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ブエナビスタがAKBなら、前田敦子!?

いよいよ、今週末、第56回有馬記念・G1(25日、中山・芝2500メートル)で、G1・6勝牝馬ブエナビスタが、
最後の勝負に登場です。

2009、2010年とも2着ですから、ここは、なんとしても勝ちたいところ。
2年連続ファン投票1位でもありますしね。

有馬記念プレミアムレセプション(中山馬主協会主催)に、「AKB48」が来場。
篠田麻里子が、ブエナをビスタを総選挙で1位に返り咲いた前田敦子にたとえたそうです。
確かに、ブエナをビスタも前田敦子も根性の女って感じです。しぶとく世にはばかってますね。
素晴らしい!


女性騎手

女性騎手

女性騎手 概要
世界初の女性騎手は1936年に日本の京都競馬倶楽部での騎手免許試験に合格した斉藤澄子である。
しかし、競馬関係者が「女性騎手の存在は風紀を乱す」と反対運動を展開した結果、農林省および東京帝国競馬協会が斉藤のレース出場を禁止する通達を出したためレースに騎乗することができず、さらに1937年に発足した日本競馬会が男性であることを騎手の要件とした(当時)ため引退を余儀なくされた。吉永みち子の小説『繋(つな)がれた夢』の主人公は斉藤がモデルとなっている。

世界2例目の女性騎手は斉藤の引退から30年以上を経た1968年11月にアメリカで騎手免許を取得したペニー・アン・アーリーである。しかし男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、斉藤と同様に一度もレースに出場することなく引退した。
このように完全なる男尊女卑の社会であったかつての競馬界において異色の存在であった女性騎手は、それ故にその誕生から不遇に満ちたものだった。

しかしその後、1960年代後半から起こったウーマンリブの世界的広がりなどの影響から、競馬界に於いても不当な男女差別が問題視されるようになり、以後実際にレースで騎乗し活躍を見せる女性騎手が登場し始める。
最も成功した女性騎手はアメリカのジュリー・クローンである。クローンは通算3704勝、重賞132勝、1993年のベルモントステークスに優勝するなど超一流騎手と呼ぶに相応しい実績をあげ、2000年8月に女性騎手として初めて競馬の殿堂入りを果たした。

21世紀以降も、カナダのシャンタル・サザーランドなどの超一流クラスの女性騎手が登場している。サザーランドはモデル業と騎手を兼任している珍しい騎手でもある。
日本では勝利数の面において、中央競馬よりも地方競馬において女性騎手が活躍している。名古屋競馬場に所属していた宮下瞳が、日本における女性騎手の最多勝利記録の626勝を挙げ(地方競馬のみ)、短期騎手免許で騎乗した韓国でも50勝以上を挙げている[1]。なお、2002年に中央競馬の短期免許を取得したニュージーランドのロシェル・ロケットが、中山大障害に優勝。これが中央競馬初の女性騎手による重賞優勝、かつGI(J・GI)優勝である。
対する日本中央競馬会(JRA)所属の日本人女性騎手については、2010年時点でも目立った活躍は見られない。これは単純に騎乗技術の優劣によるとする考え方の一方、技術以上に「女の力では馬は御せない」という盲目的な古い因習=男尊女卑の思想が競馬関係者や馬主などに未だ根強く残っていることにも原因があるという見解の分かれる部分もある。その最たる例として、競馬学校で騎乗技術を含めて最も優秀な成績を修めた卒業生に贈られるアイルランド大使特別賞を受賞し、JRA初の女性騎手の1人としてデビューした牧原由貴子(現・増沢由貴子)が、実際の騎乗依頼数、騎乗馬の質においても殆どチャンスを与えられず、他の同期生たちよりも騎乗数などで冷遇されていることが上げられる。彼女たちのデビュー当初は「女性にも道が開けたことで先行する地方競馬のように中央競馬に挑戦する女性騎手が増えるのではないか」と期待されていたが、最初のケースが実質的な失敗に終わったことで、現在の中央競馬では女性騎手が活躍できる下地が根付いておらず、また西原玲奈を最後に競馬学校の騎手過程を卒業した女性は途絶えている。

日本全国の女性騎手を招待して開催されるシリーズとして、「レディースジョッキーズシリーズ」(LJS)がある。これは荒尾競馬場で2004年および2005年に行われた「全日本レディース招待競走」を前身とし、1997年から2000年まで中津競馬場で行われていた「卑弥呼杯」、2001年に新潟競馬場で行われた「駒子賞」を起源とする。なお、それ以前の女性競馬騎手招待レースには「レディスカップ」(1981年〜1984年、水沢競馬場、上山競馬場、新潟競馬場)、「国内女性騎手招待競走」(1982年〜1984年、水沢競馬場)、「ANJレディースカップ」(1988年、札幌競馬場)、「インターナショナルクイーンジョッキーシリーズ」(1989年〜1993年)などがある。
NARグランプリでは「優秀女性騎手賞」の部門を設置し、その年に最も活躍した女性騎手を表彰している。

女性騎手に対する減量特典がある競馬場 

女性騎手に対してレース時の負担重量を減量する特典を付与する制度を実施している競馬主催者もある。平地競走においては1kg、ばんえい競馬は10kg優遇される。ただし、重賞競走においては適用されない。
ばんえい競馬
名古屋競馬場
笠松競馬場
福山競馬場
高知競馬場
荒尾競馬場

主な女性騎手

日本の女性騎手

女性騎手 現役(2011年11月現在)
増沢由貴子(旧姓:牧原)(JRA)
竹ケ原茉耶(ばんえい)
笹木美典(北海道)
下村瑠衣(北海道) - 2011年3月16日新規騎手免許合格。
皆川麻由美(岩手)
山本茜(名古屋)
別府真衣(高知) - 父は高知所属の調教師別府真司。
森井美香(高知)
岩永千明(荒尾)

女性騎手 引退
斉藤澄子(京都競馬倶楽部)
田村真来(JRA) - 父は元騎手の田村正光。
板倉真由子(JRA)
細江純子(JRA)
押田純子(JRA) - 現姓・清水。父は元騎手の押田年郎。
西原玲奈(JRA)
辻本由美(ばんえい) - 父は調教師の辻本誠作、弟は騎手の辻本貴信。
佐藤希世子(ばんえい)
安田歩(北海道)
勝賀瀬芳子(北海道〜宇都宮)
佐々木明美(北海道)
高橋クニ(岩手) - 実際にレースで騎乗した日本初の女性騎手。繋駕競走のみ騎乗し、通算253戦33勝、2着39回(1966〜1971年)。水沢・高橋武(クニの夫でもある)厩舎所属。娘の優子(下記参照)は日本初の平地女性騎手。
高橋優子(岩手) - 日本初の平地女性騎手。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969〜1974年,通算5年6ヵ月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。
佐々木亜紀(岩手)
石川夏子(岩手)
千田和江(岩手)
新田弥生(旧姓:吉田)(岩手)
岩田富子(上山) - 昭和20年代に活動。『地方競馬』1986年7月号29ページにおいて「(斉藤を除くと実質的な)本邦女性騎手第一号といわれる」と紹介されている。
小田嶋志生子(上山)
和田美由紀(上山)
徳留五月(旧姓:遠藤)(上山〜高知)
藤塚聡子(新潟〜高崎)
山田真裕美(新潟)
山本泉(大井〜新潟)
赤見千尋(高崎)
米田真由美(高崎)
牛房由美子(浦和) - 父は浦和所属の元騎手、現調教師の牛房榮吉。
木村園夏(浦和)
平山真希(浦和) - 騎手引退後調教師に転向。
土屋薫(浦和〜大井) - 父は浦和所属の元調教師土屋登。
稲川由紀子(船橋)
鈴木久美子(船橋)
鈴木千予(船橋)
溝邉悦代(船橋)
米井陽子(船橋)
松沼緑(大井)
沢江鮎美(大井)
埴谷美奈子(大井〜益田)
戸川理彩(川崎)
安池成実(川崎) - 騎手引退後調教師に転向。父は元調教師の安池保。
宮岸由香(金沢)
山上由紀子(金沢)
岡河まき子(笠松)
中島広美(笠松)
神野治美(名古屋) - 日本の女性騎手として史上初の初騎乗初勝利の快挙を達成した人物。後に同じ名古屋所属の騎手であった横川健二と結婚し、子息である横川怜央は大井所属の騎手で、日本の平地競馬では史上初の両親が騎手経験者である騎手[1]。
宮下瞳(名古屋) - 日本における女性騎手最多勝記録保持者(2011年8月現在)。
吉岡牧子(益田) - 8年間で通算350勝。現代競馬において女性騎手の存在を広めた功労者。引退まで益田のスター騎手でもあった。
白津万里(福山)
池本徳子(旧姓:大場〜佐藤)(福山)
伊藤千織(佐賀)
藤本美芽(荒尾)
小田部雪(中津〜荒尾) - 2001年中津競馬の廃止とともに荒尾競馬に移籍。2002年引退。
篠田幸子(中津)

日本国外の女性騎手
ペニー・アン・アーリー(アメリカ)
メアリー・ベーコン(アメリカ) - 1978年大井競馬場の招待競走などで来日。
ジュリー・クローン(アメリカ) - 1990年ワールドスーパージョッキーズシリーズで来日。
エマ=ジェイン・ウィルソン(カナダ)
リサ・クロップ(ニュージーランド) - 1994年にJRAの短期免許を取得し来日(女性短期免許騎手第1号)。
リサ・マンビー(ニュージーランド)
ロシェル・ロケット(ニュージーランド) - 2002年中山大障害優勝、JRAの重賞競走で唯一の女性G1ジョッキー。
アンヌソフィ・マドレーヌ(フランス) - 1999年インターナショナルジャンプジョッキーズで来日。
アレックス・グリーヴス(イギリス) - 1997年ナンソープステークス優勝、欧州の平地競走で史上初の女性G1ジョッキー。
バーナデット・クーパー(大井) - 短期免許(2003年8月5日〜11月4日)。オーストラリアの騎手。
ヘイリー・ターナー(イギリス) - 2006年、2007年シャーガーカップイギリス代表として出場。2011年ジュライカップG1、2011年ナンソープステークスG1優勝。
シャンタル・サザーランド(カナダ)
カシー・オハラ(オーストラリア)
^ 韓国の日本人騎手たち 内田利騎手、現地若手の模範に ZakZak 2011年1月27日

有馬頼寧

有馬頼寧
 
ありま よりやす
生年月日	1884年12月17日
出生地	東京都渋谷区
没年月日	1957年1月9日(満72歳没)
出身校	東京帝国大学
(現・東京大学)
所属政党	(立憲政友会→)
無所属
称号	伯爵
勲一等瑞宝章
親族	父・有馬頼万
祖父・岩倉具視
孫・亀井久興
配偶者	妻・有馬貞子
 第14代 農林大臣
内閣	第1次近衛内閣
任期	1937年6月4日 - 1939年1月5日
 貴族院議員
選挙区	伯爵選出
任期	1926年8月 - 1937年9月
 衆議院議員
選挙区	福岡県第5区
当選回数	1回
任期	1924年5月11日 - 1926年8月

有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は日本の政治家。農政研究者。元農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。

有馬頼寧 経歴
旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科(現 学習院高等科)、旧制学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵に叙爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤内閣で農林政務次官、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。また、1936年より当時の職業野球の東京セネタース → 大洋軍の個人経営に乗り出していた。
第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。
1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任、有馬特例法の公布、中央競馬運営方策要綱案の着手、中山競馬場をはじめとする競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、競馬の発展や大衆化に尽力した。
1957年に急性肺炎のため逝去した。「有馬頼寧関係文書」が国立国会図書館にある。

有馬頼寧 篤志事業の展開
大正年間には、社会運動や奉仕活動に目覚め、多額の私財を投じる。結果、有馬家の家計が傾いてしまい、父親が死去した1927年には相続税の支払いに困窮したという。これ以降、社会運動への参加には一線を引くこととなり、政治活動へ没頭する。
1918年 夜間中学である信愛学園を設立。
1919年 浅草に貧困者向けの無料診療所を設立。
1920年 日本教育者協会を設立。教育の機会均等を図ると共に、教員の地位向上を目指す取り組みを進める。
1920年 同愛会を設立し、部落差別を解消を図る運動を進める。翌年、水平社が設立されると賛同し、演説などを引き受ける。
1922年 同情園乳児部を自宅に設立し、関東大震災により困窮した子供達の面倒を見る。
有馬頼寧 スポーツ振興への貢献

有馬頼寧 プロ野球
様々な政治・社会活動の他、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名で、1936年に結成された職業野球球団「東京セネタース」[1]のオーナーを務めた。日本野球連盟→日本野球報国会等の相談役を歴任。1969年に野球殿堂入りした。

有馬頼寧 競馬
日本中央競馬会第2代理事長に就任。有馬の尽力により1955年1月に施行された「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(通称「有馬特例法」)は、売り上げ金の国庫への納付が免除された臨時競馬の施行を可能とする法律であり、臨時競馬の売上金を競馬場の施設などハード面の整備にあてることで中央競馬発展の基礎を築いた。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られる。これには競馬は全くの門外漢だった有馬故の柔軟な発想があったからとされる。具体的にはPR機関中央競馬サービスセンターを創設し、日本短波放送によるレースの実況放送を開始し、競馬場内に託児所や遊園地を設置するなどのほか、1956年にプロ野球のオールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースでファンに喜んでもらおうと、中央競馬のオールスター戦を発案、競走名を「中山グランプリ」として創設した。
なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したが、それから程なく有馬が急性肺炎にて逝去、その年の暮れに開催された第2回競走からは、これまでの様々な彼の功績を称え「有馬記念」と改称され施行されている。

有馬頼寧 略歴
学習院中等科、学習院高等科を卒業
1910年7月 東京帝国大学農学科を卒業
1918年2月 東京帝国大学農業教員養成所講師
1920年11月 東京帝国大学農学部助教授(〜1924年3月)
1924年5月 衆議院議員(〜1927年4月)
1926年8月 貴族院議員(〜1937年9月)
1929年6月 農林政務次官(〜1930年4月)
1930年4月 産業組合中央金庫理事長(〜1934年6月)
1934年6月 農林大臣(〜1936年1月)
1955年4月 日本中央競馬会理事長(〜1957年1月)

有馬頼寧 栄典
昭和32年1月9日:勲一等瑞宝章
家族・親族 [編集]

父母
父:有馬頼万
母:寛子(岩倉具視の娘。離縁後、森有礼後妻となる)
兄弟姉妹
長男:有馬頼寧
長女:禎子(奥平昌恭夫人)
二男:安藤信昭(安藤信篤養子)
三男:松田正之(松田正久継嗣)
次女:久米(稲田昌植夫人)
妻
妻:貞子(北白川宮能久親王次女)
子女
次女:澄子(足利惇氏夫人)
四女:正子(亀井茲建夫人)
三男:有馬頼義(第16代当主、直木賞作家)
その他の親族
叔母:小松宮妃頼子(小松宮彰仁親王妃)
孫:亀井久興(政治家)
甥:森有正(哲学者、仏文学者)
姪:関屋綾子(世界平和アピール七人委員会委員)
従甥:有馬頼底(禅僧、臨済宗相国寺派管長)

有馬頼寧 私生活
社会運動・慈善活動に身を投じた「異色の華族」でありながら、女性関係が派手なことでは有名であり、本人も気にしていたようであるが[2]女癖の悪さは生涯直らなかった。
井深八重の友人であった松信緑(美登里)は千葉県佐原の格地病院設立者の孫娘で、同志社女学校を卒業後に有馬家に行儀見習いに来ていた令嬢だったが、一度は解雇して思いを断ち切った物のふたたびよりを戻し、一時は廃嫡覚悟でアメリカに駆け落ちする覚悟であった。しかし、倉富勇三郎ら有馬伯爵家政参与者の画策によって別れた。
この事件の4年後に知り合った博多の芸妓舟子こと福田次恵は、頼寧が衆議院議員選挙活動中に2000円(当時)で落籍した人物である。後に頼寧の命によって上京し、有馬伯爵邸から歩いて数分の所に別邸を構えて住む。選挙活動中に愛人を入手したとして一般庶民や一族からの非難も激しかったが、以前に松信緑との仲を周りに強引に引き裂かれて苦悩した反動のせいで、殆ど意に介さなかった。次恵は頼寧晩年には実質的な本妻と化し、貞子夫人を悩ませる存在であった。息子・頼義の小説にもたびたび題材として取り上げられている[3]。
恋多き伯爵と知られた有馬の日記を読むと上記の2人を含め、その生涯で少なくとも4人の愛人がいたことが判明しており、その他にも多数の愛人を抱えていたとされる。

有馬頼寧 脚注
^ 1945年に新設されたセネタースとは、出身者が創設に関与した以外、直接の繋がりはない。
^ 『恋と伯爵と大正デモクラシー』p.214
^ 『母 その哀しみの生涯』文藝春秋

有馬記念

有馬記念

第50回有馬記念
開催地	中山競馬場
施行日	2011年12月25日
施行時期	12月下旬
(原則5回中山8日目)
格付け	GI
1着賞金	2億円
賞金総額	3億8000万円
距離	芝2500m
出走条件	サラブレッド系3歳以上(国際)(指定)[1]
出走資格も参照
負担重量	定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)
第1回施行日	1956年12月23日

