調教師 一覧 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

西園 正都

西園 正都(にしぞの まさと、1955年12月29日 - )は、日本中央競馬会・栗東トレーニングセンターに所属している調教師。
西園の実家は競馬とは無関係であったが、母方の親類に競馬関係者(伯父には師匠でもある柳田次男調教師がいる)が多かったことなどから騎手を志すようになったという。
1974年、3月から栗東・大根田裕也厩舎所属の騎手となる。初騎乗は3月2日でヤングローズに騎乗して8着、6月30日にヒコボシに騎乗して勝利し、初勝利を挙げた。
1981年、9月から栗東・柳田次男厩舎所属となる。
1985年、10月20日にカブトヤマ記念をチェリーテスコに騎乗して制し、重賞初勝利を挙げた。
1986年、2月からフリーランス(どこの厩舎にも所属しない騎手)となるが、4月に再び栗東・柳田次男厩舎所属となった。
1994年、1月から再びフリーとなるが、7月から栗東・二分久男厩舎所属となった。
1997年、2月に調教師免許を取得し、騎手を引退する。騎手成績は中央通算3875戦303勝。
1998年、旧・谷八郎厩舎などから在籍馬を受け継ぐ形で3月1日付で厩舎を開業した。3月7日に管理馬が初出走し、ドクターブイが4着となり、4月26日に新潟競馬場でマイネルユートピアが制し、延べ26頭目で管理馬が初勝利を挙げた。
1999年、9月25日に阪神ジャンプステークスをヒサコーボンバーが制し、管理馬が重賞初勝利を挙げた。
2001年、12月2日にタムロチェリーが阪神ジュベナイルフィリーズを制し、管理馬がGI初勝利を挙げた。
2007年、12月24日にフィールドルージュが名古屋グランプリを制し、ダートグレード競走初勝利を挙げた。
2010年、11月21日にエーシンフォワードがマイルチャンピオンシップを制し、GI2勝目を挙げた。なお。前日にもサダムパテックで東京スポーツ杯2歳ステークスを勝利しており、2日連続での重賞制覇となった。

蛯名 幸作

蛯名 幸作(えびな こうさく、1946年10月21日-)は、厩務員。
日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンター、田中清隆厩舎に所属。
競馬関係者の出身者が多い青森県上北郡出身。蛯名は上北の農家で育った。
子供の頃は自宅に馬がいたが、当時は馬と接することを嫌い、中学卒業後は東京都に出て喫茶店などで勤務
しかし勤務はするものの、遊んでばかりしていたため体調を崩してしまう。
既に競馬関係者として働いていた蛯名の兄に厩務員になることを勧められ、以後は競馬の世界で生きて行くことになった。
1967年、東京競馬場の坂本栄三郎厩舎所属の厩務員となった。
その後1990年に坂本の死去による厩舎の解散により田中清隆厩舎に移籍した。
1970年初春にはクイーンカップを勝利したタマミを桜花賞終了まで当時開場間もない栗東トレーニングセンターに長期的に滞在させたが、蛯名も馬の様子を見るためにタマミと共に長期にわたって栗東に滞在した。関東馬が長期間栗東に滞在した初の事例であった[1]。
2011年10月21日、中央競馬の厩務員の定年となる65歳に達する。
厩務員になる前とは逆に現在は「馬(との仕事)が好きである」と蛯名は語る。
蛯名 幸作 主な管理馬
括弧内は主な優勝レース
タマミ(1970年桜花賞)
キタイシオー(1973年東京障害特別)
グルメフロンティア(1998年フェブラリーステークス)
トーホウシデン(2003年中山金杯)
タイキリオン(2002年ニュージーランドトロフィー)
ホエールキャプチャ(2011年クイーンカップ)

友道 康夫

友道 康夫(ともみち やすお、1963年8月11日 - )は中央競馬・栗東トレーニングセンターに所属している調教師である。
1989年5月にJRA競馬学校厩務員課程に入学し、9月より栗東・浅見国一厩舎所属の厩務員となり、11月からは調教助手となる。
1996年からは栗東・松田国英厩舎所属となり、松田国英の勧めもあり調教師を目指すようになり[1]、2001年に調教師免許を取得し、2002年、11月21日付けで厩舎を10馬房で開業する。

