有馬記念
有馬記念 第50回有馬記念 開催地 中山競馬場 施行日 2011年12月25日 施行時期 12月下旬 (原則5回中山8日目) 格付け GI 1着賞金 2億円 賞金総額 3億8000万円 距離 芝2500m 出走条件 サラブレッド系3歳以上(国際)(指定)[1] 出走資格も参照 負担重量 定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減) 第1回施行日 1956年12月23日 有馬記念(ありまきねん)は中山競馬場の芝内回り2500mで施行する中央競馬の重賞(GI)競走。 正賞は日本馬主協会連合会会長賞、中山馬主協会賞[2]。
有馬記念 概要
1955年まで暮れの中山競馬では中山大障害が看板競走であったが、東京競馬場で行われていた東京優駿(日本ダービー)と比べると華やかさに欠けていることは否めなかった。そこで当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場で大レースをと計画し、しかもそのアイデアとしてファンがより親近感を持てるようにとファン投票により出走馬を選出するオールスターレース方式による第1回中山グランプリが1956年12月23日に中山競馬場の芝内回り2600mで開催された。プロ野球のオールスターと同様の競馬のオールスターレースは、当時の世界の競馬先進国でも類を見ない画期的な選抜方法[3]であった(のちに宝塚記念もファン投票方式と推薦委員会による推薦方式を採用)[4]。 しかし第1回を盛況の内に終えて間もない翌1957年1月9日に提唱者の有馬が急逝したため、有馬の数々の功績を称えて第2回以降は「有馬記念(グランプリ)」と名称が変更となった。
期せずして、これは日本の公営競技等のレースでレースの提唱者の名前がレース名となった最初の例ともなった(後に安田記念も同様の例となっている)。このような経緯があるため、現在でもJRAの競馬番組表やレーシングプログラムでは競走名が「有馬記念(第○○回グランプリ)」と表記される。競走名の副題から優勝馬はグランプリホースと呼ばれることがある。 距離は第10回までは2600m(第4回までは芝・内回り、第5回から第10回までは芝・外回り)、第11回以降は現在に至るまで芝・内回りの2500mで施行されている。なおこれまですべて中山競馬場で開催され、八大競走の中では唯一開催場の変更が無いレースでもある[5]。 現在の優勝レイは、青色の地に金色の文字となっている。 なお地方競馬との申し合わせにより長らく12月28日から1月4日の間は中央競馬の開催が行われなかったが、2003年の第48回では初めて12月28日に行われた。以後12月28日が日曜日と重なる場合はその日に開催されるようになった[6]。
有馬記念 出走資格
サラ系3歳(旧4歳)以上のファン投票及びJRAに選出されたJRA所属馬及び本競走に出走登録した外国馬及び出走登録しJRAに選定された地方馬のみ出走が可能である。 出走馬の選定方法は以下のとおりである。
ファン投票選出方法は公式投票用紙(競馬場、ウインズ各会場で配布)、市販のはがき(官製・私製)、インターネットから可能だが1名につき1媒体1通限り。1名での複数枚投票(複数媒体の使用含む)と郵送の場合の印刷、ゴム印、ワープロ使用は無効となる。 特別登録を行った馬の中からファン投票上位10頭が優先出走できる[7] [8]。
それ以外の馬(外国馬を除く)は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる(地方馬もこの方法で選出される)。フルゲート16頭まで出走できる。 2000年から2006年まではジャパンカップで優勝した外国所属競走馬にも優先出走権が与えられ、該当馬が2頭いたがいずれも行使しなかった。 2007年からは国際競走となり外国馬は最大6頭まで出走できる。
有馬記念 歴代ファン投票1位
回数 開催年 ファン投票1位 性齢 得票数 結果 第1回 1956 キタノオー 牡3 6,159 2着 第2回 1957 ハクチカラ 牡4 7,356 1着 第3回 1958 カツラシユウホウ 牡3 18,952 不出走 第4回 1959 ハククラマ 牡3 11,438 12着 第5回 1960 コダマ 牡3 17,082 6着 第6回 1961 シーザー 牡4 12,773 4着 第7回 1962 オンスロート 牡5 15,617 1着 第8回 1963 メイズイ 牡3 18,309 2着 第9回 1964 メイズイ 牡4 18,448 3着 第10回 1965 シンザン 牡4 26,853 1着 第11回 1966 ナスノコトブキ 牡3 22,510 5着 第12回 1967 スピードシンボリ 牡4 22,143 4着 第13回 1968 アサカオー 牡3 23,098 6着 第14回 1969 マーチス 牡4 21,798 10着 第15回 1970 アカネテンリュウ 牡4 20,295 2着 第16回 1971 アカネテンリュウ 牡5 25,215 出走取消 第17回 1972 イシノヒカル 牡3 17,022 1着 第18回 1973 ハイセイコー 牡3 24,143 3着 第19回 1974 ハイセイコー 牡4 22,400 2着 第20回 1975 キタノカチドキ 牡4 17,077 8着 第21回 1976 トウショウボーイ 