小西一男は、
中山で生まれ育ち、幼少時より馬に近い環境にいた一男は「馬世界の外で生きることは考えもつかなかった」と後に語る。
父登は太平洋戦争末期の1944年に騎手デビューするも、兵役などのため実働僅か1年余り、通算66戦0勝という成績に終わっており[1]現役未勝利だった自分の代わりに一男がレースで躍動することを望み、息子の騎手願望に対し反対は全くしなかったという。
後に登は一男の騎手デビューに発奮し1977年に調教師免許を取得し厩舎を開業、自らの要望により一男を自厩舎に所属させた時期もあった。
馬事公苑長期養成課程を経て1974年3月一男は騎手デビューを果たす。
デビュー1週間後に初勝利をあげ、父登が手にできなかった勝ち鞍を手にした一男であるが、重賞勝利などの特筆すべき実績を挙げるには至らず、騎手として大成できなかったのは「環境云々以前に自分に適性がなかった」と述べ、16年間で1362戦92勝という成績に終わり、調教師免許取得に伴い1989年12月を以って現役を引退している。
4度目の挑戦で調教師免許に合格した一男は1991年3月、定年退職した鈴木勝太郎厩舎を継ぐ形で美浦に開業。
3月2日に初出走、同年6月23日に初勝利を挙げる。1994年管理馬から重賞ホルダー、GI出走馬を輩出。
この他1990年代には中央・地方双方で活躍馬を擁し、1993年から2010年にかけ毎年2桁勝利を維持し続けている。
小西一男 騎手成績
日付競走名競馬場馬名頭数人気着順
初騎乗1974年3月2日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス7-6着
初勝利1974年3月10日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス--1着
重賞初騎乗1974年6月16日セイユウ記念中山ヒシリキス15頭63着
GI級初騎乗1982年4月18日皐月賞中山タケデンフドー20頭144着
通算1362戦92勝
小西一男 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1991年3月2日2回中山3日2R4歳未勝利ミニヨン16頭1111着
初勝利1991年6月23日1回福島4日3R4歳未勝利サロマブルー10頭21着
重賞初出走1994年2月19日1回東京7日11RフェブラリーSトモエボンバー16頭97着
重賞初勝利1994年11月12日5回東京3日11R京成杯3歳Sゴーゴーナカヤマ11頭21着
GI初出走1994年5月22日3回東京2日10R優駿牝馬マイネマジック18頭125着
小西一男 主な管理馬
ゴーゴーナカヤマ(1994年京成杯3歳ステークス)
スピードワールド(1997年京成杯)
デュークグランプリ(1997年武蔵野ステークス、ダイオライト記念、ブリーダーズゴールドカップ、1998年東海菊花賞)
スーパーナカヤマ(1998年ガーネットステークス)
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小島太は、
美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務めた。
1947年、馬商と装蹄師を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時にゴールデンウエーブが優勝した東京優駿 (日本ダービー)を見て騎手を志す[1]。
中学校卒業後に上京し、日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には 田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘(安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。
騎手課程修了後に東京競馬場の高木良三厩舎に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には重賞3勝を含む37勝と躍進。
翌年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。
同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年にはサクラショウリで東京優駿に優勝、八大競走初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。
以降もサクラユタカオー、サクラチヨノオーなど「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。
小島太 サクラユタカオーに騎乗
天皇賞出走時(1986年4月29日)