有馬記念(ありまきねん)は中山競馬場の芝内回り2500mで施行する中央競馬の重賞(GI)競走。
正賞は日本馬主協会連合会会長賞、中山馬主協会賞[2]。

有馬記念 概要
1955年まで暮れの中山競馬では中山大障害が看板競走であったが、東京競馬場で行われていた東京優駿(日本ダービー)と比べると華やかさに欠けていることは否めなかった。そこで当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場で大レースをと計画し、しかもそのアイデアとしてファンがより親近感を持てるようにとファン投票により出走馬を選出するオールスターレース方式による第1回中山グランプリが1956年12月23日に中山競馬場の芝内回り2600mで開催された。プロ野球のオールスターと同様の競馬のオールスターレースは、当時の世界の競馬先進国でも類を見ない画期的な選抜方法[3]であった(のちに宝塚記念もファン投票方式と推薦委員会による推薦方式を採用)[4]。
しかし第1回を盛況の内に終えて間もない翌1957年1月9日に提唱者の有馬が急逝したため、有馬の数々の功績を称えて第2回以降は「有馬記念(グランプリ)」と名称が変更となった。
期せずして、これは日本の公営競技等のレースでレースの提唱者の名前がレース名となった最初の例ともなった(後に安田記念も同様の例となっている)。このような経緯があるため、現在でもJRAの競馬番組表やレーシングプログラムでは競走名が「有馬記念(第○○回グランプリ)」と表記される。競走名の副題から優勝馬はグランプリホースと呼ばれることがある。
距離は第10回までは2600m(第4回までは芝・内回り、第5回から第10回までは芝・外回り)、第11回以降は現在に至るまで芝・内回りの2500mで施行されている。なおこれまですべて中山競馬場で開催され、八大競走の中では唯一開催場の変更が無いレースでもある[5]。
現在の優勝レイは、青色の地に金色の文字となっている。
なお地方競馬との申し合わせにより長らく12月28日から1月4日の間は中央競馬の開催が行われなかったが、2003年の第48回では初めて12月28日に行われた。以後12月28日が日曜日と重なる場合はその日に開催されるようになった[6]。

有馬記念 出走資格
サラ系3歳(旧4歳)以上のファン投票及びJRAに選出されたJRA所属馬及び本競走に出走登録した外国馬及び出走登録しJRAに選定された地方馬のみ出走が可能である。
出走馬の選定方法は以下のとおりである。
ファン投票選出方法は公式投票用紙(競馬場、ウインズ各会場で配布)、市販のはがき(官製・私製)、インターネットから可能だが1名につき1媒体1通限り。1名での複数枚投票(複数媒体の使用含む)と郵送の場合の印刷、ゴム印、ワープロ使用は無効となる。
特別登録を行った馬の中からファン投票上位10頭が優先出走できる[7] [8]。
それ以外の馬(外国馬を除く)は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる(地方馬もこの方法で選出される)。フルゲート16頭まで出走できる。
2000年から2006年まではジャパンカップで優勝した外国所属競走馬にも優先出走権が与えられ、該当馬が2頭いたがいずれも行使しなかった。
2007年からは国際競走となり外国馬は最大6頭まで出走できる。

有馬記念 歴代ファン投票1位
回数	開催年	ファン投票1位	性齢	得票数	結果
第1回	1956	キタノオー	牡3	6,159	2着
第2回	1957	ハクチカラ	牡4	7,356	1着
第3回	1958	カツラシユウホウ	牡3	18,952	不出走
第4回	1959	ハククラマ	牡3	11,438	12着
第5回	1960	コダマ	牡3	17,082	6着
第6回	1961	シーザー	牡4	12,773	4着
第7回	1962	オンスロート	牡5	15,617	1着
第8回	1963	メイズイ	牡3	18,309	2着
第9回	1964	メイズイ	牡4	18,448	3着
第10回	1965	シンザン	牡4	26,853	1着
第11回	1966	ナスノコトブキ	牡3	22,510	5着
第12回	1967	スピードシンボリ	牡4	22,143	4着
第13回	1968	アサカオー	牡3	23,098	6着
第14回	1969	マーチス	牡4	21,798	10着
第15回	1970	アカネテンリュウ	牡4	20,295	2着
第16回	1971	アカネテンリュウ	牡5	25,215	出走取消
第17回	1972	イシノヒカル	牡3	17,022	1着
第18回	1973	ハイセイコー	牡3	24,143	3着
第19回	1974	ハイセイコー	牡4	22,400	2着
第20回	1975	キタノカチドキ	牡4	17,077	8着
第21回	1976	トウショウボーイ	牡3	19,957	1着
第22回	1977	テンポイント	牡4	22,541	1着
第23回	1978	プレストウコウ	牡4	75,257	12着
第24回	1979	サクラショウリ	牡4	90,301	6着
第25回	1980	カツラノハイセイコ	牡4	154,640	2着
第26回	1981	ホウヨウボーイ	牡6	185,747	2着
第27回	1982	モンテプリンス	牡5	113,667	11着
第28回	1983	アンバーシャダイ	牡6	147,484	3着
第29回	1984	ミスターシービー	牡4	171,979	3着
第30回	1985	シンボリルドルフ	牡4	140,753	1着
第31回	1986	ミホシンザン	牡4	168,210	3着
第32回	1987	サクラスターオー	牡3	141,494	競走中止
第33回	1988	タマモクロス	牡4	183,473	2着
第34回	1989	オグリキャップ	牡4	197,682	5着
第35回	1990	オグリキャップ	牡5	146,738	1着
第36回	1991	メジロマックイーン	牡4	155,353	2着
第37回	1992	トウカイテイオー	牡4	177,926	11着
第38回	1993	ビワハヤヒデ	牡3	146,218	2着
第39回	1994	ナリタブライアン	牡3	178,471	1着
第40回	1995	ヒシアマゾン	牝4	173,689	5着
第41回	1996	マヤノトップガン	牡4	155,122	7着
第42回	1997	エアグルーヴ	牝4	142,596	3着
第43回	1998	エアグルーヴ	牝5	165,357	5着
第44回	1999	スペシャルウィーク	牡4	165,734	2着
第45回	2000	テイエムオペラオー	牡4	109,140	1着
第46回	2001	テイエムオペラオー	牡5	93,217	5着
第47回	2002	ナリタトップロード	牡6	91,122	4着
第48回	2003	シンボリクリスエス	牡4	125,116	1着
第49回	2004	ゼンノロブロイ	牡4	100,052	1着
第50回	2005	ディープインパクト	牡3	160,297	2着
第51回	2006	ディープインパクト	牡4	119,940	1着
第52回	2007	ウオッカ	牝3	105,441	11着
第53回	2008	ウオッカ	牝4	136,619	不出走
第54回	2009	ウオッカ	牝5	105,059	不出走
第55回	2010	ブエナビスタ	牝4	111,323	2着
第56回	2011	ブエナビスタ	牝5	109,247	
2004年の投票では、地方競馬所属のため投票の対象外であるコスモバルクに大量の無効票が投じられた。不完全な集計ながら、この年1位のゼンノロブロイを支持率で上回っていたという[9]。

有馬記念 負担重量
負担重量は定量で3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬は2kg減である。
第1回は3歳54㎏・4歳以上55㎏・牝馬各2㎏減で施行。第10回から第24回は3歳54㎏・4歳56㎏・5歳以上55㎏・牝馬各2㎏減。第25回から第28回は3歳55kg・4歳57kg・5歳以上56kg・牝馬2kg減で施行された。
第2回から第9回、第29回から第45回までは馬齢重量で施行され、第46回より現行の負担重量となった。

有馬記念 賞金
2011年度現在の総額賞金は3億8,000万円で、ジャパンカップに次いで国内で2番目に総額賞金の高いレースとなっている。

有馬記念 グレード制が施行された第36回(1984年)以降
回(施行年)	総額賞金      1着	        2着	3着	4着	5着
第29回(1984年)	1億4,250万円	7,500万円	3,000万円	1,900万円	1,100万円	750万円
第30回(1985年)	1億4,880万円	7,800万円	3,100万円	2,000万円	1,200万円	780万円
第31回(1986年)	1億5,200万円	8,000万円	3,200万円	800万円
第32回(1987年)	1億6,150万円	8,500万円	3,400万円	2,100万円	1,300万円	850万円
第33回(1988年)	1億8,050万円	9,500万円	3,800万円	2,400万円	1,400万円	950万円
第34回(1989年)	1億9,530万円	1億300万円	4,100万円	2,600万円	1,500万円	1,030万円
第35回(1990年)	2億1,000万円	1億1,000万円	4,400万円	2,800万円	1,700万円	1,100万円
第36回(1991年)	2億2,800万円	1億2,000万円	4,800万円	3,000万円	1,800万円	1,200万円
第37回(1992年)	2億4,800万円	1億3,000万円	5,200万円	3,300万円	2,000万円	1,300万円
第38回(1993年)
第39回(1994年)
第40回(1995年)	2億5,120万円	1億3,200万円	5,300万円	1,320万円
第41回(1996年)
第42回(1997年)
第43回(1998年)
第44回(1999年)
第45回(2000年)	3億4,200万円	1億8,000万円	7,200万円	4,500万円	2,700万円	1,800万円
第46回(2001年)
第47回(2002年)
第48回(2003年)
第49回(2004年)
第50回(2005年)
第51回(2006年)
第52回(2007年)
第53回(2008年)
第54回(2009年)
第55回(2010年)
第56回(2011年)	3億8,000万円	2億円	8,000万円	5,000万円	3,000万円	2,000万円
第57回(2012年)

有馬記念は、ドリームレース
夢のあるレースを目標に創設されたことや出走メンバーの豪華さから、ドリームレースとも言われる。中央競馬の1年間を締めくくる総決算としてその異名にふさわしい中央競馬の歴史に残る数々の名勝負や名場面を生んでおり、この日は競馬ファンならずとも競馬で盛り上がる1日となる。1996年の第41回で記録した売上金額の875億円は世界で最も勝馬投票券の売上のある競走としてギネス・ワールド・レコーズに認定・登録されている。
ただし有馬記念を最大目標としない陣営もあり、秋のGIシリーズ(菊花賞、天皇賞(秋)、ジャパンカップ等)に最大目標を定め何回かレースに出走してくる馬が少なくないのが特徴である[10]。中にはジャパンカップからのレース間隔が短く疲労が抜けきりにくいため凡走や怪我などを警戒して出走を回避をする陣営や、小回りで直線の短い中山競馬場を嫌って同競走を回避する陣営が近年増えつつある[11]。かつてはそれとは逆に天皇賞(秋)やジャパンカップを回避して有馬記念に照準を絞る馬も多かったが、近年は少なくなってきている(有馬記念に照準を絞る場合はジャパンカップを回避することが多かった)。さらに、同時期に香港で開催される香港国際競走に出走する馬もいる。

有馬記念 施行コースと特徴
中山競馬場の芝2500mで外回りコースの第3コーナーから発走。このコースは最初の第4コーナーまでが192mと短く、外枠からスタートする馬は距離をロスしやすく内枠からスタートする馬も距離のロスを避けようと内側に殺到してくる他馬により進路を塞がれる不利を受けやすいため[要出典]出走可能頭数は他のGIと比較して2頭少ない16頭[12]で行われるが、問題が完全に解消しているわけではない[13]。このため[要出典]大川慶次郎は、東京競馬場での施行を生前に主張していた[14]。
また中山競馬場は最後の直線が310mと短いため(こちらも頭数が少ないために影響は軽減しているが)、東京競馬場のような広いコースとは異なり後半の追い上げを得意としている馬は内を通って前が詰まるリスクかコーナーを大きく回って距離をロスするリスクかを背負わねばならず、ジャパンカップで好走した馬が疲労も相まって力を出し切れないことなどもある。
その一方で、人気薄の逃げ馬や2000m以下しか好走実績がない馬が出足の良さや器用さを活かして上位に食い込んできたり不振に陥っていた馬が名騎手に導かれて突然復活する[15]こともあるレースでもある。その理由としてスタート直後のコーナーを回ったところに正面スタンドがあることで大歓声があがり、ここで馬が行きたがる傾向があるからであり、そこでの騎手との折り合いがポイントとなるからである。[要出典]

有馬記念 特別褒賞金
2000年から天皇賞(秋)、ジャパンカップとこのレースの秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は1億円の特別褒賞金(後に内国産馬には2億円、外国産馬には1億円に変更)を交付する制度が取り入れられ[16]出走が促されることとなり、その年のテイエムオペラオーが早速それを達成して褒賞金を獲得した。そして、2004年にゼンノロブロイが第2号の獲得馬になった。
また、2010年からは中央競馬所属馬で当該年のJRA・海外のGI競走優勝馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に限り1着から順に3000万円、2000万円、1000万円の褒賞金を交付するようになり[17]2011年からは天皇賞(秋)とジャパンカップいずれかで3着以内に入着した馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に、最大5000万円の褒賞金が交付されるようになる[17][18]。ただし、秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は既存の報奨金(2億円または1億円)のみとなりこの報奨金は与えられない。

有馬記念 歴史
1956年 - 中山競馬場の芝2600m(内回り)の4歳(現3歳)以上の馬齢重量の重賞競走「中山グランプリ」として創設(創設当初の負担重量は4歳(現3歳)が牡馬・騸馬54kg・牝馬52kg、5歳(現4歳)以上が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kg)。
1957年
名称を「有馬記念」に変更。
6歳(現5歳)以上の負担重量が4歳(現3歳)と同じく牡馬・騸馬54kg・牝馬52kgに変更。
1959年
この年の9月1日から日本競馬の時計表示が変更になったのに伴い、時計が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。
ガーネツトが牝馬として初の優勝。
1960年 - 芝2600m(外回り)に変更[19]。
1960年 - 高松三太が騎手として初の連覇を果たす。
1965年
5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgにそれぞれ変更。
シンザンが優勝し五冠達成。
1966年 - 馬場改修に伴い施行コースを芝2500m(内回り)に変更。
1970年 - スピードシンボリが史上初の連覇。
1971年
混合競走に指定。
馬流感騒動の影響で、馬流感に罹患したメジロアサマ、アカネテンリュウ、カミタカの3頭が出走を取り消し、出走頭数が6頭のみの競走となる(有馬記念史上出走馬最少記録)。
1977年 - テンポイントとトウショウボーイのマッチレース、テンポイントが優勝。
1980年 - 4歳(現3歳)の負担斤量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgに、5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgにそれぞれ変更。
1984年
グレード制施行によりGI競走に格付け。
この年より1987年まで、当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走は第10競走で施行された。
1985年
シンボリルドルフが史上2頭目の連覇およびび七冠を達成。史上初のJRA・GI競走7勝を達成。
同年に限り当時ジャパンカップのみの採用であった馬名入りゼッケンの試験的な使用を行う(この結果1987年秋競馬より馬名入りゼッケンの他競走への拡大を実施)。
1987年 - メリーナイスがスタート直後に落馬。1番人気サクラスターオーが最後の直線手前で故障発生、競走中止。
1988年
オグリキャップが当競走で引退と決まっていたタマモクロスとの「昭和最後の芦毛対決」を制する(タマモクロスは2着)。
3位入線のスーパークリークが進路妨害により失格。
この年より2007年まで、当日の中山競馬場が全10競走制となり、当競走は第9競走で施行された。
1989年 - 1着賞金総額が1億円台となる。
1990年 - 当競走での引退を表明していたオグリキャップが1988年に次ぐ2度目の優勝を果たし、レース後場内が「オグリ」コールに包まれる。
1993年 - トウカイテイオーが約1年ぶりの出走で優勝、奇跡の復活を果たす。
1995年 - 指定交流競走に指定され、地方所属馬にも門戸が開放される。
1996年 - 単独競走としての勝馬投票券の売上げ世界レコード875億104万2400円を記録。
1999年 - グラスワンダーが史上3頭目の連覇。
2000年
秋の古馬GI報奨金制度の第3戦に指定。
テイエムオペラオーが優勝、JRA古馬中長距離GI競走[20]完全制覇を達成。
2001年
馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上」から「3歳以上」に変更。
負担重量を「馬齢重量」から「定重量」に変更。
5歳以上の負担重量が4歳と同じく牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに変更。
敬宮愛子内親王御誕生慶祝の副称が当年のみにつく。
2003年 - シンボリクリスエスが史上4頭目の連覇。
2004年
オリビエ・ペリエが騎手として史上初の3連覇。
藤沢和雄が調教師として史上初の3連覇。
2006年
この競走で引退が決まっていたディープインパクトが優勝、史上3頭目のJRA・GI競走7勝を達成。
大相撲の第68代横綱朝青龍明徳が表彰式プレゼンターを務めた。
2007年 - 混合競走から国際競走に変更され、外国調教馬は6頭まで出走可能となる。
2008年
当年のみ、JRAプレミアムレースの対象レースとなる(同日に開催される中央競馬の全競馬場の全特別競走もJRAプレミアムの対象レースとなっている)。
この年より当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走の競走番号が再び第10競走に設定。
ダイワスカーレットがトウメイ以来37年ぶりの牝馬として優勝。
2009年
ウオッカが史上初の3年連続ファン投票1位を獲得したがジャパンカップ競走中に鼻出血を発症したため、日本中央競馬会競馬番組一般事項第2章のその11「痼疾馬の出走制限」の規定(1ヶ月出走停止)により出走できなかった。
史上初めて、4歳馬の出走がなかった。
コスモバルクが新記録となる「6年連続出走」を達成。
この年の菊花賞優勝馬であるスリーロールスが競走中止し、引退に追い込まれる。
2010年
当該年度のGI優勝馬が3着以内に入ることを条件に褒賞金が設定される。
大相撲の第69代横綱白鵬翔が表彰式プレゼンターを務めた[21]。朝青龍に次ぐ現役横綱の競馬場来場となった。
1着から3着まで、同競走史上初めて外国人騎手の騎乗馬が占めた。
2011年 - 褒賞金の対象を天皇賞(秋)とジャパンカップの1~3着馬にも拡大。