開業時に旧新井仁厩舎所属だった5頭が転厩することになった。11月30日、初出走となった中京競馬場での第1レースは、ランドチャレンジが13着となる。

12月1日に中京競馬場での第6レースで、インターマーベラスが勝利し延べ3戦目で初勝利を挙げる。
その後は2003年、6月25日に園田競馬場で行われた円山川特別が地方競馬初出走となり1番人気のゼンノマングローブが2着、2005年には朝日チャレンジカップをワンモアチャッターが制し、重賞初勝利を挙げる。
2007年、9月1日にJRA828戦目で通算100勝を達成すると、2008年5月4日、第137回天皇賞をアドマイヤジュピタで勝利し、厩舎開業以来初となるGI勝利を獲得した。
2009年4月19日、管理馬のアンライバルドが第69回皐月賞に優勝し、クラシック競走制覇を果たした。

戸田 博文

戸田 博文(とだ ひろふみ、1963年10月1日 - )は日本中央競馬会美浦トレーニングセンターに所属する調教師。
初出走は同年6月24日福島競馬第4競走のケイアイミラクルで3着、初勝利は同年7月15日新潟競馬第4競走のケイアイミラクルで、延べ7頭目であった。
2006年のフラワーカップをキストゥヘヴンで制して重賞初勝利。

また、栗東所属の藤田伸二や安藤勝己の起用もよく見られる。

戸田 博文 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2001年6月24日2回福島4日4R3歳未勝利ケイアイミラクル13頭33着
初勝利2001年7月15日1回新潟2日4R3歳未勝利ケイアイミラクル14頭21着
重賞初出走2002年9月1日3回新潟8日11R新潟2歳Sトーセンリリー16頭1614着
重賞初勝利2006年3月18日2回中山7日11RフラワーCキストゥヘヴン16頭61着
GI初出走2002年10月13日4回京都4日11R秋華賞コスモプロフィール18頭1312着
GI初勝利2006年4月9日2回阪神6日11R桜花賞キストゥヘヴン18頭61着
戸田 博文 代表管理馬
トーセンリリー(2002年エーデルワイス賞)
キストゥヘヴン(2006年フラワーカップ、桜花賞、2008年京成杯オータムハンデキャップ、2009年中山牝馬ステークス)
ゴールドアグリ(2006年新潟2歳ステークス)
ミヤビペルセウス(2007年新潟ジャンプステークス)
ブレイクランアウト(2009年共同通信杯)
シンゲン(2009年新潟大賞典、エプソムカップ、2010年オールカマー)
シビルウォー(2011年ブリーダーズゴールドカップ、白山大賞典)

天間 昭一

天間 昭一(てんま しょういち、1965年2月26日 - )はJRA・美浦トレーニングセンターに所属する元騎手の調教師である。

父は厩務員。
1982年、3月より美浦・森安弘昭厩舎所属で騎手候補生となる。
1992年、8月にフリーとなる。
1999年、1月26日に地方競馬に初騎乗。

3月13日にJRA通算100勝を達成する。
2005年、8月に美浦・星野忍厩舎所属となり、12月13日付けで美浦・堀井雅広厩舎所属となる。
2006年、2月に調教師免許を取得し騎手を引退する。引退レースは、12番人気だったデルマアポロに騎乗し15着。

騎手成績はJRA通算2447戦111勝、地方通算13戦0勝2着2回。同年12月21日付けで厩舎を10馬房で開業する。

12月23日、初出走となった中山競馬場での第4レースの2歳新馬戦は、イチライマートが14番人気で14着となる。
2007年、7月14日に新潟競馬場での第4レースの障害競走で2番人気だったエスケーアパッチが勝利し延べ81頭目で初勝利を挙げる。
2010年8月8日関屋記念をレッツゴーキリシマで勝利し、中央競馬重賞初勝利をあげる。なお、騎手時代は重賞勝ちが無かったため、騎手時代を通じて初の重賞制覇となる。

手塚 貴久

手塚 貴久(てづか たかひさ、1964年9月20日 - )はJRA・美浦トレーニングセンター北に所属する調教師である。
1989年5月、JRA競馬学校厩務員課程に入学し、10月より美浦・相川勝敏厩舎所属の厩務員となる。
1990年3月、美浦・佐藤林次郎厩舎所属となり、4月からは美浦・佐藤全弘厩舎所属の調教助手となる。
1998年、調教師免許を取得する。
1999年、3月1日付けで厩舎を開業する。

