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戸崎圭太

戸崎圭太


出身地 栃木県下都賀郡壬生町
生年月日 1980年7月8日(31歳)
身長 158cm
体重 44.3kg
血液型 B型
騎手情報
所属団体 特別区競馬組合
所属厩舎 香取和孝
勝負服 青、胴赤星散らし
初免許年 1998年
免許区分 平地

戸崎 圭太(とさき けいた、1980年7月8日 – )は、大井競馬場・香取和孝厩舎に所属する騎手である。趣味はスポーツをすることで、好きなスポーツはゴルフ。
勝負服は青地に胴赤散らし。青は大井の先輩である内田博幸の勝負服が、胴赤星散らしは同様に的場文男の勝負服の星(★)が由来となっている。[1]

戸崎圭太 来歴

中学時代は野球部に所属していた。今でも野球が特技である。
騎手志望当時、戸崎は中央競馬の存在を知らず、栃木県那須塩原市にあった地方競馬教養センターを受験。1998年、地方競馬教養センター騎手課程を卒業し騎手免許を取得する。[2]同年4月12日の大井競馬第3競走C3八組九組をミヤサンヤシマで勝利し、初騎乗初勝利を挙げる。

2005年6月26日に福島競馬場で行われた3歳未勝利戦で、13番人気だったスプリングラゴスに騎乗し中央競馬初騎乗、10着となる。同年9月14日大井競馬第10競走トゥインクルレディー賞を8番人気のコウエイソフィアで勝利し、重賞初制覇。

2007年、初のJRA重賞となったマーチステークスでは、11番人気だったシーチャリオットに騎乗し14着。7月8日、阪神競馬場で行われた3歳以上500万円以下のレースをヤマカツティガーで制し中央初勝利を挙げる。12月13日に地方通算600勝を達成した。
2007年には全国リーディング3位の活躍を見せた。これは南関東内では内田博幸に次ぐリーディング2位であり、的場文男を上回る勝ち鞍を挙げる活躍ぶりであった。

2008年の東京ダービーでは2007年のアンパサンドに続き、ドリームスカイ(10番人気)で勝利。東京ダービーを連覇した。6月25日の中央との交流重賞帝王賞(JpnI)をフリオーソで制覇。9月17日大井競馬第6競走において落馬、全治1ヶ月の鎖骨骨折を負い、同日第11競走トゥインクルレディー賞でトーセンジョウオーに騎乗できなかった。このようなアクシデントはあったが、ネフェルメモリーを12月31日の東京2歳優駿牝馬で勝利に導き、この年は306勝を挙げて初の全国リーディングを獲得した。

2009年は船橋記念をスパロービートで勝利し、3月11日のダイオライト記念および3月20日の桜花賞をいずれも2年連続で制覇。続いて京浜盃で重賞4連勝および自身のデビューからの通算勝利数を1000勝を飾った。他にも東京プリンセス賞・羽田盃・浦和記念で優勝し、前年を上回る387勝を挙げ、2年連続で全国リーディングを獲得した。

また、中央競馬では前年まで通算5勝の成績から一転して年間20勝を挙げ、安田記念ではコンゴウリキシオーに、天皇賞・秋ではエイシンデピュティに騎乗し中央競馬のGIにも参戦を果たした。クイーンカップでは大井所属のエイブルインレースで、勝ち馬のディアジーナから0.1秒差の3着に食い込む活躍をした。

2010年は中央への参戦も積極的に行っている。中央競馬の日本ダービーでトゥザグローリーに騎乗。大井競馬場で行われた東京ダービーではマカニビスティーに騎乗し、圧勝。東京ダービー最多タイの3勝となった。6月30日に行われた帝王賞(JpnI)では、フリオーソに騎乗。中央競馬の有力馬のカネヒキリ・ヴァーミリアン・サクセスブロッケンなどが参戦するなか、先頭を進むサクセスブロッケンの2番手につけ、直線で一気に先頭に躍り出るとそのまま1着でゴールイン。2着は中央競馬のカネヒキリだった。

今まで勝ったことのなかったヴァーミリアンにも勝つことができ、表彰式では涙を拭う場面も見られた。交流GIは通算2勝目。7月14日に行われたジャパンダートダービー(JpnI)ではマグニフィカに騎乗。始終先頭をキープ。直線でも一度も前を譲らず、そのままゴールイン。帝王賞に続いて川島正行調教師とのタッグでGIを獲得した。GI通算3勝目。11月3日に船橋競馬場で行われたJBCクラシックは地方最強馬のフリオーソとタッグを組むも武豊騎乗のスマートファルコンに逃げられ2着。11月14日の東京競馬場第11競走第15回東京中日スポーツ杯武蔵野ステークスでは6番人気のグロリアスノアで優勝し、中央競馬重賞を初制覇した。

2011年も中央競馬へ参戦。6月5日の安田記念では、南関東の先輩で負傷休養中の内田博幸のお手馬でもあるリアルインパクトに騎乗し、中央競馬GI競走での初優勝を飾った。

戸崎圭太 エピソード

2005年に初めて中央競馬 (JRA) の新規騎手免許試験に挑み[3]、一次試験で不合格となる[4]。2010年の時点ではJRAへの移籍について「今は特別考えていませんね。そういう時期になったら、改めて考えようと思っています。今は1頭でも多く、1日でも多くガムシャラに乗りたいんですよ」[5]と述べていた。翌2011年、安田記念の勝利を契機として2度目の試験に挑んだ[3][4]が、またも一次試験で不合格となった[6]。

戸崎圭太 表彰

ベストフェアプレイ賞(2006年)
NARグランプリ最優秀騎手賞(2008年)

戸崎圭太 年度別成績表

戸崎圭太 地方競馬
年度 騎乗数 勝利  順位    勝率 連対率 獲得賞金勝数
1998年 70 4 位 .057 .143 18,356,000円
1999年 307 12 位 .039 .121 62,908,000円
2000年 404 25 位 .062 .126 113,735,000円
2001年 546 31 位 .057 .125 186,837,500円
2002年 533 36 位 .068 .158 166,044,000円
2003年 615 39 位 .063 .135 156,293,000円
2004年 731 53 位 .073 .156 181,840,000円
2005年 860 74 62位 .086 .169 235,136,000円
2006年 1145 139 22位 .107 .229 391,532,000円
2007年 1584 212 3位 .134 .242 593,054,000円
2008年 1737 306 1位 .176 .305 1,055,680,000円
2009年 1762 387 1位 .220 .355 1,196,562,000円
2010年 1665 288 1位 .173 .297
通算 11968 1593 – .133 .241

戸崎圭太 中央競馬
年度 騎乗数 勝利 順位    勝率 連対率 獲得賞金勝数
2005年 3 0 176位 .000 .000 0円
2006年 18 0 181位 .000 .000 750,000円
2007年 44 2 133位 .045 .091 45,263,000円
2008年 152 3 110位 .020 .092 110,736,000円
2009年 199 21 50位 .106 .191 311,105,000円
2010年 293 22 45位 .075 .184 496,676,000円
通算 709 48 – .068 .155 964,530,000円

戸崎圭太 初騎乗記録

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

方 初騎乗・初勝利 1998年4月12日 1回大井1日3R C3八組九組 ミヤサンヤシマ 9頭 1 1着
重賞初勝利 2005年9月14日 11回大井4日10R トゥインクルレディー賞 コウエイソフィア 16頭 8 1着
GI初勝利 2008年6月25日 5回大井4日11R 帝王賞 フリオーソ 13頭 1 1着

央 初騎乗 2005年6月26日 2回福島4日3R 3歳未勝利 スプリングラゴス 15頭 13 10着
初勝利 2007年7月08日 3回阪神8日8R 3歳上500万下 ヤマカツティガー 13頭 5 1着
重賞初騎乗 2007年3月25日 3回中山2日11R マーチステークス シーチャリオット 15頭 11 13着
重賞初勝利 2010年11月14日 5回東京4日11R 武蔵野ステークス グロリアスノア 16頭 6 1着
GI初騎乗 2008年2月24日 1回東京8日11R フェブラリーステークス アンパサンド 16頭 13 10着
GI初勝利 2011年6月5日 3回東京6日11R 安田記念 リアルインパクト 18頭 9 1着


順位 主な騎乗馬

フリオーソに騎乗
メイショウアーム(2001年ジャパンダートダービー2着)
コウエイソフィア(2005年トゥインクルレディー賞)
アンパサンド(2007年東京ダービー)
フリオーソ(2008年ダイオライト記念、帝王賞、2009年ダイオライト記念、2010年帝王賞、日本テレビ盃、2011年川崎記念、かしわ記念)
フィリアレギス(2008年桜花賞)
ドリームスカイ(2008年東京ダービー)
トーセンジョウオー(2008年スパーキングレディーカップ)
ギャンブルオンミー(2008年黒潮盃)
ネフェルメモリー(2008年東京2歳優駿牝馬、2009年桜花賞、東京プリンセス賞)
スパロービート(2009年船橋記念)
ナイキハイグレード(2008年ハイセイコー記念、2009年京浜盃、羽田盃)
フジノウェーブ(2010年東京スプリング盃)
マカニビスティー(2010年東京ダービー)
マグニフィカ(2010年ジャパンダートダービー)
グロリアスノア(2010年武蔵野ステークス)
クラーベセクレタ(2010年東京2歳優駿牝馬、2011年羽田盃、東京ダービー、ロジータ記念、クイーン賞)
ナイキマドリード(2011年さきたま杯)
リアルインパクト(2011年安田記念)

順位 脚注

^ 競馬最強の法則2010年9月号 ターザン炎上!競馬デスマッチ 戸崎圭太騎手
^ 同期デビューの騎手には森泰斗(現船橋)がいる。
^ a b “地方競馬No.1騎手の戸崎がJRA受験” (日本語). デイリースポーツ (2011年9月2日). 2011年10月20日閲覧。
^ a b “戸崎 JRA受験「内田さんを追いかけて」” (日本語). スポーツニッポン (2011年9月2日). 2011年10月20日閲覧。
^ 週刊Gallop 2010年8月29日号 戸崎圭太という男
^ “大井の戸崎はJRA騎手免許試験に不合格” (日本語). デイリースポーツ (2011年10月20日). 2011年10月20日閲覧。

荒尾競馬場

荒尾競馬場

施設情報
所在地 熊本県荒尾市宮内出目72番
座標 北緯32度59分23秒
東経130度25分42秒座標: 北緯32度59分23秒 東経130度25分42秒
開場 1928年2月20日
閉場 2011年12月23日
所有者 荒尾競馬組合
コース
周回 右回り
馬場 1周1200m

荒尾競馬場(あらおけいばじょう)は熊本県荒尾市にある地方競馬の競馬場である。廃止時点では熊本県と荒尾市で構成される一部事務組合である荒尾競馬組合によって競馬が開催されていた。オッズパーク加盟競馬場。1928年2月20日開設。同年3月2日に第1回競馬が開催された。当時13億円を超える累積赤字を抱え、経営の続行は難しいとされたため廃止する方針が進められた。2011年12月23日、約9000人の観客がスタンドで見守る中、15時過ぎに行われたレースを最後に83年の歴史に幕を下ろした。

荒尾競馬場 概要

全体的な競走馬のレベルの低さやダートグレード競走をこれまで一度も開催していない、その上3連勝式馬券(2007年度から)やインターネットによるレース実況の配信(2006年度から)などは全国の地方競馬を見渡しても最後発となるなど現状の荒尾競馬の施策については他の競馬場と比較してやや見劣りする点があった。このようなことから全国の地方競馬場の中でもかなり地味な存在であり、売上規模も小さかった。

スタンドは西向きでコースの向こう側は有明海という、海の見える風光明媚の競馬場として名高かった。ただしそれだけに夏場の午後の西日は全国の競馬場の中でも最も強烈であると言われており、リニューアル以前の競馬場の公式ホームページでは女性客に対してUV対策の必要があるという趣旨の文面が掲載されていたほどである。また業務環境の改善のため西日を和らげるべく、実況席と裁決委員室の窓の一部には青いフィルムが貼られていた。

パドックはダート路面の小振りなもの。真ん中に大きな木(楠)があるのが特徴。出走掲示板はチョークに手書きであった。元々フルゲートが10頭だったため、掲示板は10頭分のスペースしか用意されていない。11頭以上のレースの場合は2頭分の黒板を下に貼り付けて表示した。誘導馬がおらず、1枠に入った馬が自動的に誘導馬の役割を果たすという特色もあった。本馬場入場時のBGMは長らく『五木の子守唄』、『田原坂行進曲』と当地に縁のある曲が使われていた。

内馬場には、野球場があり無料で利用することができた(ただし競馬開催日、能力検定実施日などは貸し出しをしなかった)。
元々の開催日程は同じ九州ブロックの佐賀競馬場・中津競馬場と同じく土曜、日曜、月曜で2週1開催が基本であった。

しかし2000年より土日は売上の大きい佐賀で開催し、平日に荒尾を開催して場外発売を充実させる方式へ転換。中津競馬廃止後もこの開催方式が継続されており、九州の2場でローテーションを組んでいて相互に場間場外馬券発売を実施している。またスタンド内にはJRA専用発売窓口が設置されJRAのGI競走開催週は当該競走の他、前日である土曜日に開催される一部の重賞競走も発売される[1][2]。