牡3 19,957 1着 第22回 1977 テンポイント 牡4 22,541 1着 第23回 1978 プレストウコウ 牡4 75,257 12着 第24回 1979 サクラショウリ 牡4 90,301 6着 第25回 1980 カツラノハイセイコ 牡4 154,640 2着 第26回 1981 ホウヨウボーイ 牡6 185,747 2着 第27回 1982 モンテプリンス 牡5 113,667 11着 第28回 1983 アンバーシャダイ 牡6 147,484 3着 第29回 1984 ミスターシービー 牡4 171,979 3着 第30回 1985 シンボリルドルフ 牡4 140,753 1着 第31回 1986 ミホシンザン 牡4 168,210 3着 第32回 1987 サクラスターオー 牡3 141,494 競走中止 第33回 1988 タマモクロス 牡4 183,473 2着 第34回 1989 オグリキャップ 牡4 197,682 5着 第35回 1990 オグリキャップ 牡5 146,738 1着 第36回 1991 メジロマックイーン 牡4 155,353 2着 第37回 1992 トウカイテイオー 牡4 177,926 11着 第38回 1993 ビワハヤヒデ 牡3 146,218 2着 第39回 1994 ナリタブライアン 牡3 178,471 1着 第40回 1995 ヒシアマゾン 牝4 173,689 5着 第41回 1996 マヤノトップガン 牡4 155,122 7着 第42回 1997 エアグルーヴ 牝4 142,596 3着 第43回 1998 エアグルーヴ 牝5 165,357 5着 第44回 1999 スペシャルウィーク 牡4 165,734 2着 第45回 2000 テイエムオペラオー 牡4 109,140 1着 第46回 2001 テイエムオペラオー 牡5 93,217 5着 第47回 2002 ナリタトップロード 牡6 91,122 4着 第48回 2003 シンボリクリスエス 牡4 125,116 1着 第49回 2004 ゼンノロブロイ 牡4 100,052 1着 第50回 2005 ディープインパクト 牡3 160,297 2着 第51回 2006 ディープインパクト 牡4 119,940 1着 第52回 2007 ウオッカ 牝3 105,441 11着 第53回 2008 ウオッカ 牝4 136,619 不出走 第54回 2009 ウオッカ 牝5 105,059 不出走 第55回 2010 ブエナビスタ 牝4 111,323 2着 第56回 2011 ブエナビスタ 牝5 109,247 2004年の投票では、地方競馬所属のため投票の対象外であるコスモバルクに大量の無効票が投じられた。不完全な集計ながら、この年1位のゼンノロブロイを支持率で上回っていたという[9]。
有馬記念 負担重量
負担重量は定量で3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬は2kg減である。 第1回は3歳54㎏・4歳以上55㎏・牝馬各2㎏減で施行。第10回から第24回は3歳54㎏・4歳56㎏・5歳以上55㎏・牝馬各2㎏減。第25回から第28回は3歳55kg・4歳57kg・5歳以上56kg・牝馬2kg減で施行された。 第2回から第9回、第29回から第45回までは馬齢重量で施行され、第46回より現行の負担重量となった。
有馬記念 賞金
2011年度現在の総額賞金は3億8,000万円で、ジャパンカップに次いで国内で2番目に総額賞金の高いレースとなっている。
有馬記念 グレード制が施行された第36回(1984年)以降
回(施行年) 総額賞金 1着 2着 3着 4着 5着 第29回(1984年) 1億4,250万円 7,500万円 3,000万円 1,900万円 1,100万円 750万円 第30回(1985年) 1億4,880万円 7,800万円 3,100万円 2,000万円 1,200万円 780万円 第31回(1986年) 1億5,200万円 8,000万円 3,200万円 800万円 第32回(1987年) 1億6,150万円 8,500万円 3,400万円 2,100万円 1,300万円 850万円 第33回(1988年) 1億8,050万円 9,500万円 3,800万円 2,400万円 1,400万円 950万円 第34回(1989年) 1億9,530万円 1億300万円 4,100万円 2,600万円 1,500万円 1,030万円 第35回(1990年) 2億1,000万円 1億1,000万円 4,400万円 2,800万円 1,700万円 1,100万円 第36回(1991年) 2億2,800万円 1億2,000万円 4,800万円 3,000万円 1,800万円 1,200万円 第37回(1992年) 2億4,800万円 1億3,000万円 5,200万円 3,300万円 2,000万円 1,300万円 第38回(1993年) 第39回(1994年) 第40回(1995年) 2億5,120万円 1億3,200万円 5,300万円 1,320万円 第41回(1996年) 第42回(1997年) 第43回(1998年) 第44回(1999年) 第45回(2000年) 3億4,200万円 1億8,000万円 7,200万円 4,500万円 2,700万円 1,800万円 第46回(2001年) 第47回(2002年) 第48回(2003年) 第49回(2004年) 第50回(2005年) 第51回(2006年) 第52回(2007年) 第53回(2008年) 第54回(2009年) 第55回(2010年) 第56回(2011年) 3億8,000万円 2億円 8,000万円 5,000万円 3,000万円 2,000万円 第57回(2012年)
