落馬
落馬(らくば)とは、騎乗者が馬から落下することである。
一般的に騎乗者の足は鐙(あぶみ)に架かっているため落馬が発生すると上半身(特に頭)から落下することがよくあり、大きな怪我を負ったり、場合によっては死に至ることも少なからずある。
競馬における落馬
競馬において、落馬した場合には当該馬は競走中止の扱いとなり、その馬が関わる馬券の購入金額の返還もされない。
ただし、落馬した地点で再騎乗するか、騎乗後に落馬した地点まで引き返せば競走中止とはならない(日本中央競馬会競馬施行規程98条第2項)。
再騎乗は障害競走では見られることがある。これは、障害競走における落馬は馬に故障がないことがあり、また完走すれば他馬の落馬等で賞金が得られる順位まで繰り上がる可能性も平地競走より高いためである。
また、他馬の進路を妨害して落馬せしめた場合、妨害した馬は失格となる。加害馬に騎乗していた騎手は騎乗停止などの制裁が課される。
騎手が落馬したまま走っている馬をカラ馬と呼ぶ。
落馬の理由としてよくあるもの
競走中に馬が他の馬に関係なくつまずく。
競走中に馬が故障や疾病を発症する。
競走中に馬が競走中の他馬に触れつまづく。
競走中に故障を発症して転倒した馬に接触する。(この場合大事故になりやすい)
障害競走で馬が障害飛越の際、着地に失敗して転倒、または騎手がバランスを崩して落馬する。
競走中に馬がラチ(柵)や他馬に体をぶつける。
競走中に馬が逸走する。
競走中に馬が走路の鳥に驚き、避けようとして急に斜行する。
馬がゲートを出た直後に立ち上がったり、前のめりになって騎手を振り落とす。
などがある。
競走中の落馬によって命を落としたり、騎手生命を絶たれた日本の騎手 [編集]
本項では落馬により死亡、騎手生命を絶たれた人物について抜粋記述する。
加藤義雄(日本レース倶楽部・1933年落馬、死亡)
茂木勢一(日本競馬会・1938年落馬、死亡)
吉田昌祐(日本競馬会・1940年落馬、死亡)
武富三(日本競馬会・1944年落馬、死亡)
岩瀬三郎(日本競馬会・1948年落馬、死亡)
横山靖(国営競馬・1953年落馬、死亡)
田畑志郎(国営競馬・1953年落馬、死亡)
谷岡敏行(国営競馬・1953年落馬、死亡)朝日杯3歳ステークスでの事故であった
西橋康郎(中央競馬・1955年落馬、死亡)
大柳英雄(中央競馬・1955年落馬、死亡)死亡年度の全国リーディング7位。2年目での悲劇。
阿部正太郎(中央競馬・1956年落馬、引退)のち調教師として厩舎を開き、加賀武見を見出す。
矢倉義勇(中央競馬・1959年落馬、一時回復するも1962年死亡)
柴田富夫(中央競馬・1960年落馬、死亡)調教試験中の落馬で、この事故を契機に、調教中でも救急車が馬場内に待機する様になった。
茂木光男(中央競馬・1960年落馬、死亡)
目時重男(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)
近藤武夫(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)
菅村恭一(中央競馬・1961年落馬、死亡)
志村功(中央競馬・1964年落車、死亡)繋駕速歩競走での事故であった。
小野定夫(中央競馬・1969年落馬、死亡)
石井正善(中央競馬・1969年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。
丸目敏栄(中央競馬・1971年落馬、引退)引退後は調教師として競馬界に復帰したが、1980年8月4日に急死した。
秋元松雄(中央競馬・1976年落馬、1977年死亡)
坂本恒三(中央競馬・1977年落馬、死亡)
佐藤政男(中央競馬・1977年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。
角田次男(船橋・1977年落馬、引退)落馬事故の際に騎乗していたサギヌマグツドリーは、この年の関東オークス優勝馬。
松若勲(中央競馬・1977年落馬、死亡)…この競走では7頭が落馬。(中央競馬の1レース落馬頭数ワースト2位タイ)
町屋幸二(中央競馬・1978年落馬、死亡)
福永洋一(中央競馬・1979年落馬、引退)『馬事公苑花の15期生』。
坂本敏美(名古屋・1985年落馬、引退)後の東海地区のエース・安藤勝己が敵わなかった天才として知られる。
斎藤仁作(中央競馬・1987年落馬、死亡)
玉ノ井健志(中央競馬・1992年落馬、死亡)
岡潤一郎(中央競馬・1993年落馬、死亡)
柴田政人(中央競馬・1994年落馬、引退)『馬事公苑花の15期生』。
清水英次(中央競馬・1994年落馬、引退)この時の後遺症が長く尾を引き2005年7月5日に死去した。
北川和典(中央競馬・1995年落馬、1998年引退)