1993年に全が死去すると、その9日後にサクラバクシンオーでスプリンターズステークスに優勝した。翌1994年12月には、サクラキャンドルで中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。
デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。
翌1995年秋に騎手引退を発表、その後サクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。
通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、横山典弘、蛯名正義等に引き継がれた。
騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに小島太厩舎を開業した。
調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする西川清の所有馬を数々管理しており、 2000年の共同通信杯4歳ステークス[4]、NHKマイルカップ をそれぞれイーグルカフェで制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げたマンハッタンカフェなどを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎のジャンパーに採用するなど、深い関係を続けている。
人物・エピソード
小島太 騎手時代のエピソード
騎手としての特徴
当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され[5]、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった[6]。
騎手としては野平祐二の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった[7]。1983年からは毎年8月にフランスへの遠征を行っており、同地では1990年にドーヴィル競馬場で勝利を挙げている。
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小島茂之 は、
2003年(平成15年):厩舎開業。
2008年(平成20年):管理馬であるブラックエンブレムが第13回秋華賞を制覇した。
2009年(平成21年):管理馬であるクィーンスプマンテが第34回エリザベス女王杯を制覇した。
ブラックエンブレムやクィーンスプマンテは直前に栗東で調教した『栗東留学』でGIを制しており、栗東の施設を積極的に活用している調教師の一人である。
なお、GIを制した2勝はいずれも11番人気で共に3連単が100万円を超える波乱を演出している。
第13回秋華賞ではブラックエンブレムと共に出走したプロヴィナージュ(16番人気)が3着に入り、GI史上最高配当となる3連単10,982,020円の大波乱(1,000万円馬券)を演出した。
小島茂之 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2003年3月1日3回中山1日3R3歳未勝利アイアイラッキー15頭34着
初勝利2003年5月18日1回東京8日2R3歳未勝利アイアイラッキー11頭61着
重賞初出走2003年3月15日1回阪神5日10R阪神SJヒカルボシ14頭64着
重賞初勝利2008年3月22日2回中山7日11RフラワーCブラックエンブレム16頭11着
GI初出走2005年4月17日3回中山8日11R皐月賞ストラスアイラ18頭1814着
GI初勝利2008年10月19日4回京都4日11R秋華賞ブラックエンブレム18頭111着
小島茂之 主な管理馬
ブラックエンブレム(2008年秋華賞優勝)
プロヴィナージュ(2008年秋華賞3着)
クィーンスプマンテ(2009年エリザベス女王杯優勝)
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小島 貞博(こじま さだひろ、1951年11月10日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンターに所属する調教師、元騎手である。
戦後デビューの騎手の内、平地・障害それぞれの最高級競走である東京優駿(日本ダービー)と中山大障害で2勝ずつを挙げている唯一の騎手である[注 1]。
調教師としても2005年の最優秀障害馬テイエムドラゴンなどを管理している。
小島貞博 少年期
1951年、北海道新冠町にサラリーマン家庭の長男として生まれる[1]。中学時代から静内町の牧場で住み込みのアルバイトをしながら暮らし、身体が小さかったため、同場の従業員から騎手になることを勧められていた[1]。
