小島貞博 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

小島貞博

小島 貞博(こじま さだひろ、1951年11月10日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンターに所属する調教師、元騎手である。
戦後デビューの騎手の内、平地・障害それぞれの最高級競走である東京優駿(日本ダービー)と中山大障害で2勝ずつを挙げている唯一の騎手である[注 1]。
調教師としても2005年の最優秀障害馬テイエムドラゴンなどを管理している。
小島貞博 少年期

1951年、北海道新冠町にサラリーマン家庭の長男として生まれる[1]。中学時代から静内町の牧場で住み込みのアルバイトをしながら暮らし、身体が小さかったため、同場の従業員から騎手になることを勧められていた[1]。

中学3年生の時、馬を買い付けに来ていた馬主の谷水信夫に出会い、騎手になるため谷水のいる京都に移った[1]。谷水と懇意であった調教師の戸山為夫を紹介された後、東京都馬事公苑の中央競馬騎手養成長期課程に第17期生として入所、上京に際しては事実上の兄弟子となる鶴留明雄が保護者代わりに付き添った[2][注 2]。

小島貞博 騎手時代
1971年に騎手免許を取得し、同年3月に戸山厩舎所属としてデビュー、同6月に初勝利を挙げた。デビューからしばらくは平地競走を中心に騎乗していたが、障害の名手であった鶴留が1978年に引退したことに伴い、障害での騎乗を増やしていった[3]。

小島は引退を考え始めたが、当時有力な調教師となっていた鶴留明雄が、この状況を聞きつけて小島の支援を始め、鶴留厩舎に所属する有力馬の主戦騎手を任されるようになった[6]。1994年には同厩舎所属のチョウカイキャロルに騎乗し優駿牝馬を制覇。

以後は若手騎手の台頭などもあり、1997年からは一桁の勝利数を続けた。1996年から調教師免許試験の受験を始めており[8]、2001年に調教師免許を取得し、騎手を引退した。

調教師試験の合格時の会見には戸山の未亡人も同席して喜びを共にした。騎手成績は通算4722戦495勝。

そのうち重賞はG1競走5勝を含む27勝だった。
小島貞博 調教師時代
免許取得当時は管理馬房に空きがなく、技術調教師[注 3]として2年過ごした後、2003年に栗東トレーニングセンターに厩舎を開業した。
初年度から15勝を挙げる順調な滑り出しを見せ、2005年には娘婿の田嶋翔が手綱を取るテイエムチュラサンがアイビスサマーダッシュに優勝、調教師として重賞初勝利を挙げた。またテイエムドラゴンが中山大障害に優勝し(騎手時代に続いての制覇)、同年のJRA賞最優秀障害馬部門を受賞した。
その言葉通り、小島と弟弟子の小谷内秀夫は、厳しい師弟関係の傍らで「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」と、戸山の死後出版された著書に寄せている[10]。
また戸山は、「調教師というのは、少なくとも師匠と言われるからには、人を育てることも大きな仕事である[11]」という信念に基づき、必ずしも成績上位ではない両者を起用し続け、馬主に対しても、管理に際しては両者を専属騎手とする契約を結ばせていた[12]。

小島と小谷内は件の寄稿において、感謝の念とともに「師匠は『それがオレの信念だ』と当然のような顔をしていたが、私たちのレースぶりを見て、心の中で歯ぎしりすることも多かったのではないかと思う。私たちがそれに十分報いることができなかったのが残念である[10]」と反省を述べた。

小島は調教師転身に当たり、「馬が走るのはもちろんですけど、人づくりの面もいつも頭に入れておきたいですね。余裕ができたら、騎手を育ててみたいと思っています[14]」と語り、開業後は自厩舎に所属した田嶋翔を積極的に起用し続けている。

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