有馬記念 歴代優勝馬
国際競走となった2007年以降は優勝馬の国旗を表記する。性齢の年齢は現在の満年齢表記で表す。
回数	施行日	調教国・優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第1回	1956年12月23日	メイヂヒカリ	牡4	2:43 1/5	蛯名武五郎	藤本冨良	新田松江
第2回	1957年12月22日	ハクチカラ	牡4	2:49 0/5	保田隆芳	尾形藤吉	西博
第3回	1958年12月21日	オンワードゼア	牡4	2:49 1/5	八木沢勝美	二本柳俊夫	樫山純三
第4回	1959年12月20日	ガーネツト	牝4	2:50.9	伊藤竹男	稗田敏男	畑江五郎
第5回	1960年12月18日	スターロツチ	牝3	2:44.5	高松三太	松山吉三郎	藤井金次郎
第6回	1961年12月24日	ホマレボシ	牡4	2:40.8	高松三太	稗田敏男	川口文子
第7回	1962年12月23日	オンスロート	牡5	2:44.4	山岡忞	中村広	田村喜志
第8回	1963年12月22日	リユウフオーレル	牡4	2:42.5	宮本悳	橋本正晴	三好笑子
第9回	1964年12月27日	ヤマトキヨウダイ	牡4	2:45.1	梶与四松	稲葉幸夫	門井みち
第10回	1965年12月26日	シンザン	牡4	2:47.2	松本善登	武田文吾	橋元幸吉
第11回	1966年12月25日	コレヒデ	牡4	2:37.0	保田隆芳	尾形藤吉	千明康
第12回	1967年12月24日	カブトシロー	牡5	2:39.7	大崎昭一	久保田彦之	(有)志賀
第13回	1968年12月22日	リュウズキ	牡4	2:46.2	森安弘明	矢倉玉男	福井章哉
第14回	1969年12月21日	スピードシンボリ	牡6	2:35.1	野平祐二	野平省三	和田共弘
第15回	1970年12月20日	スピードシンボリ	牡7	2:35.7	野平祐二	野平省三	和田共弘
第16回	1971年12月19日	トウメイ	牝5	2:36.0	清水英次	坂田正行	近藤克夫
第17回	1972年12月17日	イシノヒカル	牡3	2:38.5	増沢末夫	浅野武志	石嶋清仁
第18回	1973年12月16日	ストロングエイト	牡4	2:36.4	中島啓之	奥平真治	ハイランド牧場
第19回	1974年12月15日	タニノチカラ	牡5	2:35.9	田島日出雄	島崎宏	谷水雄三
第20回	1975年12月14日	イシノアラシ	牡3	2:38.1	加賀武見	浅野武志	石嶋清仁
第21回	1976年12月19日	トウショウボーイ	牡3	2:34.0	武邦彦	保田隆芳	トウショウ産業(株)
第22回	1977年12月18日	テンポイント	牡4	2:35.4	鹿戸明	小川佐助	高田久成
第23回	1978年12月17日	カネミノブ	牡4	2:33.4	加賀武見	阿部新生	角替光二
第24回	1979年12月16日	グリーングラス	牡6	2:35.4	大崎昭一	中野隆良	半沢吉四郎
第25回	1980年12月21日	ホウヨウボーイ	牡5	2:33.7	加藤和宏	二本柳俊夫	古川嘉治
第26回	1981年12月20日	アンバーシャダイ	牡4	2:35.5	東信二	二本柳俊夫	吉田善哉
第27回	1982年12月26日	ヒカリデユール	牡5	2:36.7	河内洋	須貝彦三	橋本善吉
第28回	1983年12月25日	リードホーユー	牡3	2:34.0	田原成貴	服部正利	熊本芳雄
第29回	1984年12月23日	シンボリルドルフ	牡3	2:32.8	岡部幸雄	野平祐二	和田農林(有)
第30回	1985年12月22日	シンボリルドルフ	牡4	2:33.1	岡部幸雄	野平祐二	和田農林(有)
第31回	1986年12月21日	ダイナガリバー	牡3	2:34.0	増沢末夫	松山吉三郎	(有)社台レースホース
第32回	1987年12月27日	メジロデュレン	牡4	2:33.9	村本善之	池江泰郎	メジロ商事(株)
第33回	1988年12月25日	オグリキャップ	牡3	2:33.9	岡部幸雄	瀬戸口勉	佐橋五十雄
第34回	1989年12月24日	イナリワン	牡5	2:31.7	柴田政人	鈴木清	保手浜弘規
第35回	1990年12月23日	オグリキャップ	牡5	2:34.2	武豊	瀬戸口勉	近藤俊典
第36回	1991年12月22日	ダイユウサク	牡6	2:30.6	熊沢重文	内藤繁春	橋元幸平
第37回	1992年12月27日	メジロパーマー	牡5	2:33.5	山田泰誠	大久保正陽	(有)メジロ牧場
第38回	1993年12月26日	トウカイテイオー	牡5	2:30.9	田原成貴	松元省一	内村正則
第39回	1994年12月25日	ナリタブライアン	牡3	2:32.2	南井克巳	大久保正陽	山路秀則
第40回	1995年12月24日	マヤノトップガン	牡3	2:33.6	田原成貴	坂口正大	田所祐
第41回	1996年12月22日	サクラローレル	牡5	2:33.8	横山典弘	境勝太郎	(株)さくらコマース
第42回	1997年12月21日	シルクジャスティス	牡3	2:34.8	藤田伸二	大久保正陽	有限会社シルク
第43回	1998年12月27日	グラスワンダー	牡3	2:32.1	的場均	尾形充弘	半沢(有)
第44回	1999年12月26日	グラスワンダー	牡4	2:37.2	的場均	尾形充弘	半沢(有)
第45回	2000年12月24日	テイエムオペラオー	牡4	2:34.1	和田竜二	岩元市三	竹園正繼
第46回	2001年12月23日	マンハッタンカフェ	牡3	2:33.1	蛯名正義	小島太	西川清
第47回	2002年12月22日	シンボリクリスエス	牡3	2:32.6	O.ペリエ	藤沢和雄	シンボリ牧場
第48回	2003年12月28日	シンボリクリスエス	牡4	2:30.5	O.ペリエ	藤沢和雄	シンボリ牧場
第49回	2004年12月26日	ゼンノロブロイ	牡4	2:29.5	O.ペリエ	藤沢和雄	大迫忍
第50回	2005年12月25日	ハーツクライ	牡4	2:31.9	C.ルメール	橋口弘次郎	(有)社台レースホース
第51回	2006年12月24日	ディープインパクト	牡4	2:31.9	武豊	池江泰郎	金子真人ホールディングス(株)
第52回	2007年12月23日	マツリダゴッホ	牡4	2:33.6	蛯名正義	国枝栄	高橋文枝
第53回	2008年12月28日	ダイワスカーレット	牝4	2:31.5	安藤勝己	松田国英	大城敬三
第54回	2009年12月27日	ドリームジャーニー	牡5	2:30.0	池添謙一	池江泰寿	(有)サンデーレーシング
第55回	2010年12月26日	ヴィクトワールピサ	牡3	2:32.6	M.デムーロ	角居勝彦	市川義美

有馬記念の記録
レースレコード - 2:29.5(第49回優勝馬ゼンノロブロイ)
2着との最大着差 - 9馬身(第48回優勝馬シンボリクリスエス)
2着との最小着差 - 2cm (第55回優勝馬ヴィクトワールピサ - 2着ブエナビスタ)
最多優勝騎手 - 3勝 岡部幸雄(第29、30、33回) 田原成貴(第28、38、40回) オリビエ・ペリエ(第47~49回)
連続優勝騎手 - オリビエ・ペリエ 3連覇(第47~49回)
最多勝調教師 - 3勝 二本柳俊夫(第3、25、26回) 大久保正陽(第37、39、42回) 藤沢和雄(第47~49回 3連覇)
最多連続出走 - 6年連続 コスモバルク(第49~54回)

有馬記念 史上初あれこれ
牝馬 - ガーネツト(第4回)
3歳(旧4歳)馬 - スターロツチ(第5回)
3歳(旧4歳)牡馬 - イシノヒカル(第17回)
6歳(旧7歳)以上馬 - スピードシンボリ(第14回)
青毛馬 - リュウズキ(第13回)
芦毛馬 - オグリキャップ(第33回)
父内国産馬 - メイヂヒカリ(第1回)
父(本邦調教)外国産馬 - リュウズキ(第13回)
関西馬 - リユウフオーレル(第8回)
公営出身馬 - オンスロート(第7回)
持込馬 - サクラローレル(第41回)
外国産馬 - グラスワンダー(第43回)
サラ系馬 - ヒカリデユール(第27回)
父子制覇 - 父:シンボリルドルフ(第29回・第30回)、子:トウカイテイオー(第38回)
連覇 - スピードシンボリ(第14回・第15回)
年数を空けて2勝以上 - オグリキャップ(第33回・第35回)
重賞初制覇が有馬記念 - ストロングエイト(第18回)
父子騎手による制覇 - 父:武邦彦(第21回 トウショウボーイ)、子:武豊(第35回 オグリキャップ)
父子調教師による制覇 - 父:池江泰郎(第32回 メジロデュレン、第51回 ディープインパクト)、子:池江泰寿(第54回 ドリームジャーニー)
外国人騎手による制覇 - オリビエ・ペリエ(第47回)
牡馬・牝馬の両方で制覇した騎手 - 高松三太(第5回 スターロツチ・第6回 ホマレボシ)
牡馬・牝馬の両方で制覇した調教師 - 稗田敏男(第4回 ガーネツト・第6回 ホマレボシ)
騎手・調教師の両方で制覇 - 保田隆芳(騎手:第2回 ハクチカラ、調教師:第21回 トウショウボーイ)

有馬記念 特記事項
概要にも記されているとおりファン投票による出走馬の選定を行うことは新しい試みであったが、レースの名称もファン投票によって選定しようとしたことも非常に画期的であった。当初、競馬会は「中山グランプリ」という名称にしようとしていたが当時「グランプリ」という名称は映画に関係する言葉として使われていたくらいでまだ広く馴染んではいなかった。そこで、ファン投票用紙に出走させたい競走馬と同時に競走名を募った。その結果、一番多かった「中山大賞典」を始め17もの名称が集まった(競馬会が提唱していた「中山グランプリ(を可とする)」は第2位だった)。しかしどの名称も名提案とまではいかなかったため、第1回はそのまま「中山グランプリ」で行われた。
有馬記念の競走名により有馬温泉のある兵庫県の阪神競馬場で開催されていると勘違いされたり、特に関西在住の競馬初心者に「なぜ有馬温泉に近い阪神競馬場で行われないのか」という声が聞かれる[22]。正しい由来は概要に記されているとおり有馬頼寧の功績を称えて命名されたものであって、レース名と有馬温泉とに直接の関係はない。ただし、有馬の先祖は室町時代に有馬温泉の周辺を治めていた地頭の摂津有馬氏である。
有馬記念開催50周年を記念し、2005年にロゴマークの一般公募を行った。その結果、京都市在住の男性が制作した有馬(Arima)の"A"をモチーフに金色の天馬の羽根と16個(有馬記念の最大出走可能頭数)の星(ファン投票で選ばれたスターホースの意味)をあしらったデザインが採用された。競走当日はグリーンチャンネルや全国の競馬場、ウインズで放送されるレースの映像にもこのマークが登場した(通常は中山のマスコットキャラクターである「ナッキー」)。2006年では使用されていなかったが、2007年以降では使用されている。
12月25日に本競走が開催される時には「クリスマスグランプリ」と言われる。2005年で50周年を迎えた本競走で、このクリスマスの日に本競走が開催されたのは過去5度。1966年の第11回が初開催。それ以降は1983年の第28回、1988年の第33回、1994年の第39回、そして2005年の第50回と施行されている。次回は2011年の第56回で施行の予定。
2001年以降、主要なGI競走開催日において行われてきた入場券完全前売制による入場規制は行われなくなったが2005年の第50回では無敗の三冠馬として社会的な人気現象を引き起こしたディープインパクトが出走を表明し来場者の殺到が予測されたことから6年ぶりに入場券は完全前売制となり、当日発売は行われなかった。前売り券は約19万枚発売され完売した。その日、中山競馬場に訪れたのは約16万人であった。しかし、その16万人の注目の的であるディープインパクトは2着に敗れた。なお、これはディープインパクトの国内で唯一の敗北である。
本競走の開催日は混雑などの混乱を避けるため2007年までは全10競走で行われて、本競走は第9競走であった(発走時刻15:25と早い。なお通常GIが行われる競馬場のレースが15時半以後に行われるが、12月開催のメインレース発走時刻は日没時刻の関係でジャパンカップダート(2008年から)及び阪神ジュベナイルフィリーズが阪神競馬場にて開催される日を除き関東は全日15:25で順序も東京or中山→第3場→京都or阪神である。ちなみに、ジャパンカップダート(2007年まで)及びジャパンカップの発走時刻は15:20である。したがって通常の日程と勘違いして勝馬投票券を購入してしまう者もたびたびみられる[23]。ただし2007年までの有馬記念開催日の中山競馬場では「中山競馬第11競走」は存在せず、誤って第11競走の馬券を購入しようとしても発券機にマークカードを挿入したところでエラーが発生してしまうのでこのことによる購入ミスは起きなかった。1984年から1987年までと2008年からは全11競走中の第10競走で行われる。なお、中山競馬場の発走時刻及び発走間隔が通常開催日と異なっている。
本競走当日は、阪神競馬場と中京競馬場も有馬記念効果で混雑する(危険防止のための退場規制も行われる。現在の有馬記念当日の中京競馬場の入場人員は、高松宮記念当日のそれを上回ることが多い)。また、指定席も早朝で売り切れる。名鉄では高松宮記念及び有馬記念当日に限り、夕方時間帯の一部で中京競馬場前駅に特急電車の臨時停車を行うなど鉄道業界も動かす。例年競馬が行われない東京競馬場も混雑し、通常競馬開催日にしか行わない京王線準特急の東府中駅臨時停車が行われる。
中央競馬における「1年終わりの競走」として親しまれる有馬記念であるが、厳密にはJRAでのその年最後の競馬ではない。2009年の場合は中山競馬場の当日最終競走(第11競走、16:05発走)は「ハッピーエンドカップ」という条件競走であり、直後に中京競馬場の最終第12競走である「尾張(おわり)ステークス」(16:10発走。2005年までは「尾張特別」)というオープン特別競走が行われ、さらにその直後に阪神競馬場で行われる第12競走「ファイナルステークス」(16:20発走)がJRAの年間最後の競馬競走となる。
なお、1979年までは必ずしもその年の中央競馬最終開催日に固定して開催されていなかった(最終開催日には中山大障害やアラブの重賞が開催されたことがある)。
2010年は中京競馬場の改修工事により第三場開催は小倉競馬場で行われ、これまでJRA年間最終競走であったファイナルステークスは発走時刻はそのままだが「年間最終競走」でなくなり代わりに小倉競馬場で行われる第12競走「アンコールステークス」(16:35発走)というオープン競走が2010年のJRA最終競走となった。なお「ハッピーエンドカップ」はJRAプレミアム競走として「ハッピーエンドプレミアム(オグリキャップメモリアル)」として施行された[24]。
2011年も同様の施行時刻割となる予定[25]。
2012年は有馬記念開催日の翌日(12月24日)にも中央競馬の開催が行われる(予定)ことがJRAから発表されている[26]。これは当日が休日にあたるためで3日間開催を実施し、阪神競馬場では年間最終の重賞競走として阪神カップ(GII)が行われる予定である。
通常、GI当日のメインレースと最終レースとの間は40分確保されているが(それでも記念写真撮影、表彰式、勝利騎手インタビューなどのセレモニーが長引いて最終レースの発走時刻が5分ほど遅れることが多い)、朝日杯フューチュリティステークスと有馬記念の2つのGIレースだけは35分と短い。そのため、ハッピーエンドカップの発走時刻が毎年のように遅れる。ただし2008年からはハッピーエンドカップの発走時刻を16:05に設定し、有馬記念との間隔を40分に拡大したが、それでも遅れが発生することがある。
1988年から1995年までの8年間、有馬記念の前座競走として第7競走にファン投票によって選抜された騎手が出場できるジョッキーズグランプリが施行されていた。ファン投票は、有馬記念の出走馬投票とともに同じ投票用紙(はがき)を使って行われた。
有馬記念を中継するフジテレビはこのレースを競馬中継の中で最高のレースに位置付けており、それに相応しいアナウンサーが実況するという観点から部長級の管理職のアナウンサーが代々実況を務めており、現在の三宅正治で6代目となる。またこのレースを実況するアナウンサーはその他のレースは実況しないという慣例があり、三宅も初めて担当した2005年こそジャパンカップの実況を担当したが、翌2006年からは慣例に倣いその他のレースの実況からは退いた。ただ、すぽると!司会を勇退した2011年では一部の重賞を含む一般メイン競争の実況を数回担当はしていた。