ファンサービスの一環として特別観覧席は通常500円だが、女性は無料。男性も誕生月であれば無料となり、座布団の無料貸し出しなども行われていた。特別観覧席の一角にはファミリーシートとしてフローリングのスペースも用意されていた。
競馬新聞は「競友ニュース」「ベスト」「ホース」の3紙があるが、日本の競馬新聞の中でもかなりシンプルなレイアウトとなっているのも特徴。予想印は基本1つだけであり、「6本線」と呼ばれる1開催6日分を6本の線で区切った簡素な対戦成績表が掲載されているのが全国的にも珍しい形式となっていた。この6本線は九州の地方競馬独特のシステムであり、佐賀競馬や中津競馬の競馬新聞にも見られるものである。

荒尾競馬場 コース


馬場:1周 1200m 右回り平坦
直線(4コーナーからゴール板まで):220m
施行可能距離:800m, 950m, 1300m, 1400m, 1500m, 1900m, 2000m, 2150m, 2500m
ただし以前は重賞競走で多く使われていた2150mは2004年3月(大阿蘇大賞典)を最後に、また2500mも2000年1月(サラブレッド大賞典)以降、レースの設定がない。

かつては、1640mのコース設定も存在した。スタート位置は3、4コーナーの中間点であった。
最大出走頭数(フルゲート):12頭

荒尾競馬場 特徴

1~2コーナーがきつく、3~4コーナーは緩やかなカーブ形状を持ったコース
現在は日本の競馬では行われていないが、繋駕速歩競走にも使用可能な設計で作られている。
ダートコースに使われている砂は壱岐海底の上質砂を使用している。粒子が細かいため、他の競馬場と比して砂が飛んだ時に人馬にあまり痛みを感じさせない。また、水はけが非常に良いとされる。

荒尾競馬場 発売する馬券の種類

○…発売 ×…発売なし ☆…オッズパークによるインターネット販売のみ
単勝 複勝 枠番連複 枠番連単 馬番連複 馬番連単 ワイド 3連複 3連単 重勝式
○ ○ ○ × ○ ○ ○ ○ ○ ☆
※2007年4月14日より3連勝式馬券(3連単、3連複)およびワイドを導入。
※2010年2月2日から五重勝単勝式の発売を開始した。佐賀競馬場と荒尾競馬場のみ購入者が勝馬を選択できる「セレクト方式」を採用していた(他場はコンピュータにより自動採番される「ランダム方式」である)。

荒尾競馬場 アクセス

荒尾競馬場 公共交通機関

JR鹿児島本線
荒尾駅より徒歩10分
西鉄天神大牟田線
大牟田駅より無料送迎タクシーあり
バス
産交バス競馬場前バス停より徒歩5分
西鉄バス大牟田 荒尾バス停より徒歩8分
車 [編集]
九州自動車道南関ICより30分

荒尾競馬場 主な競走

荒尾競馬場 重賞競走

荒尾ダービー(KJ3)(サラ系3歳) – 九州三冠競走1冠目、九州ダービー栄城賞トライアル競走
九州王冠(KJ3)(サラ系3歳以上) – 吉野ヶ里記念トライアル競走
荒炎賞(KJ3)(サラ系3歳) – ロータスクラウン賞トライアル競走
霧島賞(サラ系3歳以上、九州産馬限定、中央・地方指定交流)
九州記念(KJ3)(サラ系3歳以上) – JBCクラシック指定競走、九州大賞典トライアル競走
九州ジュニアグランプリ(KJ2)(サラ系2歳) – 九州ジュニアチャンピオントライアル競走
肥後の国グランプリ(サラ系3歳以上)
門松賞(サラ系3歳)
たんぽぽ賞(サラ系3歳、九州産馬限定、中央・地方指定交流)
大阿蘇大賞典(サラ系、ファン選抜)
アラブ系の重賞競走については2006年度までに全廃、単独でのレースも2007年度限りで終了した。
その他特別競走 [編集]
レディースジョッキーズシリーズ(JRA・地方競馬の女性騎手による競走)
M&Kジョッキーズカップ(岩手・佐賀・荒尾の各地区所属の騎手による交流競走)
JRA2歳認定競走 [編集]
ストロングホース(認定新馬)
ファイナルホース(認定未勝利)

荒尾競馬場 主な競走馬

シルバーブリツト(アングロアラブ)
ダイメイゴッツ(アングロアラブ)
コウザンハヤヒデ(アングロアラブ)
メグミダイオー(アングロアラブ)
ワタリタキオン(アングロアラブ)
オサイチテユーダ(サラブレッド)
カンテツオー(サラブレッド)
スカイジャイアント(サラブレッド)
キサスキサスキサス(サラブレッド)

荒尾競馬場 所属騎手

岩永千明
尾林幸彦
佐藤智久
杉村一樹
田中純
西村栄喜
林陽介
牧野孝光
松島慧
宮平鷹志
村島俊策
吉田隆二
吉留孝司
この他、冬季休業中の岩手競馬から騎手が参戦する年があった。

荒尾競馬場 現状

荒尾競馬場は三井三池炭鉱の閉山などによって地域経済が斜陽化することを見越して、競馬場を存続させるために合理化や売上確保といった経営努力に全国の全公営競技場でも最も早いうちから取り組み、また多くの競馬場で年間数億円の費用を発生させ経営の足枷となっている土地施設賃貸料についても競馬場施設を完全に自前で所有し、土地も3分の2が市有地であるために多額の負担が発生しないという強みを持っていた(高知競馬場では年間3億7000万円、荒尾競馬場は3000万円。競馬場費も8000万円)。

1990年代中ごろに全国の競馬場が続々と赤字転落をしてゆく中にあっても、荒尾は1997年度まで黒字を計上していた。しかし、1998年度に約6億円の単年度赤字を出し、以降も単年度赤字が続いた。

2005年度には約1億3200万円にまで単年度赤字額を圧縮したが累積赤字は2008年度時点で約13億6000万円。廃止に追い込まれた中津競馬の約20億円や新潟県競馬の約66億円ほどではないが、見通しは厳しい状況にあった。2008年から2009年にかけて「荒尾競馬活性化委員会」、2009年5月に「荒尾競馬あり方検討会」がそれぞれ設置され[3]今後に向けての議論が行われた。

経費削減のために2007年後期から賞金が大幅に減らされ、最下級条件競走の賞金が高知競馬と大差ないレベル[4]に下がってしまった。また、JRAの補助がないレースとしては最高額競走は2歳九州地区交流重賞の九州ジュニアグランプリで1着賞金は250万円。3歳重賞の荒尾ダービー、荒尾所属馬のみのレースでは大阿蘇大賞典で両競走の1着賞金は100万円。出走手当は5万~6万円[5]と、賞金規模のわりに比較的高い設定になっていたが、これも2010年8月21日から一律1万5000円の削減が行われ、馬主側が簡易裁判所に調停を申し立てる事態になっている[6]。

荒尾競馬は所属馬が310頭強(2009年現在)と競走馬の不足が慢性化していた。その状況を打開するため2008年(2007年度)の冬季開催では姉妹競馬場提携を記念して岩手競馬より競走馬50頭、厩務員12人、調教師2人、騎手3人が参戦した。荒尾側にとっては競走馬確保によるレース数、1レースの出走頭数増のメリットがあり岩手競馬側は冬季開催ができないため、その間の人馬資源の有効活用、レース出走機会確保のチャンスができるメリットがあり双方の利害が一致した形であった。

馬の輸送費などの経費5000万円は荒尾とNARが負担していた。2009年(2008年度)の冬季開催では熊本県馬主会がホッカイドウ競馬の馬主に依頼をして約30頭の競走馬が参戦していた。ホッカイドウ競馬の競走馬は所属変更はせず、荒尾競馬の調教師に期間限定で管理委託するという形式を採っていた。また前年と同様の形式で岩手競馬からも47頭が参戦した。これらの結果により1月20日、21日開催から3月まで第12競走が施行されることとなった。

2001年に突如廃止され大混乱を来した中津競馬場から厩舎関係者に多くの人材を受け入れた事情もあり主催者も厩舎関係者も一様に競馬場運営に対する危機意識が強く[7]JRAの重賞競走の場間場外発売窓口の場内設置や全国の地方競馬で開催されるダートグレード競走の場外発売、接客施設の改善、ホームページの拡充など現代競馬の最先端に歩調を合わせる訳ではないが時代の潮流への対応は地道に続けており華やかさには欠けるものの等身大の経営を着実に行っている競馬場として一定の評価を得ていた[7]。

2011年8月25日、競馬組合(市と県による一部事務組合)を管理する市が本年度限りで廃止する方針を固めた[8]。前畑淳治荒尾市長が9月の市議会で廃止方針を表明する方向で調整し、9月5日、前畑市長は2011年一杯で廃止することを正式に表明した。これにより、約83年10ヶ月の歴史に幕が下ろされることになった。

同年12月23日の全9競走の施行をもって全ての日程を終了。最終競走となった当日第9競走は「さよなら・感謝・荒尾競馬」と銘打たれ、所属騎手のほぼ全員が出場した他、通常登場しなかった誘導馬2頭も登場し場内を盛り上げた[9]。レース終了後は関係者、騎手、調教師などによるお別れセレモニーが行われ、馬場の一般開放も行われた。この中で前畑市長があいさつし、2012年度末まで場外発売を行うと発表した。なおその後の報道で場外発売は2011年3月末まで荒尾競馬組合が運営し、2012年度は民間委託のうえ場外発を行うとしている[10]。

荒尾競馬場 場外発売所


ニューウェーブ大崎 – 鹿児島県大崎町野方宮ノ下2955
BAOO天文館 – 鹿児島県鹿児島市山之口町7番2

荒尾競馬場 備考

熊本県上天草市(旧松島町)、宮崎県宮崎市(旧清武町)、鹿児島県鹿児島市石谷町に場外馬券売場設置の計画があった。
福岡県福岡市(ホークスタウン内)への専用場外馬券売場(佐賀競馬場、岩手県競馬組合との3主催者合同)の設置も計画されたことがある。だが、これについては福岡市側で選挙の際の政争の具にされるなどしてしまい最終的には当時の市長、山崎広太郎が場外計画に反対の姿勢を打ち出した(他の公営競技施設として福岡競艇場を主催していること、さらに福岡ドームの周辺地域は教育機関が多い「文教地区」であったため地域住民・PTAなどの反発に遭ったことも一因とされる)ため結果として現状では頓挫したとされている。

荒尾競馬場 脚注

^ ただし2010年11月27日のワールドスーパージョッキーズシリーズ開催日は「荒尾所属騎手(当年のWSJS地方競馬代表)が騎乗する」ためとして該当の3競走(東京9・11・12R。すべて特別競走)の勝馬投票券も発売された(出典:今年の荒尾場外では「ワールドスーパージョッキーズシリーズ」をすべて発売!! – JRA公式サイト)。
^ さらに2011年は土曜日の重賞競走の発売対象が拡大されている他、5月21日のテレビ愛知オープン(オープン特別)、6月11日の灘ステークスと6月18日のストークステークスと6月25日の鳴門ステークス(特別競走)、6月12日のCBC賞と6月19日のマーメイドステークス、9月4日の小倉2歳ステークス(いずれもGIII・前日発売も)、8月21日の札幌記念(GII・前日発売も)の発売が行われた(出典:5月21日(土)~6月12日(日)の発売・払戻のご案内・6月18日(土)~7月10日(日)の発売・払戻のご案内・8月13日(土)~9月4日(日)の発売・払戻のご案内 – いずれもJRA公式サイト)。
^ 荒尾競馬あり方検討会について(荒尾市ホームページ)
^ 最下級の1着賞金10万円、2着2万5000円は高知競馬より高いが3着1万円、4着3000円、5着2000円は全国最低である。また、出走頭数が6頭以下の場合5着賞金はなかった。
^ 同程度の賞金規模である高知競馬の出走手当は2万7000円。ただし、現在は一時的に3万2700円に増額されている。
^ 存廃正念場の荒尾競馬、出走手当引き下げで大揺れ
^ a b “高知競馬というお仕事14 =第3部= 夢の跡流浪記”. 高知新聞夕刊 (2003年2月8日). 2008年8月5日閲覧。
^ 赤字体質の改善難しく…荒尾競馬が年度内に廃止へ スポーツニッポン 2011年8月26日閲覧
^ 荒尾競馬、83年の歴史に幕…最古の地方競馬 読売新聞 2011年12月24日閲覧。なお最終レースはフルゲート12頭立てであり、もう1人の所属騎手で当日第6競走で最後の騎乗を終えた西村栄喜騎手がもう1頭の誘導馬に乗った。
^ 荒尾競馬83年の歴史に幕 ファン9千人大声援 熊本日日新聞 2011年12月24日閲覧

アクシオン

アクシオン

牡 8歳
生年月日:2003年3月29日
毛色:鹿毛
調教師(所属):二ノ宮 敬宇(美浦)
馬主:中田 徹
生産者:坂東牧場
産地:平取町
サンデーサイレンス Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
グレイテストヒッツ Dixieland Band Northern Dancer
Mississippi Mud
Simple Taste Sharpen Up
Trove
本賞金 付加賞金 収得賞金
2億4766万円 341.7万円 平地 7850万円 障害 0万円
総合成績
条件別成績
競馬場別成績
距離別成績・連対時の馬体重と斤量


