オグリキャップ 誕生
オグリキャップ 誕生 オグリキャップの母のホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。 ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。 1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。 これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した[† 2]。 なお、オグリキャップは仔分けの馬(具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた)で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。 オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。
オグリキャップ デビュー前
オグリキャップ 稲葉牧場時代
オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。 誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた[4]。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。 なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。 ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。 しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋頃には他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前に他の馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。
オグリキャップ 美山育成牧場時代
1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場[† 3]に移り、3ヶ月間馴致が施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。
当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている[10]。また、ハツラツは育成牧場にいた馬の中では3,4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという。
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