有馬記念は、ドリームレース
夢のあるレースを目標に創設されたことや出走メンバーの豪華さから、ドリームレースとも言われる。中央競馬の1年間を締めくくる総決算としてその異名にふさわしい中央競馬の歴史に残る数々の名勝負や名場面を生んでおり、この日は競馬ファンならずとも競馬で盛り上がる1日となる。1996年の第41回で記録した売上金額の875億円は世界で最も勝馬投票券の売上のある競走としてギネス・ワールド・レコーズに認定・登録されている。 ただし有馬記念を最大目標としない陣営もあり、秋のGIシリーズ(菊花賞、天皇賞(秋)、ジャパンカップ等)に最大目標を定め何回かレースに出走してくる馬が少なくないのが特徴である[10]。中にはジャパンカップからのレース間隔が短く疲労が抜けきりにくいため凡走や怪我などを警戒して出走を回避をする陣営や、小回りで直線の短い中山競馬場を嫌って同競走を回避する陣営が近年増えつつある[11]。かつてはそれとは逆に天皇賞(秋)やジャパンカップを回避して有馬記念に照準を絞る馬も多かったが、近年は少なくなってきている(有馬記念に照準を絞る場合はジャパンカップを回避することが多かった)。さらに、同時期に香港で開催される香港国際競走に出走する馬もいる。
有馬記念 施行コースと特徴
中山競馬場の芝2500mで外回りコースの第3コーナーから発走。このコースは最初の第4コーナーまでが192mと短く、外枠からスタートする馬は距離をロスしやすく内枠からスタートする馬も距離のロスを避けようと内側に殺到してくる他馬により進路を塞がれる不利を受けやすいため[要出典]出走可能頭数は他のGIと比較して2頭少ない16頭[12]で行われるが、問題が完全に解消しているわけではない[13]。このため[要出典]大川慶次郎は、東京競馬場での施行を生前に主張していた[14]。 また中山競馬場は最後の直線が310mと短いため(こちらも頭数が少ないために影響は軽減しているが)、東京競馬場のような広いコースとは異なり後半の追い上げを得意としている馬は内を通って前が詰まるリスクかコーナーを大きく回って距離をロスするリスクかを背負わねばならず、ジャパンカップで好走した馬が疲労も相まって力を出し切れないことなどもある。 その一方で、人気薄の逃げ馬や2000m以下しか好走実績がない馬が出足の良さや器用さを活かして上位に食い込んできたり不振に陥っていた馬が名騎手に導かれて突然復活する[15]こともあるレースでもある。その理由としてスタート直後のコーナーを回ったところに正面スタンドがあることで大歓声があがり、ここで馬が行きたがる傾向があるからであり、そこでの騎手との折り合いがポイントとなるからである。[要出典]
有馬記念 特別褒賞金
2000年から天皇賞(秋)、ジャパンカップとこのレースの秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は1億円の特別褒賞金(後に内国産馬には2億円、外国産馬には1億円に変更)を交付する制度が取り入れられ[16]出走が促されることとなり、その年のテイエムオペラオーが早速それを達成して褒賞金を獲得した。そして、2004年にゼンノロブロイが第2号の獲得馬になった。 また、2010年からは中央競馬所属馬で当該年のJRA・海外のGI競走優勝馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に限り1着から順に3000万円、2000万円、1000万円の褒賞金を交付するようになり[17]2011年からは天皇賞(秋)とジャパンカップいずれかで3着以内に入着した馬が本競走に出走し3着までに入着した場合に、最大5000万円の褒賞金が交付されるようになる[17][18]。ただし、秋季主要GI競走3競走を全て優勝した場合は既存の報奨金(2億円または1億円)のみとなりこの報奨金は与えられない。
有馬記念 歴史
1956年 - 中山競馬場の芝2600m(内回り)の4歳(現3歳)以上の馬齢重量の重賞競走「中山グランプリ」として創設(創設当初の負担重量は4歳(現3歳)が牡馬・騸馬54kg・牝馬52kg、5歳(現4歳)以上が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kg)。 1957年 名称を「有馬記念」に変更。 6歳(現5歳)以上の負担重量が4歳(現3歳)と同じく牡馬・騸馬54kg・牝馬52kgに変更。 1959年 この年の9月1日から日本競馬の時計表示が変更になったのに伴い、時計が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。 ガーネツトが牝馬として初の優勝。 1960年 - 芝2600m(外回り)に変更[19]。 1960年 - 高松三太が騎手として初の連覇を果たす。 1965年 5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgにそれぞれ変更。 