総合成績2011年10月31日現在
平地競走成績
種別 1着 2着 3着 4着~ 出走 勝率 連対率
GI 0 0 0 4 4 .000 .000
GII 0 1 1 2 4 .000 .250
GIII 2 0 1 3 6 .333 .333
その他重賞 0 0 0 0 0 .000 .000
重賞合計 2 1 2 9 14 .143 .214
特別 4 3 1 3 11 .364 .636
他 1 0 0 2 3 .333 .333
合計 7 4 3 14 28 .250 .393
障害競走成績
種別 1着 2着 3着 4着~ 出走 勝率 連対率
JGI 0 0 0 0 0 .000 .000
JGII 0 0 0 0 0 .000 .000
JGIII 0 0 0 0 0 .000 .000
その他重賞 0 0 0 0 0 .000 .000
重賞合計 0 0 0 0 0 .000 .000
特別 0 0 0 0 0 .000 .000
他 0 0 0 0 0 .000 .000
合計 0 0 0 0 0 .000 .000
出走レース
年月日 レース 競馬場 コース 馬場 頭
数 枠
番 馬
番 人
気 オッズ 着
順 騎手名 斤量 馬体重 タイム 上3F 通過順位 タイム差
11/10/30 天皇賞(GI) 東京 芝2000 良(曇) 18 2 3 16 249.9 12 柴田善臣 58.0 522(-2) 1.58.0 36.6 07-05-07 -1.9
11/10/09 毎日王(GII) 東京 芝1800 良(晴) 11 6 6 8 28.4 9 吉田隼人 57.0 524(6) 1.47.2 33.4 06-06-06 -0.5
11/08/21 札幌記(GII) 札幌 芝2000 良(晴) 13 2 2 5 7.6 2 吉田隼人 57.0 518(-14) 2.00.4 34.5 03-02-03-04 -0.0
11/07/24 函館記(GIII) 函館 芝2000 良(晴) 16 7 13 7 15.4 3 三浦皇成 57.0 532(4) 2.00.6 35.5 12-09-11-12 -0.3
11/06/12 エプソ(GIII) 東京 芝1800 良(曇) 18 8 16 12 53.4 10 三浦皇成 57.0 528(-6) 1.48.2 35.6 09-11-11 -0.9
11/01/05 中金杯(GIII) 中山 芝2000 良(晴) 16 3 6 3 9.4 12 内田博幸 57.5 534(16) 2.00.4 34.4 08-08-10-10 -0.6
10/12/04 鳴尾記(GIII) 阪神 芝1800 良(晴) 12 8 12 6 10.5 10 武豊 57.0 518(-12) 1.45.9 34.1 11-10 -1.0
10/10/31 天皇賞(GI) 東京 芝2000 稍重(曇) 18 6 11 10 33.9 9 武豊 58.0 530(4) 1.59.4 34.4 17-18-18 -1.2
10/08/22 札幌記(GII) 札幌 芝2000 良(晴) 16 3 5 7 18.1 3 岩田康誠 57.0 526(-2) 1.59.9 35.7 07-06-06-04 -0.5
10/06/27 宝塚記(GI) 阪神 芝2200 稍重(晴) 18 8 16 10 46.5 15 藤田伸二 58.0 528(2) 2.14.5 37.6 07-08-05-04 -1.5
10/05/29 金鯱賞(GII) 京都 芝2000 良(晴) 14 5 8 3 5.6 7 藤田伸二 57.0 526(-6) 2.00.3 34.4 06-06-05-04 -0.8
10/01/05 中金杯(GIII) 中山 芝2000 良(晴) 16 2 4 1 3.2 1 藤田伸二 57.0 532(14) 2.00.8 35.1 08-08-11-08 0.0
09/12/05 鳴尾記(GIII) 阪神 芝1800 良(晴) 14 8 13 7 24.2 1 藤田伸二 56.0 518(-2) 1.46.5 33.1 08-06 0.2
09/10/31 八坂S 京都 芝1800 良(晴) 14 1 1 2 5 1 岩田康誠 57.0 520(-6) 1.45.8 34.2 08-06 0.1
09/10/10 大原S 京都 芝2000 良(晴) 16 4 7 3 4.7 2 岩田康誠 57.0 526(4) 1.58.6 34.6 08-08-08-07 -0.6
09/08/22 ポプラ 札幌 芝2000 良(晴) 16 4 8 6 10.8 2 岩田康誠 57.0 522(-16) 2.00.3 35.0 10-09-07-07 -0.0
09/06/06 江の島 東京 芝1800 重(曇) 16 3 6 2 4.3 1 内田博幸 57.0 538(-2) 1.49.7 35.5 12-13-12 0.3
09/05/17 TV埼 東京 芝2000 良(曇) 14 4 6 3 6.2 5 内田博幸 57.0 540(4) 2.01.0 36.5 03-02-02 -0.7
09/04/26 石和特 東京 芝1800 稍重(晴) 15 5 9 5 10.1 5 内田博幸 57.0 536(8) 1.47.5 37.1 06-07-07 -1.0
07/01/13 迎春S 中山 芝2500 良(晴) 11 3 3 1 2 3 田中勝春 56.0 528(-2) 2.33.7 37.1 04-04-04-03 -1.1
06/12/23 クリC 中山 芝1800 良(晴) 14 8 13 2 3.6 4 田中勝春 56.0 530(10) 1.47.2 35.8 07-08-07-05 -0.3
06/10/22 菊花賞(GI) 京都 芝3000 良(晴) 18 7 15 10 60.5 5 田中勝春 57.0 520(-10) 3.03.5 34.4 12-14-13-13 -0.8
06/09/24 HTB 札幌 芝1800 良(晴) 12 2 2 1 1.6 1 藤田伸二 54.0 530(4) 1.47.9 35.6 03-03-04-02 0.5
06/09/09 TVh 札幌 芝2000 良(晴) 11 4 4 1 2.1 2 藤田伸二 54.0 526(4) 2.01.9 34.4 03-03-02-02 -0.0
06/08/27 石狩特 札幌 芝1800 良(晴) 14 1 1 2 5 1 藤田伸二 54.0 522(8) 1.48.5 34.8 02-02-02-01 0.2
06/04/09 3歳 中山 ダ1800 良(晴) 13 1 1 2 2.7 4 北村宏司 56.0 514(6) 1.56.5 38.7 05-05-04-04 -0.1
06/03/25 3歳 中山 ダ1800 稍重(晴) 13 5 7 1 1.5 4 柴田善臣 56.0 508(-2) 1.56.4 37.8 06-07-07-06 -0.6
06/03/12 未勝利 中山 ダ1800 良(晴) 14 2 2 1 1.9 1 柴田善臣 56.0 510 1.56.7 38.1 10-10-08-04 0.4
年月日 レース 競馬場 コース 馬場 頭

アドマイヤフジ

アドマイヤフジ


品種 サラブレッド
性別 牡
毛色 黒鹿毛
生誕 2002年3月1日(9歳)
父 アドマイヤベガ
母 アドマイヤラピス
母の父 Be My Guest
生国 日本(北海道浦河町)
生産 辻牧場
馬主 近藤利一
調教師 橋田満(栗東)
→川島正行(船橋)
競走成績
生涯成績 38戦6勝
獲得賞金 4億633万1000円

アドマイヤフジは、元競走馬。馬名の由来は冠名の「アドマイヤ」と「富士」である。母は牝馬ながらステイヤーズSの2着馬。1歳上の半兄は、交流G1全日本2歳優駿の勝ち馬アドマイヤホープである。

アドマイヤフジ 戦績

アドマイヤフジ 2004年

7月11日の新馬戦で武豊を背にデビュー。1番人気はペールギュントに譲って2番人気でレースを迎えたが、後方から見事な末脚を見せて勝利。この新馬戦は結果的に3着だったペールギュントや、8着のシルクネクサスなど後に出世する馬が多いハイレベルな一戦だった。血統的に成長が見込めることから、夏場はデビュー勝ちのみで休養に入った。暮れのホープフルステークスで復帰したが、0.1秒差でエキゾーストノートの3着となり、2歳を終えた。

アドマイヤフジ 2005年

1月9日の寒竹賞(500万下)では、叩き2戦目ということもあって1.7倍と圧倒的な1番人気に支持された。しかしレースでは先に抜け出したシーザリオにクビ差敗れ、2着だった。続くきさらぎ賞でも1番人気に支持されたが、コンゴウリキシオーに敗れ3着と賞金を加算できなかった。しかし若葉ステークスは1番人気に応え、シックスセンスらを退けてクラシックの権利を確保した。

本番の皐月賞では、武豊が早くからディープインパクトへの騎乗を決めていたこともあって、福永祐一に乗り替わりとなった。レースでは8番人気と人気を落としたが、後方から堅実な末脚を見せて5着に入った。皐月賞で4着までに入ることで与えられる東京優駿の優先出走権は得られなかったため、ここで陣営は本番の前にもう1戦、京都新聞杯を使うことを余儀なくされる。

レースでは後方から足を伸ばしたが、皐月賞に出ていなかった新星インティライミの3着に敗れてしまった。結局東京優駿の出走権はアドマイヤフジにも与えられたため、その後再度関東に遠征。京都新聞杯の内容から9番人気と皐月賞以上の人気の盲点となったが、中団からレースを進めてディープインパクトの4着と健闘し春を終えた。

秋は賞金の確保を目指し、ディープインパクトらの出走する神戸新聞杯を避け、柴田善臣に乗り替わってセントライト記念に出走。しかしレースは最後方からの厳しいものとなり、出走馬中最速の上がり3F34.4で追い込んだが、4着と賞金のみならず、またも優先出走権を逃してしまう。再び福永を背に迎えた菊花賞も出走は叶ったが、相手も悪く距離も長かったため、6着と初めて掲示板を外す結果に終わった。堅実に走るものの、どうにも勝ち運に見放された形になっていたが、その後11月20日の古都ステークス(1600万下)に出走し、今までに無い積極的な先行策でスウィフトカレントらを相手に勝利。オープン馬となって年を越すこととなった。

アドマイヤフジ 2006年

正月を厩舎で過ごして出走した日経新春杯では、再びスウィフトカレントや、故障明けのインティライミらとの対戦となった。ここでも前走で見せた先行からの抜け出しを披露し、自身初の連勝で待望の重賞初勝利を挙げた。しかしその後、胸椎棘突起骨折を発症し、春から夏にかけて休養することになった。復帰戦は翌年との話もあったが、結局武幸四郎に乗り替わって第51回有馬記念に出走。クラシックで苦杯をなめた同期のディープインパクトの引退レースでもあり、14頭立ての12番人気だったが、後方からのレースで8着というまずまずの結果を残した。

アドマイヤフジ 2007年

前走のレース振りから、連覇を期待された日経新春杯では1番人気に支持された。前年同様中団より前からの積極的な競馬を見せたが、この年はサイレントディールが快調に飛ばしたこともあって、先行馬には苦しい流れとなる。最終的に勝ったトウカイワイルドから、0.4秒差の6着という結果に終わった。このまま賞金が加算できなければG1出走が叶わなくなるため、次走はハンデ戦のダイヤモンドステークスに出走。メンバーは手薄であったが、手薄なだけに一年以上未勝利の本馬が57.5キロのトップハンデを背負うことになった。レースでは3番人気に支持されるも、最後は足も上がってしまい、13着となった。

一息入れて挑んだ目黒記念では斤量も0.5kg減り、57kgでの出走となった。6番人気ながらハナに行く構えまで見せる2番手からレースを進め、ポップロックの3着となり、復帰後初の掲示板を確保した。ただ賞金不足は如何ともしがたく、登録した第48回宝塚記念も、賞金不足で当初は出走はできない見込みだった。最終的にスイープトウショウが回避したため、最後の1枠に滑り込む形で出走した。レースでは13番人気ながら直線ではよく伸び、アドマイヤムーンから0.5差の4着に入線。実力が衰えていないことを示した。

夏場に課題の賞金を確保し、秋のG1戦線に挑むために、次走には間を置かず函館記念が選ばれた。57.5kgのトップハンデだったが、レースでは1番人気に推された。しかし函館記念三連覇のエリモハリアーの4着に敗れ、またも賞金確保に失敗した。更に同じく北海道で開催される札幌記念に出走を予定していたが、馬インフルエンザ騒動により開催が中止となり、ローテーションまで狂ってしまった。札幌記念自体は9月2日に行われたが、新潟2歳ステークスなどと日程が重なった関係で、上村洋行に乗り替わり、9着に敗れた。

その後国内のG1レースでは賞金の不足が見込まれたことから、一旦は第1希望香港ヴァーズ、第2希望香港カップにそれぞれ予備登録を行い海外遠征を目指した。しかしこれも馬インフルエンザの余波で調整が難航し、回避することになる。調整自体はその後も順調に続けられ、年末には鳴尾記念に出走。5番人気だったが、初騎乗の川田将雅の手綱に導かれ、同馬主のアドマイヤオーラと同着の3着となった。その後第52回有馬記念に登録を行っていたが、回避している。

