オグリキャップ 中央競馬時代4歳(1988年)
中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。
オグリキャップ 競走内容
オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれた。地方での快進撃は知られていたものの、単勝オッズは2番人気であった。
レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始し、第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。
移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。
オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。
オグリキャップはクラシック登録(JRAのクラシック競走に出走するため前年に行う予備登録)をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。
レースではオグリ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。
クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した。
この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていた[27]が、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコ-ドであったにもかかわらず、騎乗していた河内洋はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった。
このレースでのオグリキャップの走破タイムは、同じ東京競馬場芝1600mで行われた古馬GIの安田記念よりも速かった。(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)
続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。
レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始し、第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。
高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑(中央競馬に所属する一流の競走馬は、夏期は避暑のために北海道へ移送されることが多い)を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い[29]、8月下旬から本格的な調教を開始。
9月末に東京競馬場に移送された。
毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。
当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた。
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オグリキャップの佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍
1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。
JRA移籍に際して、登録名は発音と同じ「オグリキャップ」に変更された。
オグリキャップが活躍を続ける中で同馬を購入したいという申し込みは多数あり、特に中京競馬場(当時は地方と中央の共同使用)の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。
また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。
これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。
なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。
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オグリキャップ 競走馬時代
オグリキャップ 笠松競馬時代
オグリキャップ 競走内容
1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」。
ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。
5月19日のデビュー戦ではマーチトウショウの2着に敗れた。その後2連勝したが、4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れた。5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。
前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、同馬はオグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップのひづめは蹄叉腐乱(ひづめの内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。
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オグリキャップ 誕生
オグリキャップの母のホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。
ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。
1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。
これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した[† 2]。
なお、オグリキャップは仔分けの馬(具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた)で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。
オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。
オグリキャップ デビュー前
オグリキャップ 稲葉牧場時代
オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。
誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた[4]。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。
なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。
ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。
しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋頃には他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前に他の馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。
オグリキャップ 美山育成牧場時代
1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場[† 3]に移り、3ヶ月間馴致が施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。
当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている[10]。また、ハツラツは育成牧場にいた馬の中では3,4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという。
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オグリキャップ(Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、
「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期に、ハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。
1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。32戦22勝(地方競馬時代含む)の成績を残して競走馬を引退した後は種牡馬となったが、中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。
1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など。
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エスポワールシチー(Espoir City)
主な勝ち鞍は2009年のかしわ記念、マイルチャンピオンシップ南部杯、ジャパンカップダート、2010年のフェブラリーステークス、かしわ記念。
馬名は、フランス語の「希望」に冠名。
佐藤哲は主戦としてレースにまたがる一方、小倉への遠征時も含め付きっ切りで調教を行うことになった。その後、芝の未勝利戦を4戦使われるが、2着を2回記録するものの勝ちきれずにいた。
6戦目となった7月の小倉の未勝利戦を勝ち上がって未勝利を脱出したものの、昇級戦となった500万下では7着に敗れた。
これを機に陣営はダート路線を歩ませる。
ダート初戦となった500万下を7馬身差で勝利。この時の勝ち時計1分42秒4は、オープン戦の阿蘇ステークスを勝ったダイナミックグロウの1分42秒2に次ぐ、この開催2番目の走破時計だった[4]。
続く1000万下を1馬身3/4、準オープンを5馬身差で快勝すると、初のオープン戦となったトパーズステークスは1番人気となり、レースではダイナミックグロウを1コーナーまでに制して先頭に立つとそのまま逃げ切って勝利した。その後ジャパンカップダートへ登録したが、賞金で除外となったため3歳時はダート戦無傷の4連勝でシーズンを終えた。
2009年 [編集]
短期放牧を挟んで4歳時の緒戦として初重賞となる平安ステークスへ出走。体つきに余裕を持たせ、多少太め残りで気持ちと体のマッチングが物足りない中、1番人気に支持された。
レース前にはスピード一辺倒の馬にはしたくないと公言していたもののここでも逃げるレースをし、ハミが抜け切らなかったこともあってワンダースピードにクビ差交わされ2着に敗れ、ダート戦での連勝が4で止まった。
次走は初のGI挑戦となるフェブラリーステークスへ出走。
休み明けを1回使われ、また右回りに微妙に乗りづらい部分があるとして、左回りの東京ということも好材料と陣営は判断していた。
レースでは「せっかくのGIだし、力試しのつもりで行った」という佐藤哲三の判断でここも先手を奪うと、前半1000mを58秒8で逃げる。
最後の直線で他馬に交わされたものの、粘ってサクセスブロッケンの4着に食い込んだ。
続くマーチステークスでは松岡正海が2008年11月の錦秋ステークス以来の騎乗となったが、他馬が逃げる中で3番手に控え、直線で抜け出し勝利。
1番人気で初重賞制覇となった。鞍上の松岡も「乗っているだけだった」と馬をたたえた。
第21回かしわ記念
その後、アンタレスステークスに登録したものの、回避して初の地方遠征となるかしわ記念へ出走。
ここではカネヒキリに次ぐ2番人気だったが、中団やや後方に控えてレースを進めると4角で3番手に進出して直線半ばでフェラーリピサを交わし、最後に追い詰めてきたカネヒキリを3/4馬身抑えて初のJpnI勝利となった。
帝王賞への出走プランもあったが、かしわ記念後は休養して秋緒戦はマイルチャンピオンシップ南部杯へ。ここでもサクセスブロッケンに次ぐ2番人気だったが、鞍上は無理にハナに行こうとしなかったもののスタート直後から先頭に立つと、直線でもそのまま押し切りサクセスブロッケンに4馬身差をつけて重賞3連勝を飾った。
第10回ジャパンカップダート
南部杯をいい内容で勝ったことから、陣営は12月6日に行われる第10回ジャパンカップダートへ直行を決断。体が増えて丈夫になり心配事は全くなくなったと話す陣営だったが[24][23]、希望していた大外枠ではなく最内1番枠となったことに、鞍上の佐藤哲三は最後の試練だと感じた。
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アグネスタキオン 種牡馬としての記録
JRA総合リーディングサイアー(2008年)
JRA2歳リーディングサイアー(2006年、2007年)
JRAリーディングフレッシュサイアー(2005年)
JRA産駒年間勝利数134勝(2007年最多勝、内国産種牡馬新記録)
JRA2歳勝ち馬数25頭(2005年、父の20頭を上回る新種牡馬記録[注釈 7])
アグネスタキオン 主な産駒
ロジック
ダイワスカーレット
ディープスカイ
キャプテントゥーレ
リトルアマポーラ
レーヴディソール