シンザンが優勝し五冠達成。 1966年 - 馬場改修に伴い施行コースを芝2500m(内回り)に変更。 1970年 - スピードシンボリが史上初の連覇。 1971年 混合競走に指定。 馬流感騒動の影響で、馬流感に罹患したメジロアサマ、アカネテンリュウ、カミタカの3頭が出走を取り消し、出走頭数が6頭のみの競走となる(有馬記念史上出走馬最少記録)。 1977年 - テンポイントとトウショウボーイのマッチレース、テンポイントが優勝。 1980年 - 4歳(現3歳)の負担斤量が牡馬・騸馬55kg・牝馬53kgに、5歳(現4歳)の負担重量が牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに、6歳(現5歳)以上の負担重量が牡馬・騸馬56kg・牝馬54kgにそれぞれ変更。 1984年 グレード制施行によりGI競走に格付け。 この年より1987年まで、当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走は第10競走で施行された。 1985年 シンボリルドルフが史上2頭目の連覇およびび七冠を達成。史上初のJRA・GI競走7勝を達成。 同年に限り当時ジャパンカップのみの採用であった馬名入りゼッケンの試験的な使用を行う(この結果1987年秋競馬より馬名入りゼッケンの他競走への拡大を実施)。 1987年 - メリーナイスがスタート直後に落馬。1番人気サクラスターオーが最後の直線手前で故障発生、競走中止。 1988年 オグリキャップが当競走で引退と決まっていたタマモクロスとの「昭和最後の芦毛対決」を制する(タマモクロスは2着)。 3位入線のスーパークリークが進路妨害により失格。 この年より2007年まで、当日の中山競馬場が全10競走制となり、当競走は第9競走で施行された。 1989年 - 1着賞金総額が1億円台となる。 1990年 - 当競走での引退を表明していたオグリキャップが1988年に次ぐ2度目の優勝を果たし、レース後場内が「オグリ」コールに包まれる。 1993年 - トウカイテイオーが約1年ぶりの出走で優勝、奇跡の復活を果たす。 1995年 - 指定交流競走に指定され、地方所属馬にも門戸が開放される。 1996年 - 単独競走としての勝馬投票券の売上げ世界レコード875億104万2400円を記録。 1999年 - グラスワンダーが史上3頭目の連覇。 2000年 秋の古馬GI報奨金制度の第3戦に指定。 テイエムオペラオーが優勝、JRA古馬中長距離GI競走[20]完全制覇を達成。 2001年 馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上」から「3歳以上」に変更。 負担重量を「馬齢重量」から「定重量」に変更。 5歳以上の負担重量が4歳と同じく牡馬・騸馬57kg・牝馬55kgに変更。 敬宮愛子内親王御誕生慶祝の副称が当年のみにつく。 2003年 - シンボリクリスエスが史上4頭目の連覇。 2004年 オリビエ・ペリエが騎手として史上初の3連覇。 藤沢和雄が調教師として史上初の3連覇。 2006年 この競走で引退が決まっていたディープインパクトが優勝、史上3頭目のJRA・GI競走7勝を達成。 大相撲の第68代横綱朝青龍明徳が表彰式プレゼンターを務めた。 2007年 - 混合競走から国際競走に変更され、外国調教馬は6頭まで出走可能となる。 2008年 当年のみ、JRAプレミアムレースの対象レースとなる(同日に開催される中央競馬の全競馬場の全特別競走もJRAプレミアムの対象レースとなっている)。 この年より当日の中山競馬場が全11競走制となり、当競走の競走番号が再び第10競走に設定。 ダイワスカーレットがトウメイ以来37年ぶりの牝馬として優勝。 2009年 ウオッカが史上初の3年連続ファン投票1位を獲得したがジャパンカップ競走中に鼻出血を発症したため、日本中央競馬会競馬番組一般事項第2章のその11「痼疾馬の出走制限」の規定(1ヶ月出走停止)により出走できなかった。 史上初めて、4歳馬の出走がなかった。 コスモバルクが新記録となる「6年連続出走」を達成。 この年の菊花賞優勝馬であるスリーロールスが競走中止し、引退に追い込まれる。 2010年 当該年度のGI優勝馬が3着以内に入ることを条件に褒賞金が設定される。 大相撲の第69代横綱白鵬翔が表彰式プレゼンターを務めた[21]。朝青龍に次ぐ現役横綱の競馬場来場となった。 1着から3着まで、同競走史上初めて外国人騎手の騎乗馬が占めた。 2011年 - 褒賞金の対象を天皇賞(秋)とジャパンカップの1~3着馬にも拡大。
有馬記念 歴代優勝馬
