調教師 一覧 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

角居 勝彦

角居 勝彦  代表管理馬

デルタブルース(菊花賞、メルボルンカップ)
ポップロック(目黒記念(2回))
シーザリオ(優駿牝馬、アメリカンオークス招待ステークス)
カネヒキリ(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、ジャパンカップダート(2回)、フェブラリーステークス、東京大賞典、川崎記念)
ハットトリック(マイルチャンピオンシップ、香港マイル)
フレンドシップ(ジャパンダートダービー)
ディアデラノビア(フローラステークス、京都牝馬ステークス、愛知杯)
ウオッカ(阪神ジュベナイルフィリーズ、東京優駿、安田記念(2回)、天皇賞・秋、ヴィクトリアマイル、ジャパンカップ)
トールポピー(阪神ジュベナイルフィリーズ、優駿牝馬)
ヴィクトワールピサ(皐月賞、有馬記念、ドバイワールドカップ)
ルーラーシップ(鳴尾記念、日経新春杯、金鯱賞)
アヴェンチュラ(クイーンステークス)

角居 勝彦

角居 勝彦(すみい かつひこ、1964年3月28日 - )は日本中央競馬会 (JRA)栗東所属の調教師
1964年石川県金沢市にて4人兄弟の三男として出生。角居が生まれ育った金沢の街は伝統・文化を重んずる風習があることから競馬というスポーツは流行っておらず、一般家庭で育った彼もまた馬とは無縁の生活を送っていた。
同年代の級友よりも年長の兄たちに混じり、様々な遊びを繰り返すうち「人と違うことをし、注目受けてみたい」という性質が育まれながら、能動的に行動を起こすのが不得手であった角居はそんな自分を変えてみようと地元の進学校である金沢桜丘高を卒業後、帯広畜産大学への進学を目指すも失敗。進学校の生徒ということもあり、一浪し大学の再受験を奨める声も上がったが「気持ちが大学には向かず、自分を変えるために親元を離れたい」という角居は周囲の反対を押し切り、父の助力を得て北海道のグランド牧場に勤務することとなった。
角居が就職した当初グランド牧場は生産のみを事業としていたが、1985年より急速な拡大路線を採用。これまでの繁殖に加え、新たに馴致・調教を事業に取り入れる。

しかし牧場から送り出した馬が「躾ができていない」として幾度もトレセンから戻ってくる光景を目の当たりにし、「牧場とトレセンでは何が違うのか」ということに関心を持ち始めた角居は程無くしてグランド牧場を退職。競馬学校での厩務員課程を経て1986年4月、栗東・中尾謙太郎厩舎の厩務員として配属される。
その半年後調教助手の資格を習得、以後10年に渡り中尾を補佐し続け、この間ナリタハヤブサなどの活躍馬を担当した角居であったが、後年中尾との調教方針にズレが生じ始める。「休みなく鍛えて強くする」という中尾に対し角居は「休ませつつ鍛える」という考えであったが、中尾の手法は当時の一般的な調教スタイルであることから、言われるままにメニューをこなしてきたものの、中尾の不在時には調教内容を独断で変えたこともあったという。
定年となった二分久男厩舎の馬を引き継ぐ。2004年菊花賞をデルタブルースで制したの皮切りに管理馬から多くのGI馬を輩出してきた角居は、開業当初よりの方針「世界に挑戦できる人と馬を作りたい」という理念の下、積極的に管理馬を海外遠征にも参戦させ、2005年シーザリオでアメリカンオークスを制したほか、香港マイルではハットトリックが優勝。

翌2006年には先のデルタブルース、並びにポップロックでメルボルンカップの1・2着を独占するなど角居の理念は現実のものとなった。
その後も64年ぶりのダービー優勝牝馬となるウオッカや国内ダート重賞を席巻するカネヒキリなど数多くの実績馬を輩出してきた角居は2010年ヴィクトワールピサで皐月賞を制覇。

鈴木 孝志(すずき たかし、1971年4月20日 - )は、日本中央競馬会・栗東トレーニングセンターに所属している調教師。
1994年、7月よりJRA競馬学校厩務員課程に入学する。
1995年、競馬学校卒業後の4月から栗東・岩元市三厩舎所属の厩務員となるが、同月すぐに調教厩務員に転向した。
1996年、6月より調教助手に転向する。
2009年、2月12日にJRA調教師免許試験に合格したことが発表され、3月1日付で調教師免許免許を取得した。

杉浦 宏昭

杉浦 宏昭(すぎうら ひろあき、1960年8月3日 - )はJRA・美浦トレーニングセンター北に所属している調教師である。

初騎乗は3月6日で、トロワフルールに騎乗し2着、3月27日にミョウジンホマレに騎乗して勝利し初勝利を挙げる。
1983年、京成杯をブルーダーバンで制し重賞初勝利を挙げる。
1984年、2月5日のレース中に、当時騎手であった岡部幸雄から小突きされ、左手で顔面を叩かれた。なお、岡部は開催日2日間の騎乗停止処分となった。
1995年、調教師免許を取得し騎手を引退する。騎手成績は、JRA通算1997戦209勝(平地競走1969戦205勝、障害競走28戦4勝、重賞6勝)。
1996年、厩舎を開業する。3月2日、初出走となった中山競馬場での第5レースは、4番人気だったフジノミドリが3着となる。