中学3年生の時、馬を買い付けに来ていた馬主の谷水信夫に出会い、騎手になるため谷水のいる京都に移った[1]。谷水と懇意であった調教師の戸山為夫を紹介された後、東京都馬事公苑の中央競馬騎手養成長期課程に第17期生として入所、上京に際しては事実上の兄弟子となる鶴留明雄が保護者代わりに付き添った[2][注 2]。
小島貞博 騎手時代
1971年に騎手免許を取得し、同年3月に戸山厩舎所属としてデビュー、同6月に初勝利を挙げた。デビューからしばらくは平地競走を中心に騎乗していたが、障害の名手であった鶴留が1978年に引退したことに伴い、障害での騎乗を増やしていった[3]。
小島は引退を考え始めたが、当時有力な調教師となっていた鶴留明雄が、この状況を聞きつけて小島の支援を始め、鶴留厩舎に所属する有力馬の主戦騎手を任されるようになった[6]。1994年には同厩舎所属のチョウカイキャロルに騎乗し優駿牝馬を制覇。
以後は若手騎手の台頭などもあり、1997年からは一桁の勝利数を続けた。1996年から調教師免許試験の受験を始めており[8]、2001年に調教師免許を取得し、騎手を引退した。
調教師試験の合格時の会見には戸山の未亡人も同席して喜びを共にした。騎手成績は通算4722戦495勝。
そのうち重賞はG1競走5勝を含む27勝だった。
小島貞博 調教師時代
免許取得当時は管理馬房に空きがなく、技術調教師[注 3]として2年過ごした後、2003年に栗東トレーニングセンターに厩舎を開業した。
初年度から15勝を挙げる順調な滑り出しを見せ、2005年には娘婿の田嶋翔が手綱を取るテイエムチュラサンがアイビスサマーダッシュに優勝、調教師として重賞初勝利を挙げた。またテイエムドラゴンが中山大障害に優勝し(騎手時代に続いての制覇)、同年のJRA賞最優秀障害馬部門を受賞した。
その言葉通り、小島と弟弟子の小谷内秀夫は、厳しい師弟関係の傍らで「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」と、戸山の死後出版された著書に寄せている[10]。
また戸山は、「調教師というのは、少なくとも師匠と言われるからには、人を育てることも大きな仕事である[11]」という信念に基づき、必ずしも成績上位ではない両者を起用し続け、馬主に対しても、管理に際しては両者を専属騎手とする契約を結ばせていた[12]。
小島と小谷内は件の寄稿において、感謝の念とともに「師匠は『それがオレの信念だ』と当然のような顔をしていたが、私たちのレースぶりを見て、心の中で歯ぎしりすることも多かったのではないかと思う。私たちがそれに十分報いることができなかったのが残念である[10]」と反省を述べた。
小島は調教師転身に当たり、「馬が走るのはもちろんですけど、人づくりの面もいつも頭に入れておきたいですね。余裕ができたら、騎手を育ててみたいと思っています[14]」と語り、開業後は自厩舎に所属した田嶋翔を積極的に起用し続けている。
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小崎憲は、
2007年3月、厩舎を開業する。初出走は、3月10日でノーモアクライが2着となり、翌11日、ワンダープロが勝利し延べ3頭目での初勝利となった。
2007年5月、第52回京王杯スプリングカップをエイシンドーバーが制しJRA重賞初勝利を挙げる。厩舎開業からわずか2ヶ月余りでの快挙となった。
2008年10月、金沢競馬場で行われた白山大賞典をスマートファルコンで制し、交流重賞初勝利をあげた。
小崎憲 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2007年3月10日1回中京3日9R4歳上500万下ノーモアクライ16頭32着
初勝利2007年3月24日1回阪神6日8R4歳上500万下ワンダープロ16頭101着
重賞初出走2007年4月7日2回阪神5日11R阪神牝馬Sサウスティーダ10頭610着
重賞初勝利2007年5月12日2回東京7日11R京王杯SCエイシンドーバー18頭51着
GI初出走2007年6月3日3回東京6日11R安田記念エイシンドーバー18頭66着
小崎憲 主な管理馬
エイシンドーバー(2007年京王杯スプリングカップ)
エイシンロンバード(2007年武蔵野ステークス)
スマートファルコン(2008年白山大賞典、彩の国浦和記念、兵庫ゴールドトロフィー、2009年佐賀記念、名古屋大賞典、かきつばた記念、さきたま杯、ブリーダーズゴールドカップ、2010年JBCクラシック、東京大賞典、かきつばた記念、さきたま杯、2011年ダイオライト記念、帝王賞)
エーシンヴァーゴウ(2011年アイビスサマーダッシュ、セントウルステークス)
小崎憲 エピソード
2011年4月、長男が競馬学校に30期生として入学した[1](同期入学に木幡初広騎手の長男らがいる)。