国際競走となった2007年以降は優勝馬の国旗を表記する。性齢の年齢は現在の満年齢表記で表す。 回数 施行日 調教国・優勝馬 性齢 勝時計 優勝騎手 管理調教師 馬主 第1回 1956年12月23日 メイヂヒカリ 牡4 2:43 1/5 蛯名武五郎 藤本冨良 新田松江 第2回 1957年12月22日 ハクチカラ 牡4 2:49 0/5 保田隆芳 尾形藤吉 西博 第3回 1958年12月21日 オンワードゼア 牡4 2:49 1/5 八木沢勝美 二本柳俊夫 樫山純三 第4回 1959年12月20日 ガーネツト 牝4 2:50.9 伊藤竹男 稗田敏男 畑江五郎 第5回 1960年12月18日 スターロツチ 牝3 2:44.5 高松三太 松山吉三郎 藤井金次郎 第6回 1961年12月24日 ホマレボシ 牡4 2:40.8 高松三太 稗田敏男 川口文子 第7回 1962年12月23日 オンスロート 牡5 2:44.4 山岡忞 中村広 田村喜志 第8回 1963年12月22日 リユウフオーレル 牡4 2:42.5 宮本悳 橋本正晴 三好笑子 第9回 1964年12月27日 ヤマトキヨウダイ 牡4 2:45.1 梶与四松 稲葉幸夫 門井みち 第10回 1965年12月26日 シンザン 牡4 2:47.2 松本善登 武田文吾 橋元幸吉 第11回 1966年12月25日 コレヒデ 牡4 2:37.0 保田隆芳 尾形藤吉 千明康 第12回 1967年12月24日 カブトシロー 牡5 2:39.7 大崎昭一 久保田彦之 (有)志賀 第13回 1968年12月22日 リュウズキ 牡4 2:46.2 森安弘明 矢倉玉男 福井章哉 第14回 1969年12月21日 スピードシンボリ 牡6 2:35.1 野平祐二 野平省三 和田共弘 第15回 1970年12月20日 スピードシンボリ 牡7 2:35.7 野平祐二 野平省三 和田共弘 第16回 1971年12月19日 トウメイ 牝5 2:36.0 清水英次 坂田正行 近藤克夫 第17回 1972年12月17日 イシノヒカル 牡3 2:38.5 増沢末夫 浅野武志 石嶋清仁 第18回 1973年12月16日 ストロングエイト 牡4 2:36.4 中島啓之 奥平真治 ハイランド牧場 第19回 1974年12月15日 タニノチカラ 牡5 2:35.9 田島日出雄 島崎宏 谷水雄三 第20回 1975年12月14日 イシノアラシ 牡3 2:38.1 加賀武見 浅野武志 石嶋清仁 第21回 1976年12月19日 トウショウボーイ 牡3 2:34.0 武邦彦 保田隆芳 トウショウ産業(株) 第22回 1977年12月18日 テンポイント 牡4 2:35.4 鹿戸明 小川佐助 高田久成 第23回 1978年12月17日 カネミノブ 牡4 2:33.4 加賀武見 阿部新生 角替光二 第24回 1979年12月16日 グリーングラス 牡6 2:35.4 大崎昭一 中野隆良 半沢吉四郎 第25回 1980年12月21日 ホウヨウボーイ 牡5 2:33.7 加藤和宏 二本柳俊夫 古川嘉治 第26回 1981年12月20日 アンバーシャダイ 牡4 2:35.5 東信二 二本柳俊夫 吉田善哉 第27回 1982年12月26日 ヒカリデユール 牡5 2:36.7 河内洋 須貝彦三 橋本善吉 第28回 1983年12月25日 リードホーユー 牡3 2:34.0 田原成貴 服部正利 熊本芳雄 第29回 1984年12月23日 シンボリルドルフ 牡3 2:32.8 岡部幸雄 野平祐二 和田農林(有) 第30回 1985年12月22日 シンボリルドルフ 牡4 2:33.1 岡部幸雄 野平祐二 和田農林(有) 第31回 1986年12月21日 ダイナガリバー 牡3 2:34.0 増沢末夫 松山吉三郎 (有)社台レースホース 第32回 1987年12月27日 メジロデュレン 牡4 2:33.9 村本善之 池江泰郎 メジロ商事(株) 第33回 1988年12月25日 オグリキャップ 牡3 2:33.9 岡部幸雄 瀬戸口勉 佐橋五十雄 第34回 1989年12月24日 イナリワン 牡5 2:31.7 柴田政人 鈴木清 保手浜弘規 第35回 1990年12月23日 オグリキャップ 牡5 2:34.2 武豊 瀬戸口勉 近藤俊典 第36回 1991年12月22日 ダイユウサク 牡6 2:30.6 熊沢重文 内藤繁春 橋元幸平 第37回 1992年12月27日 メジロパーマー 牡5 2:33.5 山田泰誠 大久保正陽 (有)メジロ牧場 第38回 1993年12月26日 トウカイテイオー 牡5 2:30.9 田原成貴 松元省一 内村正則 第39回 1994年12月25日 ナリタブライアン 牡3 2:32.2 南井克巳 大久保正陽 山路秀則 第40回 1995年12月24日 マヤノトップガン 牡3 2:33.6 田原成貴 坂口正大 田所祐 第41回 1996年12月22日 サクラローレル 牡5 2:33.8 横山典弘 境勝太郎 (株)さくらコマース 第42回 1997年12月21日 シルクジャスティス 牡3 2:34.8 藤田伸二 大久保正陽 有限会社シルク 第43回 1998年12月27日 グラスワンダー 牡3 2:32.1 的場均 尾形充弘 半沢(有) 第44回 1999年12月26日 グラスワンダー 牡4 2:37.2 的場均 尾形充弘 半沢(有) 第45回 2000年12月24日 テイエムオペラオー 牡4 2:34.1 和田竜二 岩元市三 竹園正繼 第46回 2001年12月23日 マンハッタンカフェ 牡3 2:33.1 蛯名正義 小島太 西川清 第47回 2002年12月22日 シンボリクリスエス 牡3 2:32.6 O.ペリエ 藤沢和雄 シンボリ牧場 第48回 2003年12月28日 シンボリクリスエス 牡4 2:30.5 O.ペリエ 藤沢和雄 シンボリ牧場 第49回 2004年12月26日 ゼンノロブロイ 牡4 2:29.5 O.ペリエ 藤沢和雄 大迫忍 第50回 2005年12月25日 ハーツクライ 牡4 2:31.9 C.ルメール 橋口弘次郎 (有)社台レースホース 第51回 2006年12月24日 ディープインパクト 牡4 2:31.9 武豊 池江泰郎 金子真人ホールディングス(株) 第52回 2007年12月23日 マツリダゴッホ 牡4 2:33.6 蛯名正義 国枝栄 高橋文枝 第53回 2008年12月28日 ダイワスカーレット 牝4 2:31.5 安藤勝己 松田国英 大城敬三 第54回 2009年12月27日 ドリームジャーニー 牡5 2:30.0 池添謙一 池江泰寿 (有)サンデーレーシング 第55回 2010年12月26日 ヴィクトワールピサ 牡3 2:32.6 M.デムーロ 角居勝彦 市川義美