北村卓士(中央競馬・1998年落馬、2000年引退)
松井達也(浦和・2000年落馬、死亡)
竹本貴志(中央競馬・2004年落馬、死亡)騎手デビューしてわずか3週目での惨事だった。
常石勝義(中央競馬・2004年落馬、2007年引退)『競馬学校花の12期生』。デビュー年の1996年にも障害競走で落馬、脳挫傷で一時重態となっていたが復帰した。しかし、2度目の落馬事故で再び脳挫傷など受傷し、引退を余儀なくされた。
佐藤隆(船橋・2006年落馬、死亡)浦和競馬での事故であった。
石山繁(中央競馬・2007年落馬、2009年引退)
塚田祥雄(中央競馬・2007年落馬、2010年引退)
この他にも、調教中の落馬事故で死亡したり、騎手業からの引退を余儀なくされた例も存在する。
馬術競技における落馬
馬術競技(馬場馬術、障害飛越競技など)においては、落馬した場合は失権となり、それ以後の競技を続行することはできない。競技点も得ることはできない。
競馬とは異なり、馬術競技では全力で襲歩をさせるわけではないので、正常な運動の状態で競技選手が落馬するような例はほとんど見られない。馬術競技において発生する落馬は、たとえば馬が何かに驚いて急に跳ねた場合、何かにつまづいて転んだ場合、障害を前にして拒止した場合などが大半である。
競技ではない、乗馬クラブや学校馬術部などでのレッスンや部班運動などの練習においては、騎乗者の未熟により馬上でのバランスを取り損ねての落馬もある。
通常、落馬による負傷や死亡事故を避けるため、ヘルメットやプロテクターベストの着用を義務付けたり推奨している場合が多いが、馬場馬術の競技のように、正装での騎乗が求められる場合にはその限りではない。
乗馬・馬術においては、落馬時の対処について、以下のように指導されている。
馬の首にしがみついた場合、回転して馬の前に落ちてしまわないように注意する。前に落ちてしまうと、そのまま馬に踏まれてしまう危険性があるため。
落ちるときはできるだけ鐙を外す。鐙を支点として回転して頭から落ちると危険なため。
着地するまではできるだけ手綱から手を離さない。これにより足のほうから着地できる可能性が高まるため。
着地した後はすぐ手綱を放す。手綱を持ち続けていると、走り去ろうとする馬に引きずられてしまう危険性があるため。
落馬の一覧
日本の競馬における主な落馬事故
1956年日本ダービー – 重馬場の上に27頭立てということもあり、外枠の有力馬キタノオー・ヘキラクが早めに有利なポジションを確保しようと内に馬体を寄せた結果、1コーナーで馬群が内側に詰まり混乱が発生。その中で行き場を失った内枠のエンメイとトサタケヒロが落馬、故障を発症したエンメイは予後不良となり、エンメイの馬主で作家の吉川英治はそれにショックを受けて馬主業から撤退した。
鞍上の阿部正太郎も騎手としては引退に追い込まれる瀕死の重傷を負った。この事故がきっかけとなり、日本中央競馬会は事故防止委員会を設立した。
また、事故調査委員会も開かれ、6月の梅雨による馬場の悪化の影響を指摘。それ以降のダービーについて「5月の最終日曜日に実施する」という原則を発表した。加えて、それまで障害競走のみで使用されていたヘルメットを平地競走でも導入することとなった。
1967年阪神大賞典 – 1965年のダービー馬キーストンが最後の直線で故障、騎手が落馬。予後不良となる程の重傷を負いながらも、失神している山本正司騎手を気づかうような仕種を見せたキーストンの姿は、後々までの語り種になっている。
1973年高松宮杯 – 先頭を走っていたハマノパレードが最後の直線で転倒。致命的な負傷を負ったが、レース後即座に安楽死とならず食肉業者に売られたことが後日明らかとなる。この事件以降、予後不良となった馬は手続き終了後、即座に薬殺されるようになった。
1995年宝塚記念 – ライスシャワーが第3コーナーの坂の下り(この年は京都競馬場で開催)で故障を発生し転倒。騎手が落馬し馬は予後不良となる。のちに京都競馬場内をはじめ数か所に同馬の記念碑が建てられた。
2001年京都大賞典 – ステイゴールドが最後の直線で斜行し、ステイゴールドとテイエムオペラオーの間に挟まれたナリタトップロードが落馬。審議の結果ステイゴールドは1位入線も失格となり、2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がり優勝した。
2007年1月27日の東京競馬場において、第2競走から3レース連続して計9頭の落馬事故が起こった。また第10競走でも1頭が故障して落馬。同じ日の小倉競馬場で2頭、翌1月28日の京都競馬場でも2頭が落馬しており、2日間で14頭落馬したことになる。このほか28日の小倉第4競走の新馬戦では1着馬が入線後に落馬している。