アドマイヤフジ 2008年

有馬記念を回避して照準を合わせた1月5日の中山金杯では、57.5kgを背負うことになった。前走に続き川田を背に3番人気で出走した。レースでは楽に先行し、直線で悠々と抜け出して勝利を挙げた。約2年ぶりの勝利を、重賞2勝目で飾っている。この後、1月22日に締め切られたアジアマイルチャレンジのシリーズ登録を行っている。

続いての京都記念では、前年の鳴尾記念で同着だったアドマイヤオーラに敗れ、2着となった。その後の阪神大賞典では2番人気に推されたが、同馬主のアドマイヤジュピタから離された6着だった。

続く天皇賞(春)では、同馬主のアドマイヤジュピタ、アドマイヤモナーク、アドマイヤメインの4頭と、揃って出走したことで話題となった。本馬は前走の敗北もあって、その中でも10番人気と人気が落ちていた。レースでは直線大外から追い上げ、5着に入っている。その後一息入れて、2年連続となる宝塚記念に出走した。ここでも9番人気と評価は芳しくなかったが、勝ったエイシンデピュティから0.5差の6着となっている。レース後は放牧に出されることとなった。

夏場を休養にあて、秋は毎日王冠から始動した。ウオッカを始めとした人気馬が揃ったことで、人気は10番人気と奮わなかった。しかし先行してよく粘り、スーパーホーネットの3着に入っている。本番の天皇賞(秋)でも先行したが、ウオッカから0.8差の11着に敗れた。その後はダートの調教での動きが良いことから、初のダート戦となるジャパンカップダートに出走した。しかしここでは砂をかぶったことで3コーナーから後退。勝ったカネヒキリから3秒以上離され、ブービーの14着に敗れることとなった。

アドマイヤフジ 2009年

1月4日に、前年に続いて中山金杯に出走した。ここでは実績上位でもあり、アサカディフィートと並ぶ、トップハンデ58kgを背負うことになった。レースでは先行して2番手につけると最後の直線で抜け出し、ヤマニンキングリーの追走を抑えて1着となった。この中山金杯の連覇により重賞3勝目を挙げた。尚、同馬の重賞勝ちは全て1月施行の重賞競走という珍記録となっている。

その後、3月1日の中山記念に出走したが、最後の直線の攻防でカンパニー、ドリームジャーニーに競り負けて3着となった。続く4月5日の大阪杯では最後の直線で一旦先頭に立つものの脚が止まって4着に終わった。その後、初の新潟参戦となった5月9日の新潟大賞典に出走。道中は好位で競馬を進めたが、最後の直線で伸び切れず4着に敗れた。続いて6月28日の宝塚記念にも出走したが、10着に敗れた。休養を挟み、10月11日の毎日王冠では先団でレースを進めたが直線で後退し6着に敗れた。本番の天皇賞(秋)では好位追走も10着に終わった。
アドマイヤフジ 2010年

明け8歳となった2010年4月24日にJRA競走馬登録を抹消されることを発表し、28日付で登録抹消、船橋競馬の川島正行厩舎に移籍した[1]。地方移籍緒戦となった7月2日の武蔵野オープンでは2着と好走したが、続く8月12日のブリーダーズゴールドカップでは7着、9月23日の日本テレビ盃では10着と惨敗を喫した。その後、11月3日のJBCクラシックに出走予定だったが、馬場入場後に故障を発症し競走除外となった。2011年1月24日付で地方登録を抹消された。
^ アドマイヤフジ号が競走馬登録抹消 – JRA公式サイト 2010年4月24日閲覧。

アドマイヤフジ 競走成績

年月日 競馬場 競走名 格 頭
数 枠
番 馬
番 オッズ
(人気) 着順 騎手 斤量 距離(馬場) タイム
(上り3F) タイム
差 勝ち馬/(2着馬)
2004 7. 11 阪神 2歳新馬 16 2 3 2.4(2人) 1着 武豊 54 芝1600m(良) 1:37.5(35.7) -0.4 (イブキレボルシオン)
12. 26 中山 ホープフルS OP 11 6 7 4.7(2人) 3着 武豊 55 芝2000m(良) 2:02.7(35.1) 0.1 エキゾーストノート
2005 1. 9 中山 寒竹賞 16 2 3 1.7(1人) 2着 武豊 56 芝2000m(良) 2:01.6(34.9) 0.0 シーザリオ
2. 13 京都 きさらぎ賞 GIII 9 8 8 2.5(1人) 3着 武豊 56 芝1800m(良) 1:48.6(33.7) 0.1 コンゴウリキシオー
3. 19 阪神 若葉S OP 14 4 5 1.8(1人) 1着 武豊 56 芝2000m(良) 2:00.3(35.0) -0.1 (タガノデンジャラス)
4. 17 中山 皐月賞 GI 18 1 1 35.3(8人) 5着 福永祐一 57 芝2000m(良) 2:00.0(34.5) 0.8 ディープインパクト
5. 7 京都 京都新聞杯 GII 15 8 14 3.0(2人) 3着 福永祐一 56 芝2200m(稍) 2:13.4(35.9) 0.4 インティライミ
5. 29 東京 東京優駿 GI 18 3 6 47.7(9人) 4着 福永祐一 57 芝2400m(良) 2:24.6(34.7) 1.3 ディープインパクト
9. 18 中山 セントライト記念 GII 15 2 3 4.7(3人) 4着 柴田善臣 56 芝2200m(良) 2:12.1(34.4) 0.3 キングストレイル
10. 23 京都 菊花賞 GI 16 3 5 30.2(4人) 6着 福永祐一 57 芝3000m(良) 3:06.9(35.4) 2.3 ディープインパクト
11. 20 京都 古都S 12 1 1 3.5(2人) 1着 福永祐一 57.5 芝2200m(良) 2:14.4(33.5) 0.0 (スウィフトカレント)
2006 1. 15 京都 日経新春杯 GII 12 4 4 5.4(2人) 1着 福永祐一 55 芝2400m(稍) 2:26.3(35.5) 0.0 (スウィフトカレント)
12. 24 中山 有馬記念 GII 14 7 12 131.4(12人) 8着 武幸四郎 57 芝2500m(良) 2:32.8(34.6) 0.9 ディープインパクト
2007 1. 14 京都 日経新春杯 GII 12 7 9 2.3(1人) 6着 福永祐一 57.5 芝2400m(良) 2:27.8(35.7) 0.4 トウカイワイルド
2. 11 東京 ダイヤモンドS JpnIII 15 8 16 6.6(3人) 13着 福永祐一 57.5 芝3400m(良) 3:33.4(37.3) 2.8 トウカイトリック
5. 27 東京 目黒記念 JpnII 18 5 10 19.7(6人) 3着 福永祐一 57 芝2500m(良) 2:31.6(35.2) 0.2 ポップロック
6. 24 阪神 宝塚記念 GI 18 5 9 59.9(13人) 4着 福永祐一 58 芝2200m(稍) 2:12.9(36.4) 0.5 アドマイヤムーン
7. 22 函館 函館記念 JpnIII 10 2 2 3.5(1人) 4着 福永祐一 57.5 芝2000m(良) 2:03.1(36.0) 0.3 エリモハリアー
9. 2 札幌 札幌記念 JpnII 16 6 11 7.4(4人) 9着 上村洋行 57 芝2000m(良) 2:00.8(34.9) 0.7 フサイチパンドラ
12. 8 阪神 鳴尾記念 GIII 16 7 13 16.3(5人) 3着 川田将雅 56 芝1800m(良) 1:47.6(33.5) 0.1 ハイアーゲーム
2008 1. 5 中山 中山金杯 GIII 16 7 13 6.4(3人) 1着 川田将雅 57.5 芝2000m(良) 2:00.7(34.6) -0.3 (エアシェイディ)
2. 23 京都 京都記念 GII 16 7 14 7.4(4人) 2着 川田将雅 57 芝2200m(良) 2:13.8(34.3) 0.2 アドマイヤオーラ
3. 23 阪神 阪神大賞典 GII 13 7 11 4.3(2人) 6着 川田将雅 57 芝3000m(良) 3:09.6(35.1) 0.9 アドマイヤジュピタ
5. 4 京都 天皇賞(春) GI 14 2 2 25.9(10人) 5着 川田将雅 58 芝3200m(良) 3:15.8(35.2) 0.7 アドマイヤジュピタ
6. 29 阪神 宝塚記念 GI 14 5 7 27.3(9人) 6着 川田将雅 58 芝2200m(重) 2:15.8(37.4) 0.5 エイシンデピュティ
10. 12 東京 毎日王冠 GII 16 3 5 33.9(10人) 3着 川田将雅 57 芝1800m(良) 1:44.9(33.8) 0.3 スーパーホーネット
11. 2 東京 天皇賞(秋) GI 17 5 9 57.9(12人) 11着 川田将雅 58 芝2000m(良) 1:58.0(35.6) 0.8 ウオッカ
12. 7 阪神 ジャパンCダート GI 15 5 9 26.1(8人) 14着 川田将雅 57 ダ1800m(良) 1:52.3(39.1) 3.1 カネヒキリ
2009 1. 4 中山 中山金杯 GIII 16 1 1 8.3(4人) 1着 川田将雅 58 芝2000m(良) 1:58.5(35.7) 0.0 (ヤマニンキングリー)
3. 1 中山 中山記念 GII 10 6 6 4.0(2人) 3着 川田将雅 57 芝1800m(稍) 1:49.3(34.9) 0.1 (カンパニー)
4. 5 阪神 大阪杯 GII 12 4 4 20.0(7人) 4着 川田将雅 57 芝2000m(良) 2:00.0(34.8) 0.3 ドリームジャーニー
5. 9 新潟 新潟大賞典 GIII 16 1 2 7.1(3人) 4着 川田将雅 58.5 芝2000m(良) 1:57.6(34.5) 0.7 シンゲン
6. 28 阪神 宝塚記念 GI 14 3 4 44.1(9人) 10着 川田将雅 58 芝2200m(良) 2:12.3(35.6) 1.0 ドリームジャーニー
10. 11 東京 毎日王冠 GII 11 2 2 40.6(7人) 6着 川田将雅 57 芝1800m(良) 1:46.1(34.1) 0.8 カンパニー
11. 1 東京 天皇賞(秋) GI 18 2 4 94.4(15人) 10着 C.スミヨン 58 芝2000m(良) 1:58.4(34.4) 1.2 カンパニー


アドマイヤフジ血統表

アドマイヤフジの血統 (サンデーサイレンス系/Northern Dancer 4×3=18.75%、Almahmoud 5×5=6.25%)


アドマイヤベガ
1996 鹿毛 *サンデーサイレンス
1986 青鹿毛 Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
ベガ
1990 鹿毛 *トニービン Kampara
Severn Bridge
*アンティックヴァリュー Northern Dancer
Moonscape


*アドマイヤラピス
1992 栗毛 Be My Guest
1974 栗毛 Northern Dancer Nearctic
Natalma
What a Treat Tudor Minstrel
Rare Treat
Elevate
1985 鹿毛 Ela-Mana-Mou *ピットカーン
Rose Bertin
Sunny Valley Val de Loir
Sunland F-No.1-l
半弟にアドマイヤホープ(父フォーティナイナー、同馬の項参照。)、アドマイヤコスモス(父アドマイヤマックス、福島記念勝ち)
曾祖母Sunny Valleyの産駒にサドラーズホール(イギリスG1コロネーションカップ勝ち、種牡馬)が居るほか、その子孫に以下の馬が居る。
フサイチコンコルド(GI日本ダービー優勝馬)
リンカーン(GII阪神大賞典・京都大賞典・日経賞優勝馬)
ヴィクトリー(JpnI皐月賞優勝馬)
エリンバード(牝馬、1994年にフランスG2オペラ賞で武豊が騎乗し1位入線も、他馬の進路を妨害し、5着に降着となった。のちに安田記念にも出走し、日本に輸入され繁殖牝馬となった)。

2011年東京競馬記者クラブ賞に池江泰寿厩舎が選ばれましたね。

東京競馬記者クラブが「池江泰寿厩舎」に平成23年度東京競馬記者クラブ賞を贈るそうです。

なにしろ池江泰寿厩舎は、オルフェーヴルで牡馬3冠を達成ましたし、調教師の年間獲得賞金記録(23億8601万7000円)をつくりましたたからね。当然でしょうね。

池江泰寿調教師は、「このような名誉ある賞をいただき、うれしく思います。来年はオルフェーヴルの凱旋門賞挑戦という大きな目標もありますので、引き続き頑張っていきたいと思います」とのコメントをしています。

オルフェーヴルは強すぎるので、どんどん海外で活躍してほしいなあ。穴馬券を狙う身としては、
その方がありがたいかも、です。


東京競馬記者クラブ賞

東京競馬記者クラブ賞(とうきょうけいばきしゃくらぶしょう)とは、その年に顕著な活躍を見せた関東(美浦トレーニングセンター)の騎手、競走馬やその馬主などに対する表彰。

東京競馬記者クラブに加盟している19社が選出する。関西(栗東トレーニングセンター)には同様の賞として関西競馬記者クラブ賞がある。

東京競馬記者クラブ賞 主な受賞者・馬

年度 受賞者・馬 所属厩舎 備考
1987年 岡部幸雄 フリー
1995年 藤沢和雄 藤沢和雄
1997年 藤沢和雄 藤沢和雄
境勝太郎 境勝太郎
1998年 蛯名正義 フリー
1999年 渡邊隆 –
2000年 テイエムオペラオー 岩元市三 関西競馬記者クラブ賞も受賞
野平祐二 – 特別賞
2001年 蛯名正義 フリー
2002年 シンボリクリスエス 藤沢和雄
サンデーサイレンス – 特別賞
2003年 武豊 フリー 関西競馬記者クラブ賞も受賞
2004年 藤沢和雄 藤沢和雄
コスモバルクと関係者 田部和則
2005年 池江泰郎厩舎 池江泰郎
岡部幸雄 – 特別賞
2006年 ダイワメジャー 上原博之
2007年 国枝栄 国枝栄
2008年 三浦皇成 河野通文
2009年 内田博幸 嶋田潤
横山典弘 フリー 特別賞
2010年 アパパネ 国枝栄 関西競馬記者クラブ特別賞も受賞
蛯名正義 フリー 特別賞
2011年 池江泰寿 池江泰寿

有馬記念、馬番順の成績を見ると、アレッ!?

