中舘英二
父は競馬関係者ではなかったが、競馬評論家・予想家の宮城昌康と親交があり、また母もパートタイムで中山競馬場内の馬券売り場に勤めるなど、競馬との繋がりを持つ家庭であった[1]。中学校在学中に騎手を志し、その卒業後、中央競馬の騎手養成長期課程に第32期生として入所。 この翌年から競馬会が千葉県白井市に競馬学校を開設したため、従来使用された東京都世田谷区の馬事公苑で養成された最後の世代となった。主な同期生には木幡初広、出津孝一、天間昭一、鹿戸雄一、谷中公一らがいる。 自身の回想によれば、養成所では「馬乗りが半端じゃなく下手で、超劣等生」であったが、当時の教官であった中俣修の叱咤激励を受けて努力を重ね[2]、1984年に騎手免許を取得。2年次の厩舎実習を行った美浦トレーニングセンターの加藤修甫厩舎所属としてデビューを迎えた。 しかし翌1985年は、加藤の後押しもあり39勝と躍進。さらに当年の秋から厩舎の期待馬であるアサヒエンペラーの主戦騎手を任された。 以後は騎乗数の少なさもあり、長らく年間20-30勝前後の成績で推移する中堅騎手として過ごした。 デビュー9年目を迎えた1992年、ブランドアートでフラワーカップを制し、重賞初勝利を挙げる。 1995年には大きな獲得タイトルこそなかったものの、通年で戦線の中心を担う活躍を見せた。 ヒシアマゾンの登場と前後して騎乗依頼が増え始め、1990年代後半からは関東の上位騎手として定着。 2000年以降は主戦場をローカル開催[注 2]に移して騎乗数を増やし、2001年には自身初の年間100勝を達成した。2005年からは毎年100勝以上の成績を維持しており、2005年、2006年には目標としていたワールドスーパージョッキーズシリーズ出場を果たしている。 中舘英二 騎手としての特徴 デビュー4年目の1987年に、年頭から4ヶ月間未勝利を記録するスランプに陥った。このとき加藤から「追い込み馬でも構わないから、どの馬でもどのレースでもハナ行ってみろ[注 3]」と助言され[4]、以来逃げ戦法を得意としている。 「逃げの中舘」とのイメージを完全に定着させたのは、大逃げで人気を博したツインターボとのコンビで[5]、この頃には同じく逃げを得意とした2000勝騎手・増沢末夫に擬え、「増沢二世」とも称された[6]。また、増沢は福島競馬場を大の得意としていたが、やはり中舘も福島を得意としており、毎年福島開催の最多勝を獲得している。 また、関西圏の中京・小倉での活動も増やしており、ローカルを主戦場として以降、勝利の半数以上は関西馬で挙げている[7]。 ローカル開催での活躍が顕著である一方、重賞・GI級競走での勝利が、通算勝利数といった数字上の実績からは極端に少ないことも指摘される。 この背景には、2002年まで「1000勝騎手は調教師免許試験の第一次が免除される」という規定があったことが大きく関係しており、将来調教師を目指すに当たり「まさかその恩恵がなくなるとは思わなかったので」1000勝を達成するためにローカルを回るしかないと決意したという[3]。大舞台を諦めてどのようにモチベーション保つのか、との問いに対しては、「確かにGIと未勝利戦での喜びの大きさは違うのかも知れないけど、どんなレースでもひとつ勝つと凄く嬉しいんです。
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