有馬記念の記録 レースレコード - 2:29.5(第49回優勝馬ゼンノロブロイ) 2着との最大着差 - 9馬身(第48回優勝馬シンボリクリスエス) 2着との最小着差 - 2cm (第55回優勝馬ヴィクトワールピサ - 2着ブエナビスタ) 最多優勝騎手 - 3勝 岡部幸雄(第29、30、33回) 田原成貴(第28、38、40回) オリビエ・ペリエ(第47~49回) 連続優勝騎手 - オリビエ・ペリエ 3連覇(第47~49回) 最多勝調教師 - 3勝 二本柳俊夫(第3、25、26回) 大久保正陽(第37、39、42回) 藤沢和雄(第47~49回 3連覇) 最多連続出走 - 6年連続 コスモバルク(第49~54回)
有馬記念 史上初あれこれ
牝馬 - ガーネツト(第4回) 3歳(旧4歳)馬 - スターロツチ(第5回) 3歳(旧4歳)牡馬 - イシノヒカル(第17回) 6歳(旧7歳)以上馬 - スピードシンボリ(第14回) 青毛馬 - リュウズキ(第13回) 芦毛馬 - オグリキャップ(第33回) 父内国産馬 - メイヂヒカリ(第1回) 父(本邦調教)外国産馬 - リュウズキ(第13回) 関西馬 - リユウフオーレル(第8回) 公営出身馬 - オンスロート(第7回) 持込馬 - サクラローレル(第41回) 外国産馬 - グラスワンダー(第43回) サラ系馬 - ヒカリデユール(第27回) 父子制覇 - 父:シンボリルドルフ(第29回・第30回)、子:トウカイテイオー(第38回) 連覇 - スピードシンボリ(第14回・第15回) 年数を空けて2勝以上 - オグリキャップ(第33回・第35回) 重賞初制覇が有馬記念 - ストロングエイト(第18回) 父子騎手による制覇 - 父:武邦彦(第21回 トウショウボーイ)、子:武豊(第35回 オグリキャップ) 父子調教師による制覇 - 父:池江泰郎(第32回 メジロデュレン、第51回 ディープインパクト)、子:池江泰寿(第54回 ドリームジャーニー) 外国人騎手による制覇 - オリビエ・ペリエ(第47回) 牡馬・牝馬の両方で制覇した騎手 - 高松三太(第5回 スターロツチ・第6回 ホマレボシ) 牡馬・牝馬の両方で制覇した調教師 - 稗田敏男(第4回 ガーネツト・第6回 ホマレボシ) 騎手・調教師の両方で制覇 - 保田隆芳(騎手:第2回 ハクチカラ、調教師:第21回 トウショウボーイ)
有馬記念 特記事項
概要にも記されているとおりファン投票による出走馬の選定を行うことは新しい試みであったが、レースの名称もファン投票によって選定しようとしたことも非常に画期的であった。当初、競馬会は「中山グランプリ」という名称にしようとしていたが当時「グランプリ」という名称は映画に関係する言葉として使われていたくらいでまだ広く馴染んではいなかった。そこで、ファン投票用紙に出走させたい競走馬と同時に競走名を募った。その結果、一番多かった「中山大賞典」を始め17もの名称が集まった(競馬会が提唱していた「中山グランプリ(を可とする)」は第2位だった)。しかしどの名称も名提案とまではいかなかったため、第1回はそのまま「中山グランプリ」で行われた。 有馬記念の競走名により有馬温泉のある兵庫県の阪神競馬場で開催されていると勘違いされたり、特に関西在住の競馬初心者に「なぜ有馬温泉に近い阪神競馬場で行われないのか」という声が聞かれる[22]。正しい由来は概要に記されているとおり有馬頼寧の功績を称えて命名されたものであって、レース名と有馬温泉とに直接の関係はない。ただし、有馬の先祖は室町時代に有馬温泉の周辺を治めていた地頭の摂津有馬氏である。 有馬記念開催50周年を記念し、2005年にロゴマークの一般公募を行った。その結果、京都市在住の男性が制作した有馬(Arima)の"A"をモチーフに金色の天馬の羽根と16個(有馬記念の最大出走可能頭数)の星(ファン投票で選ばれたスターホースの意味)をあしらったデザインが採用された。競走当日はグリーンチャンネルや全国の競馬場、ウインズで放送されるレースの映像にもこのマークが登場した(通常は中山のマスコットキャラクターである「ナッキー」)。2006年では使用されていなかったが、2007年以降では使用されている。 12月25日に本競走が開催される時には「クリスマスグランプリ」と言われる。2005年で50周年を迎えた本競走で、このクリスマスの日に本競走が開催されたのは過去5度。1966年の第11回が初開催。それ以降は1983年の第28回、1988年の第33回、1994年の第39回、そして2005年の第50回と施行されている。次回は2011年の第56回で施行の予定。 