有馬記念フェスティバル

中央競馬のその年の締めくくりを飾るオールスター戦・有馬記念競走の気運を盛り上げようと、1981年から毎年開かれている日本中央競馬会主催の公開イベントである。
毎年有馬記念開催週の月曜日に東京都内の会場で開かれるこのイベントではその年の有馬記念に出走が予定されている有力馬の騎手・関係者をゲストに招いてレースへの意気込みを語るトークイベント、また騎手と競馬愛好家のタレントらを交えたクイズ・ゲーム大会やタレント・競馬マスコミ関係者総出演によるレース展望会が実施されている。2004年は元JRA職員で現在プロ格闘家として活躍する小川直也がゲストとして招かれた。2005年はダービーフェスティバル同様、主催者側の都合で行われなかった。
また各地でも有馬記念ウィークを中心にした関連のイベントが開かれており新潟市において「有馬記念フェスティバル(西暦年数)」が新潟競馬場・新潟放送の共催で毎年行われ、その模様は新潟放送(ローカル)とグリーンチャンネルで放送される。2005年は大雪に伴う施設の停電のため開催されず、スタジオでレース展望を収録し放送した。なお、現在イベントの形で残っている有馬記念フェスティバルはこの新潟で行われているものだけである。

有馬記念 脚注
^ 八大競走の中では最も出走条件が緩やかで、クラシックに出走できない騸馬でも出走が可能である。
^ http://www.jra.go.jp/keiba/calender/program/pdf/22naka5.pdf
^ 他に推薦委員会による推薦馬の選出があったが、形骸化したため1995年を最後に廃止された。
^ 日本の公営競技において、初めてファン投票による競走対象の選定を行ったのは競輪(オールスター競輪)である。
^ 日本ダービーも基本的に開催場変更を行わないレースだが最初の2回は目黒競馬場で施行され、競馬場移転に伴い第3回から現在まで東京競馬場で行われるようになった。
^ 12月28日が土曜日=即ち翌29日が日曜となる場合は従来どおり29日ではなく22日開催。
^ なお上位第10位までで出走の意思がない場合、その分を11位以下の馬が繰り上げで出走できる権利がある。
^ 中央にアラブのレースがあった時代にはアングロアラブの出走も可能であり、「アラブの怪物」の異名を持つセイユウがファン投票による権利を持っていたもののアラブの読売カップ(秋)連覇を優先し出走を辞退している。
^ バルク 有馬“影の人気1位”(スポーツニッポン、2004年12月17日) - ウェイバックマシン (2005年1月22日アーカイブ分)
^ 柏木集保はコンサートなどのアンコールに例えている[要出典]。
^ ジャングルポケット、アドマイヤムーン、ウオッカ、ディープスカイなど。
^ 中山競馬場で出走可能頭数が18頭設定可能なコースは芝内回り2000m(A、Bコース指定時)、芝外回り2200m(A、Bコース指定時)のみ。したがって、中山競馬場で施行されるGIは皐月賞(と代替開催で行われた天皇賞(秋)・ジャパンカップ)を除いてフルゲート16頭で行われる。
^ 1984年のグレード制施行後に15頭以上で行われたこのレースにおいて8枠スタートで2着以内に入ったのは、1989年に馬群に包まれるのを嫌った最内枠で1番人気のオグリキャップが先行して他馬がマークするハイペースで進む展開で最後に馬群の中をすり抜けて追い込んだ15番枠のイナリワンただ1頭である。16番枠スタートからの優勝馬・2着馬はまだいない。
^ ケイバブックは、最初のコーナーまでの距離が長い2000mか2200mでの施行を提案している。
^ 不振を極めていた1990年のオグリキャップと武豊、一年ぶりのレースを制した1993年のトウカイテイオーと田原成貴など
^ 同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧
^ a b 有馬記念競走における褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧
^ 具体例を挙げると2010年の本競走を優勝したヴィクトワールピサはこの年の皐月賞を優勝しているため3000万円、2着のブエナビスタは天皇賞・秋を優勝しているため2000万円の褒賞金が交付される。3着のトゥザグローリーはこの年のGIを優勝していないため褒賞金は交付されない。
^ この距離は現在でも設定されているものの、この距離でのレースは開催されていない。また、現在の中山競馬場の芝外回り2600mとは違うコースであった。
^ 天皇賞(春・秋)、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念
^ 横綱 白鵬関が有馬記念(GI)当日に来場! - JRA公式サイト 2010年12月13日閲覧
^ 週刊競馬ブックの投書欄、および同2008年12月21日号の乗峯栄一のコラム「理想と妄想」他多数。
^ テレビの競馬中継でもその旨の注意喚起が行われている
^ 平成22年度秋季競馬番組の概要について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧
^ 2011年12月25日(日) 競馬番組 - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧
^ 2012年度開催日割および重賞競走について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス

開催地	阪神競馬場
施行日	2011年12月24日
施行時期	12月下旬
(原則5回阪神7日目)
格付け	GIII
1着賞金	3200万円
賞金総額	6100万円
距離	芝2000m
出走条件	サラブレッド系2歳(国際)(特指)
出走資格も参照
負担重量	馬齢(55kg、牝馬54kg)
第1回施行日	1984年12月9日

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス(ラジオにっけいはい2さいステークス)は、阪神競馬場の芝2000mで行われる中央競馬の重賞競走(GIII)。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 概要
1984年のグレード制導入時に2歳(当時の馬齢表記では3歳なので競走名には3歳とつく)牡馬路線と牝馬路線の差別化のために関西地区の2歳牝馬限定マイル重賞、ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークスとして、関東地区のテレビ東京賞3歳牝馬ステークス(現・フェアリーステークス)と共に開設。牝馬限定戦時代には1990年優勝馬イソノルーブルが翌年のオークスを制している。
1991年に関西地区の2歳GIとして定着していた阪神3歳ステークスが2歳牝馬限定GIの阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)に変更されると、舞台を芝2000mに移すと共に牡馬・騸馬の競走になる、名称もラジオたんぱ杯3歳ステークスに変更された。1993年からは混合競走に指定され、外国馬の出走が可能になり、1996年より特別指定交流競走として地方馬にも出走資格が与えられた。

また、2000年からは牝馬も出走可能な競走に変更されている。2010年からは国際競走となり、外国調教馬の出走も可能になった。
朝日杯フューチュリティステークスに間に合わなかった馬、あるいは翌年のクラシック路線へ向けて長めの距離の競走を使って行きたい馬や賞金を加算したい馬が多く出走するようになり、特に2000年は翌年の皐月賞を制するアグネスタキオン、東京優駿・ジャパンカップを制し年度代表馬となるジャングルポケット、NHKマイルカップ・ジャパンカップダートを制するクロフネの3頭で決着する非常にレベルの高いレースとなった。ほかにも優勝馬からはナリタタイシン、タヤスツヨシ、アドマイヤベガ、ザッツザプレンティ、ロジユニヴァース、ヴィクトワールピサなど多数のクラシックホースを生み出し、当競走と比較して距離が短く、枠順の不利が多い朝日杯フューチュリティステークスを回避しこの競走に出走する馬が増えるなど、朝日杯フューチュリティステークス優勝馬をしのぐ水準になることも多く、翌年のクラシック競走を占う重要なレースとして定着している。
この競走の優勝杯を寄贈している日本短波放送は2003年10月1日に社名を日経ラジオ社に変更し、翌2004年4月1日には局名をラジオたんぱからラジオNIKKEIに改称したが、2004年、2005年の競走名は旧局名のままであった。2006年よりラジオNIKKEI杯2歳ステークスに変更された(ラジオNIKKEI賞も同様)。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 出走資格
サラ系2歳のJRA所属の競走馬(外国産馬含む)、JRAに認定された地方所属の競走馬(3頭まで)、および外国調教馬(8頭まで)。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 負担重量
馬齢重量で牡馬・せん馬は55kg、牝馬は54kgである。
第1回から第17回までは牡馬・せん馬は54kg、第7回より出走可能になった牝馬は53kgで施行されていた。
第18回と第19回は定量となり牡馬・せん馬は55kg、牝馬は54kgに変更。第20回より負担重量は変更されず、馬齢重量に戻り現在に至る。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 賞金
第1回からの賞金は以下の通り。2012年にJRAのGIを除く大半の競走で賞金が減額されるが、当競走に関しては減額が行われなかった(GIII競走で減額が行われなかったのは本競走と東京スポーツ杯2歳ステークスのみ)。
回(施行年)	総額賞金	1着	2着	3着	4着	5着
第1回(1984年)	4,380万円	2,300万円	920万円	580万円	350万円	230万円
第2回(1985年)
第3回(1986年)
第4回(1987年)	4,560万円	2,400万円	960万円	600万円	360万円	240万円
第5回(1988年)	4,900万円	2,600万円	1,000万円	650万円	390万円	260万円
第6回(1989年)	5,300万円	2,800万円	1,100万円	700万円	420万円	280万円
第7回(1990年)	5,560万円	2,900万円	1,200万円	730万円	440万円	290万円
第8回(1991年)	5,700万円	3,000万円	750万円	450万円	300万円
第9回(1992年)	6,100万円	3,200万円	1,300万円	800万円	480万円	320万円
第10回(1993年)
第11回(1994年)
第12回(1995年)
第13回(1996年)
第14回(1997年)
第15回(1998年)
第16回(1999年)
第17回(2000年)
第18回(2001年)
第19回(2002年)
第20回(2003年)
第21回(2004年)
第22回(2005年)
第23回(2006年)
第24回(2007年)
第25回(2008年)
第26回(2009年)
第27回(2010年)
第28回(2011年)
第29回(2012年)

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 歴史

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 3歳(現2歳)牝馬限定競走時代
1984年 - 阪神競馬場の芝1600mの3歳(現2歳)牝馬限定の馬齢重量の重賞(GIII)競走「ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス」として創設(創設当初の負担斤量は53kg)。
1990年
阪神競馬場の改修工事により、京都競馬場の芝外回り1600mで施行。
施行日が現在の有馬記念前日(土曜日)に変更される。(年間を通して関西圏で最後の重賞ともなる)

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 3歳(現2歳)混合競走時代
1991年
出走条件を「3歳(現2歳)牝馬」から「3歳(現2歳)牡馬・騸馬」に変更。それに伴い、名称も「ラジオたんぱ杯3歳ステークス」に変更(牡馬・騸馬の負担斤量は54kgに設定)。
施行距離を現在の芝2000mに変更。
1993年 - 混合競走に指定。
1996年 - 中央競馬特別指定交流競走に指定され、地方馬は2頭まで出走可能となる。
2000年 - 出走条件を「3歳(現2歳)牡馬・騸馬」から「3歳(現2歳)」に変更(牝馬の負担斤量は創設当初と変わらず)。
2001年
馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「3歳」から「2歳」に変更。それに伴い、名称も「ラジオたんぱ杯2歳ステークス」に変更。
負担重量を定量に変更。
負担斤量が牡馬・騸馬54kg、牝馬53kgから牡馬・騸馬55kg、牝馬54kgに変更。
2002年 - 地方馬の出走枠が3頭に拡大。
2003年
負担重量を馬齢に戻す。
地方ホッカイドウ所属のコスモバルクが地方所属馬として史上初の優勝。
2006年
名称を現在の「ラジオNIKKEI杯2歳ステークス」に変更。
安藤勝己が騎手として史上初の連覇。
2007年 - 国際セリ名簿基準委員会(ICSC)の勧告により、重賞格付け表記をJpnIIIに変更。
2010年
国際競走に指定され、外国調教馬は8頭まで出走可能となる。このため重賞格付け表記をGIIIに戻す。
武豊が騎手として史上2人目の連覇。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 歴代優勝馬
ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス(芝1600m)
回数	年月日	優勝馬	勝時計	騎手	管理調教師	馬主
第1回	1984年12月9日	ニホンピロビッキー	1:35.9	河内洋	田中耕太郎	小林百太郎
第2回	1985年12月8日	ダイナカンパリー	1:37.1	樋口弘	浜田光正	(有)社台レースホース
第3回	1986年12月7日	ドウカンジョー	1:35.5	田島信行	池江泰郎	新井興業(株)
第4回	1987年12月13日	プリンセススキー	1:36.6	田島良保	田中耕太郎	奥村清晴
第5回	1988年12月11日	タニノターゲット	1:36.1	小島貞博	戸山為夫	谷水雄三
第6回	1989年12月10日	レガシーワイス	1:35.8	武豊	坂口正大	(株)ホースタジマ
第7回	1990年12月22日	イソノルーブル	1:35.0	五十嵐忠男	清水久雄	磯野俊雄

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス(芝2000m)
2000年度まではラジオたんぱ杯3歳ステークス、2001~2005年度はラジオたんぱ杯2歳ステークスとして施行
1999年度まで牡馬・騸馬限定、2000年度より牝馬も出走可能
回数	年月日	優勝馬	勝時計	騎手	管理調教師	馬主
第8回	1991年12月21日	ノーザンコンダクト	2:05.9	藤田伸二	伊藤修司	(有)社台レースホース
第9回	1992年12月26日	ナリタタイシン	2:05.8	清水英次	大久保正陽	山路秀則
第10回	1993年12月25日	ナムラコクオー	2:05.7	上村洋行	野村彰彦	奈村信重
第11回	1994年12月24日	タヤスツヨシ	2:03.4	小島貞博	鶴留明雄	横瀬寛一
第12回	1995年12月23日	ロイヤルタッチ	2:02.7	O.ペリエ	伊藤雄二	大田美實
第13回	1996年12月21日	メジロブライト	2:03.1	松永幹夫	浅見国一	(有)メジロ牧場
第14回	1997年12月20日	ロードアックス	2:03.8	岡部幸雄	藤沢和雄	(株)ロードホースクラブ
第15回	1998年12月26日	アドマイヤベガ	2:04.1	武豊	橋田満	近藤利一
第16回	1999年12月25日	ラガーレグルス	2:03.7	佐藤哲三	大久保正陽	奥村啓二
第17回	2000年12月23日	アグネスタキオン	2:00.8	河内洋	長浜博之	渡辺孝男
第18回	2001年12月22日	メガスターダム	2:03.4	渡辺薫彦	山本正司	(有)ノースヒルズマネジメント
第19回	2002年12月21日	ザッツザプレンティ	2:04.5	河内洋	橋口弘次郎	(有)社台レースホース
第20回	2003年12月27日	コスモバルク	2:01.6	五十嵐冬樹	田部和則	岡田美佐子
第21回	2004年12月25日	ヴァーミリアン	2:03.5	武豊	石坂正	(有)サンデーレーシング
第22回	2005年12月24日	サクラメガワンダー	2:01.9	安藤勝己	友道康夫	(株)さくらコマース
第23回	2006年12月23日	フサイチホウオー	2:02.1	安藤勝己	松田国英	関口房朗
第24回	2007年12月22日	サブジェクト	2:07.0	O.ペリエ	池江泰郎	(有)ノースヒルズマネジメント
第25回	2008年12月27日	ロジユニヴァース	2:01.7	横山典弘	萩原清	久米田正明
第26回	2009年12月26日	ヴィクトワールピサ	2:01.3	武豊	角居勝彦	市川義美
第27回	2010年12月25日	 ダノンバラード	2:02.2	武豊	池江泰郎	(株)ダノックス

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス その他
牡馬が出走できる競走に変更された1991年以来偶数年の優勝馬は2006年優勝馬のフサイチホウオーを除き後にGIで勝利している。逆に奇数年の優勝馬は2003年優勝馬のコスモバルク及び2009年優勝馬のヴィクトワールピサを除きGIで勝利していないが、奇数年であっても、優勝馬以外の出走馬からアドマイヤマックス、アドマイヤムーン、ダノンシャンティ、ヒルノダムールなどのGI馬を輩出している。
JRAから発表される出走馬のレーティングは、GIIであるデイリー杯2歳ステークスや京王杯2歳ステークスのそれを上回る年も多く、その出走馬のレベルの高さから、GIIへの格上げを望む声も多いがいまだに実現されていない。その理由として、もし本競走がGIIに昇格された場合に、1週前に開催されるGIの朝日杯フューチュリティステークスのレベル低下を招くためと考えられる。それ以外でも2歳戦線における中距離戦は翌年のクラシックに直結しやすく、同じく2歳戦線の中距離重賞である札幌2歳ステークスと東京スポーツ杯2歳ステークスも同様の理由が言える。
上記のように何度もレース名が変更されているが、武豊はいずれのレース名においても優勝経験がある(ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス=1989年、ラジオたんぱ杯3歳ステークス=1998年、ラジオたんぱ杯2歳ステークス=2004年、ラジオNIKKEI杯2歳ステークス=2009年、2010年)。