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古賀慎明は、
1992年、1月より美浦・飯塚好次厩舎所属の調教厩務員となり、4月より美浦・藤沢和雄厩舎所属の調教助手となる。
2005年、2月に調教師免許を取得する。
2006年、3月1日付けで厩舎を20馬房で開業する。ちなみに父は2月28日付けで定年で引退した為、現役の親子調教師にはなれなかった。
同期開業には松永昌博調教師らがいる。3月4日、初出走となった中京競馬場での第6レースは、13番人気だったコメットサンサンが6着となる。
3月11日に中山競馬場で行われたアネモネステークスを1番人気だったアサヒライジングが勝利し延べ2戦目で初勝利を挙げる。
2006年、4月4日に船橋競馬場で行われたナイスステッキ特別に10番人気だったラッキーショウリが出走し、地方競馬初出走を果たし5着となる。
7月2日にハリウッドパーク競馬場で行われたアメリカンオークスインビテーショナルステークスにアサヒライジングが出走し、海外レース及び海外GI初出走を果たし2着となる。
2007年、クイーンステークスをアサヒライジングが制し重賞初勝利を挙げる。
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1980年(昭和55年)に斎藤籌敬厩舎で調教助手となり、翌年古賀末喜厩舎に移籍。1988年に調教師免許を取得し、翌1989年に厩舎開業。
初出走は同年3月18日の中山競馬第10競走でキリーコンコルドで3着。初勝利は同年4月29日東京競馬第6競走でのエリジアム(延べ10頭目)であった。
1990年のセイユウ記念をトキノリバティーで制して重賞初勝利。G1競走は未勝利。
古賀史生 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1989年3月18日2回中山7日10R総武特別キリーコンコルド12頭63着
初勝利1989年4月29日2回東京3日6R3歳未勝利エリジアム16頭31着
重賞初勝利1990年7月15日2回札幌4日9Rセイユウ記念トキノリバティー12頭11着
GI初出走1992年4月19日3回中山8日10R皐月賞セイショウマインド17頭1717着
古賀史生 代表管理馬
※カッコ内は主な勝ち鞍
トキオパーフェクト (1998年 クリスタルカップ、中日スポーツ賞4歳ステークス)
シンコウスプレンダ (1998年京成杯オータムハンデキャップ、2000年エルムステークス)
サーガノヴェル (2001年フェアリーステークス、2002年クリスタルカップ)
古賀史生 受賞
優秀調教師賞(関東)1990年
主な厩舎所属者 [編集]
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初出走は同年10月25日東京競馬第10競走のタニノネバアーで14着、初勝利は翌1981年3月22日中山競馬第4競走のフジノタイヨーで延べ16頭目であった。1987年の日刊スポーツ賞金杯をトチノニシキが14番人気の低評価を覆して優勝し、重賞初勝利を挙げた。
同年のエリザベス女王杯ではタレンティドガールが、栗田の提案した正攻法[1]で桜花賞・優駿牝馬の牝馬二冠馬マックスビューティを抑えて優勝し、G1競走初勝利を飾った。
1999年5月16日に東京競馬場で施行された緑風ステークス(1600万下条件戦)において、シンコウシングラーを柴田善臣騎乗で出走させた。
またこの失格裁定は一旦確定の発表が行われた後に覆す形で発表されたため、JRAの対応について競馬ファンより批判や議論の対象となり、再発防止のため、装鞍前の鞍の検量が制度化された。
栗田博憲 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1980年10月25日東京10R-タニノネバアー--14着
初勝利1981年5月22日中山4R-フジノタイヨー--1着
重賞初出走1981年7月26日札幌9R北海道3歳Sノースワンダー16頭1414着
重賞初勝利1987年1月5日1回中山1日11R金杯トチノニシキ16頭141着
GI初出走1984年5月27日2回東京8日10R東京優駿フジノフウウン21頭73着
GI初勝利1987年11月15日5回京都4日10Rエリザベス女王杯タレンティドガール20頭41着
栗田博憲 代表管理馬
タレンティドガール(1987年エリザベス女王杯)
ヤマニンゼファー(1992年・1993年安田記念、1993年天皇賞(秋))
シンコウフォレスト(1998年高松宮記念)
栗田博憲 表彰歴
1985年 優秀調教師賞
1987年 優秀調教師賞(関東)
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久保田 貴士(くぼた たかし、1967年9月17日 - )はJRA・美浦トレーニングセンターに所属する調教師である。
