スワンステークス、2008年京王杯スプリングカップ・毎日王冠、2009年マイラーズカップ)
ハイアーゲーム (2007年鳴尾記念)
エアパスカル (2008年チューリップ賞)
トーセンキャプテン (2008年函館記念)
ワンカラット (2009年フィリーズレビュー、2010年函館スプリントステークス・キーンランドカップ)
サンディエゴシチー (2009年札幌2歳ステークス)
サマーウインド (2010年JBCスプリント、東京盃、クラスターカップ )
クォークスター (2010年セントライト記念)

藤岡 康太

騎乗回数8回は1996年の福永祐一、1997年の武幸四郎と並ぶデビュー日最多騎乗回数タイ記録となっている。
2009年にはジョーカプチーノとのコンビでファルコンステークス・NHKマイルカップ両競走を制覇し重賞競走並びにGI競走初勝利を達成。

藤岡 康太 主な騎乗馬

ジョーカプチーノ (2009年ファルコンステークス、NHKマイルカップ、2011年シルクロードステークス)
オースミスパーク(2010年小倉大賞典) - 赤木高太郎の落馬負傷による乗り代わりのもの。
ブライティアパルス(2010年マーメイドステークス)
シルクフォーチュン(2011年プロキオンステークス)
藤岡 康太 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初騎乗・初勝利2007年3月3日1回中京1日1R3歳未勝利ヤマニンプロローグ16頭11着
重賞初騎乗2007年6月17日3回阪神2日11RマーメイドSコスモプラチナ12頭87着
重賞初勝利2009年3月21日2回中京3日11RファルコンSジョーカプチーノ18頭41着
GI初騎乗2008年10月19日4回京都4日11R秋華賞ブライティアパルス18頭134着
GI初勝利2009年5月10日2回東京6日11RNHKマイルカップジョーカプチーノ18頭101着

福永祐一

福永祐一(ふくなが ゆういち、1976年12月9日 - )は日本中央競馬会(JRA)栗東所属の騎手である。
なお同年にデビューした騎手はJRA初の女性騎手となった牧原由貴子(当時)ら3人の女性騎手や双子の騎手として話題となる柴田大知・未崎兄弟、そして後にテイエムオペラオーとのコンビで一世を風靡する和田竜二などがおり競馬学校花の12期生と言われ話題を集め、落馬事故で脳挫傷の障害を背負ったために引退した常石勝義らを含めて現在でも仲が良いことで有名。
1996年3月2日の中京競馬第2競走でマルブツブレベストに騎乗し堂々の初騎乗初勝利を挙げると続く第3競走でもレイベストメントで勝利し、デビュー2連勝というデビューを飾る。

この年は53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手も獲得した。
1997年7月22日、川崎競馬場(スパーキングナイター)で行なわれた第44回エンプレス杯でシルクフェニックスに騎乗し重賞初制覇。

同年11月15日にキングヘイローで東京スポーツ杯3歳ステークスに勝ちJRA重賞初勝利。同馬の主戦騎手として翌年のクラシックでもコンビを組み皐月賞では2着となったが、続く東京優駿(日本ダービー)では引っ掛かったキングヘイローを制御できずにいつもとは違う逃げの競馬になり14着に敗れた。

しかし、最後の1冠となった菊花賞で5着、次走の有馬記念で6着に敗れたのを最後にコンビを解消した。
1999年の桜花賞でプリモディーネに騎乗しJRAGI初勝利。

しかしその翌週、中京競馬場で施行された小倉大賞典(マルカコマチに騎乗予定)の本馬場入場の際に落馬事故で肋骨骨折、左腎臓損傷の重傷を負う。秋には復帰し、朝日杯3歳ステークスを自厩舎の所属馬エイシンプレストンで制した。

エイシンプレストンとのコンビでは2001年の香港マイルを制し、2002年と2003年のクイーンエリザベス2世カップを連覇するなど国内・香港で活躍した。
2003年は祐一にとって念願の牡馬クラシック制覇を成し遂げるチャンスだった。

また自身初のJRA年間100勝以上も達成した。
2006年のエリザベス女王杯ではフサイチパンドラに騎乗。

2007年には、JpnI競走[2]の優駿牝馬でローブデコルテに騎乗し優勝。2001年から7年連続のGI級競走(GI・JpnI)勝利となった。

9月9日には馬場入場時に騎乗していたゲットザチャンスが暴れて落馬し、その際に右腹部を蹴られ翌日の騎乗をキャンセルすることになった。10月6日に史上27人目となるJRA通算900勝を達成した。

9月27日には第4競走の2歳新馬戦で勝利し、8811戦目で父・洋一の通算勝利数(983勝)に並んだ。(洋一は5086戦目で983勝目をあげている)また、11月30日京都競馬場で行われた12Rにオリオンスターズに騎乗し中央競馬史上23人目(現役10人目)となるJRA通算1000勝を達成した。

