エリンコート(Erin Court)の主な勝ち鞍は2011年の優駿牝馬。馬名は「アイルランドの宮廷」という意味。
エリンコート 2歳
2010年7月25日の函館の芝1200mの新馬戦でデビューしたが、3着に敗れる。続く未勝利戦も3着となる。
初勝利は札幌の芝1500mの未勝利戦。ゴール前で差しきり初勝利を飾った。
その後京都の500万下の白菊賞は直線伸びを欠き4着となる。
エリンコート 3歳
500万下6着の後、中1週で4着となり、休養した後に3月27日の500万下で1着。
鞍上の後藤浩輝はクラシック44回目の挑戦で初制覇。調教師の笹田和秀もGI初制覇。
デュランダル産駒もGI初制覇となった。秋緒戦に選んだローズステークスでは
前でレースを進めたが直線の半ばで失速し10着に敗れた。
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ホエールキャプチャの主な勝ち鞍は2011年クイーンカップ、ローズステークス。
馬名は鯨+捕獲。
父・クロフネの名からの連想で、ペリーが黒船で来航した目的のひとつが、捕鯨の際の寄港地確保であったことに因んでいるとのこと。
ホエールキャプチャ 2010年
7月3日の函館の芝1200mの新馬戦。直線差すも2着に敗れる。続く7月17日未勝利戦は直線差しきり2戦目での初勝利となった。さらに中山のオープン特別の芙蓉ステークスは一転しての逃げ切り、後の2冠馬であるオルフェーヴルを抑え2勝目を飾った。ファンタジーステークスは最後方から直線だけでごぼう抜きも3着惜敗。阪神ジュベナイルフィリーズは2着惜敗となった。
ホエールキャプチャ 2011年
初戦のクイーンカップでは6番手からレースを進めると、直線で力強く抜け出し重賞初制覇した。そして桜花賞は直前でレーヴディソールが骨折離脱したこともあり、押し出される形で自身初の1番人気に推される。レースは後方待機から大外を回って最後の直線でいい脚を使うも、先に抜けだしたマルセリーナを捉えきれず2着に惜敗した。
続く優駿牝馬ではスタートで後手を踏み後方で待機すると直線で脚を伸ばしエリンコートと逃げたピュアブリーゼとの争いとなったがエリンコートの3着に惜敗した。
夏を過ごした後の休養明け緒戦に選んだローズステークスでは1番人気に応えて勝利した。
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毎日王冠で福永祐一騎手はダークシャドウで勝ち、今季100勝目を挙げました。
シルポートの逃げを追い、直線でのたたき合いが見ごたえありました。
ダークシャドウは、あの位置からよく差し切れましたね。福永騎手も、冷や汗たらたらだったでしょう。
本格化しての秋の天皇賞GI挑戦、楽しみです。
天皇賞では、何番人気になるでしょうか?
ブエナビスタ、アーネストリー、ローズキングダム、エイシンフラッシュ、ルーラーシップの次くらいかな?
しかし4歳は層が厚いですね。
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福永 祐一エピソード
父・洋一の兄弟である伯父には競馬関係者が多い。
長兄・甲はJRAの元騎手・元調教師、次兄・二三雄は大井競馬の元騎手、三男・尚武は船橋競馬の元騎手である。洋一は四男。
母の弟である叔父にも元・騎手の北村卓士がいる。
子供の頃から栗東の福永家は武家と隣同士であり、武豊(豊は厳密には京都市伏見区出身)や武幸四郎とはご近所さんの間柄だった。
しかし、直前に負った足の骨折で体力試験をパスできずに不合格。これにより福永は幻の11期生となったが、その後1年間近江兄弟社高等学校に通い、翌年に再受験し合格したため、1歳年上の細江純子以外の同期生は福永より1歳年下である。
また2・3歳戦が得意で、そのことは本人も自負している。実際、2・3歳の重賞(特に牝馬限定戦)でも上位の戦績を誇る。
特に2002年は2歳馬のGI(阪神ジュベナイルフィリーズ:ピースオブワールド、朝日杯フューチュリティステークス:エイシンチャンプ)を両方とも制覇している。
優駿牝馬(オークス)では2004年から4年連続連対(3勝2着1回)という驚異的な成績を残していた。
2007年の同競走を外国産馬のローブデコルテで勝利した時のTV中継での勝利インタビューで、「オークス3勝目、相性いいですね」の問いに対して「新オークス男です」と語った。
小倉で行われる2歳オープン戦・フェニックス賞に強く、2001年から2007年までで6勝2着1回という成績を残し2003年から2007年まで5連勝を記録していた(これは武豊の若駒ステークス5連勝、河内洋の万葉ステークス5連勝に並ぶ同一特別競走の最多連勝タイ記録である)。
本人曰く「フェニックス男」である(ABCラジオ・オン・ザ・ターフ!より)
なお2007年は後述のとおり主戦を務めた前年の北橋厩舎に続き瀬戸口厩舎が解散することで(両厩舎とも夏競馬は小倉競馬場を主戦場にしていた)、夏競馬については新潟競馬場を主戦場にする旨を仄めかし(実際にその通りにしていた)、記録達成する意思が無いように述べていたが、ビーチアイドルの前走に騎乗した武豊が欧州遠征でフェニックス賞に騎乗出来ないために、祐一が騎乗することとなり、5連勝・7年連続連対を達成した。
2007年の天皇賞・秋ではカンパニーに騎乗したが最後の直線でコスモバルクが左右によれたことにより不利を受けたとされ、地方競馬所属で同馬の騎手である五十嵐冬樹に対し「コスモバルクは毎回、毎回やっている。五十嵐さんはG1に乗る騎手じゃない。
と発言したと報道され一部で物議を醸したが、本人はこの発言を否定している。
逆に翌年の日本ダービーで、福永はモンテクリスエスに騎乗し1コーナーでかなりの斜行をしている。
被害馬は同レース3着のブラックシェルであったが、騎乗していた武豊騎手は「1コーナーをスムーズにいければあるいは…」という談話を残している。
テレビゲームマニアで、幼少の頃は信長の野望シリーズや三國志シリーズ(どちらもコーエー)に熱中していた他、「イメージトレーニングのため」と称して『ジーワンジョッキー』シリーズ(コーエー)をプレイすることが多いという。
『ジーワンジョッキー』ではゲーム中に自分自身が実名で登場するため、自分の名前ではなくエディット機能を使用して父・洋一の名前でプレイしている。
小学校時代、体育で縄跳びが苦手で、二重跳びが全くできなかった。
これは2010年4月18日に中山(皐月賞終了後)のファンイベントで明らかになったものだが、そのイベントで二重跳びが1回だけだが成功した。
2010年5月10日に高知競馬場で行われた第1回「福永洋一記念」(父の名を冠したレースが、息子である本人の熱意によって実現)。
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福永 祐一 騎乗成績
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗・初勝利 1996年3月2日 1回中京1日3R 4歳未勝利 マルブツブレベスト 16頭 1 1着
重賞初騎乗 1996年3月2日 1回中京1日11R 中日新聞杯 オグリワン 16頭 6 15着
重賞初勝利 1997年11月15日 5回東京5日11R 東京スポーツ杯3歳S キングヘイロー 12頭 1 1着
GI初騎乗 1996年10月20日 4回京都6日10R 秋華賞 シーズグレイス 18頭 12 6着