父・久保田敏夫は元JRA調教師。
JRAにて調教師を務め、ユキノビジンなどの活躍馬を管理した久保田敏夫を父に持つ貴士は馬との関わりを持ちながら学生時代を送り、明治大学在学時の1987年から1989年にかけ全日本学生馬術選手権大会3連覇を記録している。
卒業後、イギリスのクライヴ・ブリテン厩舎にて2年の実地研修を経た後1992年4月にJRA競馬学校厩務員課程に入学、同年10月より美浦・柴田欣也厩舎所属の厩務員として配属される。その半年後に調教助手の資格を取得、その後も複数の厩舎を渡り歩きながらキャリアを積み、2002年2月に調教師試験に合格、1年の技術調教師研修を経て2003年3月開業となる。
初年度こそ6勝と奮わなかった久保田厩舎であったが翌2004年に勝利数を2桁に乗せ、以後年間20勝台を勝ち上がるようになり2007年には重賞勝利を記録するなど頭角を現すようになる。
久保田 貴士 調教師成績
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2003年3月9日1回中京2日1R3歳未勝利ファカルティー16頭45着
初勝利2003年4月19日4回中山7日1R3歳未勝利ケイツーウイン11頭11着
重賞初出走2004年11月20日5回東京5日11R東京スポーツ杯2歳Sカネサマンゲツ13頭811着
重賞初勝利2007年4月22日3回京都2日11RアンタレスSワイルドワンダー16頭31着
GI初出走2006年10月1日4回中山8日11RスプリンターズSシンボリエスケープ16頭713着
久保田 貴士 主な管理馬
ワイルドワンダー(2007年アンタレスステークス、プロキオンステークス、2008年根岸ステークス)
ドラゴンファイヤー(2007年シリウスステークス)
ストロングガルーダ(2009ラジオNIKKEI賞)
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1978年に美浦・山崎彰義厩舎で調教助手となる。1989年に調教師免許を取得し、翌1990年に厩舎を開業。
国枝栄師の栗東留学への見解
西高東低の現状から期待馬については下級条件でも積極的に関西圏に遠征させ、その際に栗東トレーニングセンターに滞在させてその施設を積極的に利用してトレーニングを行なっている事でも有名で、いわゆる「栗東留学」のパイオニア的存在とも言われている。
国枝は「栗東留学」について、雑誌のインタビューで「昔は関東から関西への直前輸送はなかったんだから」「昔は一旦栗東に入るやり方でやって勝っていたんだから、そのやり方をもう一度やってみよう。
それだけのこと」「私の場合はやはり『栗東に事前入厩することで輸送の負担を減らしたい』ということ」と語っており、主に長時間の輸送が競走馬へ与える負担の軽減に重きを置いている。一方で「栗東留学をやらなくても勝てるならやりませんよ」「栗東坂路がいかにいいものだったとしても、肝心のレースに疲れが出てしまう、とかね。
その辺をよく見極める必要があると思いますよ」とも語っており、施設面における美浦と栗東の差はレース結果にはあまり関係ないとの見解を示している[1]。
国枝栄 調教師成績
日付競馬場・開催人気着順
初出走1990年2月4日1回東京4日3R3歳未勝利シャインバード14頭711着
初勝利1990年3月10日2回中山5日10R千葉日報杯リュウカムイ10頭71着
重賞初出走1990年5月6日2回東京6日11RNHK杯ヤマシゲオー16頭611着
重賞初勝利1998年4月11日3回中山5日11Rダービー卿CTブラックホーク11頭21着
GI初出走1990年12月9日5回中山4日11R朝日杯3歳Sボードセイリング13頭123着
GI初勝利1999年12月5日5回中山6日11RスプリンターズSブラックホーク16頭21着
国枝栄 代表管理馬
ブラックホーク(1999年スプリンターズステークス、2001年安田記念)
ピンクカメオ(2007年NHKマイルカップ)
マツリダゴッホ(2007年有馬記念)
マイネルキッツ(2009年天皇賞(春))
アパパネ(2009年阪神ジュベナイルフィリーズ、2010年桜花賞、優駿牝馬、秋華賞、2011年ヴィクトリアマイル)
国枝栄 表彰歴
2004年 優秀調教師賞(関東)
2005年 優秀調教師賞(関東)
2006年 優秀調教師賞(関東)
2007年 優秀調教師賞(関東)、東京競馬記者クラブ賞
2008年 優秀調教師賞(関東)
国枝栄 主な厩舎所属者
括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
勢司和浩(1990年-1999年 調教助手)
加藤士津八(2003年-2006年 騎手)
国分優作(2009年-2011年 騎手)
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