2001年以降、主要なGI競走開催日において行われてきた入場券完全前売制による入場規制は行われなくなったが2005年の第50回では無敗の三冠馬として社会的な人気現象を引き起こしたディープインパクトが出走を表明し来場者の殺到が予測されたことから6年ぶりに入場券は完全前売制となり、当日発売は行われなかった。前売り券は約19万枚発売され完売した。その日、中山競馬場に訪れたのは約16万人であった。しかし、その16万人の注目の的であるディープインパクトは2着に敗れた。なお、これはディープインパクトの国内で唯一の敗北である。 本競走の開催日は混雑などの混乱を避けるため2007年までは全10競走で行われて、本競走は第9競走であった(発走時刻15:25と早い。なお通常GIが行われる競馬場のレースが15時半以後に行われるが、12月開催のメインレース発走時刻は日没時刻の関係でジャパンカップダート(2008年から)及び阪神ジュベナイルフィリーズが阪神競馬場にて開催される日を除き関東は全日15:25で順序も東京or中山→第3場→京都or阪神である。ちなみに、ジャパンカップダート(2007年まで)及びジャパンカップの発走時刻は15:20である。したがって通常の日程と勘違いして勝馬投票券を購入してしまう者もたびたびみられる[23]。ただし2007年までの有馬記念開催日の中山競馬場では「中山競馬第11競走」は存在せず、誤って第11競走の馬券を購入しようとしても発券機にマークカードを挿入したところでエラーが発生してしまうのでこのことによる購入ミスは起きなかった。1984年から1987年までと2008年からは全11競走中の第10競走で行われる。なお、中山競馬場の発走時刻及び発走間隔が通常開催日と異なっている。 本競走当日は、阪神競馬場と中京競馬場も有馬記念効果で混雑する(危険防止のための退場規制も行われる。現在の有馬記念当日の中京競馬場の入場人員は、高松宮記念当日のそれを上回ることが多い)。また、指定席も早朝で売り切れる。名鉄では高松宮記念及び有馬記念当日に限り、夕方時間帯の一部で中京競馬場前駅に特急電車の臨時停車を行うなど鉄道業界も動かす。例年競馬が行われない東京競馬場も混雑し、通常競馬開催日にしか行わない京王線準特急の東府中駅臨時停車が行われる。 中央競馬における「1年終わりの競走」として親しまれる有馬記念であるが、厳密にはJRAでのその年最後の競馬ではない。2009年の場合は中山競馬場の当日最終競走(第11競走、16:05発走)は「ハッピーエンドカップ」という条件競走であり、直後に中京競馬場の最終第12競走である「尾張(おわり)ステークス」(16:10発走。2005年までは「尾張特別」)というオープン特別競走が行われ、さらにその直後に阪神競馬場で行われる第12競走「ファイナルステークス」(16:20発走)がJRAの年間最後の競馬競走となる。 なお、1979年までは必ずしもその年の中央競馬最終開催日に固定して開催されていなかった(最終開催日には中山大障害やアラブの重賞が開催されたことがある)。 2010年は中京競馬場の改修工事により第三場開催は小倉競馬場で行われ、これまでJRA年間最終競走であったファイナルステークスは発走時刻はそのままだが「年間最終競走」でなくなり代わりに小倉競馬場で行われる第12競走「アンコールステークス」(16:35発走)というオープン競走が2010年のJRA最終競走となった。なお「ハッピーエンドカップ」はJRAプレミアム競走として「ハッピーエンドプレミアム(オグリキャップメモリアル)」として施行された[24]。 2011年も同様の施行時刻割となる予定[25]。 2012年は有馬記念開催日の翌日(12月24日)にも中央競馬の開催が行われる(予定)ことがJRAから発表されている[26]。これは当日が休日にあたるためで3日間開催を実施し、阪神競馬場では年間最終の重賞競走として阪神カップ(GII)が行われる予定である。 通常、GI当日のメインレースと最終レースとの間は40分確保されているが(それでも記念写真撮影、表彰式、勝利騎手インタビューなどのセレモニーが長引いて最終レースの発走時刻が5分ほど遅れることが多い)、朝日杯フューチュリティステークスと有馬記念の2つのGIレースだけは35分と短い。そのため、ハッピーエンドカップの発走時刻が毎年のように遅れる。ただし2008年からはハッピーエンドカップの発走時刻を16:05に設定し、有馬記念との間隔を40分に拡大したが、それでも遅れが発生することがある。 1988年から1995年までの8年間、有馬記念の前座競走として第7競走にファン投票によって選抜された騎手が出場できるジョッキーズグランプリが施行されていた。ファン投票は、有馬記念の出走馬投票とともに同じ投票用紙(はがき)を使って行われた。 有馬記念を中継するフジテレビはこのレースを競馬中継の中で最高のレースに位置付けており、それに相応しいアナウンサーが実況するという観点から部長級の管理職のアナウンサーが代々実況を務めており、現在の三宅正治で6代目となる。またこのレースを実況するアナウンサーはその他のレースは実況しないという慣例があり、三宅も初めて担当した2005年こそジャパンカップの実況を担当したが、翌2006年からは慣例に倣いその他のレースの実況からは退いた。ただ、すぽると!司会を勇退した2011年では一部の重賞を含む一般メイン競争の実況を数回担当はしていた。