14番15番16番に入った馬は、残念でしたあ!になってますね。

中山芝2500メートルのコースの特徴がもろに影響していますね。やっぱり外外を回されると、どんなに強い馬でも 馬券にならないですね。

さて、どの馬が、14番15番16番に入ってしまうのでしょうか?
ブエナビスタだったりして!?

[馬番]
1番(5-4-7-44) 8.3% 15.0% 26.7%
2番(5-4-0-51) 8.3% 15.0% 15.0%
3番(5-5-9-41) 8.3% 16.7% 31.7%
4番(7-6-2-45) 11.7% 21.7% 25.0%
5番(5-6-11-38) 8.3% 18.3% 36.7%
6番(6-5-2-46) 10.2% 18.6% 22.0%
7番(9-8-3-40) 15.0% 28.3% 33.3%
8番(3-5-6-46) 5.0% 13.3% 23.3%
9番(3-2-7-44) 5.4% 8.9% 21.4%
10番(7-4-2-40) 13.2% 20.8% 24.5%
11番(1-7-2-40) 2.0% 16.0% 20.0%
12番(1-2-6-31) 2.5% 7.5% 22.5%
13番(3-1-2-19) 12.0% 16.0% 24.0%
14番(0-1-0-17) 0.0% 5.6% 5.6%
15番(0-0-0-10) 0.0% 0.0% 0.0%
16番(0-0-1-5)  0.0% 0.0% 16.7%

2011年12月25日第56回有馬記念登録馬の中山芝成績は!?

2011年12月25日第56回有馬記念登録馬の中山芝成績は、

アーネストリー  (1-0-0-1) ’11オールカマー・1着
エイシンフラッシュ(1-0-1-1) ’10皐月賞・3着、’10京成杯・1着
オルフェーヴル  (0-1-0-0)
キングトップガン (未)
シャドウゲイト  (3-3-0-9) ’10AJCC・2着、’07中山金杯・1着
ジャガーメイル  (1-1-0-2)
トーセンジョーダン(3-0-0-1) ’11AJCC・1着
トゥザグローリー (0-0-1-0) ’10有馬記念・3着
ヒルノダムール  (0-1-0-0) ’10皐月賞・2着
ブエナビスタ   (0-2-0-0) ’10有馬記念・2着、’09有馬記念・2着
ペルーサ     (0-0-0-1)
マイネルキッツ  (2-2-0-9) ’11ステイヤーズS・1着、’10日経賞・1着
ルーラーシップ  (0-0-0-1)
レッドデイヴィス (未)
ローズキングダム (1-0-1-1) ’10スプリングS・3着、’09朝日杯FS・1着
ヴィクトワールピサ(4-0-0-0) ’11中山記念・1着、’10有馬記念・1着


中山の芝は適性がないとどうにもならない特殊な舞台です。このデータを見るとヴィクトワールピサが4戦4勝で断然です。今年は中山記念を勝っていますし、昨年は、この有馬記念を勝っています。

ドバイで世界一になった馬なんですから、是非、巻き返してきてほしいです。
ジャパンカップはスタートでアオった部分もあるけど、スタートダッシュができなくて出遅れ癖がついてしまったような感じもありますね。
軸にするには不安要素も多いですが、能力、コース適性を考えると外せない馬ですね。


トーセンジョーダンは、激戦による疲労があるのは間違いないでしょうね。
ただ問題は、その目に見えない疲労が競走能力にどれだけ影響するかと言う事でしょう。
それでもトーセンジョーダンの天皇賞やJCでの走りを見て、中山コースと2500メートルへの適性を見ると
高評価せざるを得ないですね。ウィリアムズ騎手も好調ですしね。


オルフェーヴルには中山芝の経験があまりありません。しかし元々は、兄のドリームジャーニー(2009年有馬記念優勝)と同じく中山向きと言われていた馬ですから、おそらく大丈夫でしょう。
でも中山2500はやっぱり先行有利なコースです。外人騎手は、積極的に前を狙ってくるでしょう。
前残りは十分考えられるので、ブエナビスタもオルフェーヴルも、そう楽勝とは思えませんね。

レッドデイヴィスに武豊騎乗で、有馬記念!

ペルーサは、安藤勝己騎手で挑有馬記念。
レッドデイヴィスは武豊騎手との新コンビで有馬記念に出走が決まりました。
武豊騎手は当初騎乗予定馬がなかったんですね。
これで16年連続22度目の有馬参戦が決まりました。
果たして、JRAのG1・24年連続制覇ができるかな。

武豊騎手は、「これで1週間のテンションが途端に高くなった。レッドデイヴィスはなんといっても3冠馬(オルフェーヴル)にシンザン記念で土をつけている馬だからね。
前走は骨折明けで重賞勝ちと能力が高いので十分、狙っていける」

ますます有馬記念が面白くなりました。

有馬頼寧

有馬頼寧
 
ありま よりやす
生年月日	1884年12月17日
出生地	東京都渋谷区
没年月日	1957年1月9日(満72歳没)
出身校	東京帝国大学
(現・東京大学)
所属政党	(立憲政友会→)
無所属
称号	伯爵
勲一等瑞宝章
親族	父・有馬頼万
祖父・岩倉具視
孫・亀井久興
配偶者	妻・有馬貞子
 第14代 農林大臣
内閣	第1次近衛内閣
任期	1937年6月4日 - 1939年1月5日
 貴族院議員
選挙区	伯爵選出
任期	1926年8月 - 1937年9月
 衆議院議員
選挙区	福岡県第5区
当選回数	1回
任期	1924年5月11日 - 1926年8月

有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は日本の政治家。農政研究者。元農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。

有馬頼寧 経歴
旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科(現 学習院高等科)、旧制学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵に叙爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤内閣で農林政務次官、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。また、1936年より当時の職業野球の東京セネタース → 大洋軍の個人経営に乗り出していた。
第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。
1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任、有馬特例法の公布、中央競馬運営方策要綱案の着手、中山競馬場をはじめとする競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、競馬の発展や大衆化に尽力した。
1957年に急性肺炎のため逝去した。「有馬頼寧関係文書」が国立国会図書館にある。

有馬頼寧 篤志事業の展開
大正年間には、社会運動や奉仕活動に目覚め、多額の私財を投じる。結果、有馬家の家計が傾いてしまい、父親が死去した1927年には相続税の支払いに困窮したという。これ以降、社会運動への参加には一線を引くこととなり、政治活動へ没頭する。
1918年 夜間中学である信愛学園を設立。
1919年 浅草に貧困者向けの無料診療所を設立。
1920年 日本教育者協会を設立。教育の機会均等を図ると共に、教員の地位向上を目指す取り組みを進める。
1920年 同愛会を設立し、部落差別を解消を図る運動を進める。翌年、水平社が設立されると賛同し、演説などを引き受ける。
1922年 同情園乳児部を自宅に設立し、関東大震災により困窮した子供達の面倒を見る。
有馬頼寧 スポーツ振興への貢献

有馬頼寧 プロ野球
様々な政治・社会活動の他、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名で、1936年に結成された職業野球球団「東京セネタース」[1]のオーナーを務めた。日本野球連盟→日本野球報国会等の相談役を歴任。1969年に野球殿堂入りした。

有馬頼寧 競馬
日本中央競馬会第2代理事長に就任。有馬の尽力により1955年1月に施行された「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(通称「有馬特例法」)は、売り上げ金の国庫への納付が免除された臨時競馬の施行を可能とする法律であり、臨時競馬の売上金を競馬場の施設などハード面の整備にあてることで中央競馬発展の基礎を築いた。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られる。これには競馬は全くの門外漢だった有馬故の柔軟な発想があったからとされる。具体的にはPR機関中央競馬サービスセンターを創設し、日本短波放送によるレースの実況放送を開始し、競馬場内に託児所や遊園地を設置するなどのほか、1956年にプロ野球のオールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースでファンに喜んでもらおうと、中央競馬のオールスター戦を発案、競走名を「中山グランプリ」として創設した。
なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したが、それから程なく有馬が急性肺炎にて逝去、その年の暮れに開催された第2回競走からは、これまでの様々な彼の功績を称え「有馬記念」と改称され施行されている。

有馬頼寧 略歴
学習院中等科、学習院高等科を卒業
1910年7月 東京帝国大学農学科を卒業
1918年2月 東京帝国大学農業教員養成所講師
1920年11月 東京帝国大学農学部助教授(〜1924年3月)
1924年5月 衆議院議員(〜1927年4月)
1926年8月 貴族院議員(〜1937年9月)
1929年6月 農林政務次官(〜1930年4月)
1930年4月 産業組合中央金庫理事長(〜1934年6月)
1934年6月 農林大臣(〜1936年1月)
1955年4月 日本中央競馬会理事長(〜1957年1月)

有馬頼寧 栄典
昭和32年1月9日:勲一等瑞宝章
家族・親族 [編集]

父母
父:有馬頼万
母:寛子(岩倉具視の娘。離縁後、森有礼後妻となる)
兄弟姉妹
長男:有馬頼寧
長女:禎子(奥平昌恭夫人)
二男:安藤信昭(安藤信篤養子)
三男:松田正之(松田正久継嗣)
次女:久米(稲田昌植夫人)
妻
妻:貞子(北白川宮能久親王次女)
子女
次女:澄子(足利惇氏夫人)
四女:正子(亀井茲建夫人)
三男:有馬頼義(第16代当主、直木賞作家)
その他の親族
叔母:小松宮妃頼子(小松宮彰仁親王妃)
孫:亀井久興(政治家)
甥:森有正(哲学者、仏文学者)
姪:関屋綾子(世界平和アピール七人委員会委員)
従甥:有馬頼底(禅僧、臨済宗相国寺派管長)

有馬頼寧 私生活
社会運動・慈善活動に身を投じた「異色の華族」でありながら、女性関係が派手なことでは有名であり、本人も気にしていたようであるが[2]女癖の悪さは生涯直らなかった。
井深八重の友人であった松信緑(美登里)は千葉県佐原の格地病院設立者の孫娘で、同志社女学校を卒業後に有馬家に行儀見習いに来ていた令嬢だったが、一度は解雇して思いを断ち切った物のふたたびよりを戻し、一時は廃嫡覚悟でアメリカに駆け落ちする覚悟であった。しかし、倉富勇三郎ら有馬伯爵家政参与者の画策によって別れた。
この事件の4年後に知り合った博多の芸妓舟子こと福田次恵は、頼寧が衆議院議員選挙活動中に2000円(当時)で落籍した人物である。後に頼寧の命によって上京し、有馬伯爵邸から歩いて数分の所に別邸を構えて住む。選挙活動中に愛人を入手したとして一般庶民や一族からの非難も激しかったが、以前に松信緑との仲を周りに強引に引き裂かれて苦悩した反動のせいで、殆ど意に介さなかった。次恵は頼寧晩年には実質的な本妻と化し、貞子夫人を悩ませる存在であった。息子・頼義の小説にもたびたび題材として取り上げられている[3]。
恋多き伯爵と知られた有馬の日記を読むと上記の2人を含め、その生涯で少なくとも4人の愛人がいたことが判明しており、その他にも多数の愛人を抱えていたとされる。

有馬頼寧 脚注
^ 1945年に新設されたセネタースとは、出身者が創設に関与した以外、直接の繋がりはない。
^ 『恋と伯爵と大正デモクラシー』p.214
^ 『母 その哀しみの生涯』文藝春秋

有馬記念

有馬記念

第50回有馬記念
開催地	中山競馬場
施行日	2011年12月25日
施行時期	12月下旬
(原則5回中山8日目)
格付け	GI
1着賞金	2億円
賞金総額	3億8000万円
距離	芝2500m
出走条件	サラブレッド系3歳以上(国際)(指定)[1]
出走資格も参照
負担重量	定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)
第1回施行日	1956年12月23日

