帯広競馬場(おびひろけいばじょう)は、北海道帯広市にあるばんえい競馬の競馬場。
所在地:帯広市西13条南9丁目
駐車場:無料(2200台)
収容人員:14000人
入場料金:100円
在宅投票システム:オッズパーク・楽天競馬
電話投票用競馬場コード:03#
正門前には、ばんえいの大種牡馬「イレネー」の馬像(加藤顕清製作)が設置されている。
道営競馬(現・ホッカイドウ競馬)が初めてレースを開催した、「道営競馬発祥の地」である。
かつてはホッカイドウ競馬とばんえい競馬を併催していたが、ホッカイドウ競馬が撤退したため現在はばんえい競馬のみ開催され、ホッカイドウ競馬は引き続き「帯広場外発売所」として使用している。
敷地内に併設された「馬の資料館」では、ばんえい競馬や馬文化の歴史を知ることができる。
開催日に関わらず毎日無料で公開している。
2007年度には施設外壁や柱の塗色を鮮やかにするなどの改装が施されたほか、パドックがスタンド側に移設され、旧パドック跡にはポニーと遊ぶことが出来る「ふれあい動物園」を新設した。
施設所有者は十勝農業協同組合連合会(十勝農協連)で、ばんえい競馬は施設を賃借して競馬を開催している[1]。
ばんえい走路脇に設置している固定式の着順掲示板では、以前よりばんえい競馬開催時に馬場水分を電光表示していた[2]が、現在は馬場水分の表示を行っていない。
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アヴェンチュラ(伊:Aventura)の主な勝ち鞍は2011年クイーンステークス。馬名の意味はイタリア語で「冒険」。
アヴェンチュラ 2歳
2010年6月20日に阪神競馬場の2歳新馬戦でデビュー。このレースにはシュプリームギフト、エイシンオスマンといった評判馬が出走した。そのなかでアヴェンチュラは単勝3.7倍の2番人気に支持された。レースは中団を進み、直線では上がり3ハロン34秒4の末脚を繰り出し3馬身1/2の差で快勝した。2戦目は重賞初挑戦となった10月2日札幌競馬場の札幌2歳ステークスに2番人気で出走、レースでは中団後方から脚を伸ばしたがオールアズワンの2着だった。
その後、12月12日阪神の阪神ジュベナイルフィリーズではスタートで出遅れ後方からレースを進んだがスローペースが響き4着になった。その後、右前第三手根骨が判明し、長期休養に入った。
アヴェンチュラ 3歳
復帰初戦となった2011年7月30日の漁火ステークスでは道中好位の4番手を進み、直線で先頭に立つとシルクアーネストの追走を3馬身差で抑え2勝目となった。8月14日のクイーンステークスではコスモネモシンをクビ差抑え、重賞初勝利となった。
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エリンコート 競走成績
競走日競馬場競走名格距離(馬場)頭数枠番馬番オッズ(人気)着順タイム(上り3F)着差騎手斤量1着馬(2着馬)
2010.7.25函館2歳新馬芝1200m(良)144621.2(7人)3着1:10.8(35.5)0.4藤岡佑介54kgエーシンジャッカル
9.12札幌2歳未勝利芝1200m(良)7224.0(2人)3着1:11.4(36.0)0.4池添謙一54kgゼフィランサス
9.25札幌2歳未勝利芝1500m(良)9116.6(4人)1着1:31.1(36.2)-0.0四位洋文54kg(コマンドパワー)
11.28京都白菊賞500万下芝1600m(良)117825.9(5人)4着1:37.3(34.6)0.5幸英明54kgドナウブルー
2011.1.16京都3歳500万下芝1600m(良)145761.7(7人)6着1:36.9(37.2)1.0四位洋文54kgニジブルーム
1.29京都3歳500万下芝1400m(良)144623.6(4人)4着1:22.6(34.3)0.6四位洋文54kgラトルスネーク
3.27阪神3歳500万下芝1800m(良)181217.7(6人)1着1:47.3(35.0)-0.1U.リスポリ54kg(ピュアブリーゼ)
4.10阪神忘れな草賞OP芝2000m(良)166124.6(2人)1着2:02.4(36.0)-0.1後藤浩輝54kg(ハッピーグラス)
5.22東京優駿牝馬GI芝2400m(良)182437.2(7人)1着2:25.7(34.5)-0.0後藤浩輝55kg(ピュアブリーゼ)
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蛯名 幸作(えびな こうさく、1946年10月21日-)は、厩務員。
日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンター、田中清隆厩舎に所属。
競馬関係者の出身者が多い青森県上北郡出身。蛯名は上北の農家で育った。
子供の頃は自宅に馬がいたが、当時は馬と接することを嫌い、中学卒業後は東京都に出て喫茶店などで勤務
しかし勤務はするものの、遊んでばかりしていたため体調を崩してしまう。
既に競馬関係者として働いていた蛯名の兄に厩務員になることを勧められ、以後は競馬の世界で生きて行くことになった。
1967年、東京競馬場の坂本栄三郎厩舎所属の厩務員となった。
その後1990年に坂本の死去による厩舎の解散により田中清隆厩舎に移籍した。
1970年初春にはクイーンカップを勝利したタマミを桜花賞終了まで当時開場間もない栗東トレーニングセンターに長期的に滞在させたが、蛯名も馬の様子を見るためにタマミと共に長期にわたって栗東に滞在した。関東馬が長期間栗東に滞在した初の事例であった[1]。
2011年10月21日、中央競馬の厩務員の定年となる65歳に達する。
厩務員になる前とは逆に現在は「馬(との仕事)が好きである」と蛯名は語る。
蛯名 幸作 主な管理馬
括弧内は主な優勝レース
タマミ(1970年桜花賞)
キタイシオー(1973年東京障害特別)
グルメフロンティア(1998年フェブラリーステークス)
トーホウシデン(2003年中山金杯)
タイキリオン(2002年ニュージーランドトロフィー)
ホエールキャプチャ(2011年クイーンカップ)
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エリンコート(Erin Court)の主な勝ち鞍は2011年の優駿牝馬。馬名は「アイルランドの宮廷」という意味。
エリンコート 2歳
2010年7月25日の函館の芝1200mの新馬戦でデビューしたが、3着に敗れる。続く未勝利戦も3着となる。
初勝利は札幌の芝1500mの未勝利戦。ゴール前で差しきり初勝利を飾った。
その後京都の500万下の白菊賞は直線伸びを欠き4着となる。
エリンコート 3歳
500万下6着の後、中1週で4着となり、休養した後に3月27日の500万下で1着。
鞍上の後藤浩輝はクラシック44回目の挑戦で初制覇。調教師の笹田和秀もGI初制覇。
デュランダル産駒もGI初制覇となった。秋緒戦に選んだローズステークスでは
前でレースを進めたが直線の半ばで失速し10着に敗れた。
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オグリキャップ 1990年後半の不振と復活
1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。
オグリキャップ 体調
調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた[† 31][† 32]。
精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた[† 34]。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。
密着取材とかいって、1週間ものあいだ24時間体制でオグリを撮りまくるんや。しかも、わしにとってもオグリにとっても不運やったんは、その取材陣というのがほとんど競走馬というものを知らない人たちで編成されていたことやった。
文字どおり、24時間ぶっ続けでオグリを撮りまくったんやからね。
それだけやない。
馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。
しまった、と気がついたときには、もう手遅れやった。オグリがぱったりとカイバを食べんようになってしもたんや。
体調に関しては、優勝した第35回有馬記念においてすらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄[† 37]や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功[† 38]がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。