3月6日、初出走となった中京競馬場での第5レースでは、ドウカンロドリゴが5番人気で10着だった。4月11日、中山競馬場での第3レースに出走したフォージドチャンプが勝利し、延べ13頭目でJRA初勝利を挙げる。

第16回フェアリーステークスをベルグチケットが制し、開業1年目でJRA重賞初勝利を挙げた。
2005年、第56回全日本2歳優駿をグレイスティアラが制し、GI初勝利を挙げる。

鶴留 明雄

鶴留 明雄(つるどめ あきお、1941年3月27日 - )は、日本中央競馬会(JRA)に所属する調教師、元騎手。

1959年に騎手デビュー、障害競走を中心に騎乗し、ヤマニンダイヤによる1967年中山大障害(秋)など障害重賞4勝を含む152勝(うち障害93勝)を挙げた。騎手引退後の1978年より調教師として開業、1995年の東京優駿(日本ダービー)の優勝馬タヤスツヨシ、2005年の宝塚記念などGI級競走3勝を挙げたスイープトウショウなど、数々の活躍馬を管理している。
1年次の2学期途中、小柄であったことから馬術部所属の上級生より騎手になることを勧められ、家族の反対を押し切って中央競馬の騎手養成長期課程を受験した[1]。合格後、高校を中退して東京都馬事公苑に騎手候補生として入った。

10月に初騎乗を迎え、翌1960年4月9日にカチヒメで初勝利を挙げた。当初は平地競走で主に騎乗していたが、骨太の体格で体重を56kg以下に落とすことができず[2]、斤量が重い障害競走へ主戦場を移していった。

1967年、ヤマニンダイヤで障害の最高競走・中山大障害(秋)に優勝。以後も障害を中心に騎乗を続ける傍ら、戸山の勧めで調教師を目指して勉強を始め[2]、1977年に調教師免許を取得。

管理馬房の空きを待って1年4カ月を技術調教師として過ごしたのち、1978年7月、栗東トレーニングセンターに厩舎を開業。10月15日にアウンエスラーで初勝利を挙げた。

同馬は翌1979年、同馬で京都大障害(秋)を制して調教師としての重賞初勝利も挙げた。
年間成績では10-15勝前後の中堅下位といった成績であったが、1985年にリワードウイングが牝馬三冠路線の最終戦・エリザベス女王杯を制し、騎手生活から通じての平地重賞初勝利をGI級競走で挙げた。

この頃より成績が上向き始め、1987年には24勝を挙げて関西の優秀調教師賞を受賞。重賞でも毎年勝利を挙げ、1991年にはシスタートウショウで桜花賞に優勝、1994年にはチョウカイキャロルで優駿牝馬(オークス)に優勝し、調教師として史上4人目の「牝馬三冠」を達成した。

同年、自己最高の年間29勝。翌1995年にはタヤスツヨシで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービートレーナーともなった。
2004年には、武田厩舎の兄弟子・渡辺栄の定年引退に伴い、管理を引き継いだスイープトウショウが秋華賞に優勝。同馬は翌2005年に牝馬として史上2頭目・39年ぶりとなる宝塚記念制覇を達成。

本当にいい厩舎に所属できたし、恵まれていたと思っています」と語っている[5]。また一方では騎乗数を減らしたベテランへの支援も行い、特に小島貞博を厩舎の主戦騎手に抜擢し、チョウカイキャロルでオークス、タヤスツヨシでダービー優勝の栄誉へ導いたことが知られる。

騎手生活晩年に不遇を囲ったという久保敏文も、「ぼくが乗る馬がなくて苦労したときに、一番助けてくれたのが鶴留先生」と語る[6]。こうした傾向は武田門下の気風ともされており、作家の木村幸治は鶴留を、「やはり武田文吾の影響を受け継いだ、古風かもしれないが、義理人情の調教師といえる」と評している。

角田 晃一

角田 晃一(つのだ こういち、1970年11月18日 - )は日本中央競馬会(JRA)所属の調教師で、元騎手。
1970年鳥取県西伯郡にて4人兄妹の長男として出生。長兄でありながら体躯が小さく、運動が得意であった角田に父は騎手になることを進路の一つとして提案。