有馬記念(ありまきねん)は中山競馬場の芝内回り2500mで施行する中央競馬の重賞(GI)競走。
正賞は日本馬主協会連合会会長賞、中山馬主協会賞[2]。

有馬記念 概要
1955年まで暮れの中山競馬では中山大障害が看板競走であったが、東京競馬場で行われていた東京優駿(日本ダービー)と比べると華やかさに欠けていることは否めなかった。そこで当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場で大レースをと計画し、しかもそのアイデアとしてファンがより親近感を持てるようにとファン投票により出走馬を選出するオールスターレース方式による第1回中山グランプリが1956年12月23日に中山競馬場の芝内回り2600mで開催された。プロ野球のオールスターと同様の競馬のオールスターレースは、当時の世界の競馬先進国でも類を見ない画期的な選抜方法[3]であった(のちに宝塚記念もファン投票方式と推薦委員会による推薦方式を採用)[4]。
しかし第1回を盛況の内に終えて間もない翌1957年1月9日に提唱者の有馬が急逝したため、有馬の数々の功績を称えて第2回以降は「有馬記念(グランプリ)」と名称が変更となった。
期せずして、これは日本の公営競技等のレースでレースの提唱者の名前がレース名となった最初の例ともなった(後に安田記念も同様の例となっている)。このような経緯があるため、現在でもJRAの競馬番組表やレーシングプログラムでは競走名が「有馬記念(第○○回グランプリ)」と表記される。競走名の副題から優勝馬はグランプリホースと呼ばれることがある。
距離は第10回までは2600m(第4回までは芝・内回り、第5回から第10回までは芝・外回り)、第11回以降は現在に至るまで芝・内回りの2500mで施行されている。なおこれまですべて中山競馬場で開催され、八大競走の中では唯一開催場の変更が無いレースでもある[5]。
現在の優勝レイは、青色の地に金色の文字となっている。
なお地方競馬との申し合わせにより長らく12月28日から1月4日の間は中央競馬の開催が行われなかったが、2003年の第48回では初めて12月28日に行われた。以後12月28日が日曜日と重なる場合はその日に開催されるようになった[6]。

有馬記念 出走資格
サラ系3歳(旧4歳)以上のファン投票及びJRAに選出されたJRA所属馬及び本競走に出走登録した外国馬及び出走登録しJRAに選定された地方馬のみ出走が可能である。
出走馬の選定方法は以下のとおりである。
ファン投票選出方法は公式投票用紙(競馬場、ウインズ各会場で配布)、市販のはがき(官製・私製)、インターネットから可能だが1名につき1媒体1通限り。1名での複数枚投票(複数媒体の使用含む)と郵送の場合の印刷、ゴム印、ワープロ使用は無効となる。
特別登録を行った馬の中からファン投票上位10頭が優先出走できる[7] [8]。
それ以外の馬(外国馬を除く)は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる(地方馬もこの方法で選出される)。フルゲート16頭まで出走できる。
2000年から2006年まではジャパンカップで優勝した外国所属競走馬にも優先出走権が与えられ、該当馬が2頭いたがいずれも行使しなかった。
2007年からは国際競走となり外国馬は最大6頭まで出走できる。

有馬記念 歴代ファン投票1位
回数	開催年	ファン投票1位	性齢	得票数	結果
第1回	1956	キタノオー	牡3	6,159	2着
第2回	1957	ハクチカラ	牡4	7,356	1着
第3回	1958	カツラシユウホウ	牡3	18,952	不出走
第4回	1959	ハククラマ	牡3	11,438	12着
第5回	1960	コダマ	牡3	17,082	6着
第6回	1961	シーザー	牡4	12,773	4着
第7回	1962	オンスロート	牡5	15,617	1着
第8回	1963	メイズイ	牡3	18,309	2着
第9回	1964	メイズイ	牡4	18,448	3着
第10回	1965	シンザン	牡4	26,853	1着
第11回	1966	ナスノコトブキ	牡3	22,510	5着
第12回	1967	スピードシンボリ	牡4	22,143	4着
第13回	1968	アサカオー	牡3	23,098	6着
第14回	1969	マーチス	牡4	21,798	10着
第15回	1970	アカネテンリュウ	牡4	20,295	2着
第16回	1971	アカネテンリュウ	牡5	25,215	出走取消
第17回	1972	イシノヒカル	牡3	17,022	1着
第18回	1973	ハイセイコー	牡3	24,143	3着
第19回	1974	ハイセイコー	牡4	22,400	2着
第20回	1975	キタノカチドキ	牡4	17,077	8着
第21回	1976	トウショウボーイ	牡3	19,957	1着
第22回	1977	テンポイント	牡4	22,541	1着
第23回	1978	プレストウコウ	牡4	75,257	12着
第24回	1979	サクラショウリ	牡4	90,301	6着
第25回	1980	カツラノハイセイコ	牡4	154,640	2着
第26回	1981	ホウヨウボーイ	牡6	185,747	2着
第27回	1982	モンテプリンス	牡5	113,667	11着
第28回	1983	アンバーシャダイ	牡6	147,484	3着
第29回	1984	ミスターシービー	牡4	171,979	3着
第30回	1985	シンボリルドルフ	牡4	140,753	1着
第31回	1986	ミホシンザン	牡4	168,210	3着
第32回	1987	サクラスターオー	牡3	141,494	競走中止
第33回	1988	タマモクロス	牡4	183,473	2着
第34回	1989	オグリキャップ	牡4	197,682	5着
第35回	1990	オグリキャップ	牡5	146,738	1着
第36回	1991	メジロマックイーン	牡4	155,353	2着
第37回	1992	トウカイテイオー	牡4	177,926	11着
第38回	1993	ビワハヤヒデ	牡3	146,218	2着
第39回	1994	ナリタブライアン	牡3	178,471	1着
第40回	1995	ヒシアマゾン	牝4	173,689	5着
第41回	1996	マヤノトップガン	牡4	155,122	7着
第42回	1997	エアグルーヴ	牝4	142,596	3着
第43回	1998	エアグルーヴ	牝5	165,357	5着
第44回	1999	スペシャルウィーク	牡4	165,734	2着
第45回	2000	テイエムオペラオー	牡4	109,140	1着
第46回	2001	テイエムオペラオー	牡5	93,217	5着
第47回	2002	ナリタトップロード	牡6	91,122	4着
第48回	2003	シンボリクリスエス	牡4	125,116	1着
第49回	2004	ゼンノロブロイ	牡4	100,052	1着
第50回	2005	ディープインパクト	牡3	160,297	2着
第51回	2006	ディープインパクト	牡4	119,940	1着
第52回	2007	ウオッカ	牝3	105,441	11着
第53回	2008	ウオッカ	牝4	136,619	不出走
第54回	2009	ウオッカ	牝5	105,059	不出走
第55回	2010	ブエナビスタ	牝4	111,323	2着
第56回	2011	ブエナビスタ	牝5	109,247	
2004年の投票では、地方競馬所属のため投票の対象外であるコスモバルクに大量の無効票が投じられた。不完全な集計ながら、この年1位のゼンノロブロイを支持率で上回っていたという[9]。

有馬記念 負担重量
負担重量は定量で3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬は2kg減である。
第1回は3歳54㎏・4歳以上55㎏・牝馬各2㎏減で施行。第10回から第24回は3歳54㎏・4歳56㎏・5歳以上55㎏・牝馬各2㎏減。第25回から第28回は3歳55kg・4歳57kg・5歳以上56kg・牝馬2kg減で施行された。
第2回から第9回、第29回から第45回までは馬齢重量で施行され、第46回より現行の負担重量となった。

有馬記念 賞金
2011年度現在の総額賞金は3億8,000万円で、ジャパンカップに次いで国内で2番目に総額賞金の高いレースとなっている。

有馬記念 グレード制が施行された第36回(1984年)以降
回(施行年)	総額賞金      1着	        2着	3着	4着	5着
第29回(1984年)	1億4,250万円	7,500万円	3,000万円	1,900万円	1,100万円	750万円
第30回(1985年)	1億4,880万円	7,800万円	3,100万円	2,000万円	1,200万円	780万円
第31回(1986年)	1億5,200万円	8,000万円	3,200万円	800万円
第32回(1987年)	1億6,150万円	8,500万円	3,400万円	2,100万円	1,300万円	850万円
第33回(1988年)	1億8,050万円	9,500万円	3,800万円	2,400万円	1,400万円	950万円
第34回(1989年)	1億9,530万円	1億300万円	4,100万円	2,600万円	1,500万円	1,030万円
第35回(1990年)	2億1,000万円	1億1,000万円	4,400万円	2,800万円	1,700万円	1,100万円
第36回(1991年)	2億2,800万円	1億2,000万円	4,800万円	3,000万円	1,800万円	1,200万円
第37回(1992年)	2億4,800万円	1億3,000万円	5,200万円	3,300万円	2,000万円	1,300万円
第38回(1993年)
第39回(1994年)
第40回(1995年)	2億5,120万円	1億3,200万円	5,300万円	1,320万円
第41回(1996年)
第42回(1997年)
第43回(1998年)
第44回(1999年)
第45回(2000年)	3億4,200万円	1億8,000万円	7,200万円	4,500万円	2,700万円	1,800万円
第46回(2001年)
第47回(2002年)
第48回(2003年)
第49回(2004年)
第50回(2005年)
第51回(2006年)
第52回(2007年)
第53回(2008年)
第54回(2009年)
第55回(2010年)
第56回(2011年)	3億8,000万円	2億円	8,000万円	5,000万円	3,000万円	2,000万円
第57回(2012年)

有馬記念は、ドリームレース
夢のあるレースを目標に創設されたことや出走メンバーの豪華さから、ドリームレースとも言われる。中央競馬の1年間を締めくくる総決算としてその異名にふさわしい中央競馬の歴史に残る数々の名勝負や名場面を生んでおり、この日は競馬ファンならずとも競馬で盛り上がる1日となる。1996年の第41回で記録した売上金額の875億円は世界で最も勝馬投票券の売上のある競走としてギネス・ワールド・レコーズに認定・登録されている。
ただし有馬記念を最大目標としない陣営もあり、秋のGIシリーズ(菊花賞、天皇賞(秋)、ジャパンカップ等)に最大目標を定め何回かレースに出走してくる馬が少なくないのが特徴である[10]。中にはジャパンカップからのレース間隔が短く疲労が抜けきりにくいため凡走や怪我などを警戒して出走を回避をする陣営や、小回りで直線の短い中山競馬場を嫌って同競走を回避する陣営が近年増えつつある[11]。かつてはそれとは逆に天皇賞(秋)やジャパンカップを回避して有馬記念に照準を絞る馬も多かったが、近年は少なくなってきている(有馬記念に照準を絞る場合はジャパンカップを回避することが多かった)。さらに、同時期に香港で開催される香港国際競走に出走する馬もいる。

有馬記念 施行コースと特徴
中山競馬場の芝2500mで外回りコースの第3コーナーから発走。このコースは最初の第4コーナーまでが192mと短く、外枠からスタートする馬は距離をロスしやすく内枠からスタートする馬も距離のロスを避けようと内側に殺到してくる他馬により進路を塞がれる不利を受けやすいため[要出典]出走可能頭数は他のGIと比較して2頭少ない16頭[12]で行われるが、問題が完全に解消しているわけではない[13]。このため[要出典]大川慶次郎は、東京競馬場での施行を生前に主張していた[14]。
また中山競馬場は最後の直線が310mと短いため(こちらも頭数が少ないために影響は軽減しているが)、東京競馬場のような広いコースとは異なり後半の追い上げを得意としている馬は内を通って前が詰まるリスクかコーナーを大きく回って距離をロスするリスクかを背負わねばならず、ジャパンカップで好走した馬が疲労も相まって力を出し切れないことなどもある。
その一方で、人気薄の逃げ馬や2000m以下しか好走実績がない馬が出足の良さや器用さを活かして上位に食い込んできたり不振に陥っていた馬が名騎手に導かれて突然復活する[15]こともあるレースでもある。その理由としてスタート直後のコーナーを回ったところに正面スタンドがあることで大歓声があがり、ここで馬が行きたがる傾向があるからであり、そこでの騎手との折り合いがポイントとなるからである。[要出典]

有馬記念 特別褒賞金
2000年から天皇賞(秋)、ジャパンカップとこのレースの秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は1億円の特別褒賞金(後に内国産馬には2億円、外国産馬には1億円に変更)を交付する制度が取り入れられ[16]出走が促されることとなり、その年のテイエムオペラオーが早速それを達成して褒賞金を獲得した。そして、2004年にゼンノロブロイが第2号の獲得馬になった。
また、2010年からは中央競馬所属馬で当該年のJRA・海外のGI競走優勝馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に限り1着から順に3000万円、2000万円、1000万円の褒賞金を交付するようになり[17]2011年からは天皇賞(秋)とジャパンカップいずれかで3着以内に入着した馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に、最大5000万円の褒賞金が交付されるようになる[17][18]。ただし、秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は既存の報奨金(2億円または1億円)のみとなりこの報奨金は与えられない。

