サッカーボーイ (SOCCER BOY)
サッカーボーイ (SOCCER BOY) とは日本の競走馬、種牡馬である。 競走馬時代はマイルチャンピオンシップ優勝や2000メートルの日本レコード樹立などの活躍をし、1988年にはJRA賞最優秀スプリンターに選出された。 サッカーボーイは北海道の社台ファーム(現・社台コーポレーション白老ファーム)で生まれた。 そのため、通常は馬房の外で人が騎乗するものを、サッカーボーイに限っては馬房の中で人が騎乗して外に出さないといけないほどであった。なお毛色は栃栗毛だが尾花栗毛でもある。
サッカーボーイ (SOCCER BOY) 3歳時
3歳になり、内山正博(現・岡田稲男厩舎調教助手)を鞍上に函館競馬場でデビューすると、のちに重賞を2勝するトウショウマリオを相手に9馬身差で勝利した。2戦目の函館3歳ステークスでは出遅れもあり4着に敗れたものの、3戦目のもみじ賞では10馬身差の大差で勝利。 さらには関西の3歳チャンピオン決定戦阪神3歳ステークスも8馬身差のレコードタイムで優勝した。栗毛の馬体、派手な勝ちっぷりから「テンポイントの再来」、「テンポイント二世」とも呼ばれるようになり、その強烈な差し脚は「弾丸シュート」と形容された。
サッカーボーイ (SOCCER BOY) 4歳以降
しかし、サッカーボーイは自身の強力な脚力のために裂蹄を起こしやすいという欠点を抱えていた。弥生賞で3着に敗れると、石を踏んでさらに蹄が悪化、蹄が感染症にかかる飛節炎を患い、予定していた皐月賞を回避した。 ここでサッカーボーイ陣営は日本ダービーに間に合わせるため飛節炎の治療を急ぎ、抗生物質を大量に使用、その影響からか体調が悪化した。それでも陣営はダービーを目指すため調整し、内山に代わり鞍上に河内洋(現・調教師)を迎えダービートライアルのNHK杯に挑んだが4着、東京優駿(日本ダービー)でも単勝1番人気に推されたが、8枠22番の大外枠での出走であったことも要因となり、サクラチヨノオーの15着に惨敗した。 中日スポーツ賞4歳ステークスでは、勝ちパターンに持ち込んでいた皐月賞優勝馬でのちに天皇賞(秋)も制すヤエノムテキを並ぶ間もなく差し切り勝利した[1]。次走の函館記念ではメリーナイス、シリウスシンボリの2頭の東京優駿(日本ダービー)優勝馬に加えて牝馬クラシック二冠馬のマックスビューティが出走していた。 このレースでサッカーボーイは直線でメリーナイスを差し切りそのまま一気に突き放し、5馬身差で1分57秒8という当時の日本レコードで優勝した。このレコードタイムは日本初の1分57秒台であり、現在も函館競馬場のコースレコードである。 前走スワンステークスを勝って2番人気だったシンウインドを寄せ付けず、ここも4馬身差でGI2勝目を上げた。 次走は第33回有馬記念に出走。 タマモクロスとオグリキャップの対決となったこのレースは、ゲートで暴れて鼻血を出すアクシデントがあったが、3位入線のスーパークリークが前年覇者のメジロデュレンへの進路妨害で失格(当時は降着制度がなかった)したこともあり繰り上がりの3着に善戦した。 翌年も現役を続行したサッカーボーイだったが、春初戦に予定していたマイラーズカップへの調整中に骨折。
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