ラジオNIKKEI杯2歳ステークス 関連するレース
ラジオNIKKEI賞(7月 福島競馬場)
ホープフルステークス(有馬記念当日に中山競馬場で皐月賞と同コース・距離設定行われるオープン特別競走)

中山大障害

中山大障害

第133回中山大障害
開催地	中山競馬場
施行日	2011年12月24日
施行時期	12月下旬
(原則5回中山7日目)
格付け	J・GI
1着賞金	7000万円
賞金総額	1億3400万円
距離	障害・芝・外4100m
出走条件	サラブレッド系3歳以上(国際)
出走資格も参照
負担重量	定量(3歳61kg、4歳以上63kg、牝馬2kg減)
第1回施行日	1934年12月5日

中山大障害(なかやまだいしょうがい)は、中山競馬場の障害・芝4100mで施行する中央競馬の障害の重賞(J・GI)競走。
正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会長賞。農林水産大臣賞が提供されているため、正式名称は農林水産省賞典中山大障害と表記される。
春に施行される中山グランドジャンプと共に、大竹柵障害や赤レンガと呼ばれる大生垣障害を飛越する中山競馬場の大障害コースが用いられる。

中山大障害 概要
中山大障害 初期の走路図
中山競馬倶楽部の肥田金一郎が1932年に創設された東京優駿競走に匹敵する競走を中山競馬場でも開催したいと考え、イギリスのグランドナショナルにならった障害競走を創設するため同年に障害コースの整備を開始。
1934年8月27日に大障碍特別競走を創設する旨を各倶楽部に通知した。
それは距離4100m、高さ160cmの大竹柵、高さ140cm幅220cmの大土塁、高さ150cm幅270cmの大生垣の三大障害を含め計10回の飛越、加えて高低差4mを超える坂路を6回昇降するというものであり殆どが中距離で障害も120cm以下の競走しかなかった当時としては非常に過酷なものであった。
競馬関係者からは軍馬の改良の必要性などから長距離を耐え抜く有能な実役馬を選定できるという賛成意見もあったが将来種牡馬となる良血馬、高額馬の出走が望めない少頭数となり競走興味が薄れるなどの理由で時期尚早とする反対意見が圧倒的となった。
しかし肥田は断固として施行を主張。12月5日に大障碍特別競走を行うことを決定した。1着賞金は1万円であり、これは東京優駿競走と並び当時最高の賞金額を誇るレースであった。第1回の優勝馬は肥田の所有馬のキンテンである。
戦前期では負担重量が賞金によっておよそ60kgから70kg間で行われ第8回に出走したチカラは73kgの負担重量で出走したが、戦後は馬資源の不足と軍馬育成の必要性がなくなったこともあり基本負担重量が大幅に引き下げられ障害の難易度も若干緩和された。
また当初は天皇賞と同じく勝ち抜き制が採られていたが、戦後は1950年を除き過去の優勝馬も出走が可能となった。
1965年秋から現在のコースとなる1972年秋までは施行条件が幾度か変更された。平地外回りコース拡張及びダートコース新設のため、スタンド前内回りコースとそこに設置されていた大生垣が廃止。またスタート位置が3、4コーナー中間の土塁障害の前方から後方に移され飛越回数が10回から11回に増加、そして大竹柵を除くすべての障害の規模が拡大した。
1999年より障害競走改革のためグレード制が導入されJRAによりジャンプグレードワン(J・GI=ジェージーワン)に格付けされ、定量戦となる。優勝賞金額は5700万円から8000万円に大幅増となった。同時に春の中山大障害は中山グランドジャンプに衣替えし、年1回秋だけの開催となった。当初は春の大障害を「中山スプリングジャンプ」、秋の大障害を「中山グランドジャンプ」とする計画であったが競馬サークルの内外から「伝統のレース名は残すべき」という声が上がり、また春の競走を国際招待レースとする計画が立ち上がったため春を中山グランドジャンプ、秋を中山大障害として実施する事となった。ファンファーレはそれまでは東京・中山用の重賞ファンファーレを使用していたが、同年より三枝成彰作曲によるJ・GIファンファーレが使用されている。
2011年からは国際競走となる。
出走資格は、サラ系3歳以上のJRA所属の競走馬(外国産馬含む)および外国調教馬(8頭まで)。
負担重量は定量で3歳61kg、4歳以上63kg、牝馬は2kg減となっている。
2011年度現在の総額賞金は1億3,400万円で、1着賞金7,000万円、2着賞金2,800万円、3着賞金1,800万円、4着賞金1,100万円、5着賞金700万円と定められている。
以前は「だいしょうがい」ではなく「おおしょうがい」と呼ばれていたが、現在は前者が正式名称となっている。現在、中央競馬で唯一メインレースとして施行されないGI競走である。
他の著名な重賞競走は1990年代半ばが売上のピークとなっているが中山大障害が最も売上を伸ばしたのは1974年秋であり、総売上は25億9774万3200円である。

中山大障害 コース
第3コーナーからスタートし、時計回りに3/4周。向正面から襷コースに入り大竹柵へ、その後第4コーナーから第3コーナーを通って再び襷コースに入って大生垣へ。その後第1コーナーから第2、第3コーナーを経由して第4コーナーから芝コースへ進入。芝コースの直線を通ってゴールを目指す。
障害飛越数は11回と4100mという距離にもかかわらず3900mで行われる阪神スプリングジャンプの14回、3930mの京都ハイジャンプの18回と比べて少ないが6度のバンケット昇降がある。春に行われる中山グランドジャンプより150m短いが、バンケットの回数が多い為にスタミナの問われるコースとなっている。

中山大障害 大障害
中山競馬場の襷コース及び設置されている大竹柵、大生垣は本競走と中山グランドジャンプの時のみ使用される。春は皐月賞、年末は有馬記念の午後は馬場が開放される。

中山大障害 大竹柵

中山大障害 2007年の大竹柵
中山競馬場第6号障害。スタートから5番目に飛越する障害であり高さ160cm幅205cm(1990年代以前は高さ160cm、幅190cm)、土台部分の高さは85cmとなっている。1980年代はこの障害で転倒、落馬をする馬が非常に多く1981年春より1985年秋までの10回で出走馬延べ80頭のうち19頭の転倒、落馬を引き起こした[1]。その後1991~1996年までは89頭中13頭と相変わらず高確率で落馬が起きていたが、その後障害の形状変更に伴い大幅に易化し、グレード制導入後2010年までの計11回の競走では167頭の出走馬うち落馬はわずかギフテッドクラウン、メジロライデン、マイネルユニバース、ジュレップの4頭のみに減少している。

中山大障害 主な出来事
1970年秋 - 1番人気インターヒカリ、2番人気スイノソレイユ、5番人気フォースターフの3頭が転倒。
1980年秋 - 1番人気ナカミショウグン、2番人気ジョーアルバトロスなど4頭が騎手落馬により競走中止。
1983年春 - ヤクモファントムの騎手・田中剛とサビアスポートの騎手・菅沼輝正は落馬の後に再騎乗を行い、それぞれ7位、8位に入線(8頭立て)。中山大障害での落馬再騎乗はこれを最後に行われていない。
1985年春 - バウンスポート、ナックルフォンテン、エイティレオ、ダイナドルフィンの4頭が転倒。中山大障害2勝のオキノサキガケとスマッシングダイナの騎手が落馬したため、計6頭競走中止。中山大障害の最多記録となっている。
1992年春 - 中山大障害優勝馬のワカタイショウ、パンフレットなど4頭が競走中止。不利を受けなかったシンボリクリエンスが2着に8.6秒差の独走で優勝した。
1998年春 - 当時の障害重賞4場グランドスラム(中山大障害、京都大障害、東京障害特別、阪神障害ステークス)にリーチがかかっていた1番人気アワパラゴンが転倒。

中山大障害 大生垣

中山大障害 2007年の大生垣
中山競馬場第7号障害。スタートから7番目に飛越する障害であり高さ160cm、幅240cm、土塁の高さは80cmであり大障害創設当初より20cm高くなっている。大竹柵から見て逆周りをしてもう1回、襷に戻って来ると言う仕組み。かつては大土塁と呼ばれたが、当時の大生垣の廃止後1990年代に入ってこちらが大生垣と呼ばれるようになった。前面土塁部分に赤レンガ模様のデザインが施されているため「赤レンガ」という通称も有名。以前より競走中止となることは少ないが、時折有力馬の落馬を引き起こしている。

中山大障害 主な出来事
1934年秋 - 第1回競走において1番人気レツドサンドが転倒、競走中止。
1994年秋- 2番人気タイヤン、3番人気ユーワハッピーが落馬。最低人気のローズムーンが優勝。
1998年秋 - 1番人気ノーザンレインボーが転倒、競走中止。

中山大障害 各種記録

中山大障害 記録
レースレコード - 4:37.2(1991年秋・シンボリモントルー)
2着との最大着差 - 8.6秒(1992年春・シンボリクリエンス)
最多優勝馬 - 5勝 バローネターフ
最多優勝騎手 - 7勝 星野忍(1980年春・1983年春・1983年秋・1989年春・1990年秋・1996年春・1996年秋)
最多優勝調教師 - 8勝 尾形藤吉(1937年秋・1938年春・1939年秋・1940年春・1941年秋・1949年秋・1956年秋・1966年春)
最少出走頭数 - 3頭(1935年春・1952年秋・1953年春)
最少完走頭数 - 2頭(1950年春・1952年秋・1953年春)
最多落馬頭数 - 6頭(1985年春・出走馬10頭)

中山大障害 3連覇以上の優勝馬
フジノオー(4回・4回連続・1963年秋から1965年春)
グランドマーチス(4回・4回連続・1974年春から1975年秋)
バローネターフ(5回・3回連続・1977年春から1977年秋、1978年秋から1979年秋)
ポレール(3回・3回連続・1996年春から1997年春)
他に、ゴーカイの3年連続2着(1999年から2001年)、メルシーエイタイムの5年連続連対(2005年から2009年)と言う記録も存在する。

中山大障害 エピソード

中山大障害 競走のエピソード
1944年春の競走は競馬の一時停止と、中山競馬場閉鎖のため東京競馬場で能力検定競走「農商省賞典障碍」を距離4050mで施行。7歳以上の馬は出走不可のため5、6歳馬のみで争われた。9頭立てで行われイマカゼが5:06のタイムで優勝したが、中山大障害の回数としてはカウントされていない。秋は京都競馬場で行われる予定だったが、戦局の悪化に伴い4歳馬競走のみ行われたため障害競走は全て取り止めとなった。
1957年春の競走でカツプスターに騎乗した本田昌雄騎手は大土塁(現・大生垣)飛越着地の際に落馬したが直ちに再騎乗を行い鐙を踏まずに大生垣(廃止)を飛越して完走(出走馬8頭・8着)したため、裁決委員からその敢闘ぶりを表彰された。
1960年春の競走でガーナードに騎乗した加賀武見騎手は落馬後再騎乗の際に他人の助けを借り、また競走に要した時間が規定時間を越えたため(参考タイム 9:31.2)タイムオーバーでガーナードは失格、加賀武見は戒告を受けた。
1972年春の競走ではナスノセイランが前年春に続いて連覇(前年秋は開催せず)したがこの時の2着馬は全弟であるナスノヒエンであり、GI(級)レースにおいて初めて(2010年6月現在、未だに唯一)となる全姉弟による1・2着を記録した。なお、ナスノヒエンは1973年春の競走を勝利している。

中山大障害 その他のエピソード
阿部幸太郎が『中央競馬ワイド中継』のレギュラー時代、中山大障害コース4100mを自分の足で走ってさらには障害は乗り越えて完走するという特集VTRが制作された。後に競馬開催が台風・降雪等で中止となった際に穴埋めとして放映された。
有馬記念などの大レース開催日に大障害コースの一部を観客席として開放するケースや、ファンサービスの一環として実際に大障害コースの一部に入れる機会を設けるケースもある。

中山大障害 歴史
1934年秋 - 「大障碍特別競走」の名称で別定戦として創設。出走馬4頭中3頭が完走した。
1935年 - この年より年2回施行される(1947年と1956年を除く)。同年春にレース名が「中山大障碍特別」に改められ、秋からは農林省賞典が下賜され、「農林省賞典障碍」となる。
1938年秋 - 「小倉農林省賞典障碍」創設に伴い、「中山農林省賞典障碍」に改称される。
1943年秋 - 農林省と商工省の一部が合併し「農商省」が設置されたことに伴い、「中山農商省賞典障碍」に改称される。
1944年 - 中山競馬場閉鎖に伴い、春季に東京で能力検定競走「農商省賞典障碍」として施行される。
1947年秋 - 戦後「小倉農林省賞典障碍」が廃止、及び再び農林省が設置されたことに伴い名称が「農林省賞典障碍」にもどる。
1948年
春 - 過去の優勝馬が出走可能となる。
秋 - 競走名が「中山大障碍」に変更される。
1950年 - この年のみ過去の優勝馬が出走不可となる。
1951年春 - 過去の優勝馬の斤量は2kg増となる。
1953年春 - NHKによってテレビ中継され、日本初の競馬のテレビ中継となった。
1954年秋 - 競走名が「農林省賞典中山大障碍」に変更される。
1957年 - 秋の競走に限り4歳馬(現・3歳馬)の出走が可能となる。
1966年春 - 中山大障碍1勝毎に2kg増に変更される[2]。
1969年春 - 出走馬ロイタンの実質的な馬主が出走馬バスターに禁止薬物のカフェインを含む抹茶を摂取させようと企み、バスターが出走取消に追い込まれる事件が起こった(バスター事件)。
1970年 - 「障碍」から「障害」へ漢字表記が変更され「農林省賞典中山大障害」となる。
1971年秋 - 馬インフルエンザ蔓延の影響で開催中止。
1972年春
流行性の馬インフルエンザの影響により6月に順延開催。
中山大障害優勝馬は2kg増。及び収得賞金による斤量規定が廃止される。
出走馬ダテハクタカがパドック周回中に何者かに濃硫酸をかけられ右目を負傷し、競走除外となる事件が起こった(ダテハクタカ#ダテハクタカ事件)。
1976年春 - 再び中山大障害1勝毎に2kg増に変更される。
1978年秋 - 農林省の名称変更により「農林水産省賞典中山大障害」となる。
1988年春 - 中山競馬場の改修工事で東京競馬場で行われたため東京大障害として施行された。東京大障害は過去に使用されたことがない距離4000mで施行され、第3コーナーから逆回りで1周した後に襷コースに入り第2コーナーから順回りで直線に向かった。障害飛越数は17。
1989年春 - 混合競走に指定。
1993年秋 - 混合競走に指定。
1999年
グレード制導入によりJ・GIに格付け。
負担重量を定量として年1回施行。春のレースを中山グランドジャンプに移行。
2000年 - 創設以来初めて出走可能頭数上限の16頭で行われる。
2001年 - 馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上」から「3歳以上」に変更。
2002年 - ギルデッドエージが優勝し、ニュージーランドから短期免許で騎乗したロシェル・ロケットがJRA史上初の女性騎手による重賞制覇を果たした。
2003年 - 積雪のため中止・延期となり、2004年に1月(代替開催)と12月で2回行われた。
2005年 - テイエムドラゴンが1着となり、1968年のタジマオーザ以来37年ぶりに3歳馬が優勝した(2着も3歳馬のメルシーエイタイム)。
2009年 - キングジョイがJ・GIに格付け及び年1回施行において史上初の連覇。
2011年 - 国際競走に変更され、外国調教馬は8頭まで出走可能となる。