また12月6日と7日に行われるワールドスーパージョッキーズシリーズ(WSJS)に、負傷した武豊騎手に代わっての出場。しかし、順調な勝利とは裏腹にこの年はGI級競走での勝利がなく、GI級競走での連続勝利記録は7年で途絶えた。
2009年の11月28日の京都競馬第8レースでセレスダイナミックが1着となり、JRA通算1100勝を達成した。この年も、GI級競走での勝利はなかった。
2007年の優駿牝馬以来、GI級競走での勝利から遠ざかっていたが、2010年の阪神ジュベナイルフィリーズで圧倒的1番人気に支持されたレーヴディソールに騎乗し勝利。およそ3年半ぶりのGI級競走[3]勝利となった。

平野優

競馬学校卒業後は美浦トレーニングセンターの二ノ宮敬宇厩舎に所属(鷹野宏史は兄弟子)。2010年3月6日の第2回中京競馬1日目の第3レースでジョウテンデジタルに初騎乗(15頭立ての13着)。

翌日の3月7日、第2回中京競馬2日目の第8レースで初勝利。この時の騎乗馬はアストレーションであった。
2010年は最終的に238戦7勝、勝率2.9%という成績で終えた。
趣味は映画鑑賞。

林 満明

1986年第1期の騎手課程生として栗東・吉田三郎厩舎より騎手デビュー。同期には石橋守、柴田善臣、田島裕和らがいる。

デビュー初年度より勝ち鞍を重ね1987年障害重賞を初制覇、1988年デビュー3年目で優秀障害騎手賞を受賞するなど障害競走において早くから頭角を現す。
なお平地でも1990年に20勝をマークするなど成績を残していたが林であったが、1994年所属していた吉田厩舎が解散。

この他、優秀障害騎手賞を5度受賞するなど関西障害レースの中心騎手として活躍を続けている
林 満明 主な騎乗馬 
カルストンファスト(1987年京都大障害(秋))
シゲルデッドクロス(1993年阪神障害ステークス(春))
ザスクープ(1996年京都大障害(秋))
アワパラゴン(1997年阪神障害ステークス(秋)、東京障害特別(秋)、京都大障害(秋))
カネトシガバナー(2001年東京ハイジャンプ)
スリーオペレーター(2007年阪神スプリングジャンプ)
タマモグレアー(2011年京都ハイジャンプ)
林 満明 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
障
害初騎乗1986年3月15日1回阪神7日5R障害400万下ビュウガール8頭77着
初勝利1986年10月12日4回京都4日5R障害未勝利シマノゴット5頭31着
重賞初騎乗1987年3月14日1回阪神5日8R阪神障害S(春)マイティマッハ14頭99着
重賞初勝利1987年11月29日5回京都8日9R京都大障害(秋)カルストンファスト13頭21着
JGI初騎乗1999年4月11日3回中山6日10R中山グランドジャンプイブキハイシーザー10頭77着
平
地初騎乗1986年3月1日1回阪神3日1R4歳未勝利ウキシバクイーン13頭810着
初勝利1986年3月16日1回阪神8日1R4歳未勝利シマノスピード10頭61着
重賞初騎乗1988年3月20日1回阪神8日11R4歳牝馬特別テンザンタカネ16頭124着

浜野谷 憲尚

1年目は平地競走のみの騎乗であったが、2年目以降は障害競走にも騎乗するようになった。ただ障害で初勝利を挙げたのは障害に乗り始めて3年目の1993年のことだった。

その1993年は平地で13勝、障害で3勝、通算16勝と自己最多の勝利数を挙げた。この頃までは平地競走の勝利数が障害競走のそれを上回っていた。
これは騎乗数が非常に少ないことも影響している。
浜野谷 憲尚 騎乗成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
平地初騎乗1990年3月3日2回中山3日2R3歳未勝利ロイヤルマスコット16頭93着
初勝利1990年6月2日3回東京5日2R3歳未勝利ホークバトラー14頭41着
重賞初騎乗1991年4月28日2回東京4日11R4歳牝馬特別ナイスロッチ16頭165着
GI初騎乗1994年4月17日3回中山8日10R皐月賞カズサハリケーン18頭1510着
障害初騎乗1991年1月26日1回東京1日5R障害未勝利セントロビンソン12頭129着
初勝利1993年2月14日1回東京6日5R障害未勝利ステッピングトップ10頭71着
重賞初騎乗1993年4月10日3回中山5日10R中山大障害(春)スピードキャスター9頭76着
重賞初勝利2003年8月23日3回新潟3日10R新潟ジャンプステークスマルゴウィッシュ13頭111着
JGI初騎乗1999年12月18日5回中山5日10R中山大障害リンデンバウム15頭103着

浜中 俊

2007年栗東の坂口正大厩舎所属騎手としてデビュー。同期には藤岡康太、宮崎北斗、丸田恭介らがいる。

2008年9月7日、小倉2歳ステークスをデグラーティアで優勝、中央競馬の重賞初制覇。この他中京や地元・小倉などの西日本のローカル開催を中心に騎乗し、前年度を大きく上回る73勝を挙げる。
2009年春に通算勝利数101勝をマークし自力で見習い騎手を卒業。同年10月には菊花賞をスリーロールスで制し、中央競馬のGI競走初制覇を達成している。

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