有馬記念 歴史
1956年 - 中山競馬場の芝2600m(内回り)の4歳(現3歳)以上の馬齢重量の重賞競走「中山グランプリ」として創設(創設当初の負担重量は4歳(現3歳)が牡馬・騸馬54kg・牝馬52kg、5歳(現4歳)以上が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kg)。
1957年
名称を「有馬記念」に変更。
6歳(現5歳)以上の負担重量が4歳(現3歳)と同じく牡馬・騸馬54kg・牝馬52kgに変更。
1959年
この年の9月1日から日本競馬の時計表示が変更になったのに伴い、時計が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。
ガーネツトが牝馬として初の優勝。
1960年 - 芝2600m(外回り)に変更[19]。
1960年 - 高松三太が騎手として初の連覇を果たす。
1965年
5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgにそれぞれ変更。
シンザンが優勝し五冠達成。
1966年 - 馬場改修に伴い施行コースを芝2500m(内回り)に変更。
1970年 - スピードシンボリが史上初の連覇。
1971年
混合競走に指定。
馬流感騒動の影響で、馬流感に罹患したメジロアサマ、アカネテンリュウ、カミタカの3頭が出走を取り消し、出走頭数が6頭のみの競走となる(有馬記念史上出走馬最少記録)。
1977年 - テンポイントとトウショウボーイのマッチレース、テンポイントが優勝。
1980年 - 4歳(現3歳)の負担斤量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgに、5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgにそれぞれ変更。
1984年
グレード制施行によりGI競走に格付け。
この年より1987年まで、当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走は第10競走で施行された。
1985年
シンボリルドルフが史上2頭目の連覇およびび七冠を達成。史上初のJRA・GI競走7勝を達成。
同年に限り当時ジャパンカップのみの採用であった馬名入りゼッケンの試験的な使用を行う(この結果1987年秋競馬より馬名入りゼッケンの他競走への拡大を実施)。
1987年 - メリーナイスがスタート直後に落馬。1番人気サクラスターオーが最後の直線手前で故障発生、競走中止。
1988年
オグリキャップが当競走で引退と決まっていたタマモクロスとの「昭和最後の芦毛対決」を制する(タマモクロスは2着)。
3位入線のスーパークリークが進路妨害により失格。
この年より2007年まで、当日の中山競馬場が全10競走制となり、当競走は第9競走で施行された。
1989年 - 1着賞金総額が1億円台となる。
1990年 - 当競走での引退を表明していたオグリキャップが1988年に次ぐ2度目の優勝を果たし、レース後場内が「オグリ」コールに包まれる。
1993年 - トウカイテイオーが約1年ぶりの出走で優勝、奇跡の復活を果たす。
1995年 - 指定交流競走に指定され、地方所属馬にも門戸が開放される。
1996年 - 単独競走としての勝馬投票券の売上げ世界レコード875億104万2400円を記録。
1999年 - グラスワンダーが史上3頭目の連覇。
2000年
秋の古馬GI報奨金制度の第3戦に指定。
テイエムオペラオーが優勝、JRA古馬中長距離GI競走[20]完全制覇を達成。
2001年
馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上」から「3歳以上」に変更。
負担重量を「馬齢重量」から「定重量」に変更。
5歳以上の負担重量が4歳と同じく牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに変更。
敬宮愛子内親王御誕生慶祝の副称が当年のみにつく。
2003年 - シンボリクリスエスが史上4頭目の連覇。
2004年
オリビエ・ペリエが騎手として史上初の3連覇。
藤沢和雄が調教師として史上初の3連覇。
2006年
この競走で引退が決まっていたディープインパクトが優勝、史上3頭目のJRA・GI競走7勝を達成。
大相撲の第68代横綱朝青龍明徳が表彰式プレゼンターを務めた。
2007年 - 混合競走から国際競走に変更され、外国調教馬は6頭まで出走可能となる。
2008年
当年のみ、JRAプレミアムレースの対象レースとなる(同日に開催される中央競馬の全競馬場の全特別競走もJRAプレミアムの対象レースとなっている)。
この年より当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走の競走番号が再び第10競走に設定。
ダイワスカーレットがトウメイ以来37年ぶりの牝馬として優勝。
2009年
ウオッカが史上初の3年連続ファン投票1位を獲得したがジャパンカップ競走中に鼻出血を発症したため、日本中央競馬会競馬番組一般事項第2章のその11「痼疾馬の出走制限」の規定(1ヶ月出走停止)により出走できなかった。
史上初めて、4歳馬の出走がなかった。
コスモバルクが新記録となる「6年連続出走」を達成。
この年の菊花賞優勝馬であるスリーロールスが競走中止し、引退に追い込まれる。
2010年
当該年度のGI優勝馬が3着以内に入ることを条件に褒賞金が設定される。
大相撲の第69代横綱白鵬翔が表彰式プレゼンターを務めた[21]。朝青龍に次ぐ現役横綱の競馬場来場となった。
1着から3着まで、同競走史上初めて外国人騎手の騎乗馬が占めた。
2011年 - 褒賞金の対象を天皇賞(秋)とジャパンカップの1~3着馬にも拡大。

有馬記念 歴代優勝馬
国際競走となった2007年以降は優勝馬の国旗を表記する。性齢の年齢は現在の満年齢表記で表す。
回数	施行日	調教国・優勝馬	性齢	勝時計	優勝騎手	管理調教師	馬主
第1回	1956年12月23日	メイヂヒカリ	牡4	2:43 1/5	蛯名武五郎	藤本冨良	新田松江
第2回	1957年12月22日	ハクチカラ	牡4	2:49 0/5	保田隆芳	尾形藤吉	西博
第3回	1958年12月21日	オンワードゼア	牡4	2:49 1/5	八木沢勝美	二本柳俊夫	樫山純三
第4回	1959年12月20日	ガーネツト	牝4	2:50.9	伊藤竹男	稗田敏男	畑江五郎
第5回	1960年12月18日	スターロツチ	牝3	2:44.5	高松三太	松山吉三郎	藤井金次郎
第6回	1961年12月24日	ホマレボシ	牡4	2:40.8	高松三太	稗田敏男	川口文子
第7回	1962年12月23日	オンスロート	牡5	2:44.4	山岡忞	中村広	田村喜志
第8回	1963年12月22日	リユウフオーレル	牡4	2:42.5	宮本悳	橋本正晴	三好笑子
第9回	1964年12月27日	ヤマトキヨウダイ	牡4	2:45.1	梶与四松	稲葉幸夫	門井みち
第10回	1965年12月26日	シンザン	牡4	2:47.2	松本善登	武田文吾	橋元幸吉
第11回	1966年12月25日	コレヒデ	牡4	2:37.0	保田隆芳	尾形藤吉	千明康
第12回	1967年12月24日	カブトシロー	牡5	2:39.7	大崎昭一	久保田彦之	(有)志賀
第13回	1968年12月22日	リュウズキ	牡4	2:46.2	森安弘明	矢倉玉男	福井章哉
第14回	1969年12月21日	スピードシンボリ	牡6	2:35.1	野平祐二	野平省三	和田共弘
第15回	1970年12月20日	スピードシンボリ	牡7	2:35.7	野平祐二	野平省三	和田共弘
第16回	1971年12月19日	トウメイ	牝5	2:36.0	清水英次	坂田正行	近藤克夫
第17回	1972年12月17日	イシノヒカル	牡3	2:38.5	増沢末夫	浅野武志	石嶋清仁
第18回	1973年12月16日	ストロングエイト	牡4	2:36.4	中島啓之	奥平真治	ハイランド牧場
第19回	1974年12月15日	タニノチカラ	牡5	2:35.9	田島日出雄	島崎宏	谷水雄三
第20回	1975年12月14日	イシノアラシ	牡3	2:38.1	加賀武見	浅野武志	石嶋清仁
第21回	1976年12月19日	トウショウボーイ	牡3	2:34.0	武邦彦	保田隆芳	トウショウ産業(株)
第22回	1977年12月18日	テンポイント	牡4	2:35.4	鹿戸明	小川佐助	高田久成
第23回	1978年12月17日	カネミノブ	牡4	2:33.4	加賀武見	阿部新生	角替光二
第24回	1979年12月16日	グリーングラス	牡6	2:35.4	大崎昭一	中野隆良	半沢吉四郎
第25回	1980年12月21日	ホウヨウボーイ	牡5	2:33.7	加藤和宏	二本柳俊夫	古川嘉治
第26回	1981年12月20日	アンバーシャダイ	牡4	2:35.5	東信二	二本柳俊夫	吉田善哉
第27回	1982年12月26日	ヒカリデユール	牡5	2:36.7	河内洋	須貝彦三	橋本善吉
第28回	1983年12月25日	リードホーユー	牡3	2:34.0	田原成貴	服部正利	熊本芳雄
第29回	1984年12月23日	シンボリルドルフ	牡3	2:32.8	岡部幸雄	野平祐二	和田農林(有)
第30回	1985年12月22日	シンボリルドルフ	牡4	2:33.1	岡部幸雄	野平祐二	和田農林(有)
第31回	1986年12月21日	ダイナガリバー	牡3	2:34.0	増沢末夫	松山吉三郎	(有)社台レースホース
第32回	1987年12月27日	メジロデュレン	牡4	2:33.9	村本善之	池江泰郎	メジロ商事(株)
第33回	1988年12月25日	オグリキャップ	牡3	2:33.9	岡部幸雄	瀬戸口勉	佐橋五十雄
第34回	1989年12月24日	イナリワン	牡5	2:31.7	柴田政人	鈴木清	保手浜弘規
第35回	1990年12月23日	オグリキャップ	牡5	2:34.2	武豊	瀬戸口勉	近藤俊典
第36回	1991年12月22日	ダイユウサク	牡6	2:30.6	熊沢重文	内藤繁春	橋元幸平
第37回	1992年12月27日	メジロパーマー	牡5	2:33.5	山田泰誠	大久保正陽	(有)メジロ牧場
第38回	1993年12月26日	トウカイテイオー	牡5	2:30.9	田原成貴	松元省一	内村正則
第39回	1994年12月25日	ナリタブライアン	牡3	2:32.2	南井克巳	大久保正陽	山路秀則
第40回	1995年12月24日	マヤノトップガン	牡3	2:33.6	田原成貴	坂口正大	田所祐
第41回	1996年12月22日	サクラローレル	牡5	2:33.8	横山典弘	境勝太郎	(株)さくらコマース
第42回	1997年12月21日	シルクジャスティス	牡3	2:34.8	藤田伸二	大久保正陽	有限会社シルク
第43回	1998年12月27日	グラスワンダー	牡3	2:32.1	的場均	尾形充弘	半沢(有)
第44回	1999年12月26日	グラスワンダー	牡4	2:37.2	的場均	尾形充弘	半沢(有)
第45回	2000年12月24日	テイエムオペラオー	牡4	2:34.1	和田竜二	岩元市三	竹園正繼
第46回	2001年12月23日	マンハッタンカフェ	牡3	2:33.1	蛯名正義	小島太	西川清
第47回	2002年12月22日	シンボリクリスエス	牡3	2:32.6	O.ペリエ	藤沢和雄	シンボリ牧場
第48回	2003年12月28日	シンボリクリスエス	牡4	2:30.5	O.ペリエ	藤沢和雄	シンボリ牧場
第49回	2004年12月26日	ゼンノロブロイ	牡4	2:29.5	O.ペリエ	藤沢和雄	大迫忍
第50回	2005年12月25日	ハーツクライ	牡4	2:31.9	C.ルメール	橋口弘次郎	(有)社台レースホース
第51回	2006年12月24日	ディープインパクト	牡4	2:31.9	武豊	池江泰郎	金子真人ホールディングス(株)
第52回	2007年12月23日	マツリダゴッホ	牡4	2:33.6	蛯名正義	国枝栄	高橋文枝
第53回	2008年12月28日	ダイワスカーレット	牝4	2:31.5	安藤勝己	松田国英	大城敬三
第54回	2009年12月27日	ドリームジャーニー	牡5	2:30.0	池添謙一	池江泰寿	(有)サンデーレーシング
第55回	2010年12月26日	ヴィクトワールピサ	牡3	2:32.6	M.デムーロ	角居勝彦	市川義美

有馬記念の記録
レースレコード - 2:29.5(第49回優勝馬ゼンノロブロイ)
2着との最大着差 - 9馬身(第48回優勝馬シンボリクリスエス)
2着との最小着差 - 2cm (第55回優勝馬ヴィクトワールピサ - 2着ブエナビスタ)
最多優勝騎手 - 3勝 岡部幸雄(第29、30、33回) 田原成貴(第28、38、40回) オリビエ・ペリエ(第47~49回)
連続優勝騎手 - オリビエ・ペリエ 3連覇(第47~49回)
最多勝調教師 - 3勝 二本柳俊夫(第3、25、26回) 大久保正陽(第37、39、42回) 藤沢和雄(第47~49回 3連覇)
最多連続出走 - 6年連続 コスモバルク(第49~54回)