中山大障害 歴代優勝馬
中山大障害(春)
回数	施行日	優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第2回	1935年4月7日	イサハヤ	牡6	5:09 4/5	秋山辰治	川崎敬次郎	真藤慎太郎
第4回	1936年4月5日	ジユピターユートピア	牡5	5:01 4/5	中口儀一郎	大久保房松	小林国威
第6回	1937年4月4日	フソウ	牡4	4:57 1/5	平井寅雄	稲葉秀男	中村勝五郎
第8回	1938年4月10日	トクタカ	牡5	4:59 0/5	内藤潔	尾形景造	山中清兵衛
第10回	1939年4月9日	コクオー	牝5	5:03 4/5	松永光雄	土田順三	村上菊松
第12回	1940年4月19日	キヨクジツ	牡6	4:55 4/5	古賀嘉蔵	尾形景造	高杉晋
第14回	1941年4月20日	ライハルオン	牝6	4:53 1/5	中野才一	佐藤重治	伊藤盛治
第16回	1942年4月26日	ホウカツピータ	牡5	5:07 2/5	本田昌雄	稗田虎伊	経塚彌三
第18回	1943年5月2日	モトクマ	牡5	5:03 4/5	平井稔	稲葉幸夫	門井鍋四郎
第21回	1948年4月3日	フクレイ	牡5	4:08 1/5	田畑志郎	古賀嘉蔵	西博
第23回	1949年5月1日	カミカゼ	牡4	4:50 3/5	高松三太	柏谷富衛	小野ムメ
第25回	1950年5月5日	エイシヤイン	牡6	5:00 2/5	小森園正義	久保田彦之	伊藤市平
第27回	1951年5月20日	ツキヤス	牝4	4:43 4/5	古山良司	上村大治郎	高須銀次郎
第29回	1952年6月8日	カツシロ	牡4	4:44 4/5	富田六郎	見上恒芳	松村政雄
第31回	1953年6月28日	ハクオー	牡4	4:45 3/5	斉藤義美	松元正雄	西村光之助
第33回	1954年6月20日	ギンザクラ	牡4	4:50 3/5	富田六郎	見上恒芳	鈴江チヨ
第35回	1955年6月26日	キタノイヅミ	牡4	4:43 1/5	勝尾竹男	久保田金造	田中留治
第38回	1957年6月30日	クロシオ	牡4	4.52 0/5	長池辰三	大久保末吉	渡辺美弥子
第40回	1958年6月29日	ケニイモア	牝5	4:47 0/5	目時重男	武輔彦	ジョー・エス
第42回	1959年6月28日	オータジマ	牡4	4:43 0/5	高屋次郎	古賀嘉蔵	田島将光
第44回	1960年6月26日	ロールメリー	牝5	4:49.5	古賀一隆	古賀嘉蔵	豊島美王麿
第46回	1961年4月23日	クニハヤ	牡6	4:45.0	加賀武見	阿部正太郎	日下邦雄
第48回	1962年4月22日	フエニツクス	牡5	4:54.2	田村駿仁	二本柳俊夫	河野魁
第50回	1963年6月23日	ゴールデンオーザ	牡4	4:46.2	関口薫	中村広	川俣トシエ
第52回	1964年3月15日	フジノオー	牡5	4:45.5	横山富雄	橋本輝雄	藤井一雄
第54回	1965年4月11日	フジノオー	牡6	4:49.2	横山富雄	橋本輝雄	藤井一雄
第56回	1966年4月24日	アドミラル	牡4	5:04.0	小泉明東	尾形藤吉	永田雅一
第58回	1967年6月11日	クニハヤヒメ	牝4	4:52.1	関口健太郎	阿部正太郎	日下邦雄
第60回	1968年4月7日	フジノホマレ	牡8	4:53.4	横山富雄	橋本輝雄	藤井一雄
第62回	1969年6月29日	ホンマルシロー	牡4	4:58.9	千田能照	勝又忠	原田享
第64回	1970年4月5日	ハセタカラ	牡4	4:50.9	法理弘	阿部正太郎	長南鶴雄
第66回	1971年5月5日	ナスノセイラン	牝5	4:48.6	金井国男	稲葉秀男	那須野牧場
第68回	1972年6月4日	ナスノセイラン	牝6	4:53.0	柴崎勇	稲葉秀男	那須野牧場
第70回	1973年4月8日	ナスノヒエン	牡5	4:45.1	金井国男	稲葉秀男	那須野牧場
第72回	1974年4月7日	グランドマーチス	牡5	4:48.4	寺井千万基	伊藤修司	大久保興産(株)
第74回	1975年4月6日	グランドマーチス	牡6	4:40.3	寺井千万基	伊藤修司	大久保興産(株)
第76回	1976年4月11日	エリモイーグル	牡5	4:38.9	渡辺修一	大久保末吉	井上芳春
第78回	1977年4月10日	バローネターフ	牡5	4:44.3	三浦春美	矢野進	(有)ターフ・スポート
第80回	1978年4月9日	ファンドリナイロ	牡6	4:42.1	広松孝司	須貝彦三	水戸富雄
第82回	1979年4月8日	バローネターフ	牡7	4:38.5	根本康広	矢野進	(有)ターフ・スポート
第84回	1980年4月6日	オキノサコン	牡6	4:49.5	星野忍	八木沢勝美	沖崎エイ、沖崎藤吉郎
第86回	1981年4月5日	ナカミショウグン	牡5	4:47.4	根本康広	八木沢勝美	中村美俊
第88回	1982年4月11日	キングスポイント	牡5	4:44.1	小島貞博	小川佐助	高田久成
第90回	1983年4月10日	オキノサキガケ	牡5	4:41.8	星野忍	佐藤林次郎	沖崎エイ、沖崎藤吉郎
第92回	1984年4月8日	メジロジュピター	牡6	4:41.9	池添兼雄	大久保洋吉	メジロ商事(株)
第94回	1985年4月7日	ブルーフラール	牝5	4:43.1	成田均	大久保勝之	栗林英雄
第96回	1986年4月6日	ライバコウハク	牡7	4:44.9	大江原哲	松元正雄	坂本盛正、上水清氏
第98回	1987年4月12日	メジロアンタレス	牡8	4:44.2	成田均	大久保洋吉	メジロ商事(株)
第100回	1988年4月10日	メジロアイガー	牡5	4:34.6	臼井武	尾形充弘	(有)メジロ牧場
第102回	1989年4月9日	キョウエイウオリア	牡10	4:46.8	星野忍	中村均	松岡正雄
第104回	1990年4月7日	パンフレット	牡5	4:39.5	嘉堂信雄	田中良平	小田切有一
第106回	1991年4月6日	シンコウアンクレー	牡5	4:38.1	田中剛	二本柳俊一	安田修
第108回	1992年4月11日	シンボリクリエンス	牡7	4:41.7	大江原哲	境征勝	シンボリ牧場
第110回	1993年4月10日	メジログッテン	牡6	4:38.5	押田年郎	大久保正陽	(有)メジロ牧場
第112回	1994年4月9日	ブロードマインド	牡6	4:40.7	牧之瀬幸夫	矢野進	吉田照哉
第114回	1995年4月8日	ダイカツストーム	牡5	4:44.1	中竹和也	中村好夫	志賀泰吉
第116回	1996年4月6日	ポレール	牡5	4:41.2	星野忍	岩元市三	林進
第118回	1997年4月12日	ポレール	牡6	4:43.1	出津孝一	岩元市三	林進
第120回	1998年4月18日	ノーザンレインボー	牡8	4:46.2	田中剛	鈴木康弘	吉田照哉
以後、中山グランドジャンプに移行。

中山大障害 中山大障害(秋)
回数	施行日	優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第1回	1934年12月5日	キンテン	牡5	5:21 1/5	稲葉幸夫	稲葉秀男	肥田金一郎
第3回	1935年10月20日	オーシス	牡4	5:02 2/5	佐藤修	杉浦照	石川義明
第5回	1936年10月18日	トーナメント	牡4	4:57 1/5	中野吉太郎	杉浦照	石川義明
第7回	1937年10月17日	キンテキ	牡4	5:01 0/5	古賀嘉蔵	尾形景造	高井治兵衛
第9回	1938年11月27日	リードアン	牝4	5:06 0/5	稲葉幸夫	藤本冨良	大川義雄
第11回	1939年12月3日	シヤインモア	牝4	4:55 1/5	内藤潔	尾形景造	土田荘助
第13回	1940年12月8日	スタミナ	牝5	4:59 0/5	岩下密政	田村仁三郎	豊島美王麿
第15回	1941年12月7日	ゼーアドラー	牡5	4:55 0/5	古賀嘉蔵	尾形景造	片山哲雄
第17回	1942年11月29日	バイエル	牝4	5:08 3/5	富田竹次郎	布施季三	高橋錬逸
第19回	1943年11月28日	カミワカ	牡5	5:05 1/5	岩下密政	田村仁三郎	豊島美王麿
第20回	1947年12月14日	ニユージヤパン	牡4	4:07 3/5	小桧山悦雄	鈴木信太郎	豊島美王麿
第22回	1948年11月3日	ブルーホマレ	牡4	4:47 0/5	吉野勇	大久保房松	久保邦造
第24回	1949年12月4日	ブランドライト	牡5	4:58 3/5	坂内光雄	尾形藤吉	川内安忠
第26回	1950年12月7日	アシガラヤマ	牡4	4:54 1/5	吉野勇	平井寅雄	川島政子
第28回	1951年12月16日	ミツタヱ	牝5	4:51 0/5	渡辺正人	東原玉造	河野信一
第30回	1952年12月21日	サチヒカリ	牡4	4:50 3/5	坂本栄三郎	小西喜蔵	石原利貞
第32回	1953年11月1日	モモタロウ	牡5	4:49 4/5	野平幸雄	田中和一郎	舟橋聖一
第34回	1954年11月3日	アラワシ	牡4	4:54 1/5	伊藤英治	望月与一郎	高橋なつ
第36回	1955年11月3日	シマユキ	牡5	4:47 1/5	飯塚好次	松山吉三郎	小野仁助
第37回	1956年11月18日	ハクレイ	牝4	4:54 4/5	目時重男	尾形藤吉	西博
第39回	1957年10月20日	ヤマカブト	牝5	4:46 1/5	坂本栄三郎	小西喜蔵	山之内喜代子
第41回	1958年10月12日	ケニイモア	牝5	4:44 4/5	目時重男	武輔彦	ジョー・エス
第43回	1959年10月11日	ハルボー	牡4	4:43.8	本田昌雄	田中朋次郎	加藤春雄
第45回	1960年10月9日	ロールメリー	牝5	4:46.9	古賀一隆	古賀嘉蔵	豊島美王麿
第47回	1961年10月15日	トサキング	牡4	4:48.4	瀬戸口勉	上田武司	上田清次郎
第49回	1962年10月7日	ライトリア	牡6	4:43.1	坂内光雄	藤本冨良	伊藤久雄
第51回	1963年10月20日	フジノオー	牡4	4:46.9	横山富雄	橋本輝雄	藤井一雄
第53回	1964年10月11日	フジノオー	牡5	4:49.7	横山富雄	橋本輝雄	藤井一雄
第55回	1965年10月17日	ミスハツクモ	牝5	4:54.4	前田禎	鈴木清	勝又豊次郎
第57回	1966年12月4日	ホウラン	牝4	4:56.1	金井国男	稲葉秀男	河野通
第59回	1967年12月3日	ヤマニンダイヤ	牡5	4:48.1	鶴留明雄	諏訪佐市	土井宏二
第61回	1968年12月29日	タジマオーザ	牡3	4:56.6	津田昭	佐藤勝美	(株)田島牧場
第63回	1969年12月28日	マウントブゼン	牝4	4:55.1	山田広士	野平省三	山田福太郎
第65回	1970年12月27日	リクオー	牡4	4:58.4	千田能照	勝又忠	矢沢註二
第67回	1971年12月25日	開催中止
第69回	1972年12月24日	マスヒロ	牝4	5:02.8	成島正規	阿部正太郎	増山栄一
第71回	1973年12月23日	クリユタカ	牡5	4:44.7	法理弘	阿部正太郎	栗林友二
第73回	1974年12月22日	グランドマーチス	牡5	4:40.2	寺井千万基	伊藤修司	大久保興産(株)
第75回	1975年12月21日	グランドマーチス	牡6	4:42.5	法理弘	伊藤修司	大久保興産(株)
第77回	1976年12月26日	サクラオンリー	牡8	4:45.1	平井雄二	久保田彦之	(株)さくらコマース
第79回	1977年12月25日	バローネターフ	牡5	4:39.7	三浦春美	矢野進	(有)ターフ・スポート
第81回	1978年12月24日	バローネターフ	牡6	4:43.6	小柳由春	矢野進	(有)ターフ・スポート
第83回	1979年12月23日	バローネターフ	牡7	4:43.7	根本康広	矢野進	(有)ターフ・スポート
第85回	1980年12月20日	カチウマタロー	牡5	4:49.4	田中剛	柄崎義信	島崎竜五郎
第87回	1981年12月19日	テキサスワイポン	牡7	4:42.1	今岡正	二分久男	渡辺孝男
第89回	1982年12月25日	キングスポイント	牡5	4:42.6	小島貞博	小川佐助	高田久成
第91回	1983年12月24日	オキノサキガケ	牡5	4:41.9	星野忍	佐藤林次郎	沖崎エイ、沖崎藤吉郎
第93回	1984年12月22日	メジロアンタレス	牡5	4:39.1	牧之瀬幸夫	大久保洋吉	メジロ商事(株)
第95回	1985年12月21日	オンワードボルガ	牡4	4:46.9	田中剛	二本柳俊夫	樫山純三
第97回	1986年12月20日	ハッピールイス	牡4	4:45.6	中竹和也	吉田三郎	マエコウファーム(有)
第99回	1987年12月26日	シノンシンボリ	牡8	4:39.4	牧之瀬幸夫	大和田稔	和田共弘
第101回	1988年12月24日	ヤマニンアピール	騸5	4:39.0	岡冨俊一	中村均	土井宏二
第103回	1989年12月23日	メジロマスキット	牝4	4:39.0	臼井武	尾形充弘	(有)メジロ牧場
第105回	1990年12月22日	ワカタイショウ	牡5	4;38.9	星野忍	嶋田功	渡辺喜八郎
第107回	1991年12月21日	シンボリモントルー	牡6	4:37.2	成田均	田中和夫	シンボリ牧場
第109回	1992年12月26日	シンボリクリエンス	牡7	4:38.3	大江原哲	境征勝	シンボリ牧場
第111回	1993年12月25日	ブロードマインド	牡5	4:42.0	牧之瀬幸夫	矢野進	吉田照哉
第113回	1994年12月17日	ローズムーン	牝5	4:40.6	五十嵐久	田村駿仁	(株)大東牧場
第115回	1995年12月16日	フジノスラッガー	牡5	4:44.9	臼井武	和田正道	中村寛俊
第117回	1996年12月14日	ポレール	牡5	4:44.0	星野忍	岩元市三	林進
第119回	1997年12月13日	ケイティタイガー	牡8	4:45.5	嘉堂信雄	吉岡八郎	瀧本和義
第121回	1998年12月19日	ビクトリーアップ	騸5	4:44.1	横山義行	吉永正人	(有)池ばた

中山大障害 J・GIに格付けされてからの歴代優勝馬
回数	施行日	優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第122回	1999年12月18日	ゴッドスピード	牡5	4:42.6	西谷誠	瀬戸口勉	坪野谷和平
第123回	2000年12月23日	ランドパワー	牡5	4:40.7	金折知則	福島勝	木村善一
第124回	2001年12月22日	ユウフヨウホウ	牡4	4:44.1	今村康成	松元茂樹	(株)アイテツ
第125回	2002年12月21日	ギルデッドエージ	牡5	4:51.6	R.ロケット	松元茂樹	(有)ノースヒルズマネジメント
第126回	2004年1月10日	ブランディス	騸7	4:40.9	大江原隆	藤原辰雄	(有)サンデーレーシング
第127回	2004年12月25日	メルシータカオー	騸5	4:37.6	出津孝一	武宏平	永井康郎
第128回	2005年12月24日	テイエムドラゴン	牡3	4:39.9	白浜雄造	小島貞博	竹園正繼
第129回	2006年12月23日	マルカラスカル	牡4	4:41.0	西谷誠	瀬戸口勉	河長産業(株)
第130回	2007年12月22日	メルシーエイタイム	牡5	4:39.7	横山義行	武宏平	永井康郎
第131回	2008年12月27日	キングジョイ	牡6	4:45.0	高田潤	増本豊	松岡隆雄
第132回	2009年12月26日	キングジョイ	牡7	4:41.7	西谷誠	増本豊	松岡隆雄
第133回	2010年12月25日	バシケーン	牡5	4:46.1	蓑島靖典	高橋義博	石橋英郎

競走名:第1回 「大障碍特別」、第2回「中山大障碍特別」、第3~8、20、21回 「農林省賞典障碍」、第9~18回 「中山農林省賞典障碍」、第19回 「中山農商省賞典障碍」、第100回 「東京大障害」
距離:第16~19回 4240m、第20、21回 3350m、第55~68回 4200m、第100回 4000m
勝時計:第1~42回 1/5秒表示、第43回~ 1/10秒表示

2011年朝日杯フューチュリティステークスが開催される中山芝1600にズバリ合う馬は!?