GI初勝利 1999年4月11日 2回阪神6日11R 桜花賞 プリモディーネ 18頭 4 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 表彰
1996年 53 49 45 518 .102 .197 .284 JRA賞(最多勝利新人騎手)
1997年 62 59 56 692 .090 .175 .256
1998年 52 52 55 635 .082 .164 .250
1999年 43 39 31 398 .108 .206 .284
2000年 84 71 61 660 .127 .235 .327
2001年 81 68 69 749 .108 .199 .291
2002年 89 62 78 722 .123 .209 .317 JRA優秀騎手賞
2003年 83 78 67 696 .119 .231 .328
2004年 96 81 96 771 .125 .230 .354 JRA優秀騎手賞
2005年 109 70 81 811 .134 .221 .321 JRA優秀騎手賞
2006年 88 69 87 820 .107 .191 .298 JRA優秀騎手賞
2007年 82 80 67 744 .110 .218 .308
2008年 86 70 86 804 .107 .194 .301
2009年 93 82 89 825 .113 .212 .320
2010年 109 108 82 809 .135 .268 .370
中央 1210 1038 1050 10654 .114 .211 .310
地方 55 55 61 402 .137 .274 .425
騎乗成績
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗・初勝利 1996年3月2日 1回中京1日3R 4歳未勝利 マルブツブレベスト 16頭 1 1着
重賞初騎乗 1996年3月2日 1回中京1日11R 中日新聞杯 オグリワン 16頭 6 15着
重賞初勝利 1997年11月15日 5回東京5日11R 東京スポーツ杯3歳S キングヘイロー 12頭 1 1着
GI初騎乗 1996年10月20日 4回京都6日10R 秋華賞 シーズグレイス 18頭 12 6着
GI初勝利 1999年4月11日 2回阪神6日11R 桜花賞 プリモディーネ 18頭 4 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 表彰
1996年 53 49 45 518 .102 .197 .284 JRA賞(最多勝利新人騎手)
1997年 62 59 56 692 .090 .175 .256
1998年 52 52 55 635 .082 .164 .250
1999年 43 39 31 398 .108 .206 .284
2000年 84 71 61 660 .127 .235 .327
2001年 81 68 69 749 .108 .199 .291
2002年 89 62 78 722 .123 .209 .317 JRA優秀騎手賞
2003年 83 78 67 696 .119 .231 .328
2004年 96 81 96 771 .125 .230 .354 JRA優秀騎手賞
2005年 109 70 81 811 .134 .221 .321 JRA優秀騎手賞
2006年 88 69 87 820 .107 .191 .298 JRA優秀騎手賞
2007年 82 80 67 744 .110 .218 .308
2008年 86 70 86 804 .107 .194 .301
2009年 93 82 89 825 .113 .212 .320
2010年 109 108 82 809 .135 .268 .370
中央 1210 1038 1050 10654 .114 .211 .310
地方 55 55 61 402 .137 .274 .425
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福永 祐一 成績
福永 祐一 GI・JpnI競走勝利
(斜字は統一GI、太字は海外GIを指す)
1999年
桜花賞 - プリモディーネ
朝日杯3歳ステークス - エイシンプレストン
2001年
香港マイル - エイシンプレストン
2002年
クイーンエリザベス2世カップ - エイシンプレストン
JBCスプリント - スターリングローズ
阪神ジュベナイルフィリーズ - ピースオブワールド
朝日杯フューチュリティステークス - エイシンチャンプ
2003年
クイーンエリザベス2世カップ - エイシンプレストン
2004年
高松宮記念 - サニングデール
優駿牝馬 - ダイワエルシエーロ
2005年
フェブラリーステークス - メイショウボーラー
桜花賞 - ラインクラフト
NHKマイルカップ - ラインクラフト
優駿牝馬 - シーザリオ
アメリカンオークス招待ステークス - シーザリオ
朝日杯フューチュリティステークス - フサイチリシャール
2006年
エリザベス女王杯 - フサイチパンドラ
2007年
優駿牝馬 - ローブデコルテ
2010年
阪神ジュベナイルフィリーズ - レーヴディソール
JRA・GI 14勝(海外GI4勝、交流1勝)
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オグリキャップ 1990年後半の不振と復活
1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。
オグリキャップ 体調
調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた[† 31][† 32]。
精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた[† 34]。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。
密着取材とかいって、1週間ものあいだ24時間体制でオグリを撮りまくるんや。しかも、わしにとってもオグリにとっても不運やったんは、その取材陣というのがほとんど競走馬というものを知らない人たちで編成されていたことやった。
文字どおり、24時間ぶっ続けでオグリを撮りまくったんやからね。
それだけやない。
馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。
しまった、と気がついたときには、もう手遅れやった。オグリがぱったりとカイバを食べんようになってしもたんや。
体調に関しては、優勝した第35回有馬記念においてすらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄[† 37]や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功[† 38]がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。
春と違うのは確かでした」と回顧している。レース前のパドックでオグリキャップを見た作家の木村幸治は、その時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」、「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」、「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。
人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている[81]。しかし厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという。
本日開催中のレース予想一覧
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オグリキャップ 6歳(1990年)競走内容
有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。
オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。
オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された[70]。
レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。
続く宝塚記念では終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫(脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病)を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。
陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定したが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。
続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。
ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり[† 29]、馬主の近藤に宛てた脅迫状(出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容)が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した[73]が、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定した。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。
限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった[74]。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。
この現象について阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している。
本日開催中のレース予想一覧
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オグリキャップ 近藤俊典への売却
1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が将来馬主登録を抹消される可能性が出た。
それを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した。
売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。
ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。
また、売却価格の高さも指摘された。
オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。
オグリキャップ 1989年のローテーション
3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。
この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。
調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても「無理は少しあったと思います」と述べた。
また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。
本日開催中のレース予想一覧
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オグリキャップ 5歳(1989年)競走内容
陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。
療養施設へは厩務員の池江が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。
オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマー(当時は地方競馬騎手招待競走)で復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。
同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。
その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。
レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。
写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる。
(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)
天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている。
(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)
続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」[50]、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。
写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。
勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した。(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)
連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた。
(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)
陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。
本日開催中のレース予想一覧
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