有馬記念フェスティバル 中央競馬のその年の締めくくりを飾るオールスター戦・有馬記念競走の気運を盛り上げようと、1981年から毎年開かれている日本中央競馬会主催の公開イベントである。 毎年有馬記念開催週の月曜日に東京都内の会場で開かれるこのイベントではその年の有馬記念に出走が予定されている有力馬の騎手・関係者をゲストに招いてレースへの意気込みを語るトークイベント、また騎手と競馬愛好家のタレントらを交えたクイズ・ゲーム大会やタレント・競馬マスコミ関係者総出演によるレース展望会が実施されている。2004年は元JRA職員で現在プロ格闘家として活躍する小川直也がゲストとして招かれた。2005年はダービーフェスティバル同様、主催者側の都合で行われなかった。 また各地でも有馬記念ウィークを中心にした関連のイベントが開かれており新潟市において「有馬記念フェスティバル(西暦年数)」が新潟競馬場・新潟放送の共催で毎年行われ、その模様は新潟放送(ローカル)とグリーンチャンネルで放送される。2005年は大雪に伴う施設の停電のため開催されず、スタジオでレース展望を収録し放送した。なお、現在イベントの形で残っている有馬記念フェスティバルはこの新潟で行われているものだけである。
有馬記念 脚注
^ 八大競走の中では最も出走条件が緩やかで、クラシックに出走できない騸馬でも出走が可能である。 ^ http://www.jra.go.jp/keiba/calender/program/pdf/22naka5.pdf ^ 他に推薦委員会による推薦馬の選出があったが、形骸化したため1995年を最後に廃止された。 ^ 日本の公営競技において、初めてファン投票による競走対象の選定を行ったのは競輪(オールスター競輪)である。 ^ 日本ダービーも基本的に開催場変更を行わないレースだが最初の2回は目黒競馬場で施行され、競馬場移転に伴い第3回から現在まで東京競馬場で行われるようになった。 ^ 12月28日が土曜日=即ち翌29日が日曜となる場合は従来どおり29日ではなく22日開催。 ^ なお上位第10位までで出走の意思がない場合、その分を11位以下の馬が繰り上げで出走できる権利がある。 ^ 中央にアラブのレースがあった時代にはアングロアラブの出走も可能であり、「アラブの怪物」の異名を持つセイユウがファン投票による権利を持っていたもののアラブの読売カップ(秋)連覇を優先し出走を辞退している。 ^ バルク 有馬“影の人気1位”(スポーツニッポン、2004年12月17日) - ウェイバックマシン (2005年1月22日アーカイブ分) ^ 柏木集保はコンサートなどのアンコールに例えている[要出典]。 ^ ジャングルポケット、アドマイヤムーン、ウオッカ、ディープスカイなど。 ^ 中山競馬場で出走可能頭数が18頭設定可能なコースは芝内回り2000m(A、Bコース指定時)、芝外回り2200m(A、Bコース指定時)のみ。したがって、中山競馬場で施行されるGIは皐月賞(と代替開催で行われた天皇賞(秋)・ジャパンカップ)を除いてフルゲート16頭で行われる。 ^ 1984年のグレード制施行後に15頭以上で行われたこのレースにおいて8枠スタートで2着以内に入ったのは、1989年に馬群に包まれるのを嫌った最内枠で1番人気のオグリキャップが先行して他馬がマークするハイペースで進む展開で最後に馬群の中をすり抜けて追い込んだ15番枠のイナリワンただ1頭である。16番枠スタートからの優勝馬・2着馬はまだいない。 ^ ケイバブックは、最初のコーナーまでの距離が長い2000mか2200mでの施行を提案している。 ^ 不振を極めていた1990年のオグリキャップと武豊、一年ぶりのレースを制した1993年のトウカイテイオーと田原成貴など ^ 同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧 ^ a b 有馬記念競走における褒賞金(PDFファイル) - JRA公式サイト 2011年12月7日閲覧 ^ 具体例を挙げると2010年の本競走を優勝したヴィクトワールピサはこの年の皐月賞を優勝しているため3000万円、2着のブエナビスタは天皇賞・秋を優勝しているため2000万円の褒賞金が交付される。3着のトゥザグローリーはこの年のGIを優勝していないため褒賞金は交付されない。 ^ この距離は現在でも設定されているものの、この距離でのレースは開催されていない。また、現在の中山競馬場の芝外回り2600mとは違うコースであった。 ^ 天皇賞(春・秋)、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念 ^ 横綱 白鵬関が有馬記念(GI)当日に来場! - JRA公式サイト 2010年12月13日閲覧 ^ 週刊競馬ブックの投書欄、および同2008年12月21日号の乗峯栄一のコラム「理想と妄想」他多数。 ^ テレビの競馬中継でもその旨の注意喚起が行われている ^ 平成22年度秋季競馬番組の概要について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧 ^ 2011年12月25日(日) 競馬番組 - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧 ^ 2012年度開催日割および重賞競走について - JRA公式サイト 2011年11月15日閲覧
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