2010年1月11日の中山競馬場において、第4競走・3歳新馬でノボプロジェクトが第4コーナーで急に外側へ斜行したことの影響で出走16頭中9頭が落馬した[1]。1つのレースでの落馬頭数としては中央競馬史上最多。ノボプロジェクトは1位入線も失格となり、騎乗していた三浦皇成は進路妨害が認められ、4日間の騎乗停止となった。
落馬した9頭に異状はなかったが、内田博幸が左尺骨近位骨幹部骨折の重傷を負うなど騎手6人が負傷や検査によりその後のレースの騎手変更を余儀なくされた(詳細については9頭落馬事故を参照)。なお、地方競馬では1979年2月に園田競馬場で出走11頭中8頭[2]が落馬する事故が発生している。
中央競馬のGI級競走における1番人気馬の落馬の例としては、1969年の日本ダービーでのタカツバキ(スタート直後に落馬)、2002年の菊花賞でのノーリーズン(スタート直後に躓き落馬)がある。
1985年の札幌日経賞で、スタート直後に落馬したギャロップダイナが鮮やかな好位差しで“1位入線”を果たし、この年の年末スポーツ特番の格好のネタとなった。同様に1993年の京阪杯でワイドバトル、2008年のエリザベス女王杯でポルトフィーノが、スタート直後に躓き落馬した後、1着馬より先に入線した。なお、ポルトフィーノに騎乗していた武豊は史上初のGI級のレースで同一騎手が2回もスタート直後に落馬した騎手となってしまった(2002年菊花賞、2008年エリザベス女王杯)。
1990年、前年の阪神3歳ステークス優勝馬のコガネタイフウは、1年で2度平地競走で落馬している。3月4日のペガサスステークス、10月20日のカシオペアステークス(オープン特別)である。いずれも騎手は田原成貴でペガサスステークスでは腰椎・骨盤を骨折する重傷を負ったが、馬はいずれのレースでも故障はなかった。なお同馬はのちに障害競走にも出走した。(3戦して落馬なし)また、1年に2度平地競走で落馬した馬には、ギガンティック(翌年も平地競走で1回落馬)、アルドラゴンがいる。
障害競走では複数頭の落馬がたびたび発生している。1985年の中山大障害(春)では、名物の大竹柵障害で出走馬10頭中6頭が一挙に落馬、完走したのは半数以下の4頭だった。1999年の京都ハイジャンプでは13頭中7頭が、2003年の阪神スプリングジャンプでは14頭中6頭が、2010年12月4日の阪神競馬第4競走障害未勝利戦においても14頭中7頭[3]が落馬している。2001年の中山グランドジャンプでは、向正面の2号坂路(バンケット)の下りで先に転倒した馬に後続の3頭が巻き込まれて落馬したが、このうちの1頭のランドが再騎乗して完走した。
1964年3月8日の中京競馬場でのサラ系障害戦では、出走頭数4頭のうち3頭が落馬し、1頭(アルプスオー)のみ完走を果たした。この為、単勝式馬券のみ的中となり、連勝式馬券は買い戻しとなった。
1965年1月4日の第1回中山競馬第2日目の第3競走サラ障害オープン戦(勝ち馬フジノオー)において、サチオンワードに騎乗していた坪井正美は、最終障害で落馬転倒して後続の馬に頭を蹴られ、前頭部頭蓋骨陥没骨折および側頭部開放性骨折の重傷を負った。特に側頭部の骨折箇所からは脳が見える程の大怪我であったが、すぐに病院へ搬送されて緊急手術を受けた結果、奇跡的に回復。年内には復帰して14勝を挙げ、1980年に引退するまで活躍した。
落馬その他
1198年 – 源頼朝が落馬。その後死亡。(異説あり)
1337年 – 新田義貞が福井県の藤島城攻めで落馬、敗死。
1430年 – ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ攻めで落馬、捕縛されて後処刑される。
1626年 – 徳川家光が高田馬場へ狩猟に向かう途中の早稲田にて落馬。現地には現在も「落馬地蔵」がある。
1939年 – 周恩来が落馬しその後右腕が不自由になる。以後物を書くときは不自然な体勢になった。
1995年 – 俳優のクリストファー・リーヴが馬術大会の競技中に落馬。脊髄損傷により俳優の引退を余儀なくされた。後に福祉活動家となり、自身も負った脊椎損傷の回復の研究などの支援も行った。
1998年 – 俳優のトミー・リー・ジョーンズがポロの試合中に落馬。
2005年 – 歌手のマドンナが誕生日に自宅で乗馬中に落馬。肋骨と鎖骨、腕の骨を骨折する重傷。
2006年 – ドーハ・アジア大会の馬術競技中、韓国代表の金亨七選手が馬とともに転倒・落馬し、馬の下敷きになり死亡。
落馬メモ
中華人民共和国において、汚職で失脚することを「落馬」という。
「馬から落馬」…重言の例としてよく取り上げられる。
二輪車の場合は落車と呼ばれる
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