2003年産
ロジック(NHKマイルカップ)
ランザローテ(プロキオンステークス)
ショウナンタキオン(新潟2歳ステークス)
2004年産
ダイワスカーレット(有馬記念、桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯、ローズステークス、大阪杯)
アドマイヤオーラ(京都記念、弥生賞、シンザン記念)
ショウナンタレント(フラワーカップ)
マイネカンナ(福島牝馬ステークス)
2005年産
ディープスカイ(東京優駿、NHKマイルカップ、神戸新聞杯、毎日杯)
キャプテントゥーレ(皐月賞、デイリー杯2歳ステークス、朝日チャレンジカップ 2回)
リトルアマポーラ(エリザベス女王杯、愛知杯、クイーンカップ)
コパノジングー(目黒記念)
ダイワワイルドボア(セントライト記念)
アドマイヤコマンド(青葉賞)
レインボーペガサス(きさらぎ賞、関屋記念)
2006年産
アイアムカミノマゴ(阪神牝馬ステークス)
ブロードストリート(ローズステークス)
ジェルミナル(フェアリーステークス)
ヒカルアマランサス(京都牝馬ステークス)
2007年産
クォークスター(セントライト記念)
サンライズプリンス(ニュージーランドトロフィー)
リディル(デイリー杯2歳ステークス)
2008年産
レーヴディソール(阪神ジュベナイルフィリーズ、デイリー杯2歳ステークス、チューリップ賞)
レッドデイヴィス(シンザン記念、毎日杯)
ノーザンリバー(アーリントンカップ)
アイアムアクトレス(ユニコーンステークス)
2009年産
グランデッツァ(札幌2歳ステークス)
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アグネスタキオン 引退後
引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬となった。
初年度産駒のデビューした2005年に中央競馬の夏のローカル開催で複数の産駒が次々と勝利を飾り、最終週には東の新潟2歳ステークスでショウナンタキオンが優勝、西の小倉2歳ステークスでもトーホウアモーレが3着という活躍を見せた。
中央開催に移ってからも産駒は優秀な走りを見せ、初年度産駒は中央競馬の2歳戦で合計27勝をあげた。
最終的にJRAリーディングフレッシュサイアーに輝き、JRA2歳リーディングでも総合2位(地方競馬も含めたランキングでは3位)となった。このような活躍を背景に、2006年の種付け料は前年の500万円から1200万円になった。
2006年には二世代の産駒で中央競馬において91勝を挙げ初年度産駒のロジックがNHKマイルカップを制し、これが産駒のGI初勝利となった。
ファーストクロップから順調に活躍馬を輩出しておりサンデーサイレンス亡き後のエース格として扱われていたが、2008年にJRA総合リーディングサイアーを獲得。
内国産種牡馬としては1957年のクモハタ以来51年ぶりとなる快挙を達成した(地方競馬も含む日本総合リーディングでは1980年と1981年にアローエクスプレスが1位になっている)。
リーディングサイアーを獲得した翌年2009年も順当に種付けをこなしていたがシーズン終盤の6月22日、繋養先の社台スタリオンステーションで急死した[2]。
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アグネスタキオン 競争成績
同馬が下した同世代のジャングルポケット、クロフネ、マンハッタンカフェ、ダンツフレームらが後に活躍を見せたため各紙では最強世代との呼称で呼ばれ、その世代で突出していた同馬の評価は引退後も高まっていき「幻の三冠馬」と呼ばれることもある。ジャングルポケットが勝った東京優駿のテレビ中継では、ある解説者から「ジャングルポケットがゴールした瞬間に、2馬身先にアグネスタキオンが走っている姿が見えた」との発言も出ている[1]。また完勝に見えた皐月賞であるが、鞍上の河内は「この馬本来の走りではない」とコメントしている。
競走成績 [編集]
年月日 競馬場 競走名 格 頭数 枠番 馬番 オッズ(人気) 着順 騎手 斤量 距離(馬場) タイム(上り3F) タイム差 勝ち馬/ (2着馬)
2000 12. 2 阪神 3歳新馬 10 4 4 5.8(3人) 1着 河内洋 54 芝2000m(良) 2:04.3(33.8) -0.6 (リブロードキャスト)
12. 23 阪神 ラジオたんぱ杯3歳S GIII 12 2 2 4.5(2人) 1着 河内洋 54 芝2000m(良) R2:00.8(34.1) -0.4 (ジャングルポケット)
2001 3. 4 中山 弥生賞 GII 8 1 1 1.2(1人) 1着 河内洋 55 芝2000m(不) 2:05.7(38.2) -0.8 (ボーンキング)
4. 15 中山 皐月賞 GI 18 4 7 1.3(1人) 1着 河内洋 57 芝2000m(良) 2:00.3(35.5) -0.2 (ダンツフレーム)
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アグネスタキオン 戦績
兄のアグネスフライトがダービーを制した同時期、1歳下の弟アグネスタキオンが千歳の社台ファームで評判になっており社台ファームの長浜卓也に「兄以上の逸材かもしれない」と言われていた[1]が、デビューは比較的遅く、2000年12月の阪神芝2000m新馬戦となった。
アグネスフライトの全弟ということで注目を浴びたものの、調教タイムが目立つ数字ではなかったため3番人気にとどまった。しかしレースでは、新馬にも関わらず上がり3ハロン33秒台を記録し、2着リブロードキャスト[注釈 1]に3馬身半差で圧勝。
3着にメイショウラムセス、5着に1番人気のボーンキング[注釈 3]、9着にアドマイヤセレクトと有力馬、良血馬の集まったレースだった。
2戦目のラジオたんぱ杯3歳ステークスはさらに相手が強化されたが、2歳2000mのレコードタイムで圧勝。
レース後に鞍上の河内は、「次元の違う馬だと確信した」と話している。朝日杯3歳ステークス優勝馬が選出されることが通例の最優秀3歳牡馬の選考(記者投票)では、朝日杯優勝馬・メジロベイリーの147票に対しアグネスタキオンは異例といえる119票の支持を集めている。
3戦目は、翌年の年明け初戦となる弥生賞となった。レースは不良馬場となったが2着のボーンキングに手前[注釈 5]を変えずに5馬身差で勝利した。
4着にはマンハッタンカフェがいた。
4戦目はクラシック第1弾となる皐月賞で、単勝1.3倍の圧倒的1番人気に応えて快勝。
しかもいずれも危なげのない内容での勝利であったことから三冠達成が期待されたが、5月2日に左前浅屈腱炎を発症し、東京優駿出走を断念。その後社台ファームに放牧され、関係者協議の上で引退が決定。
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