2011年朝日杯フューチュリティステークスが開催される中山芝1600は、
丘の頂上にある1コーナー外側のポケットからスタートします。
第2コーナーまでの直線距離は240mでゆったりしたコーナーを3つ回って直線坂下までトータル5m近く下ります。
最後の140mで2.3m上がってゴールするという、かなり変則的なコースです。

ポケットの芝の状態が良いですし、下り勾配なので2コーナーを回る頃までに、かなりペースアップします。
下りの加速度がついた状態で3~4コーナーに突っ込んで、勢いに乗ってしまうと、ちょっとふくらみ加減で直線に向きます。

ペースは緩みません。
平均~やや前傾ラップですが、テンは、ゆっくりなので、前が残りやすいコースです。

枠順は、断然1枠、2枠が有利です。
スタートから2コーナーまでの距離が短くて、2,3,4コーナーが等間隔に並んでいるため、
外を回してしまうと、最後までコーナーを大回りしてしまうことが
多いです。逃げ・先行馬が有利で、内ラチ沿いのポジションを確保できるかどうかが勝負です。
能力的に断然に抜けていなくても、勝つ事できるコースでもありますね。

この特殊なコース形態のためか、血統的に見ると、ロージズインメイの回収率が異常に高いですね。
単勝回収率は、過去3年間で、なんと243.0%です。
今回の朝日杯に出走予定の馬の中で、ロージズインメイの血をもつ馬は、ただ1頭です。

ミヤビアミュレット!果たして、馬券にからむかどうか・・・。




2011年朝日杯フューチュリティSのデータ傾向

第63回 朝日杯フューチュリティS(GI)の過去5年間に馬券になった馬のデータを見ると、
・芝1800m経験がある馬の好走が目立ちます。
全部で9頭が馬券になっていますね。
・ここ3年間で見ると、前走東京芝1400を走っている馬が馬券になっています。
10年1着 グランプリボス
10年2着 リアルインパクト
09年2着 エイシンアポロン
09年3着 ダイワバーバリアン
08年2着 フィフスペトル

ワンペースになりやすい1400の経験が朝日杯フューチュリティSのおこなわれる中山芝1600
に通用しやすいのだろう。トウケイヘイローは、この条件にはまりますね。

・枠順は、1枠、2枠が有利です。
全部で6頭が馬券になっていますし、しかも毎年馬券に絡んでいます。
・上がり3F1位の馬が4頭馬券になっています。
・前走5着以下は、馬券になっていません。

・500万下、OP特別で掲示板を外している馬も馬券になっていません。

どちらかというと、朝日杯フューチュリティSは、堅いレースです。
穴馬は、狙いにくいですね。

愛知杯

愛知杯

開催地	小倉競馬場
施行日	2011年12月18日
施行時期	12月中旬 - 下旬
(原則3回中京4日目)
格付け	GIII
1着賞金	3800万円
賞金総額	7200万円
距離	芝2000m
出走条件	サラブレッド系3歳以上牝馬(国際)(特指)

負担重量	ハンデキャップ競走
第1回施行日	1963年8月11日

愛知杯(あいちはい)は、日本中央競馬会(JRA)が中京競馬場の芝2000mで施行する競馬の重賞競走(GIII)。
優勝馬主には農林水産大臣賞と、愛知県知事賞が贈られる。農林水産省が賞を提供しており、正式名称は「農林水産省賞典 愛知杯」と表記している。

愛知杯 概要
元々はカブトヤマ記念、中日新聞杯とともに父内国産馬限定重賞競走として年末(2000年より春季開催)に開催されていたが、種牡馬リーディング上位を争う内国産種牡馬の登場により、父内国産馬の奨励賞の目的がほぼ達成できたという観点から、2004年の番組改編で、牝馬限定の重賞競走として生まれ変わった。ただし、レースの開催回次は継続されている。なお、同様にカブトヤマ記念も福島牝馬ステークスに変更された。こちらはカブトヤマ記念を一旦廃止した上での新設競走扱いとなるため開催回次は2004年を改めて第1回とした。
2006年からは再び年末に開催時期を変更し、ヴィクトリアマイルの前哨戦として春に開催変更となった阪神牝馬ステークスに替わる年末の牝馬限定競走に位置づけられ、エリザベス女王杯の出走馬およびヴィクトリアマイルに向けて獲得賞金の加算を目指す牝馬が出走している。
現在の優勝レイの配色は、紫色の地に黄色文字となっている。
出走資格は、サラ系3歳以上牝馬で、施行日当日の1週前から過去1年前までの期間内に1回以上出走のJRA所属の競走馬と、JRAに認定された地方所属の競走馬(2頭まで)及び外国調教馬(9頭まで)。
負担重量はハンデキャップである。
2011年度現在の総額賞金は7,200万円で、1着賞金3,800万円、2着賞金1,500万円、3着賞金950万円、4着賞金570万円、5着賞金380万円と定められている。

愛知杯 歴史
4歳(現3歳)以上競走時代
1963年 - 中京競馬場の砂2000mの4歳(現3歳)以上のハンデキャップの重賞競走、「愛知杯」として創設。
1966年 - 名称を「農林省賞典愛知杯」に変更。
1970年 - 中京競馬場の芝コース設置により、施行コースを現在の芝2000mに変更。
1972年 - 父内国産馬限定競走に指定。
1974年
シルバーランドが史上初の連覇。
高橋成忠が騎手として史上初の連覇。
佐藤勇が調教師として史上初の連覇。
1976年 - ハードラークとトウカンタケシバが同着優勝。
1977年
トウカンタケシバが史上2頭目の連覇。
浅野武志が調教師として史上2人目の連覇。
1978年 - 農林省の名称変更により「農林水産省賞典愛知杯」に変更。
1984年 - グレード制施行によりGIIIに格付け。
1987年
施行日をウインターステークスと交換。
ピーターホーラーが史上3頭目の連覇。
飯田明弘が騎手として史上2人目の連覇。
荻野光男が調教師として史上3人目の連覇。
1998年 - 特別指定交流競走に指定され、地方馬は2頭まで出走可能となる。
1999年 - 小倉競馬場の改修工事による振替開催により、小倉競馬場の芝2000mで施行。
2000年
開催時期を12月から6月に変更。
特別指定交流競走から外れる。
2001年 - 馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上」から「3歳以上」に変更。
2003年 - 愛知の吉田稔が騎手として史上3人目の連覇となり、地方所属の騎手としては史上初。
3歳以上牝馬限定競走時代
2004年
出走条件を「3歳以上」から「3歳以上牝馬限定」に変更。
父内国産馬限定競走から混合競走に変更。
2006年
開催時期を6月から12月に戻す。
混合競走から国際競走に変更され、外国調教馬は4頭まで出走可能となる。
特別指定交流競走に再び指定され、地方馬は2頭まで出走可能となる。
2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、外国調教馬の出走枠が8頭に拡大。
2009年 - 外国調教馬の出走枠が9頭に拡大。
2010年
中京競馬場の改修工事による振替開催により、小倉競馬場の芝2000mで施行。
施行日を阪神カップと交換し、土曜日開催から日曜日開催に変更。中山競馬場で行われる朝日杯フューチュリティステークスと同日開催となる。
セラフィックロンプが当競走で史上4頭目となる2度目の優勝を果たすと共に、中京・小倉の両方の開催地で制覇。
2011年 - 中京競馬場の改修工事による振替開催により、小倉競馬場の芝2000mで施行予定。
2012年 - 施行日を土曜日開催に戻す。

愛知杯 歴代優勝馬
4歳(現3歳)以上競走時代
回数	年月日	優勝馬	勝時計	性齢	優勝騎手	管理調教師	馬主
第1回	1963年8月11日	バンダル	2分05秒0	牡3	浅見国一	藤本冨良	白井新平
第2回	1964年8月23日	コウタロー	2分06秒5	牡4	武邦彦	柴田不二男	上田正次
第3回	1965年12月26日	アオバ	2分06秒2	牡3	沢峰次	森末之助	清水友太郎
第4回	1966年12月18日	パラデイン	2分09秒0	牡4	矢野照正	阿部正太郎	大和通孝
第5回	1967年12月17日	カブトザン	2分06秒6	牡4	小林常泰	小西喜蔵	梅原トモ
第6回	1968年12月15日
(予定)	前週に暴動が発生したため開催中止
第7回	1969年8月3日	グローブターフ	2分04秒5	牝3	佐々木昭次	阿部正太郎	ターファイトクラブ
第8回	1970年12月20日	オウジャ	2分01秒8	牡3	古賀正俊	古賀嘉蔵	(有)鎌田牧場
第9回	1971年12月19日	スリービート	2分01秒5	牡4	稲部和久	諏訪佐市	永井永一
第10回	1972年12月3日	シンザンミサキ	2分01秒4	牡3	久保敏文	久保道雄	(有)近藤牧場
第11回	1973年12月2日	シルバーランド	1分59秒9	牡3	高橋成忠	佐藤勇	冨士田竹三
第12回	1974年12月22日	シルバーランド	2分01秒5	牡4	高橋成忠	佐藤勇	冨士田竹三
第13回	1975年12月21日	イナボレス	2分01秒7	牡6	矢野一博	大久保末吉	(有)イナトミ
第14回	1976年12月19日	ハードラーク	2分00秒9	牡4	増沢末夫	久保田金造	榊原富夫
トウカンタケシバ	牡3	清水英次	浅野武志	関口量三
第15回	1977年12月18日	トウカンタケシバ	2分03秒3	牡4	野川秋良	浅野武志	関口量三
第16回	1978年12月17日	ハシコトブキ	2分01秒7	牡4	安田伊佐夫	内藤繁春	(株)シンザンクラブ
第17回	1979年12月16日	グレートタイタン	2分01秒2	牡4	武邦彦	吉田三郎	長底定治郎
第18回	1980年12月21日	ウエスタンジョージ	2分00秒2	牡4	加用正	北橋修二	西川商事(株)
第19回	1981年12月20日	ヒヨシシカイナミ	2分02秒7	牡4	柴田政見	柴田不二男	酒井登
第20回	1982年12月5日	ワイエムアロー	2分00秒7	牡3	田原成貴	谷八郎	ワイエム観光(株)
第21回	1983年12月4日	アローボヘミアン	2分00秒2	牡4	岩元市三	梶与四松	伊達秀和
第22回	1984年12月2日	キクノペガサス	2分00秒3	牝3	南井克巳	宇田明彦	佐々木秋芳
第23回	1985年12月1日	ロングクイック	2分01秒3	牡3	内田国夫	小野幸治	中井商事(株)
第24回	1986年11月30日	ピーターホーラー	2分00秒0	牡3	飯田明弘	荻野光男	松坂正喜
第25回	1987年12月13日	ピーターホーラー	2分00秒3	牡4	飯田明弘	荻野光男	松坂正喜
第26回	1988年12月11日	カツトクシン	1分58秒2	牡3	松永幹夫	安田伊佐夫	渡辺典六
第27回	1989年12月10日	グレートモンテ	1分59秒0	牡4	猿橋重利	高橋成忠	野﨑龍一
第28回	1990年12月9日	ホワイトアロー	1分59秒8	牡3	内田国夫	小野幸治	東山ホース(株)
第29回	1991年12月8日	ヤマニンシアトル	2分00秒8	牡4	熊沢重文	橋本寿正	土井薫
第30回	1992年12月13日	ヌエボトウショウ	2分02秒5	牝5	角田晃一	渡辺栄	トウショウ産業(株)
第31回	1993年12月12日	ホマレオーカン	2分00秒6	牡3	菊沢隆徳	柄崎孝	(株)グリーンテック
第32回	1994年12月11日	テンザンユタカ	2分00秒1	牝3	松永昌博	松永善晴	平野三郎
第33回	1995年12月10日	サウンドバリヤー	2分00秒2	牡3	河北通	小野幸治	名古屋友豊(株)
第34回	1996年12月8日	ファンドリショウリ	2分00秒8	牡5	宝来城多郎	布施正	水戸富雄
第35回	1997年12月7日	サクラエキスパート	2分00秒6	牡4	佐藤哲三	佐々木晶三	(株)さくらコマース
第36回	1998年12月13日	カネトシガバナー	2分01秒6	牡3	秋山真一郎	野村彰彦 	兼松利男
第37回	1999年12月12日	バンブーマリアッチ	1分59秒9	牡4	野元昭嘉	梅内忍	(有)バンブー牧場
第38回	2000年6月3日	トゥナンテ	1分58秒6	牡5	幸英明	松元省一	(有)社台レースホース
第39回	2001年6月2日	グランドシンザン	1分59秒8	セン7	安藤勝己	坂田正行	元屋地文明
第40回	2002年6月2日	トウカイパルサー	2分00秒3	牡5	吉田稔	松元茂樹	内村正則
第41回	2003年6月8日	カゼニフカレテ	1分59秒7	牡4	吉田稔	佐々木晶三	小田切有一
3歳以上牝馬限定競走時代
回数	年月日	優勝馬	勝時計	性齢	優勝騎手	管理調教師	馬主
第42回	2004年6月6日	メモリーキアヌ	2分00秒6	牝4	秋山真一郎	湯窪幸雄	(株)シンザンクラブ
第43回	2005年6月5日	マイネソーサリス	2分01秒3	牝4	安部幸夫	佐々木晶三	(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン
第44回	2006年12月16日	 アドマイヤキッス	1分58秒6	牝3	武豊	松田博資	近藤利一
第45回	2007年12月15日	 ディアデラノビア	1分58秒9	牝5	C.ルメール	角居勝彦	(有)キャロットファーム
第46回	2008年12月20日	 セラフィックロンプ	1分59秒2	牝4	宮崎北斗	武藤善則	井上一郎
第47回	2009年12月19日	 リトルアマポーラ	1分59秒7	牝4	中舘英二	長浜博之	(有)社台レースホース
第48回	2010年12月19日	 セラフィックロンプ	1分59秒5	牝6	宮崎北斗	武藤善則	井上一郎
第49回	2011年12月18日

朝日杯フューチュリティステークス

朝日杯フューチュリティステークス
第51回朝日杯3歳ステークス
開催地	中山競馬場
施行日	2011年12月18日
施行時期	12月中旬 - 下旬
(原則5回中山6日目)
格付け	GI
1着賞金	7000万円
賞金総額	1億3400万円
距離	芝・外1600m
出走条件	サラブレッド系2歳牡・牝(国際)(指定)

負担重量	馬齢(牡馬55kg、牝馬54kg)
第1回施行日	1949年12月3日

朝日杯フューチュリティステークス(Asahi Hai Futurity Stakes)とは日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場の芝1600mで施行する中央競馬の重賞(GI)競走。
正賞は朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞、日本軽種馬協会会長賞。

朝日杯フューチュリティステークス 概要
1949年に関東所属の2歳(旧3歳)競走馬のチャンピオン決定戦朝日杯3歳ステークスとして創設、中山競馬場の芝1100mで施行された。その後1959年からは芝1200m、1962年からは現在の芝1600mに距離が延長され、1971年からは混合競走に指定され、1984年からはグレード制導入により最高位のGIに格付けされた。
1991年に栗東所属(関西)の2歳(旧3歳)競走馬のチャンピオン決定戦の阪神3歳ステークスが2歳(旧3歳)牝馬限定戦の阪神3歳牝馬ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)に変更されるのに合わせて出走条件を2歳(旧3歳)牡馬・騸馬に変更され、2歳牡馬チャンプ決定戦の位置付けとして施行されるようになった。
GI昇格後から10年間はメリーナイス、サクラチヨノオー、アイネスフウジン、ミホノブルボン、ナリタブライアンと5頭の東京優駿優勝馬を輩出した為、「クラシックへの登龍門」とも言われた。
2001年に競走馬の年齢表記を国際基準に合わせたことに伴い、競走名が朝日杯フューチュリティステークスとなった。競走名のフューチュリティ(Futurity)とは、英語で「未来・将来・前途」という意味がある。2004年からは3歳のクラシックと出走条件を合わせる目的から、出走条件が牡馬・牝馬になり騸馬の出走ができなくなった[1]。ただ、騸馬が優勝したことはこれまで一度もなかった。
中央競馬の2歳馬限定のGI競走(2007年から2009年までJpnI)は2つ(地方競馬の全日本2歳優駿を合わせても3競走)のみで1991年に内1競走が牝馬限定となったので、規定は無いがそれ以降は毎年この競走の優勝馬がJRA賞最優秀2歳牡馬に選出されている[2]。
このレースは有馬記念と同じ開催で行われることになっているため、これまで中山競馬場以外で開催されたことは一度もない。
なお武豊はこの競走で3度2着を記録しているものの、JRAGIの中でこの競走とマイルチャンピオンシップは未勝利である(2010年現在)。

朝日杯フューチュリティステークス 出走資格
原則としてサラ系2歳(旧3歳)のJRA所属の牡馬・牝馬競走馬、JRAに認定された地方所属の牡馬・牝馬競走馬(5頭まで)及び牡馬・牝馬の外国調教馬(8頭まで)。
JRA所属馬は通算の収得賞金が多い順に出走が可能となる。1勝馬は抽選によって出走が決められる。
地方競馬所属馬は以下の競走のいずれかで所定の成績をあげると本競走に出走できる。
競走名	格付	施行競馬場	施行距離	必要な着順	備考
デイリー杯2歳ステークス	GII	京都競馬場	芝1600m	1・2着	本競走のステップ競走指定
京王杯2歳ステークス	GII	東京競馬場	芝1400m	1・2着
東京スポーツ杯2歳ステークス	GIII	東京競馬場	芝1800m	1・2着
函館2歳ステークス	GIII	函館競馬場	芝1200m	1着	阪神JFといずれか1競走に優先出走できる。
新潟2歳ステークス	GIII	新潟競馬場	芝1600m	1着
小倉2歳ステークス	GIII	小倉競馬場	芝1200m	1着
札幌2歳ステークス	GIII	札幌競馬場	芝1800m	1着

朝日杯フューチュリティステークス 負担重量
負担重量は馬齢で牡馬は55kg、牝馬は54kgである。
第1回は別定重量51kgで、第2回から第8回は52kg、第9回から第18回および第20回、第21回は牡馬52kg・牝馬51kg、第19回のみ牡馬51kg・牝馬50kg、第22回は牡53kg・牝52kg。
第23回から第42回は馬齢重量となり牡馬54kg・牝馬53kg、出走条件が牡馬・騸馬に変更された第43回から第52回は54kg、第53回から第55回は55kg。出走条件が牡馬、牝馬に戻った第56回より現行の負担重量で施行されている。