4月20日に新潟競馬場での第7レースで、2番人気だったワンノブトウショウが勝利し、延べ19頭目で初勝利を挙げる。
1997年、2月13日に管理馬が地方競馬に初出走する。

8月24日に行われた新潟記念をパルブライトが制し、重賞初勝利を挙げる。
1998年、5月4日に管理馬が地方競馬で初勝利を挙げる。
2002年、NHKマイルカップを4番人気だったテレグノシスが制し、GI(当時)初勝利を挙げる。
2003年、ジャック・ル・マロワ賞にテレグノシスが出走し、海外レース及び海外GI初出走。

菅原 泰夫

菅原 泰夫(すがわら やすお、1946年4月1日 - )は日本中央競馬会の元騎手。同会調教師。
いわゆる中央場所では余り日の当たることはなく地味な存在であったが、 1975年春の4歳(現3歳)クラシックにてカブラヤオー、テスコガビーに騎乗して4鞍すべてを独占、「空前絶後」と評される。

このときカブラヤオーの強引な逃げで「無謀」と非難されたが、他馬を怖がる弱点については同馬が引退するまで口にしなかった。
その後1981年、1982年での菊花賞連覇等、思い切りの良い騎乗で「勝負師」と呼ばれた。

現在は美浦所属の調教師である。
菅原 泰夫 来歴
1946年 宮城県のアラブ馬などを生産している牧場の五男として生まれる。
1960年 東京へ単身引越し、茂木為二郎のもとで生活を送る。
1961年 馬事公苑の騎手養成所に長期講習生として入る。
1964年 茂木為二郎厩舎所属騎手としてデビュー。同期に嶋田功など。
1976年 調教師の茂木の死去により森末之助に転厩。その後、年末に本郷一彦厩舎に転厩。
1981年 14番人気のミナガワマンナで菊花賞を4馬身差で勝利し、三冠ジョッキーとなる。
1982年 ホリスキーで菊花賞をレコードタイムで制し同レース連覇。

なお、菊花賞を連覇した騎手は菅原を最後に現在まで現れていない。
1985年 ダイシンフブキで朝日杯3歳ステークスに勝利。

1992年 騎手を引退。騎手としての最後の重賞勝利は同年の東京新聞杯でのナルシスノワール。

須貝 尚介

須貝 尚介(すがい なおすけ、1966年6月3日 - )は、JRA・栗東トレーニングセンター所属の調教師で、元騎手である。

父は須貝彦三元調教師。彦三の弟の須貝四郎は縁戚。
1985年、JRA競馬学校を第1期生として卒業して騎手免許を取得、父の須貝彦三厩舎からデビュー。同期には石橋守、柴田善臣らがいる。

1990年の第30回きさらぎ賞をハクタイセイで制しJRA重賞初勝利を挙げる。しかし、次の皐月賞では南井克巳に乗り替わり、以後ハクタイセイに騎乗することはなかった。
1987年に須貝厩舎所属からフリーと所属変更となったが、1994年7月に再度須貝厩舎所属に戻り、8月には再びフリーとなり、その後も2回ほど須貝厩舎に所属したり離れたりを繰り返していた。
2008年に調教師免許を取得し、騎手を引退。

調教師へ転身した。騎手成績は4,163戦302勝で、そのうち重賞は4勝だった。

新川 恵

新川 恵(しんかわ めぐむ、1943年11月24日 - )は、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属している調教師で、元騎手である。

義理の父(妻の父)に元調教師の布施正、義理の妹たち(妻の妹たち)の配偶者に調教師の岩元市三、柴田光陽らがいる。新川は結婚前の姓で、結婚後は布施姓となっていたが、現在は再び新川姓に戻っている。
1961年に阪神の佐藤勇厩舎所属の騎手見習いとなる。翌1962年に騎手免許を取得し、同厩舎所属でデビュー。

1968年に同じく阪神の澁川久作厩舎所属、1969年に関東・中山の稗田敏男厩舎所属、1970年には中山の中野吉太郎厩舎所属、1972年に中山の松永光雄厩舎所属、1973年に再び関西の栗東の布施正厩舎所属と、いくつもの厩舎を渡り歩いた。 1978年に調教師免許を取得し、騎手を引退した。

G1競走の勝利はまだない。
騎手は小牧太、芹沢純一、弟子である高井彰大の起用が特に多く、この3人が主戦騎手と言える存在である。

白井寿昭

白井寿昭(しらい としあき、1945年1月13日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の調教師である。

