シンボリルドルフの故障、引退騒動、6歳時
シンボリルドルフ故障による引退騒動と奇跡的復活
シンボリルドルフは、宝塚記念直前に故障して、その後の回復ぶりは芳しくないものだった。 その段階で、すでにシンザンと並ぶ五冠馬となっていたルドルフは引退が噂されるようになり、7月10日にはそれを裏付けるように「体調不十分による欧州遠征中止、そして同時に引退する」との和田の談話が発表された。当時、ルドルフの遠征予定に合わせ、先だって欧州修行に出ていた岡部は、発表翌日にその報を聞きひどく落胆したという。 しかし、原因不明の筋肉痛に苦しんでいたルドルフに対し、和田は再度の引退宣言を出しながらもなんとか復帰できないかと治療を続けていた(これに対し、岡部は「シンザンを越す六冠をルドルフに取らせたいと言う野心のカケラがみじんもなかったとは断言できないだろう」と語っている[24])。そして、夏のある日に牧場で「イチかバチかの大バクチ」と祈る思いでやった笹針治療が功を奏し、ルドルフの体調は回復に向かい、和田は引退宣言を撤回する。 しかし、そのような状態でぶっつけで挑んだ天皇賞はとても万全の状態とは言えず、ギャロップダイナに惜敗。それでも管理する野平は「競馬に絶対はないと言うが、ルドルフは例外。 今度(ジャパンカップ)は気楽にいけるさ」との談話を残した。そして、その言葉通り、続くジャパンカップ、有馬記念を快勝するのである。
シンボリルドルフ 6歳 1986年、この年シンボリルドルフは海外遠征に旅立つことになるが、和田と野平の計画は微妙に異なるものであった。和田はまず春にアメリカ遠征に行き、それから秋にヨーロッパ遠征に行くという考えだったが、それに対して野平の計画は、春に休養させてから秋にヨーロッパ遠征に行くというものだった。 この点をめぐって和田と野平の間に確執が起こり、結局和田の計画が実行されるが、調教から何からを現地のスタッフに任せる事態となった。シンボリルドルフはまずサンタアニタ競馬場のサンルイレイステークス (G1) に出走し、次にサンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップに出走する予定だった。 しかし迎えたサンルイレイステークスではDahar(ダハール)の6着に敗れた。コースの特徴でもあるダートコースを横切る場所で左前脚繋靭帯炎を発症したことが敗戦の理由とされ、その日のテレビではNHKをはじめ各局がニュースなどでシンボリルドルフの故障、敗戦を報じた。 そして帰国後、海外再挑戦が検討されるも最終的には引退となり、12月7日には中山競馬場で引退式が行われた。シンボリルドルフは「7」の番号と王冠のマークが描かれたゼッケンをつけて姿を現した。 本日開催中のレース予想一覧
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