春と違うのは確かでした」と回顧している。レース前のパドックでオグリキャップを見た作家の木村幸治は、その時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」、「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」、「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。
人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている[81]。しかし厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという。
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オグリキャップ 6歳(1990年)競走内容
有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。
オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。
オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された[70]。
レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。
続く宝塚記念では終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫(脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病)を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。
陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定したが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。
続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。
ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり[† 29]、馬主の近藤に宛てた脅迫状(出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容)が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した[73]が、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定した。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。
限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった[74]。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。
この現象について阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している。
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オグリキャップ 近藤俊典への売却
1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が将来馬主登録を抹消される可能性が出た。
それを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した。
売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。
ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。
また、売却価格の高さも指摘された。
オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。
オグリキャップ 1989年のローテーション
3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。
この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。
調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても「無理は少しあったと思います」と述べた。
また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。
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オグリキャップ 5歳(1989年)競走内容
陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。
療養施設へは厩務員の池江が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。
オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマー(当時は地方競馬騎手招待競走)で復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。
同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。
その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。
レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。
写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる。
(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)
天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている。
(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)
続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」[50]、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。
写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。
勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した。(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)
連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた。
(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)
陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。
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オグリキャップ クラシック登録
オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。
オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。
調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。
なお1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。1999年にはテイエムオペラオーがこの制度を生かして皐月賞に出走し、優勝している。
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