大阪府出身で、所属は栗東トレーニングセンター。JRAにおける表記では「寿」が使用されているが、正しくは白井壽昭である。
初出走は1979年10月6日の中京競馬第9競走のハルカボシで14着、初勝利は1980年3月23日の阪神競馬第8競走のスズカセイコーで、延べ46頭目であった。
馬の血統論には特にこだわりを持っており、また、管理にあっては馬体重を重要視している。
白井寿昭 主な管理馬
ダンスパートナー(1995年優駿牝馬、1996年エリザベス女王杯)
スペシャルウィーク(1998年東京優駿、1999年天皇賞(春)、天皇賞(秋)、ジャパンカップ)
アグネスデジタル(2000年マイルチャンピオンシップ、2001年マイルチャンピオンシップ南部杯・天皇賞(秋)・香港カップ、2002年フェブラリーステークス、2003年安田記念)
メイショウボーラー(2005年フェブラリーステークス)
フサイチパンドラ(2006年エリザベス女王杯)

小西一男

小西一男は、
中山で生まれ育ち、幼少時より馬に近い環境にいた一男は「馬世界の外で生きることは考えもつかなかった」と後に語る。
父登は太平洋戦争末期の1944年に騎手デビューするも、兵役などのため実働僅か1年余り、通算66戦0勝という成績に終わっており[1]現役未勝利だった自分の代わりに一男がレースで躍動することを望み、息子の騎手願望に対し反対は全くしなかったという。

後に登は一男の騎手デビューに発奮し1977年に調教師免許を取得し厩舎を開業、自らの要望により一男を自厩舎に所属させた時期もあった。
馬事公苑長期養成課程を経て1974年3月一男は騎手デビューを果たす。

デビュー1週間後に初勝利をあげ、父登が手にできなかった勝ち鞍を手にした一男であるが、重賞勝利などの特筆すべき実績を挙げるには至らず、騎手として大成できなかったのは「環境云々以前に自分に適性がなかった」と述べ、16年間で1362戦92勝という成績に終わり、調教師免許取得に伴い1989年12月を以って現役を引退している。
4度目の挑戦で調教師免許に合格した一男は1991年3月、定年退職した鈴木勝太郎厩舎を継ぐ形で美浦に開業。

3月2日に初出走、同年6月23日に初勝利を挙げる。1994年管理馬から重賞ホルダー、GI出走馬を輩出。

この他1990年代には中央・地方双方で活躍馬を擁し、1993年から2010年にかけ毎年2桁勝利を維持し続けている。

小西一男 騎手成績

日付競走名競馬場馬名頭数人気着順
初騎乗1974年3月2日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス7-6着
初勝利1974年3月10日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス--1着
重賞初騎乗1974年6月16日セイユウ記念中山ヒシリキス15頭63着
GI級初騎乗1982年4月18日皐月賞中山タケデンフドー20頭144着
通算1362戦92勝
小西一男 調教師成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1991年3月2日2回中山3日2R4歳未勝利ミニヨン16頭1111着
初勝利1991年6月23日1回福島4日3R4歳未勝利サロマブルー10頭21着
重賞初出走1994年2月19日1回東京7日11RフェブラリーSトモエボンバー16頭97着
重賞初勝利1994年11月12日5回東京3日11R京成杯3歳Sゴーゴーナカヤマ11頭21着
GI初出走1994年5月22日3回東京2日10R優駿牝馬マイネマジック18頭125着
小西一男 主な管理馬
ゴーゴーナカヤマ(1994年京成杯3歳ステークス)
スピードワールド(1997年京成杯)
デュークグランプリ(1997年武蔵野ステークス、ダイオライト記念、ブリーダーズゴールドカップ、1998年東海菊花賞)
スーパーナカヤマ(1998年ガーネットステークス)

小島太

小島太は、
美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務めた。

1947年、馬商と装蹄師を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時にゴールデンウエーブが優勝した東京優駿 (日本ダービー)を見て騎手を志す[1]。

中学校卒業後に上京し、日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には 田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘(安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。
騎手課程修了後に東京競馬場の高木良三厩舎に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には重賞3勝を含む37勝と躍進。

翌年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。

同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年にはサクラショウリで東京優駿に優勝、八大競走初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。

以降もサクラユタカオー、サクラチヨノオーなど「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。


小島太 サクラユタカオーに騎乗
天皇賞出走時(1986年4月29日)
1993年に全が死去すると、その9日後にサクラバクシンオーでスプリンターズステークスに優勝した。翌1994年12月には、サクラキャンドルで中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。

デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。
翌1995年秋に騎手引退を発表、その後サクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。

通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、横山典弘、蛯名正義等に引き継がれた。
騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに小島太厩舎を開業した。

調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする西川清の所有馬を数々管理しており、 2000年の共同通信杯4歳ステークス[4]、NHKマイルカップ をそれぞれイーグルカフェで制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げたマンハッタンカフェなどを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎のジャンパーに採用するなど、深い関係を続けている。
人物・エピソード

小島太 騎手時代のエピソード
騎手としての特徴
当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され[5]、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった[6]。

騎手としては野平祐二の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった[7]。1983年からは毎年8月にフランスへの遠征を行っており、同地では1990年にドーヴィル競馬場で勝利を挙げている。

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