柴田善臣
1985年に騎手免許を取得し、美浦の中野隆良厩舎所属でデビュー。初騎乗は同年3月9日の中山競馬第6競走のイズミサンエイで5着、初勝利は同年4月7日の中山競馬第3競走のイズミサンエイであった。
また、7勝のうち6勝が東京と中京の左回りの競馬場で、右回りの競馬場では長らく中央GI勝利が無かったが、2010年の宝塚記念をナカヤマフェスタで制し、右回りの競馬場での中央GI初勝利となった。JRA主要競馬場の1つの京都競馬場の重賞は長く未勝利であったが、2007年にマイネルスケルツィで京都金杯を勝ったことにより、重賞を勝っていない競馬場は函館と小倉となった。
そして、続く東京優駿でも、初騎乗のアドマイヤメインで2着に入った。惜しくもダービージョッキーとなることは出来なかったが、例年のイメージと異なるその姿は、周囲を驚かせるに十分であった。
古馬となってマイル路線に定着後に、柴田とのコンビが結成された。レースぶりは不器用そのもので、いつも後方から追い込む戦法であった。
GIIまでは通用したがGIでは足りず、1着馬がゴール板に達する頃に大外から追い込んで掲示板に載る程度の成績であった。最後までGIを勝つことは無かったが、柴田とのコンビでは重賞3勝を挙げる。
ホクトビーナス
ホクトヘリオスの半妹で、兄と同じ中野隆良厩舎の管理馬。1989年のデビュー戦での勝利が、柴田のJRA通算100勝目となった。
ダートで2連勝し、同年の桜花賞に出走したが武豊騎乗のシャダイカグラの2着に終わり、後に自著で「あの頃は未熟で、今騎乗していたならば勝っていた」と言うほど悔いの残るものであった。
ヤマニンゼファー
上述に記載。
マチカネタンホイザ
父は名種牡馬ノーザンテースト。母系も数々の名馬を輩出したスターロツチ系のため大変期待されていたが、血統に似合わぬズブさのため、大レースに出走するものの掲示板に載るのがやっとの有様であった。
そして『一流半』の烙印を押された所で柴田に手綱が巡り、このコンビでアメリカジョッキークラブカップなど重賞を2勝した。なお、旧6歳(現5歳)秋にはジャパンカップを鼻出血で、有馬記念を蕁麻疹により連続で出走を取り消すという珍事件(いずれも柴田が騎乗する予定であった)を起こした。
柴田が騎乗することの多い厩舎の一つである、高橋祥泰厩舎の管理馬。
オフサイドトラップ
サイレンススズカが故障を発生し競走中止となった1998年天皇賞(秋)の優勝馬。
川崎の関東オークス(統一GIII)を初め、札幌のエルムステークス、浦和の浦和記念(統一GII)など各地の交流重賞8勝すべてを、柴田とのコンビで挙げた。牝馬ながら2002年のJBCクラシックではアドマイヤドンの2着になるなど、男勝りな面も見せ、国内で3年間タフに活躍した。
7歳時、柴田を背にJBCスプリントを初め重賞8勝を挙げた。
オレハマッテルゼ
柴田にとって6年ぶりの中央GI勝利となった、2006年高松宮記念馬。
ゴール前で抜け出すと遊ぶ癖があり惜敗することが多かった。マイル戦を中心に使われてきた同馬にとって高松宮記念は初挑戦の1200m戦であったが、前記の癖を掴んでいた柴田は馬を騙す為にあえてマイルでのレース運びをし、見事勝利へ導いた。
マイネルスケルツィ
京都競馬場での初の重賞制覇をもたらした馬。
アサヒライジング
2006年のアネモネステークスより、当時騎乗停止中であった小林淳一から乗り替わりコンビを組む。
優駿牝馬やヴィクトリアマイルでもコンビを組んで好走。
ナカヤマフェスタ
2010年のメトロポリタンステークスからコンビを組み、第51回宝塚記念で1番人気のブエナビスタを差し切り優勝。
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