有馬記念 史上初あれこれ
牝馬 - ガーネツト(第4回)
3歳(旧4歳)馬 - スターロツチ(第5回)
3歳(旧4歳)牡馬 - イシノヒカル(第17回)
6歳(旧7歳)以上馬 - スピードシンボリ(第14回)
青毛馬 - リュウズキ(第13回)
芦毛馬 - オグリキャップ(第33回)
父内国産馬 - メイヂヒカリ(第1回)
父(本邦調教)外国産馬 - リュウズキ(第13回)
関西馬 - リユウフオーレル(第8回)
公営出身馬 - オンスロート(第7回)
持込馬 - サクラローレル(第41回)
外国産馬 - グラスワンダー(第43回)
サラ系馬 - ヒカリデユール(第27回)
父子制覇 - 父:シンボリルドルフ(第29回・第30回)、子:トウカイテイオー(第38回)
連覇 - スピードシンボリ(第14回・第15回)
年数を空けて2勝以上 - オグリキャップ(第33回・第35回)
重賞初制覇が有馬記念 - ストロングエイト(第18回)
父子騎手による制覇 - 父:武邦彦(第21回 トウショウボーイ)、子:武豊(第35回 オグリキャップ)
父子調教師による制覇 - 父:池江泰郎(第32回 メジロデュレン、第51回 ディープインパクト)、子:池江泰寿(第54回 ドリームジャーニー)
外国人騎手による制覇 - オリビエ・ペリエ(第47回)
牡馬・牝馬の両方で制覇した騎手 - 高松三太(第5回 スターロツチ・第6回 ホマレボシ)
牡馬・牝馬の両方で制覇した調教師 - 稗田敏男(第4回 ガーネツト・第6回 ホマレボシ)
騎手・調教師の両方で制覇 - 保田隆芳(騎手:第2回 ハクチカラ、調教師:第21回 トウショウボーイ)

有馬記念 特記事項
概要にも記されているとおりファン投票による出走馬の選定を行うことは新しい試みであったが、レースの名称もファン投票によって選定しようとしたことも非常に画期的であった。当初、競馬会は「中山グランプリ」という名称にしようとしていたが当時「グランプリ」という名称は映画に関係する言葉として使われていたくらいでまだ広く馴染んではいなかった。そこで、ファン投票用紙に出走させたい競走馬と同時に競走名を募った。その結果、一番多かった「中山大賞典」を始め17もの名称が集まった(競馬会が提唱していた「中山グランプリ(を可とする)」は第2位だった)。しかしどの名称も名提案とまではいかなかったため、第1回はそのまま「中山グランプリ」で行われた。
有馬記念の競走名により有馬温泉のある兵庫県の阪神競馬場で開催されていると勘違いされたり、特に関西在住の競馬初心者に「なぜ有馬温泉に近い阪神競馬場で行われないのか」という声が聞かれる[22]。正しい由来は概要に記されているとおり有馬頼寧の功績を称えて命名されたものであって、レース名と有馬温泉とに直接の関係はない。ただし、有馬の先祖は室町時代に有馬温泉の周辺を治めていた地頭の摂津有馬氏である。
有馬記念開催50周年を記念し、2005年にロゴマークの一般公募を行った。その結果、京都市在住の男性が制作した有馬(Arima)の"A"をモチーフに金色の天馬の羽根と16個(有馬記念の最大出走可能頭数)の星(ファン投票で選ばれたスターホースの意味)をあしらったデザインが採用された。競走当日はグリーンチャンネルや全国の競馬場、ウインズで放送されるレースの映像にもこのマークが登場した(通常は中山のマスコットキャラクターである「ナッキー」)。2006年では使用されていなかったが、2007年以降では使用されている。
12月25日に本競走が開催される時には「クリスマスグランプリ」と言われる。2005年で50周年を迎えた本競走で、このクリスマスの日に本競走が開催されたのは過去5度。1966年の第11回が初開催。それ以降は1983年の第28回、1988年の第33回、1994年の第39回、そして2005年の第50回と施行されている。次回は2011年の第56回で施行の予定。
2001年以降、主要なGI競走開催日において行われてきた入場券完全前売制による入場規制は行われなくなったが2005年の第50回では無敗の三冠馬として社会的な人気現象を引き起こしたディープインパクトが出走を表明し来場者の殺到が予測されたことから6年ぶりに入場券は完全前売制となり、当日発売は行われなかった。前売り券は約19万枚発売され完売した。その日、中山競馬場に訪れたのは約16万人であった。しかし、その16万人の注目の的であるディープインパクトは2着に敗れた。なお、これはディープインパクトの国内で唯一の敗北である。
本競走の開催日は混雑などの混乱を避けるため2007年までは全10競走で行われて、本競走は第9競走であった(発走時刻15:25と早い。なお通常GIが行われる競馬場のレースが15時半以後に行われるが、12月開催のメインレース発走時刻は日没時刻の関係でジャパンカップダート(2008年から)及び阪神ジュベナイルフィリーズが阪神競馬場にて開催される日を除き関東は全日15:25で順序も東京or中山→第3場→京都or阪神である。ちなみに、ジャパンカップダート(2007年まで)及びジャパンカップの発走時刻は15:20である。したがって通常の日程と勘違いして勝馬投票券を購入してしまう者もたびたびみられる[23]。ただし2007年までの有馬記念開催日の中山競馬場では「中山競馬第11競走」は存在せず、誤って第11競走の馬券を購入しようとしても発券機にマークカードを挿入したところでエラーが発生してしまうのでこのことによる購入ミスは起きなかった。1984年から1987年までと2008年からは全11競走中の第10競走で行われる。なお、中山競馬場の発走時刻及び発走間隔が通常開催日と異なっている。
本競走当日は、阪神競馬場と中京競馬場も有馬記念効果で混雑する(危険防止のための退場規制も行われる。現在の有馬記念当日の中京競馬場の入場人員は、高松宮記念当日のそれを上回ることが多い)。また、指定席も早朝で売り切れる。名鉄では高松宮記念及び有馬記念当日に限り、夕方時間帯の一部で中京競馬場前駅に特急電車の臨時停車を行うなど鉄道業界も動かす。例年競馬が行われない東京競馬場も混雑し、通常競馬開催日にしか行わない京王線準特急の東府中駅臨時停車が行われる。
中央競馬における「1年終わりの競走」として親しまれる有馬記念であるが、厳密にはJRAでのその年最後の競馬ではない。2009年の場合は中山競馬場の当日最終競走(第11競走、16:05発走)は「ハッピーエンドカップ」という条件競走であり、直後に中京競馬場の最終第12競走である「尾張(おわり)ステークス」(16:10発走。2005年までは「尾張特別」)というオープン特別競走が行われ、さらにその直後に阪神競馬場で行われる第12競走「ファイナルステークス」(16:20発走)がJRAの年間最後の競馬競走となる。
なお、1979年までは必ずしもその年の中央競馬最終開催日に固定して開催されていなかった(最終開催日には中山大障害やアラブの重賞が開催されたことがある)。
2010年は中京競馬場の改修工事により第三場開催は小倉競馬場で行われ、これまでJRA年間最終競走であったファイナルステークスは発走時刻はそのままだが「年間最終競走」でなくなり代わりに小倉競馬場で行われる第12競走「アンコールステークス」(16:35発走)というオープン競走が2010年のJRA最終競走となった。なお「ハッピーエンドカップ」はJRAプレミアム競走として「ハッピーエンドプレミアム(オグリキャップメモリアル)」として施行された[24]。
2011年も同様の施行時刻割となる予定[25]。
2012年は有馬記念開催日の翌日(12月24日)にも中央競馬の開催が行われる(予定)ことがJRAから発表されている[26]。これは当日が休日にあたるためで3日間開催を実施し、阪神競馬場では年間最終の重賞競走として阪神カップ(GII)が行われる予定である。
通常、GI当日のメインレースと最終レースとの間は40分確保されているが(それでも記念写真撮影、表彰式、勝利騎手インタビューなどのセレモニーが長引いて最終レースの発走時刻が5分ほど遅れることが多い)、朝日杯フューチュリティステークスと有馬記念の2つのGIレースだけは35分と短い。そのため、ハッピーエンドカップの発走時刻が毎年のように遅れる。ただし2008年からはハッピーエンドカップの発走時刻を16:05に設定し、有馬記念との間隔を40分に拡大したが、それでも遅れが発生することがある。
1988年から1995年までの8年間、有馬記念の前座競走として第7競走にファン投票によって選抜された騎手が出場できるジョッキーズグランプリが施行されていた。ファン投票は、有馬記念の出走馬投票とともに同じ投票用紙(はがき)を使って行われた。
有馬記念を中継するフジテレビはこのレースを競馬中継の中で最高のレースに位置付けており、それに相応しいアナウンサーが実況するという観点から部長級の管理職のアナウンサーが代々実況を務めており、現在の三宅正治で6代目となる。またこのレースを実況するアナウンサーはその他のレースは実況しないという慣例があり、三宅も初めて担当した2005年こそジャパンカップの実況を担当したが、翌2006年からは慣例に倣いその他のレースの実況からは退いた。ただ、すぽると!司会を勇退した2011年では一部の重賞を含む一般メイン競争の実況を数回担当はしていた。

有馬記念フェスティバル

中央競馬のその年の締めくくりを飾るオールスター戦・有馬記念競走の気運を盛り上げようと、1981年から毎年開かれている日本中央競馬会主催の公開イベントである。
毎年有馬記念開催週の月曜日に東京都内の会場で開かれるこのイベントではその年の有馬記念に出走が予定されている有力馬の騎手・関係者をゲストに招いてレースへの意気込みを語るトークイベント、また騎手と競馬愛好家のタレントらを交えたクイズ・ゲーム大会やタレント・競馬マスコミ関係者総出演によるレース展望会が実施されている。2004年は元JRA職員で現在プロ格闘家として活躍する小川直也がゲストとして招かれた。2005年はダービーフェスティバル同様、主催者側の都合で行われなかった。
また各地でも有馬記念ウィークを中心にした関連のイベントが開かれており新潟市において「有馬記念フェスティバル(西暦年数)」が新潟競馬場・新潟放送の共催で毎年行われ、その模様は新潟放送(ローカル)とグリーンチャンネルで放送される。2005年は大雪に伴う施設の停電のため開催されず、スタジオでレース展望を収録し放送した。なお、現在イベントの形で残っている有馬記念フェスティバルはこの新潟で行われているものだけである。

有馬記念 脚注
^ 八大競走の中では最も出走条件が緩やかで、クラシックに出走できない騸馬でも出走が可能である。
^ http://www.jra.go.jp/keiba/calender/program/pdf/22naka5.pdf
^ 他に推薦委員会による推薦馬の選出があったが、形骸化したため1995年を最後に廃止された。
^ 日本の公営競技において、初めてファン投票による競走対象の選定を行ったのは競輪(オールスター競輪)である。
^ 日本ダービーも基本的に開催場変更を行わないレースだが最初の2回は目黒競馬場で施行され、競馬場移転に伴い第3回から現在まで東京競馬場で行われるようになった。
^ 12月28日が土曜日=即ち翌29日が日曜となる場合は従来どおり29日ではなく22日開催。
^ なお上位第10位までで出走の意思がない場合、その分を11位以下の馬が繰り上げで出走できる権利がある。
^ 中央にアラブのレースがあった時代にはアングロアラブの出走も可能であり、「アラブの怪物」の異名を持つセイユウがファン投票による権利を持っていたもののアラブの読売カップ(秋)連覇を優先し出走を辞退している。
^ バルク 有馬“影の人気1位”(スポーツニッポン、2004年12月17日) - ウェイバックマシン (2005年1月22日アーカイブ分)
^ 柏木集保はコンサートなどのアンコールに例えている[要出典]。
^ ジャングルポケット、アドマイヤムーン、ウオッカ、ディープスカイなど。
^ 中山競馬場で出走可能頭数が18頭設定可能なコースは芝内回り2000m(A、Bコース指定時)、芝外回り2200m(A、Bコース指定時)のみ。したがって、中山競馬場で施行されるGIは皐月賞(と代替開催で行われた天皇賞(秋)・ジャパンカップ)を除いてフルゲート16頭で行われる。
^ 1984年のグレード制施行後に15頭以上で行われたこのレースにおいて8枠スタートで2着以内に入ったのは、1989年に馬群に包まれるのを嫌った最内枠で1番人気のオグリキャップが先行して他馬がマークするハイペースで進む展開で最後に馬群の中をすり抜けて追い込んだ15番枠のイナリワンただ1頭である。16番枠スタートからの優勝馬・2着馬はまだいない。
^ ケイバブックは、最初のコーナーまでの距離が長い2000mか2200mでの施行を提案している。
^ 不振を極めていた1990年のオグリキャップと武豊、一年ぶりのレースを制した1993年のトウカイテイオーと田原成貴など
^ 同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧
^ a b 有馬記念競走における褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧
^ 具体例を挙げると2010年の本競走を優勝したヴィクトワールピサはこの年の皐月賞を優勝しているため3000万円、2着のブエナビスタは天皇賞・秋を優勝しているため2000万円の褒賞金が交付される。3着のトゥザグローリーはこの年のGIを優勝していないため褒賞金は交付されない。
^ この距離は現在でも設定されているものの、この距離でのレースは開催されていない。また、現在の中山競馬場の芝外回り2600mとは違うコースであった。
^ 天皇賞(春・秋)、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念
^ 横綱 白鵬関が有馬記念(GI)当日に来場! - JRA公式サイト 2010年12月13日閲覧
^ 週刊競馬ブックの投書欄、および同2008年12月21日号の乗峯栄一のコラム「理想と妄想」他多数。
^ テレビの競馬中継でもその旨の注意喚起が行われている
^ 平成22年度秋季競馬番組の概要について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧
^ 2011年12月25日(日) 競馬番組 - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧
^ 2012年度開催日割および重賞競走について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧

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