朝日杯フューチュリティステークス 賞金
グレード制が施行された第36回(1984年)以降
回(施行年)	総額賞金	1着	2着	3着	4着	5着
第36回(1984年)	5,700万円	3,000万円	1,200万円	750万円	450万円	300万円
第37回(1985年)
第38回(1986年)	5,860万円	3,100万円	780万円	470万円	310万円
第39回(1987年)	6,260万円	3,300万円	1,300万円	830万円	500万円	330万円
第40回(1988年)	6,800万円	3,600万円	1,400万円	900万円	540万円	360万円
第41回(1989年)	7,600万円	4,000万円	1,600万円	1,000万円	600万円	400万円
第42回(1990年)	8,050万円	4,200万円	1,700万円	1,100万円	630万円	420万円
第43回(1991年)	8,980万円	4,700万円	1,900万円	1,200万円	710万円	470万円
第44回(1992年)	1億30万円	5,300万円	2,100万円	1,300万円	800万円	530万円
第45回(1993年)
第46回(1994年)
第47回(1995年)
第48回(1996年)
第49回(1997年)
第50回(1998年)
第51回(1999年)
第52回(2000年)
第53回(2001年)	1億1,400万円	6,000万円	2,400万円	1,500万円	900万円	600万円
第54回(2002年)
第55回(2003年)
第56回(2004年)
第57回(2005年)
第58回(2006年)
第59回(2007年)
第60回(2008年)	1億1,980万円	6,300万円	2,500万円	1,600万円	950万円	630万円
第61回(2009年)
第62回(2010年)	1億3,400万円	7,000万円	2,800万円	1,800万円	1,100万円	700万円
第63回(2011年)
第64回(2012年)

朝日杯フューチュリティステークス 施行コースとその問題点
中山競馬場の芝1600mで第1コーナーのポケットの奥から発走。最後の上り坂以外は延々と下り坂が続くためスピードが出やすい[3]。そして最初の第2コーナーまでの直線距離は240mと短く、そこで外枠発走の馬が大きな距離ロスを受けやすいためにフルゲートの頭数は阪神ジュベナイルフィリーズなどが18頭なのに対し16頭に減らされている[4]。しかしそれ以外にも他の競馬場の同じ距離での競走のコーナーの数の2つであるのに対し3つと多く[5]、またスプリンターズステークスなどの競走でも共通するが最後の直線距離も310mと短く第4コーナーを一団となって曲がるために、そこで大きく膨らんで距離をロスする外枠や最後の追い込みが得意な馬にとって非常に厳しいコース形態となっている。2010年現在、20年以上7枠・8枠の馬の優勝は無く(3着以内なら数例あり。2003年のメイショウボーラーは8枠15番で2着、1996年のオープニングテーマは7枠14番で2着など)[6]、GI昇格時にまで遡ってもそれは10頭以下での施行時に限られている。
つまり、枠順以外の勝敗の要素としては前めで内寄りの位置を確保するためのスタートの上手さや加速力などといった器用さが大きな割合を占めることになる。GI昇格後こそ「クラシックへの登龍門」とも言われクラシック出走条件に合わせて騸馬の出走を禁じるなどの変更が加えられたりしたが、この競走形態により1993年のナリタブライアンを最後にこの競走を制していた馬ばかりか、出走していた馬の中ですら東京優駿を勝った馬はなく、更にこの競走で2007年に3着に入ったキャプテントゥーレが翌年の皐月賞(クラシックの中で最も条件が近い)を制するまで長らくクラシック競走の優勝馬が出ていないという状況が示す通り、クラシックで不振になる傾向が強い。
1993年のナリタブライアン以降も勝ち馬から数多くのGI馬や種牡馬が出ていて出世レースではあるがそのほとんどが故障を発症してクラシックを棒に振ったり、マイラーとして活躍したり、早熟という結果になっている。そのためクラシックを目指す競走馬は阪神競馬場の芝2000mで施行するラジオNIKKEI杯2歳ステークスや有馬記念当日に行われるホープフルステークスなどに出走させる傾向もあり、またかつて外国産馬に閉ざされていたクラシックも近年は開放されつつあるため、こぞってここを目標に外国産馬が出走するという光景も見られなくなっている。
ただし2006年のドリームジャーニーは5歳時に宝塚記念・有馬記念を優勝。2009年のローズキングダムはクラシックで2着2回の後に第30回ジャパンカップで優勝するなど、中には本競走からクラシックおよび3歳秋以降のレースで好走する馬もいる。

朝日杯フューチュリティステークス 歴史
1949年 - 中山競馬場の芝1100mの2歳(旧3歳)限定の別定重量の重賞競走朝日杯3歳ステークスとして創設。
1950年 - 出走条件が別定重量51kgから別定重量52kgに変更。
1953年 - 騎手の谷岡敏行が死亡する事故が発生。
1956年
勝尾竹男が騎手として史上初の連覇。
久保田金造が調教師として史上初の連覇。
1957年 - 出走条件が別定重量、牡馬52kg・牝馬51kgに変更。
1959年
施行コースを芝1200mに変更。
この年の9月1日から日本競馬の時計表示が変更になったのに伴い、時計が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。
1962年 - 施行コースを芝1600mに変更。
1967年 - 出走条件が別定重量、牡馬51kg・牝馬50kgに変更。
1968年 - 出走条件が別定重量、牡馬52kg・牝馬51kgに戻す。
1970年 - 出走条件が別定重量、牡馬53kg・牝馬52kgに変更。
1971年
出走条件が別定重量から馬齢重量、牡馬54kg・牝馬53kgに変更。
混合競走に指定。
1984年 - グレード制施行によりGIに格付け。
1988年
小島太が騎手として史上2人目の連覇。
境勝太郎が調教師として史上2人目の連覇。
1991年 - 出走条件が2歳(旧3歳)から2歳(旧3歳)牡馬・騸馬に変更。
1993年 - 南井克巳が騎手として史上3人目の連覇。
1995年 - 特別指定競走に指定。
2001年
馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走資格が「3歳牡馬・騸馬」から「2歳牡馬・騸馬」に変更。
名称を朝日杯フューチュリティステークスに変更。
出走条件が馬齢重量54kgから定重量55kgに変更。
2003年 - 出走条件が定重量55kgから馬齢重量55kgに変更。
2004年 - 出走条件が2歳牡馬・騸馬から2歳牡馬・牝馬に変更(牝馬の負担重量は54kgに設定)。
2007年 - 国際セリ名簿基準委員会(ICSC)の勧告により、重賞格付け表記をJpnIに変更。
2008年 - ジャパンカップダートの施行日の変更に伴い、開催週が1週繰り下げ。
2010年 - 国際競走に指定され、重賞格付け表記をGIに戻す。

朝日杯フューチュリティステークス 歴代優勝馬
回数	施行日	優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第1回	1949年12月3日	アヅマホマレ	牡2	1:07 3/5	八木沢勝美	尾形藤吉	岩崎新太郞
第2回	1950年12月10日	トキノミノル	牡2	1:06 3/5	岩下密政	田中和一郎	永田雅一
第3回	1951年12月9日	タカハタ	牝2	1:06 1/5	八木沢勝美	尾形藤吉	川内安忠
第4回	1952年12月21日	サンゲツ	牝2	1:07 0/5	古山良司	望月与一郎	新倉文郎
第5回	1953年12月13日	タカオー	牡2	1:07 4/5	高橋英夫	上村大治郎	高須銀次郎
第6回	1954年12月12日	メイヂヒカリ	牡2	1:07 3/5	蛯名武五郎	藤本冨良	新田新作
第7回	1955年12月11日	キタノオー	牡2	1:05 4/5	勝尾竹男	久保田金造	田中留治
第8回	1956年12月23日	キタノヒカリ	牝2	1:06 2/5	勝尾竹男	久保田金造	田中留治
第9回	1957年12月15日	カツラシユウホウ	牡2	1:09 0/5	蛯名武五郎	藤本冨良	牧市太郎
第10回	1958年12月14日	ウネビヒカリ	牡2	1:07 0/5	野平祐二	野平省三	山之内軍二
第11回	1959年12月13日	マツカゼオー	牡2	1:12.3	蛯名武五郎	藤本冨良	長山善武
第12回	1960年12月11日	ハクシヨウ	牡2	1:11.2	保田隆芳	尾形藤吉	西博
第13回	1961年12月17日	カネツセーキ	牡2	1:10.9	伊藤竹男	久保田金造	カネツ(株)
第14回	1962年12月16日	グレートヨルカ	牡2	1:38.7	保田隆芳	尾形藤吉	小野晃
第15回	1963年12月15日	ウメノチカラ	牡2	1:38.9	古賀一隆	古賀嘉蔵	梅野昇
第16回	1964年12月20日	リユウゲキ	牡2	1:38.8	油木宣夫	矢倉玉男	福井章哉
第17回	1965年12月19日	メジロボサツ	牝2	1:39.5	矢野一博	大久保末吉	北野俊雄
第18回	1966年12月18日	モンタサン	牡2	1:37.4	油木宣夫	矢野幸夫	古知政市
第19回	1967年12月17日	タケシバオー	牡2	1:38.4	中野渡清一	三井末太郎	小畑正雄
第20回	1968年12月15日	ミノル	牡2	1:40.8	保田隆芳	尾形藤吉	永田卓也
第21回	1969年12月14日	アローエクスプレス	牡2	1:36.2	加賀武見	高松三太	伊達秀和
第22回	1970年12月13日	オンワードガイ	牡2	1:39.8	蓑田早人	森末之助	(株)オンワード牧場
第23回	1971年12月12日	トクザクラ	牝2	1:36.2	田村正光	梶与四松	(有)徳間牧場
第24回	1972年12月10日	レッドイーグル	牡2	1:38.3	岡部幸雄	鈴木清	千屋レッド牧場(株)
第25回	1973年12月9日	ミホランザン	牡2	1:35.5	柴田政人	高松三太	堤勘時
第26回	1974年12月8日	マツフジエース	牝2	1:37.1	増田久	山岡寿恵次	(有)マツケン農場
第27回	1975年12月7日	ボールドシンボリ	牡2	1:38.6	柴田政人	高松三太	和田共弘
第28回	1976年12月12日	マルゼンスキー	牡2	1:34.4	中野渡清一	本郷重彦	橋本善吉
第29回	1977年12月11日	ギャラントダンサー	牡2	1:35.7	吉永正人	松山康久	吉田照哉
第30回	1978年12月10日	ビンゴガルー	牡2	1:36.0	嶋田功	久保田彦之	水野剛
第31回	1979年12月9日	リンドタイヨー	牡2	1:36.7	横山富雄	見上恒芳	(株)デルマークラブ
第32回	1980年12月7日	テンモン	牝2	1:35.5	嶋田功	稲葉幸夫	原八衛
第33回	1981年12月6日	ホクトフラッグ	牡2	1:35.3	柴田政人	中野隆良	森滋
第34回	1982年12月12日	ニシノスキー	牡2	1:35.8	安田富男	元石孝昭	西島清
第35回	1983年12月11日	ハーディービジョン	牡2	1:36.3	的場均	柄崎義信	鈴木健司
第36回	1984年12月16日	スクラムダイナ	牡2	1:35.0	柴田政人	矢野進	(有)社台レースホース
第37回	1985年12月15日	ダイシンフブキ	牡2	1:35.4	菅原泰夫	柴田寛	高橋金次
第38回	1986年12月14日	メリーナイス	牡2	1:35.6	根本康広	橋本輝雄	浦房子
第39回	1987年12月20日	サクラチヨノオー	牡2	1:35.6	小島太	境勝太郎	(株)さくらコマース
第40回	1988年12月18日	サクラホクトオー	牡2	1:35.5	小島太	境勝太郎	(株)さくらコマース
第41回	1989年12月17日	アイネスフウジン	牡2	1:34.4	中野栄治	加藤修甫	小林正明
第42回	1990年12月9日	リンドシェーバー	牡2	1:34.0	的場均	元石孝昭	(株)デルマークラブ
第43回	1991年12月8日	ミホノブルボン	牡2	1:34.5	小島貞博	戸山為夫	(有)ミホノインターナショナル
第44回	1992年12月13日	エルウェーウィン	牡2	1:35.5	南井克巳	坪憲章	雑古隆夫
第45回	1993年12月12日	ナリタブライアン	牡2	1:34.4	南井克巳	大久保正陽	山路秀則
第46回	1994年12月11日	フジキセキ	牡2	1:34.7	角田晃一	渡辺栄	齊藤四方司
第47回	1995年12月10日	バブルガムフェロー	牡2	1:34.2	岡部幸雄	藤沢和雄	(有)社台レースホース
第48回	1996年12月8日	マイネルマックス	牡2	1:36.3	佐藤哲三	中村均	(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン
第49回	1997年12月7日	グラスワンダー	牡2	1:33.6	的場均	尾形充弘	半沢(有)
第50回	1998年12月13日	アドマイヤコジーン	牡2	1:35.3	M.ロバーツ	橋田満	近藤利一
第51回	1999年12月12日	エイシンプレストン	牡2	1:34.7	福永祐一	北橋修二	平井豊光
第52回	2000年12月10日	メジロベイリー	牡2	1:34.5	横山典弘	武邦彦	(有)メジロ牧場
第53回	2001年12月9日	アドマイヤドン	牡2	1:33.8	藤田伸二	松田博資	近藤利一
第54回	2002年12月8日	エイシンチャンプ	牡2	1:33.5	福永祐一	瀬戸口勉	平井豊光
第55回	2003年12月14日	コスモサンビーム	牡2	1:33.7	D.バルジュー	佐々木晶三	岡田美佐子
第56回	2004年12月12日	マイネルレコルト	牡2	1:33.4	後藤浩輝	堀井雅広	(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン
第57回	2005年12月11日	フサイチリシャール	牡2	1:33.7	福永祐一	松田国英	関口房朗
第58回	2006年12月10日	ドリームジャーニー	牡2	1:34.4	蛯名正義	池江泰寿	(有)サンデーレーシング
第59回	2007年12月9日	ゴスホークケン	牡2	1:33.5	勝浦正樹	斎藤誠	藤田与志男
第60回	2008年12月21日	セイウンワンダー	牡2	1:35.1	岩田康誠	領家政蔵	大谷高雄
第61回	2009年12月20日	ローズキングダム	牡2	1:34.0	小牧太	橋口弘次郎	(有)サンデーレーシング
第62回	2010年12月19日	グランプリボス	牡2	1:33.9	M.デムーロ	矢作芳人	(株)グランプリ

朝日杯フューチュリティステークスの記録

レースレコード - 1:33.4(第56回優勝馬マイネルレコルト)
2着との最大着差 - 大差(約13馬身差)(第28回優勝馬マルゼンスキー)

朝日杯フューチュリィステークス 父子制覇
過去に3組の例がある。
組	父馬名	優勝回	仔馬名	優勝回
1組目	マルゼンスキー	第28回	ニシノスキー	第34回
2組目	マルゼンスキー	第28回	サクラチヨノオー	第39回
3組目	グラスワンダー	第49回	セイウンワンダー	第60回

朝日杯フューチュリティステークス 兄弟制覇
過去に2組の兄弟(姉妹)制覇の例がある。以下は母馬から見た兄弟に限る。
組	兄馬名	優勝回	弟馬名	優勝回	母馬名
1組目	キタノオー	第7回	キタノヒカリ	第8回	バウアーヌソル(サラ系)
2組目	サクラチヨノオー	第39回	サクラホクトオー	第40回	サクラセダン
キタノオーとキタノヒカリは父馬も同じ(トサミドリ)全兄妹である。

朝日杯フューチュリティステークス 脚注
^ ただし、クラシック競走において騸馬排除の根拠とされる「繁殖馬の選定」について本競走において明確に謳っているわけではない。これはNHKマイルカップ・ニュージーランドトロフィーでも同様である。
^ 最優秀2歳牡馬の参考として、2000年の勝ち馬メジロベイリーは4戦目にようやく初勝利を挙げた直後の出走であり、勝ち馬として(2009年現在の)歴代最低人気の10番人気に過ぎなかったこと、1番人気のタガノテイオーがレース中に骨折し予後不良となり、他の上位人気馬も下位に沈む中の優勝であったことから、評価は低かった。この年にはラジオたんぱ杯2歳ステークスでジャングルポケットとクロフネとの3強対決で完勝したアグネスタキオンがおり高い評価を受けていたが、記者投票147対119票の結果によりメジロベイリーが選出されている。
^ 1600mのレコードタイムは2010年5月9日の東京競馬場で施行されたNHKマイルカップ競走で優勝したダノンシャンティが記録した1:31.4。なお中山競馬場での記録は2001年9月9日の京成杯オータムハンデキャップ競走で優勝したゼンノエルシドが記録した1:31.5。
^ 中山競馬場で出走可能頭数が18頭確保できるコースは芝内回り2000m、芝外回り2200mのいずれもスタンド正面から発走するコースのみである。同じGIであるスプリンターズステークス(芝外回り1200m)、有馬記念(芝内回り2500m)も出走可能頭数は16頭である。
^ 道中もほとんどが緩やかなカーブで距離ロスなく追い越しをかけられる直線がなく、並んで走るだけであっても内側の馬に対し3馬身差の距離のロスがあると言われる。
^ JRA公式サイトの「今週の注目レース」でのデータ分析(外部リンク参照)でもはっきりと「内枠が有利、過去10年で7枠・8枠で連対したのはメイショウボーラーのみ」という旨が明記されている

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