競馬とは無縁の環境であった鳥取で生まれ育ち、競馬サークルにも知人のいなかった角田であったが父の薦めどおり競馬学校に進学、1989年栗東・渡辺栄厩舎所属の騎手としてデビュー。同期には田中勝春、佐藤哲三らがいる。
デビュー当初「うちの馬は全てお前に任せる」と告げた渡辺は、他厩舎からも騎乗馬を回してもらうよう手配するなど角田を支援。その期待に応え初年度43勝を挙げ、同年のJRA賞最多勝利新人騎手として表彰された。
師匠の渡辺の縁で、鶴留明雄・山本正司といった武田文吾一門の厩舎の馬に騎乗することがあった角田は1991年、シスタートウショウに騎乗し桜花賞を制覇、デビュー3年目にしてGIジョッキーとなる。気性難であった同馬を乗りこなせた要因を後に角田は「競馬学校時代に癖馬ばかり乗らされた経験が生きている」と語っている。
1994年にはノースフライトとのコンビで安田記念・マイルチャンピオンシップを制し、GIを2勝。デビューから5年間での重賞11勝のうち、10勝が牝馬に騎乗してのものであり、牝馬に騎乗しての活躍が目立つことから、この頃より「牝馬の角田」と呼ばれるようになる。

さらに翌年ヒシアケボノでスプリンターズステークスを制覇。前年ノースフライトのGI2勝と足し当時の古馬短距離GI全制覇という記録を達成。

佐山優調教師・ヒシの冠名の競走馬を所有している阿部雅一郎オーナーからの信頼が厚く、この他ヒシミラクルでGI3勝を記録するなど、一時期を除いて長く主戦として活躍をした。
2001年は、ジャングルポケットで東京優駿を制覇。

これにより後にGI馬となるスイープトウショウ、フサイチパンドラの主戦を降ろされる不運に見舞われ、勝ち鞍を大幅に減らした時期があったが、2007年、サマージョッキーズシリーズ初代チャンピオンを獲得し、第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズへの出場を果たすなど徐々に騎乗回数を回復し、勝ち鞍も伸ばしていた。
騎手生活末期は松永昌博厩舎の主戦騎手として騎乗していた。

2010年2月に調教師免許試験に合格し、同年2月28日付で引退することが発表された。同年3月1日より中竹和也厩舎にて技術調教師として活動。

千田 輝彦

千田 輝彦(ちだ てるひこ、1969年8月23日 - )は、日本中央競馬会・栗東トレーニングセンターに所属する調教師。
元騎手および調教助手。神奈川県出身。

愛称は「チーボー」。
1988年に伊藤雄二厩舎所属騎手としてデビュー。

同期には岸滋彦や岡潤一郎(岡が生前、同期で最も仲の良かったのが千田であったという)、芹沢純一(ただし芹沢は1期上)がいる。
師の伊藤がリーディング上位の騎手を多く起用することが多かったため、その影に隠れる格好になってしまっていた。
後に浅見秀一厩舎、藤岡健一厩舎を経て2008年1月21日付で藤岡範士厩舎所属となったが10月21日付でフリーとなった。しかしフリーとなった後は、1度もレースに騎乗することなく約1ヵ月後の11月19日に騎手を引退することが発表された。

そして翌11月20日付で騎手免許を返上した。結果的には10月5日に札幌競馬場で行われた第8レース3歳以上500万下競走が最後のレースとなり、結果は10着だった。
騎手引退後はかつて所属していた藤岡健一厩舎の調教助手に転身した。
2010年2月に調教師免許試験に合格した。

田中 清隆

田中 清隆(たなか きよたか、1951年12月16日 - )は日本中央競馬会(JRA)に所属する調教師、元騎手である。

調教師としての主な管理馬に、それぞれフェブラリーステークス優勝馬のシンコウウインディとグルメフロンティア、優駿牝馬(オークス)優勝馬レディパステルなどがいる。千葉県出身。

舅は元騎手・調教師の今津福松。
1951年、千葉県銚子市に生まれる。

しかし以降成績は伸びず、重賞はこの1勝のみ、自身の年間最多勝は1988年の13勝という成績で、1990年の調教師免許取得に伴って騎手を引退した。騎手通算成績は1618戦140勝。
同年7月に管理馬初出走を迎え、10月に初勝利を挙げた。年内はこの1勝のみに終わったが、翌年以降少しづつ勝ち星を増やし始め、1995年には33勝を挙げて関東の優秀調教師賞を受賞した。

翌1997年にはシンコウウインディでフェブラリーステークスに勝利し、GI競走を初制覇。翌年には同馬と同じく岡部幸雄騎乗で臨んだグルメフロンティアでフェブラリーステークスを連覇した。

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